第5話:不可視のダンス
第5話:不可視のダンス
1. 誰も信じない真実
「……昨日、都庁の屋上から見た月、本当に綺麗だったね」
大学の講義室。教授の退屈な独り言が響く中、結衣は湊の耳元で小さく囁いた。
湊は教科書に目を落としたまま、不敵に口角を上げた。
「ああ。新宿のゴミゴミした明かりも、あそこから見ればただのイルミネーションだろ」
もし、この会話を他人が聞いても、単なる「比喩」か「夢の話」だと思うだろう。都庁の最上階。東京タワーの四角い展望台のさらに上、細いアンテナがそびえる丸い頂点。東京ミッドタウンの、風さえも凍るようなヘリポート。
彼らがこの数週間で重ねてきた「デート」の場所は、一般人が一生をかけても足を踏み入れられない聖域ばかりだった。
誰も信じない。証拠もない。
だからこそ、この秘密は二人を強く結びつける鉄の鎖となっていた。
2. 重力への適応
最初はあんなに震えていた結衣の体も、今では湊の腕の中で驚くほど安定していた。
時速100キロを超える急上昇、ビルの壁面を蹴る衝撃、そして夜空を切り裂く「黒い翼」の羽ばたき。
「……もう、目を開けてても怖くないんだ」
ある夜、東京ミッドタウンの頂上で、結衣は湊の胸に顔を埋めながら笑った。
湊の背中から生える漆黒の翼は、羽ばたくたびに力強い熱を放ち、高高度の極寒から彼女を守る。結衣にとって、その翼に包まれる時間は、地上のどんな高級ホテルのベッドよりも暖かく、安心できる場所になっていた。
ハイスピードで景色が流れる快感。肺に突き刺さるような冷たい、けれど澄んだ空気。
結衣は、湊が見ている「軽い世界」の住人に、少しずつ、けれど確実になりつつあった。
3. 二人だけの毒
大学に戻れば、湊は相変わらず「鼻につく、スカした大学生」を演じている。イカツい連中に絡まれればひらりと身をかわして逃げ、周囲からは「臆病者」と「天才」の間の奇妙な目で見られる。
けれど、結衣だけは知っている。
彼のその細い体のどこに、東京タワーを飛び越えるほどの爆発的なエネルギーが隠されているのかを。
「湊、今日はどこへ行く?」
夕暮れ時、駅のホームで結衣が尋ねる。彼女の瞳には、かつての平凡な大学生にはなかった、危うい熱が宿っていた。
「……今日は少し遠くまで行くか。スカイツリーの天辺、まだ触ってなかっただろ?」
湊は結衣の肩を抱き寄せ、耳元で囁く。
二人は、この共犯関係に酔いしれていた。
眼下に広がる数千万の人間たちが、重力に縛られ、地面を這いずり回っている。自分たちだけがそこから解脱し、神の視点で世界を眺めている。その傲慢な優越感が、二人を包む黒い翼をさらに深く、濃く染め上げていく。
しかし、そんな二人の頭上には、常に「もう一つの視線」が張り付いていた。
スマートフォンは震えない。だが、闇の向こう側。
彼らが降り立ったどのビルの影にも、彼らを見つめる「瞳」が存在していた。
二人の幸福な逃避行は、観測者にとって、絶好の「実験データ」に過ぎなかった。




