第44話:深淵からの嘲笑
第44話:深淵からの嘲笑
1. 狂気の謝意
周囲を埋め尽くす20万のエンジェルの羽音と、肉を引きちぎられるデーモンたちの断末魔。その狂騒の渦中で、自衛隊の中将だけが、時間が止まったかのような静寂を纏って立っていた。
全身に浴びたエンジェルの白銀の返り血をドロドロと光らせながら、中将は歪んだ薄笑いを浮かべ、湊に向かってゆっくりと歩を進めてきた。
「……実はお前には、深く感謝しているのだよ、湊くん」
低く、耳障りなほど落ち着いた声が、湊の鼓膜を揺らす。
「お前というイレギュラーが身勝手に動き、そのカラスの羽を撒き散らしてくれたおかげで、世界中のデーモンが動き、それに応じるように世界の自浄作用がこれだけ一箇所に集まった。……お前が引き金を引いてくれなければ、アジア全域に隠れ潜んでいたお前たちの同族を、こうして一度に引きずり出すことなど不可能だった」
中将は言葉を区切り、天を仰いで恍惚とした表情を浮かべた。
「素晴らしい機会だ。今日、この東京で、お前たちの種族を根絶やしにできる。この世界のバグを、文字通り一匹残らず駆逐できるのだからな。これ以上の愉悦がどこにある?」
およそ二分間。中将の口から語られたのは、人間の命を何とも思わず、クローという種族への純粋な嫌悪と、それを虐殺できる歓喜に満ちた狂気の独白だった。
2. 決壊する逆鱗
「貴様……っ!!」
中将の傲慢な言葉が、湊の脳内で完全に逆鱗に触れた。
自分たちの存在を、命を、そして何より高尾で帰りを待っている結衣の未来までをも、自らの「虐殺の舞台装置」として利用されたことへの怒り。その激痛のような怒りが、湊の理性を一瞬で焼き切った。
「ふざけるなーーッ!」
湊は地面のコンクリートを爆発的に蹴り上げた。
クローの超人的な身体能力による、目にも留まらぬ音速の踏み込み。怒りに身を任せ、全体重と殺意を乗せた右拳を、中将の鼻面に目がけて一直線に叩き込んだ。
――パシィィンッ!
激しい衝撃音が、路地に響く。
だが、湊の拳が中将の顔面を砕くことはなかった。中将は身じろぎ一つせず、ただ右手を目の前に掲げ、湊の渾身の拳を素手で完全に受け止めていた。
「……ッ!? 嘘だろ……!」
湊の目が見開かれる。
これまでのデーモンなら、間違いなく消し飛んでいたはずの一撃。それを、中将はまるで飛んできた虫でも払うかのように、容易く手のひらで受け止めて見せたのだ。
中将の顔に、底知れない笑みが広がる。
「そうだ。それでいい、湊くん。その憎悪に満ちた目が、カラスの肉を切り刻む時の最高の調味料になる」
3. 深淵の覚醒
その瞬間、中将の手のひらから、湊の全身を貫くような「悍ましい波動」が放出された。
それは、これまで戦ってきたどのデーモンとも次元が違う、世界そのものを呪うかのような圧倒的な殺気だった。脳が、細胞が、本能が「勝てない」と警鐘を鳴らす。
「くっ……あ、あぁ……!」
湊の身体は恐怖で硬直した。本能的な戦慄に抗えず、足が勝手にたじろぎ、ずるずると後ろへ引き下がる。呼吸の仕方を忘れるほどのプレッシャーが、湊の胸を圧迫した。
中将はそれを見て、声を立てて笑い始めた。
「ハハハ……! 怯えろ、絶望しろ。神の使いどもを食らい、私の中の『格』はすでに臨界点を超えているのだよ」
中将のスーツが、内側から膨れ上がる強大な肉体によってバリバリと引き裂かれていく。
返り血の白銀と混ざり合いながら、彼の肉体はより巨大に、より禍々しく変貌を遂げていく。背中から生える四本の漆黒の角、肌を覆う硬質な鱗、そして周囲の空間の光を吸い込むような、不気味な暗黒のオーラ。
デーモンたちの頂点に君臨する最上位の存在。
「アークデーモン(大悪魔)」
中将が完全に覚醒した。20万のエンジェルが舞う戦場の中心で、湊は今、神をも恐れぬ本物の化け物と、一対一で対峙することとなった。




