第36話:不穏なる輪舞
第36話:不穏なる輪舞
1. セレオ八王子の邂逅
世界中が目に見えない怪物たちで埋め尽くされていく中、八王子の街は不気味なほどいつも通りの平穏を保っていた。
駅ビルの商業施設「セレオ八王子」のレストラン街。昼時の賑わいに紛れ、湊たち三人は、先行して到着した二人のクローと合流していた。
一人は国内の別の地方から移動してきた青年・毅。もう一人は台湾から命からがら海を渡ってきたという女性・美玲。
「まさか、本当に自分以外のクローがいるなんてな……」
毅が運ばれてきた料理に箸をつけながら、ぽつりと呟いた。
突然変異として生まれ、孤独に変異の恐怖と戦ってきた彼らにとって、五人が同じテーブルを囲んでいること自体が奇跡に近い光景だった。しかし、美玲の鋭い瞳には、安堵よりも焦燥が色濃く滲んでいる。
「のんびり食べている時間はないわ。成田も羽田も、外に出れば『視線』を感じる。世界中のデーモンとエンジェルが、この関東に毒素みたいに溜まってきている」
一見すれば、よくある若者たちの食事風景。だが、そこで交わされるのは、人類の頭越しに行われる生存戦争の会話だった。五人は手早く食事を済ませると、周囲の目を警戒しながら、高尾にある凪の隠れ家へと向かった。
2. 高尾の軍議
隠れ家に戻った五人は、リビングのテーブルに広げられた都内の地図を囲んだ。
「――いよいよ、俺と湊は都内へ潜入する」
凪が地図の一点、千代田区周辺を指さしながら、冷徹な声で告げた。
「ホテルニューオータニの決起集会を経て、デーモンどもの網は全関東に広がりつつある。これ以上ここに籠幕していても、すり潰されるのを待つだけだ。敵の統制がエンジェルとの小競り合いで乱れている今こそ、懐に飛び込んで司令塔(中将)の動向を探る」
「僕も行きます」
湊が力強く頷く。背中の翼が、決意に呼応するように熱を帯びるのを感じていた。
しかし、潜入作戦は生半可な危険ではない。銃弾が飛び交い、化け物たちがひしめく死地へ赴くことになる。湊は地図から目を上げ、毅と美玲の二人を真っ直ぐに見つめた。
「二人にお願いがある」
湊の声には、切実な願いが籠もっていた。
「俺たちが都内に行っている間……万が一の時のために、結衣の護衛を頼めないか。この場所もいつバレるかわからない。頼めるのは、同族の二人だけなんだ」
毅と美玲は顔を見合わせた。クローは本来、群れを嫌うドライな性質だ。しかし、この絶滅の危機において、目の前の少年が命を懸けようとしている意味を、二人は痛いほど理解していた。
「……わかった。俺の足なら、いざって時も彼女を抱えて逃げ切れる」と毅が静かに頷き、美玲も「任せなさい」と短く応じた。
3. 飲み込んだ言葉
「結衣、ここで二人の指示に従ってくれ。必ず、生きて戻るから」
湊が振り返り、結衣の目を見つめた。
「私も、行く」
その言葉が、結衣の喉のすぐそこまで出かかっていた。
今すぐ叫びたかった。嫌だ、置いていかないで、私も連れて行ってと、胸の奥の叫びが喉を掻きむしる。湊を一人で危険な場所に生きたくはなかった。離れたくなかった。一緒の戦場へ行って、同じ痛みを背負いたかった。
――だが、できない。
結衣は、衣服の裾を握りしめていた自分の拳を、骨がきしむほど強く締め上げた。
背中に翼を持たない、銃弾を弾く硬い肉体もない。この世界を揺るがす異能の戦争において、自分はどこまでもただの「無力な人間」でしかない。
その過酷な現実が、彼女の心を容赦なく殴りつけた。
なぜ私は、こんな時にも何もできないのか。なぜ湊が命を懸けようとしているのに、私には彼を助けるための爪一つ生えてこないのか。守られるだけで、彼の背中をただ見送ることしかできない自分の存在が、どうしようもなく惨めで、悍ましく、激しい嫌悪感が泥のように胸に満ちていく。
行きたい。這いつくばってでもついて行きたい。
(叫ぶな。ここで泣き言を言って、どうする)
結衣は内側の嵐を、自らの意志の力だけで無理やり圧し込めた。悔しさと自分への怒りで涙が溢れそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に堪える。
「……うん。わかった」
結衣は、精一杯の笑顔をその仮面の下で作って頷いた。
「ここで、ちゃんと待ってる。二人とも、無理はしないでね」
「ありがとう、結衣」
湊は結衣の肩を優しく抱きしめた。
その温もりを感じながらも、結衣は心の中で、自分自身に冷酷な誓いを立てていた。いつまでも守られるだけの、無力な人形のままでいてたまるものか、と。五人のクローの意志が交錯する中、東京という巨大な檻の心臓部へ向かう、決死の潜入作戦が始まろうとしていた。




