第30話:見えない境界線
第30話:見えない境界線
1. 汚染された安息
高尾の隠れ家に戻った三人を迎えたのは、昨日まで感じていた安らぎではなく、じりじりと肌を焼くような不気味な静寂だった。
薪風呂を焚く気力もなく、三人はリビングの小さな灯りの下に集まった。
「……まずは、最悪の想定をしておく必要がある」
凪が重い口を開いた。
「俺たちが八王子周辺に潜伏していることは、完全に露見したと思っていい。最悪、この場所も特定されている可能性がある」
湊は、窓の外の深い闇に目を向けた。これまで自分たちを守ってくれていた森が、今は敵を隠すための巨大な幕のように感じられた。
2. デーモンの計算
「兄貴……。あいつら、なんであの場で手を出してこなかったんだ? 二十台も車を並べて、あそこまで追い詰めておきながら」
湊の問いに、凪は冷めた表情で答えた。
「理由は一つだ。……あそこに集まった数百人のエンジェル、あれを相手に白昼堂々……いや、たとえ深夜でも、派手な戦闘を行えばどうなる?」
凪は自分の指を机にトントンと叩いた。
「デーモンどもは『人間の顔』をして社会を支配している。もしあそこで超人的な殺し合いを演じれば、自分たちが人間ではないことを世間に晒すことになる。……奴らにとって、正体がバレることは死よりも避けたいリスクなんだ。エンジェルの群れに紛れて俺たちを暗殺するつもりだったんだろうが、あまりに数が膨れ上がりすぎて、制御不能の規模が計算を超えたんだろうな」
「じゃあ、私たちは運が良かっただけ……?」
結衣が震える声で尋ねると、凪は短く「そうだ」とだけ答えた。
3. ゴースト・ネットワーク
凪は懐から「ゴースト・スマホ」を取り出し、パスワードを入力した。画面の光が、彼の鋭い瞳を青白く照らす。
「……仲間を頼る。この先、俺一人でお前たちを守り抜くには限界がある」
「仲間……? クローが他にもいるのか?」
湊が身を乗り出した。全世界に百人しかいないと言われた同族。
「ああ。といっても、ほとんど会ったことはない。専用の暗号化チャットで繋がっているだけの、顔も本名も知らない奴らだ。……だが、俺たちが生き残るための情報や、潜伏先のネットワークを持っている」
凪の指が、滑らかに画面を叩く。
「クローは群れない。だが、絶滅を避けるための互助会くらいはある。……冷たい言い方かもしれないが、今は使えるものは何でも使う」
湊は、凪が自分以外の「誰か」を頼ろうとしていることに、事態の深刻さを改めて突きつけられた。
窓の外、夜の森では風が木々を揺らしている。
デーモンが退いたのは、決して諦めたからではない。より確実で、より残酷な「次の一手」を準備するためだということを、三人は本能的に理解していた。
高尾での短い安息が終わり、より深く、より危険な「クローの深淵」へと三人は足を踏み入れようとしていた。




