第29話:撤収の静寂
第29話:撤収の静寂
1. 臨界点
「……三、二、一……」
湊の脳内で、勝手にカウントダウンが始まっていた。
掌は冷や汗で濡れ、背中の皮膚の下では漆黒の翼が今にも弾け飛ばんばかりに脈動している。凪もまた、ティーカップの横に置いた拳を白くなるほど握りしめ、いつでも爆発的な速度で動けるよう全身の細胞を研ぎ澄ませていた。
結衣は湊の裾を強く掴み、目を閉じてその時を待つ。
窓の外、駐車場の中心に立つ黒スーツの男――デーモンの指揮官と思しき男が、ゆっくりと右手を高く掲げた。
(来る……!)
湊が椅子を蹴り上げようとした、その瞬間だった。
2. 予期せぬ潮時
掲げられた右手は、振り下ろされることはなかった。
指揮官は指先をわずかに動かし、円を描くような合図を送った。
すると、包囲していた二十台の黒塗りの車のドアが一斉に開いた。外に立っていたエージェントたちは、一切の私語もなく、機械的な動作で次々と車内へと戻っていく。
V8エンジンの重低音が夜の空気を震わせ、二十台の車は隊列を崩さぬまま、滑るように国道16号へと消えていった。
「……え?」
湊が呆然と声を漏らす。
戦いの火蓋が切られるはずだった場所には、ただ排気ガスの匂いだけが残されていた。
さらに奇妙なことが起きた。
駐車場を埋め尽くしていた、あの虚ろな瞳の「一般人」――エンジェルたちも、デーモンの撤退を見届けたかのように、一人、また一人と歩き出したのだ。何事もなかったかのようにスマホを眺め、駅の方へ、あるいは自宅の方へと散っていく。
圧倒的な「死」の気配が、霧が晴れるように霧散していった。
3. 日常への帰還
数分後、ガラ空きになった駐車場に、一台の軽自動車が入ってきた。中から若いカップルが笑いながら降りてきて、ファミレスの自動ドアをくぐる。
店内のドリンクバーでは、子供が楽しそうにメロンソーダを注いでいる。
「……終わった、のか?」
湊が深く、長く溜息を吐き出し、椅子の背もたれに身体を預けた。全身の強張りが解け、激しい疲労感が波のように押し寄せてくる。
凪もまた、震えていた手をポケットにねじ込み、深く息を吐いた。
「……包囲は解けたようだな。理由はわからんが、デーモン側が『今ここでやり合うのは得策ではない』と判断したんだろう。……あるいは、上の奴らが何か別の手を思いついたか」
「怖かった……本当に、怖かった」
結衣が湊の腕に顔を埋め、震える声で呟いた。
「帰るぞ。いつまでもここにいれば、また別の『バグ』が見つかるかもしれない」
凪はいつもの冷徹な表情を完全に取り戻していたが、その声には、仲間を失わずに済んだ安堵が微かに混じっていた。
三人は伝票を手にレジへ向かった。
先ほどまでの絶望的な戦場は、再びどこにでもある八王子のファミリーレストランへと戻っていた。しかし、彼らの心には、いつ牙を剥くかわからない世界の不気味さが、消えない刺青のように刻まれていた。




