第3話:檻の中の旋律
第3話:檻の中の旋律
1. 影のない追跡者
浜松町の駅へと向かう道すがら、湊は何度もスマートフォンの画面をスクロールした。
自分のSNS、投稿履歴、タグ付けされた写真。そこには、どこにでもある「大学生の日常」しか並んでいない。あのダンクシュートも、深夜の滑空も、証拠となるような映像がアップロードされている形跡はなかった。
(……悪戯か?)
そう思おうとしたが、胸の奥に冷たい棘が刺さったまま抜けない。
湊は人一倍、感覚が鋭い。背後に誰かがいれば、その視線や体温を「空気の密度」の変化で感じ取れるはずだった。だが、周囲には家路を急ぐサラリーマンや、酔客の笑い声が漂っているだけだ。
誰にも見られていない。なのに、筒抜けになっている。その矛盾が、彼の傲慢な余裕をじわじわと削り取っていった。
2. 鉛の日常
それからの数日間、湊は「普通」を演じた。
講義棟の階段は一段ずつ登り、友人に誘われても「最近ちょっと腰が痛くてさ」と適当な嘘をついて、派手なアクションは一切封印した。
だが、それは彼にとって拷問に等しかった。
普通の人間にとっての「重力」は、彼にとっては「粘度の高い泥」の中にいるような感覚に近い。意識的に身体能力を抑え込むことは、全速力で走れるアスリートが、一生亀の歩みを強要されるようなストレスだった。
関節が軋む。筋肉が、もっと「軽く」させてくれと悲鳴を上げている。
何より、鼻につくほど自信に満ちていた彼の表情から、生気が失われつつあった。
3. カフェの不協和音
大学構内のテラスカフェ。午後の柔らかな日差しがテーブルを照らしている。
「……ねえ、湊。聞いてる?」
目の前でアイスラテのストローをいじりながら、結衣が怪訝そうにこちらを覗き込んでいた。
「ああ、聞いてるよ。サークルの合宿の話だろ」
湊は努めて平然と答えたが、その足はテーブルの下で激しく貧乏ゆすりを繰り返していた。いや、それは貧乏ゆすりというより、振動に近い。
「嘘。絶対聞いてない。最近の湊、なんか変だよ? ずっとソワソワして、どこか遠くを見てるみたい。……私といるの、退屈?」
「そんなわけないだろ。……ただ、ちょっと体が鈍ってるだけだよ」
湊は結衣の視線を避けるように、カップの結露を見つめた。
結衣の屈託のない笑顔、日常の些細な悩み、美味しいケーキの話。かつてはそれなりに楽しめていたはずの光景が、今の湊にはひどく遠い世界の出来事のように感じられた。
彼の内側では、かつてないほど「奔流」が渦巻いていた。
隣のテーブルから落ちそうになったスプーンを、目にも止まらぬ速さで空中で掴み取りたい。そのままテラスの柵を飛び越え、噴水の頂点まで一気に跳躍したい。
「動け」という本能の命令が、彼の理性を内側から叩き壊そうとしている。
「ちょっと、トイレ」
逃げるように席を立った湊の背中を、結衣は不安げに見送った。
洗面台の前で鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、すかした態度の大学生などではなく、出口のない檻の中で牙を剥く、飢えた獣のような瞳をした男だった。
「……無理だ」
湊は蛇口をひねり、冷水を顔に叩きつけた。
警告のメッセージ。殺害の予告。そんなものよりも、今この瞬間、この鈍重な世界に縛り付けられていることの方が、彼にとってはよっぽど死に近い恐怖だった。




