第2話:ツバメの航跡
第2話:ツバメの航跡
1. 50メートルの静寂
夜の海風が、レインボーブリッジの欄干に座る湊の髪を激しくなびかせる。
眼下には、黒くうねる東京湾。ビル群の明かりが水面に砕け、まるで底なしの奈落のように見える。
湊は、立ち上がった。
細い欄干の上に、平均台を歩くような危うさは微塵もない。彼は一瞬、夜空の月を見上げると、吸い殻を捨てるような無造作さで、そのまま前方に体を投げ出した。
高飛び込みの選手のような、美しいフォーム。
重力に従い、時速100キロを超えるスピードで海面が迫る。普通なら死を覚悟する距離。だが、湊の表情には恐怖ではなく、退屈を紛らわせるような薄笑いが浮かんでいた。
2. 水面を滑る翼
海面まであと数メートル。波のしぶきが顔に触れようとしたその瞬間、湊の体が「物理法則」を拒絶した。
下向きのベクトルが、鋭角に変換される。
彼は海面に衝突する代わりに、水面をなめるように滑空した。その動きは、餌を求めて水際を低空飛行するツバメそのものだった。
波を切り裂き、白い航跡を残しながら、湊は竹芝桟橋へと向かって加速する。空気の壁を切り裂く快感が、日中の窮屈な大学生活で溜まった鬱憤を剥ぎ取っていく。
「……ふぅ」
人気のない桟橋の暗がりに、音もなく着地した。
膝を曲げることもなく、まるで数センチの段差を降りたかのような軽やかさ。湊は乱れた前髪を無造作にかき上げ、独り言を漏らした。
「やっぱり、これが一番すっきりするぜ」
世界が自分だけのために作られた運動場のように思える瞬間。この万能感こそが、彼が「鼻につく」ほど不遜でいられる根源だった。
3. 闇からの通知
湊はパーカーのポケットに手を突っ込み、浜松町駅の方向へと歩き出した。
深夜のオフィス街。人影はまばらで、街灯のオレンジ色の光がアスファルトを等間隔に照らしている。
不意に、ズボンのポケットでスマートフォンが短く震えた。
湊は歩みを止めず、片手で端末を取り出す。画面には、SNSの通知が表示されていた。
――匿名チャットからの新着メッセージ。
湊は眉をひそめた。彼のSNSアカウントは、大学の友人たちとの付き合い用に作った、中身のない平凡なものだ。アイコンをタップし、メッセージを開く。
『お前、目立つ行動はやめろ』
送り主の名はない。文字列は無機質に続いた。
『殺されるぞ』
湊の足が止まった。
背後から誰かに見られているような感覚はない。だが、その短い言葉には、明確な「殺意」と、湊の正体を知っている者の「確信」がこもっていた。
「……殺される?」
湊は画面を睨みつけ、再び鼻で笑った。
だが、その指先はわずかに強張っていた。彼がこの世界を「軽い」と感じているように、何者かもまた、彼の命を「軽い」と見なしている。
街灯の光の下、湊の影が長く伸び、闇に溶けていった。




