第1話:重力の嘘
第1話:重力の嘘
0.仁科 湊の胸中
「僕には秘密がある!!」湊はいつも退屈していた、その秘密を口に出して伝えたかった。
1. 浮遊する日常
5月の昼下がり。大学の裏手にある屋外バスケットコートでは、3on3の熱気が渦巻いていた。
「湊、パスだ!」
声に応じ、大学1年生の仁科 湊はボールを奪うと、そのままゴールへ向かった。ディフェンスが二人、壁のように立ちふさがる。しかし、湊はスピードを落とさない。
彼は踏み込んだ。
周囲の時間がスローモーションになったかのように、湊の体は重力を無視して上昇する。空中で静止しているような長い滞空時間。そのまま、リングが悲鳴を上げるほどの強烈なダンクシュートを叩き込んだ。
着地は、羽毛が落ちるように静かだった。
「……まじかよ」
呆然とする友人たちをよそに、湊は「ああ、入ったな」とだけ言い、汗もかいていない顔でTシャツの襟を正した。その無関心な態度が、どこか周囲を見下しているように映ることを、彼は気づいていながら放置していた。
2. 摩擦の予感
数日後、湊は友人にそそのかされてボルダリングジムにいた。
「ここ、初心者には無理なルートらしいぜ」
そう言われた湊は、靴を履き替えると、垂直どころか手前に傾斜した壁に手をかけた。
彼の登り方は、もはや「登る」ではなかった。岩を掴む指先に体重がかかっているようには見えない。まるで無重力空間を泳ぐ魚のように、スルスルと最上部まで到達した。
「……なんか、拍子抜けだな」
上から見下ろす湊の視線は冷ややかで、挑戦を楽しんでいるようには見えなかった。その「余裕」が、一部の学生たちの神経を逆撫でし始めていることに、彼は無自覚だった。
3. 挑発と消失
ある日の放課後。キャンパスの中庭で、湊はまたもや友人たちの冷やかしに乗っていた。
「湊なら、あそこの非常階段から屋上まで行けちゃうんじゃない?」
湊はふん、と鼻で笑うと、助走もなしに走り出した。壁を蹴り、看板を足場にし、パルクールのような鮮やかなアクションで校舎を駆け上がっていく。
「おい、すかしてんじゃねえぞ、お前」
屋上から降りてきた湊を待ち構えていたのは、大学内でも素行の悪さで有名な上級生のグループだった。
「女の前でいい格好しやがって。一発、その鼻へし折ってやろうか?」
大柄な男が湊の胸ぐらを掴もうと、太い腕を伸ばした。
その瞬間。
湊の姿が、掻き消えた。
男の拳が空を切る。湊は一瞬にして数メートル後方に移動しており、追う暇も与えず、まるで最初からそこにいなかったかのように、人混みの向こうへと消えていった。
「……チッ、逃げ足だけは速い野郎だ」
男たちの罵声が背中に刺さるが、湊は振り返りもしない。彼にとって、あのアクションも、あの逃走も、ただの「調整」に過ぎなかった。
4. 聖域の夜
夜10時。
喧騒の消えたお台場、レインボーブリッジ。
本来なら、立ち入り禁止の重いフェンスの向こう側。湊は、海面から数十メートルの高さにある欄干の上に、平然と座っていた。
強風が吹き荒れ、普通の人間なら立っていることすら困難なその場所で、彼は微動だにしない。
眼下に広がるのは、宝石を散りばめたような東京の夜景。しかし、彼の瞳に映っているのは美しさではなかった。
「……やっぱり、ここは少しだけ『軽い』な」
湊は独りごちた。
昼間の「鼻につく大学生」の仮面は剥がれ落ち、その横顔には、誰にも理解されない深い孤独と、この星の重力に馴染めない異物感が漂っていた。
彼が待っているのは、夜景の輝きではない。もっと遠く、この重力の鎖が届かない場所からの「合図」だった。




