第25話:名もなき杯
第25話:名もなき杯
1. 山麓の誘い
「湊、お前……いける口か?」
夕食後の片付けを終えた頃、凪が唐突にそう切り出した。
「ああ、まあ……少々なら。付き合いますよ」
「なら明日、午後から少し付き合え。結衣も一緒にだ」
翌日、午前中をのんびりと過ごした三人は、午後になってから高尾山口駅の近くにある、歴史を感じさせる古びた茶屋へと足を運んだ。
観光客の喧騒から少し離れた店内の座敷。三人はお茶、そして凪と湊は地元の銘酒を注文した。
「……ふぅ。外で飲む酒は、また格別だな」
凪はぐい呑みを干すと、いつもの冷徹な表情を少しだけ緩めた。
2. 偽りの根城
酒が回るにつれ、凪の口が少しずつ軽くなっていく。それは、これまで彼が一人で抱えてきた秘密の一部だった。
「湊……お前、あの俺の家をどう思っている? なかなか立派だろう」
「ええ。隠れ家にするには勿体ないくらいですよ」
「あの家の名義はな……お前に渡したスマートフォンの時と同じだ。金で名義を売った、ある男のものなんだよ」
凪は窓の外の遠い山並みを見つめた。
「そして『凪』というのも、俺の本当の名前じゃない。……もう、今の自分にはこっちの方が馴染んでいるがな。本名は、あのスマホを壊した時に一緒に捨てたよ」
結衣が心配そうに凪を見つめる。凪は自嘲気味に笑い、話を続けた。
「名義を売った男が今どこで何をしているのか、俺は知らない。海外に高跳びしたと風の噂で聞いた程度だ。……どうだ、湊。利用できるものは何でも利用し、他人の人生を隠れ蓑にする俺のことを、冷たい奴だと思ったか?」
3. 兄貴の照れ隠し
凪の問いかけには、どこか試すような、あるいは拒絶を恐れるような危うさがあった。
湊は手元の盃を置き、真っ直ぐに凪の目を見て笑った。
「何言ってるんですか、兄貴」
「……兄貴?」
「今更ですよ。今まで俺や結衣にしてくれたことで、あんたが冷たい人間だなんて思うわけないじゃないですか。……名義がどうとか、そんなの関係ありません。あんたがいなきゃ、俺たちは今頃生きてない」
湊の屈託のない、けれど確信に満ちた言葉。
凪は一瞬、虚を突かれたように目を丸くした。それから決まり悪そうに視線を逸らし、耳まで少し赤く染めて残りの酒を一気に飲み干した。
「……ふん。酔っ払いの戯言だ。もうその話は終わりだ」
照れ隠しに話を打ち切った凪だったが、その口元には、月明かりの下では見せなかった柔らかな笑みが浮かんでいた。
高尾の夕暮れ。
偽りの名前と、偽りの家。けれど、そこで酌み交わす言葉と絆だけは、何よりも本物だった。
「さあ、帰るぞ。夜道で転んでぎっくり腰にでもなったら、明日の仕事が台無しだからな」
「それは兄貴の方でしょ!」
笑い声を響かせながら、三人は橙色に染まる山道を、自分たちの「家」へと戻っていった。




