第20話:野生の掟、血の対価
第20話:野生の掟、血の対価
1. 拒絶できない日常
翌朝、午前8時半。
高尾の山間に差し込む朝光は、昨夜の薪風呂の温もりが嘘のように鋭く冷たかった。簡単な朝食を終えた後、凪は静かに立ち上がり、上着を羽織った。
「……湊、行くぞ。仕事の時間だ」
凪は、不安げな表情で立ち尽くす結衣の方を向いた。
「本当は、お前を一人にはしたくないんだが……。2時間半ほど、湊にこの山での『稼ぎ方』を教えなきゃならない。昨日あんなことがあったばかりで怖いだろうが、少しの間だけ我慢してくれ」
凪の言葉には、不器用ながらも結衣を気遣う響きがあった。湊も結衣の肩を優しく叩き、決意を込めた目で頷く。
「結衣、悪いな。……すぐに戻るから、家の中で待っててくれ」
「……うん。気をつけてね、二人とも」
結衣の小さな背中を後に、二人は深い森の奥へと足を踏み入れた。
2. クローの狩り
「昨日、猪鍋を分けてもらったと言ったが……実はありゃ嘘だ。本当は、俺が捕まえたんだ」
藪をかき分け、道なき道を進みながら凪が口を開いた。
「ここはデーモンの支配下にある街じゃない。だが、食っていくには金がいる。俺たちの身体は、そのためにも造られているんだ」
凪がぴたりと足を止めた。前方、百メートル先の茂みで、一頭の大きな鹿が草を食んでいる。
「いい獲物がいた。見てろ」
凪が動いた、と思った瞬間、彼の姿は視界から掻き消えた。
一陣の風が吹いた次の瞬間には、凪は鹿の背後に立っていた。一切の無駄がない、鋭い手刀が鹿の頸椎を捉える。鹿は鳴き声一つ上げることなく、崩れ落ちた。
「……次は、お前の番だ。できるだろ」
凪の冷徹な視線が湊を射抜く。
湊は唾を飲み込んだ。自衛官を殺してしまった右手の感触が蘇る。だが、今は生きるためにこの力を制御しなければならない。
湊は感覚を研ぎ澄ませた。周囲の風の音、鳥の囀、そして――獲物の鼓動。
いた。斜面の上方に別の影。
湊は地面を蹴った。景色が線となって流れ、獲物の姿が目前に迫る。
(殺すんじゃない。一撃で『終わらせる』んだ……!)
凪の動きをなぞるように、湊は右手を振り抜いた。手刀が吸い込まれるように鹿の急所を貫く。確かな手応えとともに、生命の火が静かに消えた。
3. 一万円の重み
「……上出来だ」
凪が静かに歩み寄ってきた。二人は手際よく二頭の獲物を担ぎ上げ、山道を下った。
辿り着いたのは、麓の集落の外れにある古い解体所だった。錆びたトタン屋根の下で、前掛けをした大柄な老人が作業をしていた。
「おやっさん、新人連れてきたぜ。なかなかいい腕だよ」
凪がそう言って、二頭の鹿を土間に置いた。
「ほう……一撃か。綺麗なもんだな」
『おやっさん』と呼ばれた老人は、湊を値踏みするように見た後、懐から一万円札を一枚取り出し、凪に手渡した。
「助かるよ。最近は若い猟師もいなくて困ってたんだ」
「また来るよ」
凪は短く返し、湊を連れて解体所を後にした。
一万円。
都心のIT企業や官僚たちが動かす億単位の金に比べれば、あまりにも小さな額だ。だが、自分の手で獲物を狩り、汗を流して手に入れたその紙幣は、指名手配犯として追われる湊にとって、今の世界で唯一「まとも」に手に入れた生存の糧だった。
「これが俺たちの『仕事』の一つだ。わかったか、湊」
一万円札を握りしめ、湊は静かに頷いた。
クローとしての圧倒的な力。それは誰かを傷つけるための呪いであると同時に、こうして泥臭く生き抜くための、たった一つの牙でもあった。




