第19話:湯煙の禊(みそぎ)と猪鍋
第19話:湯煙の禊と猪鍋
1. 境界を洗う水
「風呂、入るだろ。ガスは通ってないが、すでに湯は沸かしてある薪で炊いた風呂だから温度調整は水でしか行えないが、いい湯だぞ!!」
凪は脱衣所を指差して、淡々と告げた。「今日は悪いが、湊が先だ」
凪はそれ以上、何も言わなかった。だが、その言葉の裏にある意図を、湊も結衣もすぐに察した。湊の右手に、そして爪の間にこびりついた、あの自衛官の血。それを一刻も早く、完全に洗い流させたいという凪なりの気遣いだった。
「……うん。湊、先に入って」
結衣も優しく微笑み、背中を押した。
浴室は、木の香りが微かに漂う落ち着いた空間だった。湊は熱い湯を頭から被った。石鹸を泡立て、何度も、何度も右手をこする。赤い色はとうに消えているはずなのに、皮膚の奥に何かがこびりついているような気がして、赤くなるまで肌を磨いた。
湯船に浸かり、深く息を吐き出す。水蒸気が視界を覆い、血の臭いが石鹸の香りに塗り替えられていく。ようやく、自分が「怪物」ではなく「人間」の形を取り戻したような、奇妙な錯覚に包まれた。
2. 野生の晩餐
二人が風呂から上がると、リビングのテーブルには大きな土鍋が置かれていた。蓋の間から、味噌の香ばしい匂いと、力強い肉の香りが立ち上っている。
「猪鍋だ。この辺りで獲れたやつを分けてもらった」
凪は不器用な手つきで取り皿を並べた。
「普段、ここに人を呼ぶことなんてないからな。うまいかどうかは保証しないが……。俺の予想では、絶品だと思っている」
少し視線を逸らし、照れたように、あるいは自分に言い聞かせるように言う凪の姿に、湊と結衣は初めて彼の中に潜む「等身大の青年」の影を見た。
「いただきます」
一口食べた肉は、野生の生命力を感じさせるほど濃厚で、冷え切っていた二人の身体を芯から温めた。
「……おいしい。本当に、絶品だよ」
結衣が顔をほころばせると、凪は「そうか」と短く返し、隠しきれない満足感を漂わせながら自分の皿に箸を伸ばした。
3. 沈黙の電源
食後、凪は二人を見据えて表情を引き締めた。
「仕事の説明は明日、明確にする。今日はもう寝ろ。……あと、スマホの電源は完全にシャットダウンしておけ。電気も限られてるからな」
凪は「節電」を理由にしたが、二人にはその本音がすぐに分かった。
電源が入っている限り、電波は発信される。デーモンたちが支配するこの国の「検索網」は、衛星や基地局を介して、一秒ごとにこの山中をスキャンしているのだ。物理的に回路を断つことだけが、唯一の防壁だった。
「……わかった。おやすみ、凪」
用意された寝室に入り、湊は横になった。
枕元で沈黙するスマートフォン。闇に包まれた高尾の静寂。
自衛隊員を殺害したという重圧、アークエンジェルの恐怖、そして指名手配。あまりにショッキングな出来事が積み重なり、脳は疲弊しきっていた。
湊は結衣の寝息を隣に聞きながら、深く、けれど波立つような浅い眠りの中に落ちていった。
夢の中でも、彼はまだ、血の色の川を飛び越え続けていた。




