第15話:静寂の王座
第15話:静寂の王座
1. 拭えない赤
「湊……湊、しっかりして……!」
結衣の悲痛な叫びが、遠くの霧の向こうから聞こえる。
自分の右腕にこびりついた、熱く、ねっとりとした血の感触。防弾ベストを紙細工のように貫いた、ありえない指先の衝撃が、いまだに右手に残像としてこびりついている。
湊は激しい吐き気を堪えながら、結衣を抱えてボーリング場を飛び出した。
「ハァ、ハァ……っ!」
出口付近にあった泥混じりの水たまりを見つけると、湊は迷わずそこに両手を突っ込んだ。狂ったように泥水で手をこする。だが、爪の間に入り込んだ赤黒い汚れはなかなか落ちない。
逃げるように辿り着いた近くの小さな公園。人影のない水飲み場で、湊は蛇口を全開にした。
「うっ……げほっ、えづ……っ」
胃の底からせり上がる酸っぱい液体を吐き出しながら、何度も、何度も手を洗う。冷たい水が赤く染まり、排水溝へ吸い込まれていく。それでも、人を殺めてしまったという「重み」だけは、いくら洗っても消えてはくれなかった。
2. 闇の中の邂逅
震える手で顔を拭い、湊は結衣を連れて最後の目的地へと向かった。
府中市の外れ、指定された「バツバツ地点」。そこは、開発が止まったままの広大な空き地と、古びた倉庫が並ぶ静かな場所だった。
「……誰か、いるの?」
結衣が湊の腕を強く掴む。
暗い建物の影から、足音もなく一人の男が歩み寄ってきた。
20代中盤。無駄な肉を削ぎ落とした痩せ型の体躯に、鋭くも冷徹な瞳。彼は湊の前に立つと、言葉を発する代わりに、その背後をわずかに歪ませた。
空気が凍りつくような緊張感の中、彼の背中から、漆黒の翼が音もなく溢れ出した。
十数秒の間。それは湊の持つものよりも洗練され、力強い意志を宿して夜の闇に同化した。
(……俺と同じだ)
湊は息を呑んだ。言葉による説明など不要だった。その翼こそが、彼が自分たちの「同族」であることの、何よりの証明だった。
3. 凪の宣告
男は翼を静かに収めると、感情の読み取れない声で口を開いた。
「ようやく来たか。仁科湊」
彼の声は低く、そして澄んでいた。これまでのパニックを鎮めるような冷たさを持って、彼は自分の名前を告げた。
「俺は、凪。お前がその力をどう扱うべきか、あるいは……その力に呑まれて死ぬべきか。それを見極めるために、お前をここまで呼んだ」
凪の視線は、湊のまだ微かに震えている右手に注がれた。
「自衛官を一人、仕留めたようだな。……それがお前の『産声』というわけだ」
湊は何も言い返せなかった。
自分たちが何者で、なぜ追われ、なぜ戦わなければならないのか。その答えを知る唯一の存在が、今、目の前に立っていた。




