第12話:残像の境界線
第12話:残像の境界線
1. スイッチバックの迷宮
西武池袋線、飯能駅。
ここは秩父へと向かう列車が進行方向を反転させる「スイッチバック」という特殊な構造を持つ駅だ。ホームが複雑に入り組み、乗り換え客とハイカーが交差するこの場所は、追跡者の目を晦ますには絶好の舞台だった。
「結衣、行くぞ。……足元に気をつけろ」
湊はフードを深く被り、結衣の手を引いて電車を降りた。秩父行きの特急を見送るフリをしながら、階段の影、自販機の裏、死角から死角へと移動する。
防犯カメラのレンズが首を振る。だが、湊はその周期を完全に読み切っていた。
一瞬の隙を突き、二人は駅ビルの搬入口へと滑り込み、そこから一般道へと姿を消した。システム上の「仁科湊」は、飯能駅の改札内で足取りが途絶えた。
2. 監視を欺くステップ
飯能から目的地である府中までは、いくつかの市境を越えなければならない。
「いいか、橋の上は一番危ない。カメラだけじゃなく、パトカーの巡回も多いからな」
湊と結衣は、市をまたぐ大きな橋に差し掛かると、ごく普通の、どこにでもいる大学生のカップルを装った。湊は歩幅を緩め、結衣と親しげに話し合うフリをする。
だが、その視線は常に周囲の「レンズ」を捉えていた。
「……今だ」
橋の半ば、監視の死角となる防護壁の切れ目。
湊は結衣を抱き上げると、橋の欄干を飛び越えて垂直に落下した。
結衣が悲鳴を上げる暇もない。二人の体は水面ギリギリで水平へと加速し、橋の下――鉄骨が剥き出しになった影の部分へと潜り込んだ。
3. 0.1秒の跳躍
「しっかり掴まってろ。光を追い越すぞ」
黒い翼が鋭くしなり、湊の全身から凄まじい衝撃波が放たれた。
川を越えるその瞬間、湊は「普通の人間の目」には決して捉えられない超スピードへとギアを上げた。
水面が爆圧で凹み、周囲の空気が高熱を帯びて歪む。
時速数百キロ。残像すら残さないその移動は、デジタルカメラのフレームレートの隙間をすり抜け、監視網を無力化させた。
その時、河原で釣りをしていた一人の老人が、ふと顔を上げた。
「……あれ?」
老人は目を擦った。
さっきまで川の右岸、遠くの土手に見えていたはずの若いカップルの後ろ姿が、一瞬、瞬きをした間に、もう対岸の遥か向こう側に消えていたのだ。
「……見間違いか。最近の若いのは足が速いのう」
老人は首を傾げたが、それが物理法則を無視した「跳躍」であることなど、夢にも思わなかった。
4. 府中への最短距離
川を越え、丘を越え、湊は指示された最短ルートを駆け抜ける。
普通の人間なら車で1時間以上かかる距離を、彼は翼の鼓動ひとつで縮めていく。
結衣は湊の胸の中で、流れる景色が線となって消えていくのを見ていた。
指名手配。天使の捕食。自分たちが住んでいた世界はもう遠い。
けれど、風を切る湊の鼓動だけが、今の彼女にとって唯一信じられる現実だった。
「……もうすぐだ。府中の、[XX-XX]地点……」
湊の視界の先に、府中の街並みが見えてきた。
そこには、自分たちをこの地獄に導き、そして救おうとしている「何者か」が待っているはずだった。




