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十四人目の髪の色 異界に転移したら王弟殿下と異形の神に寵愛される最強の能力者になった  作者: あべ舞野


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ⅡーⅡ 爆発事件 そしてロマン溢れるバラの風呂

王都中央で大規模爆発が発生

原因は不明

そして謎のバラの風呂

 ⅡーⅡ 爆発事件、そしてロマン溢れるバラの風呂


  アルニウスとの交渉は膠着(こうちゃく)状態だ。あちらは異世界人の引き渡しが必須だ。それなら会談場所を譲っても良いそうだ。しかし渡したくないラファイエット側は、まず会談を行って講和条件のすり合わせをしたい。だから場所の決定が優先事項だ。

 ただしラファイエットが歩み寄る姿勢を見せているので、魔獣の襲来はなかった。そして一週間が過ぎた。カナデの為すべきタスクは何もない。昼間は絵を描いたり、セシルかロザリーと散歩したりだ。夜になると部屋に訪れるリシュリューに八芒星魔法陣の使い方を教わるのだ。

 だが平和に見えていた時間は一瞬にして崩れ去る。その日の午前中だった。王都の中心部近くで爆風が上がった。しかし被害は一棟に留まらなかったのだ。配管の不具合なのか、爆発は連続した。その後、火災も発生した。

 王宮の庭からも白煙が昇るのが見えた。

「え...なに」

 セシルとカナデは庭を散策中だった。急いでリシュリュー宮に戻ろうと駆けだした。到着する前に走る制服の若い男性と行き会った。長剣が腰に下がっているのは護衛士だ。彼は言った。

「探したよ! チュウゼンジさん、一緒に来てくれ」

 え、誰? と表情に出たようだ。

 セシルが耳打ちする。

「マチアス・ジュスタン。リシュリュー宮付きの護衛士よ」

 彼は明るい茶の瞳の青年だ。言われると見た覚えはある。彼は苦笑いした。

「ずっとリシュリュー宮にいるんだけどね、チュウゼンジさんは全然『蝶の間』から出ないから知らないんだ?」

 出入りも使用人側を使っているが、働く者の数が多くて覚えきれない。

「いえ、知っています。名前がその」

「いや、まあいいから。フーシェ閣下の要請だ。病院に一緒に行って。君はそこで救助協力、俺は殿下と落ち合う手筈」

 カナデは立ち上る白煙を見た。

妖狗(ようく)が出たんですか?」

「さあ、原因はまだ不明なんだ。怪我人が大量に出ているみたいで君が必要だと。すぐ通用門へ向かってくれ。馬を回すよ」

 セシルが尋ねた。

「マチアス、私はいいの?」

「う~ん、まだ何も聞いてないな。ロザリーがさっき向かったよ。ねえ一緒に行く?」

 ウインク付きでデートにでも誘うような笑顔だ。セシルは眉をひそめた。

「ふざけている場合じゃないわ。後でね」

 通用門は使用人が出入りに使う場所だ。城壁の片隅に小さな塔と門がある。セシルがそこまで連れて行ってくれた。そしてカバンからスカーフを取り出して頭にかぶせる。

「気を付けて」

 すぐにマチアスが葦毛の馬を曳いて来た。間近で見る大きさにうろたえる。そんなカナデをマチアスが(くら)の上に押し上げた。

「本当に馬なんだ」

「幹線道路が渋滞してるんだよ」

 マチアスはセシルに手を振った。そして町へ駆け出す。上下動はかなり激しい。マチアスがしっかり胴に腕を回してくれているが、腰が激しく跳ね上がる。すぐに内股が痛くなった。

 町に出るとすぐに焦げ臭いにおいが漂う。あちこちから煙が上がったままだ。車や馬車が通りを塞ぎ、荷物を抱えた人々が逃げ惑っていた。まるで映画のセットに入り込んだような気持ちだ。カナデはぼうっと流れる景色を見ていた。

 馬の動きに合わせてカナデのスカーフがずれる。黒髪が露わになった。

 呆然と佇む女性と目が合った。彼女は金切り声を上げた。悲鳴が遠ざかっていく。

「あれは何? 髪が」

 カナデはスカーフを抑えた。セシルはこのためにこれを貸してくれたのだと分かってしまった。王弟が連れて来たから王宮内では客人扱いだ。しかし街中ではどうなのか。

 馬を停めたのは王立病院だった。カナデが最初に入院した場所である。だが記憶は殆どない。実際に退院した時とはまるで様相が違った。門の前はもちろん、前庭にも包帯を巻いた怪我人が溢れている。その間を医者や看護師が走り回っていた。焦げ臭さと血の匂いはもちろん、うめき声が充満している。五感を震わせる場所だ。夢ではない、現実だと自分に言い聞かせた。

 マチアスに馬から降ろしてもらった。よろめく。スカーフが外れた。人々がざわめいた。カナデの髪のせいだ。

 人々の間にいる医師が手を挙げた。白衣には幾重にも血をなすった痕がある。

「ここ! チュウゼンジさん、久しぶり。元気そうだ」

 見覚えがない。しかし、落下直後の入院で世話になったはずだ。彼は知り合いの顔で笑う。カナデは頭を下げた。頼りのマチアスは馬を繋ぎに行った。

 ひそひそ声はやまない。その中を通って、医師と玄関内部へ進む。ここも同じような感じだ。

「君は八芒星(オクトグラム)魔法陣を持っているそうだね? フーシェ閣下から増幅に特化した能力だと聞いた。利用させて欲しい」

 有無を言わさず連れてきたのだ。最初からそのつもりだろう。二人は怪我人が密集する受付の端に寄った。

「出せる? トリアージの方へ行ってもらおうかな」

 トリアージとは一気に負傷者が発生した時の制度だ。それぞれの緊急性を判断し、治療の優先度を判断する。大きな災害の時、できる限り多数の患者に対応する為に行われる。それほど自体がひっ迫しているのだろう。カナデに否という選択はない。

「はい」

 カナデはゆっくりと息を吐いた。黒の八芒星(オクトグラム)魔法陣が目の前に現れる。

「う...黒い...」

 驚きを隠さない医師だったが、自分も八芒星(オクトグラム)を出した。

「チャネリングしてみよう」

「え~と、亜空間へ入るみたいな?」

「あ、それシンクロ。そこまでしなくて大丈夫」

 二つの八芒星(オクトグラム)魔法陣が重なった。医師の環が光る。とたんに閃光がほとばしった。

「うわ」

 医師は体を丸めた。白衣の血が全て消えた。近くでぐったりしていた患者が身を起こす。あれ? という感じで腹をさすった。

 怪我人たちの騒めきが大きくなった。ひと際高い声が上がった。

「災厄だ! そいつのせいが災いを連れてきた! その髪は不吉な印だ!」

 あまりに一瞬だった治療よりも、突然の光に不安を煽られたのだろう。誰が叫んだのか。追随の怒号が上がった。

「悪魔だ! 出て行け!」

 近くの男性が何かを掴んだ。カナデめがけて投げつける。少し外れて背後の壁で砕けた。ガラスの瓶だった。破片が跳ね返り、カナデの額をかすめた。彼はカナデを指さして怒鳴った。

「俺の息子は大怪我したんだ。お前のせいで! 出て行け!」

 医師が急いで二人の間に入った。

「彼は治療の手伝いに来てもらったんだ」

 顔に生暖かさを感じたので触った。すると指先が赤く染まる。さっきのガラスで切れていたのだ。そこで初めて痛みを感じた。

 男が怒鳴る。

「呪われた炭の棒が治療の手伝い? 笑わせるな。死なせた方がましだ!」

 そうだそうだ、と無責任にあおる声も上がる。

 カナデの体が震えた。悪口に対して、ではない。

 鮮やかに蘇ったのはあの映像だ。裂けめに吸い込まれる。落ちる人々。噴き出す鮮血。カナデはぎりっと唇を噛んだ。大きく息を吸い込む。彼に向かって怒鳴った。

「死んだら何も言えない。でも生きているなら、治ったらいくらでも文句を言え! それで息子が嫌だと言うならそいつの勝手だ。自分の命は自分で決めさせろ!」

 一緒に吸い込まれたうち十二人は成す術もなく圧死してしまった。もう少し早く八芒星を掴めていたら。彼らは助かったかもしれない。目の前で人が亡くなるのはもう嫌だ。そんな思いがカナデを支配していた。肩で息をしているのに、すぐには気が付かなかった。興奮がなかなか収まらない。

 受付は静まり返った。マチアスが戻ったが、状況が掴めないようだ。カナデの額の血にぎょっとする。

 コツコツ、と靴音がした。カナデの背中に温かい温もりが触れる。人々がまた騒めいた。はっと見上げると美しい銀髪が目に入った。リシュリューだ。彼は厳しい顔つきだった。

「王弟リシュリュー・ラファイエットである! 皆の者、此度(こたび)の災害は遺憾である。国王陛下より見舞いのお言葉を言付かった。王府を挙げて支援に取り組むことを約束しよう!」

 全員が頭を下げる。カナデを少し前に突き出す。リシュリューが続けた。

「この者は異界よりの来訪者であり、私の管理下にある。此度の災厄に役立ちたいと申し出たのだ。ゆえに救助の補助に向かうよう命じた。皆は医師より治療を受けるがよい。私の前に、私を遮る者はいない。案ずるなかれ!」

 王族としての言葉なのだ。波を打ったように静かになる。それから拍手と歓声が沸いた。カナデはそっと彼を見上げた。今まで見せた事のないほど厳しい。王族として公式の顔なのだろう。それでも背中の指が優しくとんとん、と叩いてくる。

 リシュリューが背中を向けたのが合図のように、現場はまた元通りになった。マチアスが駆け寄って敬礼をする。

 リシュリューはカナデの知っている穏やかな顔に戻っていた。医師を指で呼んだ。壁際で他には聞かれないように言った。

「フーシェから聞いたか? カナデの八芒星(オクトグラム)を人目に触れさせてはならない」

 医師は額の汗を拭いもせずに小さく震えた。

「はい...仰せの通りです...。申し訳ございません」

「分かっていれば良い。以後、留意しろ」

 それからマチアスに声をかけた。

「ご苦労。これから一緒に市内の視察及び慰問に向かうぞ。被害があればその場で修復もしよう」

「はい、殿下」

 王族としての務めを果たすのだ。リシュリューの目がカナデの傷で止まった。

「痛いか?」

「いいえ。それほどでもないです」

 マチアスが目を離した隙の出来事だ。罰が悪そうな顔をしているが、彼のせいではない。リシュリューの指が額を撫でた。温かい。そして痛みがすっと引いた。血が固まる。

 リシュリューと入れ違いに、従者を従えたフーシェがやって来た。汗ばんでいる。歩きながらも周囲にてきぱきと指示を出していた。王宮病院の総責任者は、すなわち国中の医療機関のトップなのだろう。

 おお、とカナデの傷に声を上げた。しかし取り急ぎカナデと廊下を進む。こちらも怪我人だらけだ。ばたばたと数人が行きかう医局の中へ入った。周囲にパーテーションがある一角だ。あるのはソファだけだ。そこに座らせた。いつもの従者が血の跡を拭う。傷が治っているのを見て、フーシェも助手もほっと息をつく。

「治してもらったね。良かった。君も爆発に巻き込まれたかな?」

「いいえ。大丈夫です」

「うんうん、強いね~。良い子だ。君にやってもらうのは八芒星(オクトグラム)魔法陣を出してもらうだけだよ。医師にそれを使わせてもらいたいな。できるかな?」

「はい」

「よしよし、頑張ろうね。何人か一度にチャネリングできるかな? ちょっとやってみてごらん~。はい、そのままキープしてね~」

 やはりカナデには子供相手のような話し方をしてくる。フーシェは先ほどの医者と、他にも一人の女医を指で呼んだ。

「先ほどの話しの通りに。この子の八芒星については他言無用だ。いいね? まずは被害者の回復が最重要事項だよ」

「心得ております」

 彼らは力強く頷いた。白い魔法陣が浮く。彼らにチャンネルを合わせる。まず一人。それから魔法陣の反対側にも合わせるつもりでチャネリングができた。

「うんうん、頑張ったね。保持してね」

 医師二人は急ぎ足で立ち去った。彼らが魔法を使う度に魔法陣が点滅して揺れる。それにチャンネルを合わせ続けなくてはいけない。ただ座っているだけなのに、精神統一が必要だ。しかも衝立越しでも周囲は騒がしい。フーシェも指示を出すのに忙しいのか、出たり入ったりを繰り返す。気が散るのを懸命に堪えた。

 怪我人は絶えず運び込まれるようだ。どれだけの役に立ったのかカナデには分からない。しかしチャネリングで繋がっているのは、医師らが働き続けているという事だ。

 二時間ほど経過した。二人の八芒星魔法陣が離れた。カナデはぐったりと背もたれに寄りかかった。休憩らしい。ロザリーがやって来た。カップの飲み物を渡してくれる。

「チュウゼンジ様、お疲れ様です」

「ロザリーさんはこちらだったんですね」

「ええ。この災害ですもの」

 リシュリュー宮付きなのに、カナデの面倒を見る為に病院に居たのは特別だったと教えてくれた。

「もしコマツ様やカナデ様が邪悪な存在で悪さをするようなら、抑える為には魔力を使える者でないと。それで私が伺ったんです。セシルの魔力は弱いのですが、私が休めるようにって志願してくれたんですよ」

 それで二人でロウタとカナデの面倒を見ていたのだ。最初は王国でもカナデ達に警戒をしていた。見知らぬ同士なのだ。当たり前だろう。しかし今では協力ができる。

「本当にカナデ様には感謝しかございません。皆の治療が進んでおりますよ」

「良かった! 僕でも少しは協力できるんだね」

「少しどころか! 素晴らしいご活躍ですよ」

 ロザリーの声は優しい。

 しばらくすると、再び白い八芒星(オクトグラム・ブラン)魔法陣が現れた。休憩は終わりだ。ロザリーも一礼してカナデの傍を離れた。

 その繰り返しだった。マチアスが迎えに来てくれたのは日付が変わる頃だった。また馬に乗せられて帰る。密着した体からは煤と血と油のにおいが沁みついていた。ずっと一日中町にいたからだろう。もう白煙は収まった。馬車など乗り物は時折行きかうものの、人の姿は殆ど無かった。

 リシュリューが居城に戻ったのはさらにその後だった。国王への報告や明日の予定表などに目を通していたからだ。自室へ戻ると、執事が待っていた。彼は深々と礼をした。

「国民の為のご活動、誠にありがとうございます」

「自国の民だ。礼を言われることはない」

 上着を脱いでソファに置いた。執事がていねいに持ち上げた。

「チュウゼンジ様は先ほどお戻りです。軽食をお出ししました。お待ちになりたいと仰るので、談話室へお通ししておきました」

「え、まだ起きているのか」

 リシュリューはすぐに隣室の談話室に向かった。応接室よりも小さい。急ぎの場合や、秘密の話をするための部屋だ。それでソファとテーブルがあるだけだ。ドアを開けると、低くラジオの雑音がする。放送はもうとっくに終わっている。

 カナデは体を斜めにして眠っていた。もう部屋着だ。食事の後はすぐに眠ってしまったのか。

 執事が入口で尋ねた。

「殿下、お食事は? 何かお持ちいたしましょうか?」

「いやいい。外で済ませた。入浴したらすぐに休む」

「ではチュウゼンジ様を『蝶の間』にお運びしましょう。誰か呼んで参ります」

「俺が運ぶ。お前ももう休め」

 執事はラジオを消した。それから一礼して去った。

 カナデの顔を覗き込む。額はもう元通りだ。そっと撫でる。ん、と少し唸った。しかし目は開けない。疲れているのだろう。

(無理をさせたかな)

 リシュリューが病院に到着したのは、瓶が投げつけられた直後だった。異界人を受け入れられない相手にカナデは堂々と向き合った。あの強い目は初めて会った時と同じだ。彼はあまり口数が多くない。しかし言う時は強い。その落差がリシュリューには愛おしい。

 背中に腕を差し入れた。リシュリューは名誉職ではあるが魔闘士でもある。ちゃんと鍛えているのだ。軽々とカナデを持ち上げた。

「う...ん」

 薄く目を開けた。真っ黒な瞳がリシュリューの顔の上を彷徨う。夢の中なのか、もぐもぐと口が動いた。

(かっ...可愛い!)

 思わず抱きしめたくなるのをこらえた。自分の寝室のベッドに運ぶ。隣に寝かせても幅は充分だ。布団を顎までかけてやる。少し動いたが、やはり目覚めなかった。髪を撫で、頬をさすった。それから大きく伸びをして浴室へ向かったのだった。

    

 

 もう見慣れた天蓋ベッドではあるが、形が違う。シーツの色も白い。カナデは目をぱちくりさせた。朝の光が薄いカーテン越しに届いている。体のすぐ横のシーツは乱れていて、誰かが寝ていたようだ。思わず寝巻の襟をひっぱり、自分の体を確認してしまった。何事も無かったようだ。

 カーテン越しに人影が動いた。

「チュウゼンジ様、お目覚めのお時間でございます」

 ロザリーだ。『蝶の間』に居る時は、好きな時間に起きていた。こんな風に起こされたのは、こちらで寝たからだろう。

 カーテンを開けると、着替えをシーツの上に置いてくれた。

「殿下が朝食をご一緒に、と仰っていますよ」

 リシュリュー側で眠ったのは初めてだ。というよりも、通り抜けした事しかない。『蝶の間』も高級スイート並みに広いが、こちらは比べ物にならず洗面所の場所も分からない。ロザリーに案内されながら顔を洗った。

 このベッドで目覚めたという事は、やはりリシュリューと一緒に寝ていたという事だ。

(何で? あっちへ運ぶのがもう面倒だったとか?)

 食堂は一度廊下に出てから少し歩いた場所だった。ここも初めて足を踏み入れる。シンプルながらも貴族の館というにふさわしい洗練された造りだ。テーブルクロスは白く、中央に花瓶がある。長辺に四人分と、いわゆるお誕生日席。リシュリューはそこだ。大きな窓を背に座っているので全身が輝いて見える。彼は先に食事を始めていた。

 カナデは入口で頭を下げた。

「お待たせして申し訳ありません」

「いや、昨日は疲れただろう。よく寝ていたね。カナデ、隣へ」

 リシュリューの斜めにあたる長辺にもう席が作ってある。テーブルマナーは一応心得てはいるものの、やはり緊張する。

「殿下、昨日はありがとうございました。お見苦しい処をお見せしてすみません」

「うん? 可愛らしい寝顔だったよ」

 そこじゃない! とカナデは心の中で突っ込んだ。お礼を言いたいのは病院でかばってもらった所だ。

「いいえ、病院でのコトです」

「ご苦労だった。また今日も行ってもらう。いいかな?」

「はい」

 カナデに気を使わせまいとしているのか、本当にどうでもいいのか。どちらか判断が付かないまま、カナデは後追いをやめた。少し気になっているのは、リシュリューが言った『管理』である。そこに彼の本音があるのだろうか。

(僕っていったい、ここでナニ扱いなんだろう...)

 客のような、使用人のような。宙ぶらりんの身分だ。

 メイドがリシュリューのカップに茶色の液体を注いだ。その薫りにカナデの目がぱっと開いた。紛れもなく、無いと聞いていたコーヒーである。リシュリューがすぐに気が付いて尋ねた。

「豆茶だよ。飲むか?」

「お願いします」

 さっそくメイドがポットを持って来る。注ぎながら説明してくれた。

「豆を焙煎して砕き、お湯で抽出した飲み物です。殿下のお好みで通常よりも濃くお出ししておりますので、苦く感じられるかもしれません」

 まさにコーヒーだ。砂糖とミルクを断った。カップに口を付けた。アメリカンというところか。使用人食堂にあった豆茶とは違う。あちらはお茶と言って差し支えないほど抽出加減だった。久しぶりのコーヒーだ。体に染みわたる。

「美味しいです!」

 自然と笑顔になる。リシュリューが満足そうに目を細めた。

「カナデはちゃんと食事をしているのか?」

「使用人食堂で頂いています」

「そうか。あそこは賑やかだからな。ルイのタルトは絶品だ。俺もたまに行くぞ。一人で『蝶の間』で食べるのは寂しいのなら、ここへ来ると良い」

 リシュリュー宮は上下関係がフラットなのか。

 本当に自分の立ち位置が分からず、戸惑うカナデだった。あまり食が進まない。早くこの場から帰りたくなった。幸いにリシュリューが食事を終えたようだ。

「では俺はもう出る。カナデもあまりのんびりはできないかな。マチアスを迎えに寄越す」

 リシュリューが一足先に食堂を出た。気分が落ち着かないカナデも、さっさと食事を終わらせたのだった。

 病院通いは翌日も続いた。ロザリーが帽子と色のついた眼鏡を用意してくれたので、往復の移動はそれを着用した。目の色が分かりにくくなる魔法をかけてあるそうだ。

 そして四日目だ。病院に送ってくれたのは別の騎士だった。またも同じ場所で八芒星魔法陣を利用される。

 もう院内は落ち着いている。緊急患者はいない。他の病院から重傷者が運び込まれるくらいだ。

 昼の休憩時間になってチャネリングが消えた。カナデはトイレに行くついでに出入口へ近づいた。町の様子がちょっと見たかったのだ。門は開いている。しかし両側にいる見知らぬ護衛士に声を掛けられた。

「異界人殿。外出許可証はお持ちですか?」

「ありません」

「では出ないように。市内はまだ混乱しておりますので危険です」

 仕方がない。そこから中世ヨーロッパに似た街並みを見た。建造物はやはり白っぽい。中天からの光で眩しい。病院の近くは被害が少なかったようだ。爆発の痕跡は見当たらない。ただ少し焦げくささが残っているようだ。

 病院の外を数人の男たちが通り過ぎた。全て茶色の髪だ。ちらっとカナデを見た一人が目を剥いた。連れに耳打ちする。彼らは足を停めた。黒い、と聞こえる。

 すかさず騎士がカナデをかばうように前に出た。しかし男が叫ぶ。

「出て行け、異形が」

 足元で石が跳ねた。投げつけられたのだ。護衛士が音を立てて門を閉めた。

「お戻りください」

 声が出ない。黙って頷き、踵を返した。やはり自分は『管理』されている異界人なのだ。

 事務室では医師が待っていた。いつもの医師ではないし、この日はフーシェもいない。どこか表情の硬いカナデに事務的に声をかける。

「じゃあ午後の部を始めますのでお願いします」

 しかしカナデは八芒星(オクトグラム)魔法陣をうまく出せなかった。何回かやってみたものの、意識が集中できない。ふわりと浮かんでは消えてしまう。医師は首を傾げた。どこかに電話を掛けている。

「今日はもう帰ってもらって良いそうです」

 どの『管理者』から言われたのだろう。まもなく大きな体躯の護衛士がやって来た。やはり馬でのお迎えだ。リシュリュー宮で見たような気もするが、不愛想で寡黙だ。会話もほぼ無いままタンデムとなった。彼はカナデの体を支えてくれない。懸命に鞍にしがみついて城へ戻されたのだった。

 気分が晴れないまま夜を迎えた。セシルとロザリーは忙しいらしく、この数日間は朝しか顔を合わせていない。もう勝手がわかってきた使用人廊下を通って食堂へ向かった。もうここで食事をするのは定番化している。使用人たちもごくごく普通に接してくれているのだ。

 しかし、この日は少し様子が違う。夕食の時間帯にも関わらず殆ど人がいない。

「こんばんは」

 カナデの挨拶に返事がない。よそよそしい雰囲気が漂う。そもそも視線を合わせてくれない。原因はすぐに分かった。ホールにサンドラが立っていたのだ。彼女は王城付きのはずだ。

 彼女は叩きつけるように言った。

「ここで食事をするとは正気の沙汰とも思えない! 殿下の食事をお作りする場所なのに、炭かぶりが出入りするなど傲岸不遜(ごうがんふそん)! 私は止めに来たのです! 殿下の命で皆が愛想よくしているだけなのに、浮かれて勘違いをしている模様。図々しいにもほどがある」

 数少ない職員は目を伏せて無言だ。初日にタルトをくれたシェフはいない。何かを焼く音ばかりが響く。

「やはり口がないのか、無礼者。お前がここに出入りして陰の気(ルキデュイ)をばらまくのを、皆が忌んでいるのに気が付かぬとはまことに愚か。だから私が言ってあげるのです。二度とここへ足を踏み入れて殿下のお食事を穢すのをやめなさい。分かっているのか、もう一度言います。皆は嫌がっているのです!」

 何を言えば正解なのか。そもそも謝るような事はしていないはずだ。カナデは黙って頭を下げた。背後でサンドラの声がする。

「さあ陰の気(ルキデュイ)を払いなさい!」

 『蝶の間』の可愛らしいピンクが灰色にも思える。カナデはソファに腰を下ろした。カーテンが開いたベッドには、もう明日用の着替えが用意してある。セシルかロザリーなら、必ず顔を見せてくれる。やはり今日はいないのだろう。別のメイドの世話だ。カナデに顔を見せたくないのだろうか、などと僻んだ気持ちになってしまった。

 セシルやロザリーの優しさを疑いたくはない。しかし昼の一件もある。サンドラの言葉は堪えた。

(あんなに威張るなんて何様なんだよ)

 そう思っても、心にぐさりと言葉のナイフが刺さり、血が流れている。まだ時間は早いが、のろのろとベッドに横たわった。しばらくして使用人側からドアがノックされた。気が付いたが、もう返事をする気力がない。空腹もあいまって、なかなか寝付けなかった。

 


 翌朝。二人分の朝食の準備が整った食堂にリシュリューがやって来た。まだカナデはいない。そこへセシルが駆けこんで来た。席につこうとしていたリシュリューに急いで礼をする。

「お騒がせして申し訳ありません。カナデ様が見えなくて...。塔の門番から連絡がありました」

「散歩か?」

 のんびりした彼の言葉に、セシルは固い顔で首を振った。

「屋根の縁にお座りで動かないのです。マチアスに向かってもらいました」

「そうか」

 リシュリューは立ち上がった。食堂を後にする。

 カナデは塔の最上階まで上がって窓から外へ出ていた。三角屋根の縁に腰を下ろして足は宙に浮いている。寝巻のままだ。下にマチアスがいた。リシュリューに礼をする。

「さっき侍従が迎えに行ったんですが、来るなって言われたそうです。下ろしましょうか?」

「いや。俺が行くよ。その前に落ちたら頼む」

 一緒に上がろうとする侍従たちと、おろおろする門番を制した。軽やかに階段を上がる。最上階の窓は開いたままだ。そこから顔を出した。カナデは少し先に、手を縁にかけて俯いて座っている。伸びて来た髪が顔を覆っていた。

「おはよう。ここは眺めが良いだろう?」

 リシュリューの声にびくっと肩が動いた。返事がない。

「この国には美しい場所がたくさんある。君に見せたいな。そうだ、少し落ち着いたら一緒に行こう」

 カナデは少しだけ顔を上げた。目の周りが赤い。唇を引き結んでいる。腕で顔をこすった。泣いた後の幼い子供のようだ。白い朝陽に包まれて輪郭線がぼやけて輝く。リシュリューの胸がキュンと締め付けられた。彼は体一つでこの世界に引き込まれた。家族や友人たちとも離れ離れだ。たった一人の同胞とは一緒にいられない。それでも弱音を吐かずに過ごして来たのだ。心が疲れたのだろうか。手を伸ばして抱きしめたい。

「それにしてもよく塔に入れたな。門番はどうした?」

 カナデの体に力が入ったのが見て取れた。また顔を伏せてしまった。

「部屋の証明書を勝手に使いました。悪かったですか? 私はあなたの管理下にあるんでしたっけ。それなら牢屋に閉じ込めて必要な時だけ出して使えばいい!」

 彼が怒った時の声だ。リシュリューはきょとんとした。『保護と監視』なら確かにカナデに告げた。管理とは、また少し意味合いが違ってくる。病院での呼びかけはあちこちでやっている。いちいち文言を覚えていない。それで、カナデにそう言った記憶がなかった。監視と管理なら、前者の言葉の方が強い気もする。

「えーと...」

 どう慰めようか迷った。カナデは何かに傷ついているようだ。それは分かる。その原因は何か、今の時点では疑問だった。

(翻訳陣の精度が悪いのかなあ?)

 などと首を傾げるばかりだ。

 一方のカナデは視線を落とした。セシルがいる。両手を組んでこちらを見ている。傍らにマチアスもいた。こちらは腰に手を当てている。他にも数人の侍従が見上げていた。

 もうここにいても時間が無駄に過ぎるばかりだ。カナデは何度目かのため息をついた。

(戻ろう...)

 少し腰を浮かせた。しかし初夏といえ高原の国だ。早朝の屋根の上は寒かった。体がすっかり冷え切っていたようだ。支えにしていた手がつるりと滑る。腰が縁から外れた。体全体が屋根から滑る。心臓がぎゅっと縮む感覚があった。

(落ちる!)

 胸が(ざわ)めいた。腹の底が熱くなる。何かが飛び出して来そうだ。病院の水辺での感覚と同じだ。それとはまったく違うノイズめいた波動を全身で感じた。まるで地面の下から一斉に手を伸ばしてくるような空気の動きだ。

(な、何?)

 全身が宙に浮いた。

 素早くリシュリューが窓から乗り出した。ふわりと空中へ飛び上がる。カナデを抱き寄せた。そのままお姫様抱っこだ。カナデは思わず逞しい腕にしがみついた。息が喉で引っかかる。叫びにならない呻き声が漏れた。

 エレベーターよりは少し早い速度で地上に着いた。冷たくなった手足がこわばる。震えているのは自分でも分かった。カナデは軽くリシュリューの胸を押した。下ろして欲しい、と意思表示したつもりだが放してくれない。

 セシルが駆け寄る。目が潤んでいるようだ。

「ああ、良かった! こんなに冷えちゃって...」

 ショールを掛けてくれる。喉もあまり良く動かない。やっとかすれた声が出た。

「...心配かけて...ごめんなさい...。あの...殿下。自分で歩けます」

「そうは思えないな。部屋まで送ろう。まず温まりなさい」

 カナデは『蝶の間』に戻された。ベッドに強制送還だ。セシルが付きっ切りだし、朝食も運んでもらえた。しかしやはり食欲はない。集まってくれた人達に申し訳ないし、抱えて下ろされたのも恥ずかしい。どうせなら、やはり自分から階段でこっそり降りたかった。

 制服のリシュリューが来た。探るような目つきなのが、カナデには申し訳ないし恥ずかしい。

「カナデ、体調はどうだ? またフーシェから依頼があったが、出られそうか?」

「...参ります...」

 ラファイエット国民の内心はどうあれ、カナデの能力が役に立つのなら行きたい。

「無理をするな」

 そう言って彼は出かけた。

 フーシェからは、昨日とは違う市内の病院への出動要請があったようだ。どの病院でも緊急性はもうあまり無いらしい。重傷者の手当やリハビリテーションへの協力だ。朝食もそこそこに身支度をした。

 昨日用意してくれた帽子を目深にかぶり、例の魔法付き眼鏡もかけた。

(この目の色が悪いのか)

 親切なのだがつい僻んだ気持ちになる。無口なカナデを、心配そうな視線でセシルが見送った。この日も見知らぬ騎士に送られた。

 場所がどこなのか、カナデには見当もつかない。門番もいるし、かなり大きな総合病院のようだ。カナデは一人で門の中に残された。事務員らしき男が無言で手招きする。病棟の前を過ぎた。馬車寄せ場や駐車場も通り過ぎる。

「どこまで行くんですか?」

 と声を掛けると、びくっと震えた。返事はない。ちらっと振り返ったが怯えた目付きだった。帽子と眼鏡で色は分からないはずなのに、警戒心がむき出しだ。

 連れて行かれたのは灰色の小さな建物だ。重い鉄の扉を開けた先は、木箱が山積みの倉庫だった。埃臭い。

「え?」

 カナデが戸惑っているうちに、事務員は扉を閉めた。がちゃん、と外から鍵が回る。暗くなった。

「は?」

 試しに扉を押してみたが動かない。やはり外から施錠されてしまった。閉じ込められた。意味がよく分からない。自分は八芒星魔法陣を利用される為に連れて来られたのではなかったのか。念の為に出してはみるが反応はない。

「すみません!」

 何度か扉を叩いてみたが無駄だった。外は天気が良いらしい。倉庫の隙間から陽が漏れてくる。それだけが灯りのようだ。電気は通っていない。上着を着たままだが、それでも少し涼しい。膝を抱えて座りこんだ。何だか全てがバカバカしくなってきた。

(何をやらされているんだ、僕...)

 目を閉じた。失神するように眠りに引き込まれた。

 ごぅん...と音がする。扉が開いた。昼間の光が顔に当たる。カナデは体を起こした。横になっていたのだ。床に直接寝たのであちこちが痛い。眼鏡はいつの間にか外したようだ。帽子も落ちている。もう装着しなかった。付けていてもこの扱いだ。

 眩しさに目を細める。目の前にごん、と置かれたのは缶詰だ。蓋が開き、もはや錆びている。中には泥水が満ちていた。

(え、昼ごはんコレ?)

 朝の事務員だ。扉をまた閉めようとする。カナデは慌てて飛び出した。

「トイレ!」

 彼は無言で傍らの建物を指した。二階建てで白い。窓の並びからすると、入院病棟のようだ。そちらに向かう。事務員が付いて来た。監視目的のようだ。トイレから出て来ても、彼はまだいる。

「僕はどこへ行けばいいんですか?」

 彼は顔を背けた。言葉が通じないのではなく、話をしたくないようだ。

 空腹が過ぎてもはや胃が痛い。夕べからまともに食事をしていないのだ。ふらふらと庭に出た。事務員が無言で付いて来る。

 ささやかな庭園があった。水やり用なのか、蛇口もある。カナデはそこから水を飲んだ。

(どうしてここに居るんだろう?)

 八芒星(オクトグラム)魔法陣を手にして、二人だけ生き残った。それに意味があるのだろうか?

 庭園には数人の患者がいた。散歩中なのか。カナデを見かけると、さっと病棟に引っ込む。そんな中、一人の男性がつかつかと歩み寄って来た。見覚えがある。初日の王立病院で絡んできた男だ。彼は事務員に向かって怒鳴った。

「どうして炭をあそこにしまってあるんだ?」

 倉庫から出たのを見られたようだ。事務員は眉をひそめた。

「勝手に来たんで困ってるんだ」

「ああ?」

 男の声が大きくなった。

「医者の連中が頼りにならないからだろう。うろうろしやがるばかりじゃないか。そんなんだから炭が来るんだ!」

 彼はカナデに向き直った。

「あの時の怪我人がいる。転院してこっちだ。文句を言わせてやるよ。おいジャン、来い」

 カナデは蛇口の支柱に肘を付いて動かなかった。もう口を利く元気もない。

 キイキイと車輪がきしむ。肩から三角巾を吊った少年が車椅子を左手で漕いでやって来た。右の足も包帯で巻かれている。十二歳くらいだろうか。男とよく似た茶色の髪だ。赤らんだ丸い頬が可愛らしい。幼さが残る。彼はカナデを見るなり口を尖らせた。

「何だよ、これが異界人か。言われるほどのモンか。普通じゃないか」

 容姿に似合わない口調だ。カナデはようやく声を出した。

「中禅寺奏って立派な名前がある」

 外国の名前は、やはり一度では覚えにくようだ。ジャンは続ける。

「チュ...? カナ...。医者の先生がお前に手伝ってもらったとよ。せいぜいガーゼとか替えただけじゃないのかよ。お礼なんか期待すんなよ! 俺の治療が上手くいったのは殿下のおかげなんだろう? 言うなら殿下に、だからな!」

「ああハイハイ」

 憎まれ口をたたかれても、相手は子供だ。まともにやり合うつもりはない。それに黒の八芒星魔法陣の存在は口外無用と言われている。

 ジャンは吊られた腕を眺めた。

「俺はパパと同じ職人になるんだ。足は...まあ諦めても...。でも腕は...利き腕なんだ。切らなくて済んだ。本当に良かった。だからな!」

 不意に声が小さくなった。

「...ありがとう...」

 カナデははっと顔を上げた。ジャンはプイと横を向く。頬が赤い。ジャンの父は、ジャンの髪をぐしゃぐしゃと撫でた。

「もう言ったからな。お前も何かあるなら言えよ。生きているからこそ言えるんだろう? この間の威勢の良さはどこへ行った?」

 彼は速足でその場を離れた。ジャンが興味深そうにカナデを見上げる。

「目も黒いんだ。えーとチューゼ?」

「...それでいい。君はジャン?」

「うん。へええ、本当に外の世界から来たんだなあ。触っていい?」

 子供は好奇心の塊だ。恐れよりも興味が勝っているようだ。頭を下げたカナデの髪を数本ひっぱった。ぶち、と抜ける。

「痛いよ」

「あっごめん」

 彼は素直に謝った。手にした髪をしげしげと眺める。

「本当に黒いんだなあ...。チューゼは殿下の家来になったんだろう? 殿下の方が偉いって事だよな」

「そうだね」

 保護と監視と管理。そんな単語で表現されている。家来とは違うが、他からすればそのように見えるかもしれない。

「良かったな。殿下は人気があるんだよ。何たって不良だったのが更生したんだもん。偉いなあって」

「へえ。そんな風には見えないけど」

「今は全然違うじゃないか。そこが偉いんだよ。五年くらい前だって。パパが言ってたんだ。婚約者に振られて一年も外国へ行っちゃったって。そこで飲む、打つ、買う三昧。え~と飲むのは酒で打つのは博打(ばくち)? 買うのは?」

 一般的には不純異性交遊とか買春だが、ここは同性もアリの国。子供相手にソレは言えない。カナデは真面目な顔で言った。

「車とか宝石とか高価な物に無駄遣いをしたんだよ」

「ああ、そうか。きっとそうだ。でも帰国して魔闘士になってからはすごく評判いいよ」

 普段のリシュリューを思い描いて、カナデは首を傾げた。太陽のように美しくて、春風の優しさと穏やかさがある。身分も高い。思わずすがりついた胸板の厚さ。手の感覚がまだ鮮やかに蘇る。

(どこに振られる要素があるんだ? 異界の基準って不思議...)

 パパはまだ戻らない。庭園には先ほどよりも人の姿が減ったようだ。

「ジャンのパパは何の職人なんだ?」

「時計! ラファイエットは時計の技術が超一流で有名なんだぜ」

「へえ~」

 スイスみたいな感じか。ジャンは少しイラついた声を出した。

「そんな事も知らないのかよ。パパは何度も国家工芸賞を頂いたくらいすげえんだぞ」

「そうか。すげえのか。その後を継ぐんだな。がんばれ」

「心がこもってねえよ!」

 カナデは苦笑した。棒読みだった自覚はある。その賞がどれほどの物か知らないし、体調が悪すぎて感心するふりも辛い。それがばれている。

 どことなく騒がしい声が聞こえる。何か怒鳴っている人物がいるようだ。それはどんどん近づく。あの事務員を先頭に、白衣の男女が数人と護衛士のマチアスだった。

「あれ...もうお迎えですか?」

 彼は、青白い顔でぐったり支柱にもたれているカナデを見ると足を速めた。そばに来て腕を取る。

「チュウゼンジさん、顔色が悪いよ。どうした?」

「う~ん、ちょっと辛い」

 正直な申告だ。マチアスの目が丸くなった。

「え、本当に? ちゃんと昼メシ食べた?」

「ううん...さっきまで倉庫に監禁されてた」

 事務員が何か叫んだが、かばう必要は全くない。マチアスはさっとカナデを抱き上げようとする。あわてて首を振った。今朝に引き続いてのお姫様抱っこは勘弁してほしい。

「歩けます」

「そう? チュウゼンジさんの様子次第で連れて帰れって言われてる。帰った方が良さそうだな」

 抱かれはしなかったものの、マチアスが脇に腕を差し入れて支えてくれる。カナデはジャンに軽く手を振って歩き始めた。マチアスが説明してくれる。

「王宮病院の事務から連絡があってさ。ここで患者が猛クレームを入れてるから何とかしてくれ、炭が居るから恐ろしいって。それで確認に来たんだ」

 たまたま近くを回っていたし、カナデを見知っているマチアスが取り急ぎ訪問してくれたのだ。来てくれたのは有難い。しかし炭扱いされていると本人に知らせるとは。それは正直すぎるのでは。

「それ僕に言っちゃう?」

「うん? それで俺が迎えに来たわけだよ」

 マチアスは人が良い。だが少し口が滑りがちのようだ。

「そうだね...」

 病棟を過ぎた。病院の前を過ぎる。ジャンの父が立っていた。カナデと目が合う。彼はぐっと唇をへの字に曲げた。しかしそっと親指を立てた。

(何だ?)

 なぜ庭園を彼がさっさと離れたのか、その時は分からなかった。

 ジャンの父は庭園まで戻った。息子の肩を軽く叩く。ジャンは父を見上げた。

「パパが時計職人だって話をしたよ。チューゼ・カナデって名前だってさ。髪も触った。俺は全然怖くなかったぜ」

「そうか。そうだな。パパも怖くない」

 実はクレームを入れて大騒ぎしたのは彼だ。以前に怪我をさせた詫びと、ジャンの治療へのお礼だった。

 ただの手伝いに異界人を寄越すとは思えない。彼は奥に引きこもって一切姿を見せなかった。さらに王立病院の医師ですら切断するしかないとの判断だったのに、不意にジャンの手足は繋がった。他の重傷者にも同じ現象があった。医師の魔力や技術を越える何かの強い力が働いたのだ。王弟殿下さえ彼をかばった。

(おそらくあの炭には特別な何かがあるんだろう)

 それはジャンに付き添った三日ほどで確信になった。送り迎えにも護衛士が付く。その制服は王宮勤めだと、出入りする彼には分かる。医師たちの出迎えはひっそりながらも丁寧だ。そして彼がやって来ると一気に治療が進み、帰ると普段通りに戻る。

(今日も来ていたとはな)

 そもそもカナデは来るなり倉庫に放り込まれたのだ。患者の目にはほぼ触れていない。監禁され、食事もまともに出されず、よろよろしている姿をちゃんと見たのは彼が初めてだろう。わざと激しい怒りを病院側に見せたのだ。異次元の者を厭うのはあの事務員だけではない。患者にもいるだろう。そこへカナデがいると教えたらどうなるのか。どんどん騒ぎは大きくなる。

 上からの命令でカナデを受け入れたものの、無視で決めこもうとした残念な判断力の病院上層部だ。すぐに音を上げて、総責任者の指示を仰いだ。

 それで状況確認の為に近くにいたマチアスが訪れた。そしてカナデをここから帰すのに成功したのだった。ジャンの治療をして欲しい。しかしもう緊急ではない。異界人の具合は悪そうだった。すぐにでも帰してやりたかった。自分ではどうにもできないからこそのクレームだった。パパは息子の髪を撫でた。

「ジャンの腕は治る。絶対にな」

「うん」

 ジャンは右腕をそっと撫でた。


 

  淡いピンク色は心を落ち着かせる効果があるらしい。『蝶の間』の色彩は柔らかい。ベッドのカーテンを開けて寝転がる。はああ、と息が漏れた。見知らぬ異国のはずなのに、家に帰って来た安心をここで感じられるようになってきた。しかし軽く眩暈(めまい)がする。目を閉じた。睡魔がやって来る。

 使用人側のドアからノックの音がする。静かに扉が開いた。豆茶の香りが漂う。かちゃり、と食器が触れあった。

 はっと飛び起きると、白い服の男が振り返った。コック帽のままのルイだ。彼は白い歯を見せた。

「ごめん、起こしちゃったな。タルトを持って来たんだ。焼きたてだぜ」

 ソファの前のテーブルには金色のトレイがある。豆茶のポットと、カバーのかかった皿も同じ色だ。

「夕べも来たんだけど、もう眠ってたみたいだね。良ければ味見して」

 カナデはすぐに返事ができなかった。労わられている。厳しい言葉の後の優しさは嬉しくもあり、素直に受け取ってもいいのか恐ろしくもある。けれどもルイの声は青い空のように明るい。

「パイの新作も考案中なんだ。食堂で待ってるからね。いつも虫がぶんぶん飛んでいるわけじゃないよ」

「...虫...」

 俯いたままながら、ふっと笑いが漏れた。そうだ、サンドラに賛同していた食堂のメンツはいない。それどころか、妙に人数が少なかった。その場から逃亡していたのだろう。この国の絶対的な身分制度の為に、何か言えるはずがない。

 カナデはようやく顔を上げた。

「...ありがとう」

「こちらこそ。病院への出張、お疲れ様。ゆっくり休んでね」

 彼は手を振って出て行った。

 豆茶をカップに注ぐ。コーヒーに似た馥郁とした香りが満ちる。タルトの甘みと一緒に空の胃に染みわたる。

(美味しい...)

 やっぱり食堂に行こうかな。そう思った時に、殿下側の扉が開いた。

「カナデ、ご苦労。帰っていたね。君は月夜の宝石だ。ちょうど良かった。おいで」

 リシュリューも晴れた空のように微笑む。カナデは急いで立ち上がった。まだ外は明るい。時計を見ても、まだ一瞬で何時か読み取れない。午後三時くらいだろうか。

「今日はお早いお帰りで何より...。殿下におかれましては昼の眩い太陽でいらっしゃる...え~と」

 王族へおかえりなさいの挨拶を何といえば正解なのか分からない。褒められたようだし、やはりこちらからも褒めるべきなのか。迷いながら話してしどろもどろになった。リシュリューは声を立てて笑った。体を傾けてカナデを自室に招く。肩を抱いて唇にキスした。

(...え?)

 あまりにも自然な動きだったので反応ができない。固まっているとまたキスされた。

「嬉しい事を言ってくれるな。今日は早く帰れたんだ。怪我人の対応は目途がついた。それで皇后陛下からご褒美の差し入れを頂いた。俺の真珠にも、という言伝てだ」

 リシュリューの後に続く。寝室を横切る。花の強い香りがした。開けた扉から湯気と凄まじい陽気(ルキデュヤン)が押し寄せた。それだけでくらくらする。そこはまさかの浴室だった。てっきり美味しいお菓子なのかと思いこんでいたのだ。

「ではゆっくりとね」

 背後でドアが閉まった。

 丸い天井は高い。ホテルの大浴場並みの広さだ。シャワーブースと猫脚のバスタブが二つ供えられている。なにより浴槽がちょっとしたプール並みだ。丸くて段差がないタイプだ。全体的な内装はやはりヨーロピアン。そしてお湯が見えないほどバラが敷き詰められていた。もうロマンが溢れすぎだ。

(......ここで入浴するのか...今から...)

 脱衣スペースは浴室の中だ。もうカナデの着替えが棚にセットされている。壁のハンガーにはサイズ違いのバスローブ。すきっ腹に風呂はきつい。リシュリューはとても親切にしてくれるのだが、カナデの意向を汲んでいるのか疑問になる。身分のせいなのか。

(浸かるだけにするか...)

 取り敢えずざっとシャワーを浴びた。浴槽の縁に腰をかけて足を付けた。陰の気(ルキデュイ)を出そうとしたが、上手くいかない。強すぎる陽の気(ルキデュヤン)に空腹が負けている。

(もう出よう)

 そう思ったのに。

「どうだ?」

 リシュリューの声だ。振り返ると全裸の彼がそこにいた。カナデは硬直した。いきなり混浴か。いや同性だが。湯気にけむるリシュリューは動くギリシャ彫刻のような体躯だ。肌が白く輝く。あまりの美しさに圧倒されてしまった。

 つかつかと歩み寄って来た彼は、そのままドボンと浴槽に入った。カナデのすぐ隣だ。バラの花弁が飛び散る。そのまま縁に両肘をついてカナデを見上げた。

「姉上のバラ園から頂いたものだ」

「は、はい...素晴らしいお花で...」

 少し眩暈がしてきた。しかし、ちゃんとリシュリューに話をしなければならないだろう。

「殿下、こんな場所なのですが...。今朝はお騒がせして申し訳ありません」

「本当だ。俺にあんな言葉遣いとは。不敬罪だぞ」

 言葉とは裏腹に彼の口元は笑っている。手を伸ばしてカナデの頬を人差し指の背でそっと撫でた。

「さてどんな罰がいいかな。そうだ、屋根に出た理由を話せ」

 カナデは項垂(うなだ)れた。言いにくい事ではある。しかし心配や迷惑をかけてしまった。視線を花に落としたままで呟くように声を出した。

「...ここで生きている意味が分からなくなったんです。それで高い場所から飛び降りたら、あの十二人と同じ所に行けると思って塔に昇りました。でも」

 もじもじと脚で花をかきまぜた。一層香り立つ。

「...いざとなったら怖くて...動けなくなってしまったんです。私は弱いんです。意気地なしです...」

 リシュリューが湯から出た。カナデの隣に座る。

「それなら弱さに感謝だな。俺は君を失わずにすんだ。病院はどうだった? 八芒星(オクトグラム)魔法陣を使われるのが嫌だったのか?」

「いいえ。お役に立てるのなら行きます。でも今日の病院では何も」

 自分の声が遠くなる。別の人が話しているようだ。しかも景色がみるみる小さくなり、点になって遠ざかる。固いはずの浴室の床がぐにゃりと沈んだ。そしてカナデはそのままつんのめるように倒れてしまったのだった。

 体が重い。体の前を白い八芒星(オクトグラム・ブラン)魔法陣が流れたようだ。目を開けると四角い天蓋ベッドの上だった。『鷹の間』で寝かされている。素肌にバスローブということは、リシュリューが運んでくれたのだろう。

(殿下に全裸見られた...)

 初めてではないが、あの完璧な肉体に比べたら貧弱すぎる。気恥ずかしい。

 ベッドにフーシェ閣下が座っている。傍らにはいつもの助手だ。少し離れてリシュリューが立っている。彼もバスローブ姿だ。

「ああ目が覚めたね」

 八芒星(オクトグラム)魔法陣はフーシェが出したようだ。

「チュウゼンジは湯あたりと陽の気の過剰摂取だね。減弱治癒をしておいたよ。気分はどうかな?」

「悪くありません」

「薬はちゃんと飲んでいるかな? そうだ、もっと服用しやすいタイプにしておこうね。体調が悪かったせいかな? 今日は病院で八芒星(オクトグラム)魔法陣が出せなかったらしいね」

「えっ、確かに出せませんでしたが!」

 カナデは思わず半身を起こした。言いつけるようで少し気が引けるが、あのような扱いを受ける謂れもない。フーシェに制されてまた横たわる。すかさず助手がやって来た。枕を整えてくれる。体を起こすのに楽な角度だ。

「行くなり倉庫に一人で隔離されたからです。昼まで誰とも話していません」

 いつも無表情の助手の頬がぴくりと動いた。フーシェはにこやかなままで尋ねる。

「誰とも? ふん。それで昼食はどうしたかな? 今のチュウゼンジ君は胃がほぼ空っぽのようだけど」

「床に泥水入りの空き缶を置かれました」

 リシュリューが腕を組んだ。

「カナデ。それは本当なのか」

「はい。昼に倉庫から出たところを、患者さんに見られて騒ぎになったようです」

 フーシェの目が細くなり、頬がぴくりと震えた。その変化に気が付かずにカナデは続けた。

「あんな扱いを受けたら...治療を待っている患者たちはどうなるんですか? 王立病院にいた子供と会いました。まだ車椅子でした。足と腕を切らなくて済んだって...。でも治療の途中なんでしょう? そういう人達の為に行ったはずですよね?」

 助手が片手を挙げた。しかし急いで下ろす。目がきょろきょろとカナデとフーシェを行き来している。閣下の頬が少し赤いようだ。そしてリシュリューはあからさまに口をへの字に曲げていた。二人とも高い身分だ。さすがに言い過ぎたのかとカナデも気が付いた。

 リシュリューはとんとん、と腕を指で叩いた。

「フーシェ、どういう指示をした?」

 低い声で呼ばれたフーシェは額をこすった。

「確かに人目につかないように隔離せよ、と指示は出しました。まだ異界の民は世間的に認知されておりませんし、黒の八芒星オクトグラム・ノワール魔法陣を隠さねばなりませんからな。しかし...そんな話は...。チュウゼンジ君、倉庫に医師はいたのかな?」

「いいえ、誰も。木箱ばかりです。鍵も外から掛けられましたし、誰とも会話していません」

 はああ~とフーシェが大きくため息をついた。

「とにかく何か消化の良い物を少し胃に入れた方がいいね」

 リシュリューが肩をすくめた。顎で壁の内線電話を示す。厨房の番号を告げた。助手がすかさず受話器を上げた。厨房と打ち合わせをし始めたようだ。フーシェがまたため息をついた。

「チュウゼンジ君、それが真実なら大変な事だ。君を使いたいと申請をしたのは私で、許可を出されたのは殿下なんだよ。つまり君にぞんざいな扱いをするというのは私や王室への反逆」

「えっ。それって」

 大事である。大げさな、というのはカナデの国の発想だ。この国は違う。だからこそ助手が慌てて止めようとしたのだろう。

「ことに王室への反逆は大罪だ。最高刑では死をもって償うんだよ」

 ここでは身分制度がそこまで厳しいのだ。人の命に関わるようなら、もう少しマイルドに伝えただろう。だがもう遅い。助手から軽食の報告を聞いていたリシュリューが戻った。フーシェが立ち上がる。深々と腰を折った。

「殿下、失態をお見せして誠に申し訳ございません。汗顔(かんがん)の至りでございます」

「全くだ。指導を徹底するように」

「はい。肝にしっかりと銘じます。お許しが頂けるのであれば、再度チュウゼンジをお借りしてよろしいでしょうか? あの病院は重傷者の手当が遅れておるのです。王府の民においては、広く公平に手当てを受けさせたくお願い申し上げます」

 閣下と呼ばれる者が深く頭を下げている。リシュリューが頷いた。

「明日はきちんと対応するように。そのうえでカナデが良いと言うなら許す」

「はい。寛大なお言葉、深く感謝いたします」

 二人のやり取りを聞きながら、カナデはまた軽く眩暈を覚えた。身分制の厳しさを改めて知った。平民で異世界から来たカナデは、王宮の所有物扱いで貸し借りされる存在なのか。

(ジャンの言う通り『家来』の方がマシかも)

 流されるままだったカナデが、異世界で初めて立ち止まった瞬間だった。リシュリューとフーシェにじっと見つめられている。カナデは拳を握りしめた。強く頷く。

「参ります」

 短いながらもきっぱりと勢いのある声だ。リシュリューが少し目を見開いた。そして優しく微笑む。

(何でそういう顔をするんだよ...)

 ただの『家来』だと思えなくなってしまう。

 フーシェと助手が去った後、リシュリューはまた浴室へ向かった。すぐに軽食が運ばれた。加えて黄色のキャンディが小皿に乗っている。鉄剤とビタミン剤だ。どうやら錠剤が飲みにくいとフーシェに判断されたようだ。お菓子タイプに変更された。やはり子供扱いだった。

 胃を満たしたら、すぐに眠りに落ちてしまった。半分覚醒しているような中途半端なまどろみだ。少し意識があるような感じで、夢を見ている。

 カナデは一人で暗闇に立つ。数歩だけ進めば明るい風景が広がる。カナデの家の近所だ。天気も良くて道路の反射が眩しい。

 ...あ、帰って来たんだ...

 そちらへ進む。角をもう一つ曲がれば自宅だ。道路の向こう側からよく知る顔が歩いて来た。両親と二人の姉だ。彼らはにこやかに手を振る。母が言った。

『遅かったね。今日の晩御飯は......よ』

 よく聞き取れない。

『これから......するからね』

 また分からない。

「母さん、もう一回言って。よく聞こえない」

 小走りに駆け寄った。しかし透明の壁でもあるかのように、一定の距離から近づけない。それでも家族は明るく笑っている。

「母さん、父さん、姉さん!」

 思い切り叫ぼうとするのに、喉が詰まる。不意に目の前に血が飛び散った。吸い込まれた時に見た光景だ。遥か足の下だったのが、すぐに目前が赤く染まる。

 そして懐かしい光景はみるみる遠ざかった。周囲全てが闇に包まれる。体がぐらりと揺らいだ。足元に地面を感じられない。

(落ちる!)

 悲鳴さえ出せない。恐怖ですくむ。幾つもの光が体の周囲を舞った。戸惑うばかりだ。

 がっしりとした腕に抱き止められた。温かい。優しく体を包み込んでくれる。体から力が抜けた。一気に様々な感情がこみ上げる。家族や友達への思慕や落下の恐怖、この世界で受けた暴言など。

 ひく、と喉が鳴った。鼻の奥がツンとする。涙が溢れた。ぐすぐす、と情けない音がしてしまう。こらえようとして、ぐう、などさらにひどい声が出た。

 ...夢だよ、ただの夢だから大丈夫...

 耳元で優しく囁くのはリシュリューの声だ。甘くカナデを満たしていく。

(そうだ、夢だ...それなら今だけでもいいや...)

 カナデは自らの感情のままに静かにすすり泣いた。+


  ツヅク! Ⅱ-Ⅲ ロウタの不穏 そしてバラのお風呂の真実は

お読みいただきありがとうございます。


やっとやっとやっと! 新パソコンが降臨!!

設定一日がかり! でも終わった!


さて本編。いろいろと不穏です。

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