ⅠーⅢ 魔法の世界で事情聴取 そして王弟殿下のレクチャー
王宮での日常が始まる
ⅠーⅢ 魔法の世界で事情聴取 そして王弟殿下のレクチャー
翌日の朝も快晴だ。
カナデはロザリーと使用人の控室から『蝶の間』を出た。この日の当番は彼女だ。一人で食事をするのが淋しい、とカナデが言ったら一緒に食べましょうと言ってくれたのだ。狭くて飾り気のない廊下だ。ここは使用人専用で、部屋から部屋へ素早く移動できる。壁のあちこちに鈴が下がり、どこの部屋が鳴っているのか分かるようになっていた。
二人の女性の使用人がやって来た。リネンの入ったカートを押している。ロザリーに笑顔を向けたが、すぐに口をぽかんと開けた。カナデのせいだ。
「え? 髪をどうしたの?」
もう一人が彼女を突いて耳打ちした。声がしっかり聞こえてしまう。
「殿下がお連れした異次元の。あれ本物だって」
「え! 炭でも塗ってるのかと」
ロザリーが笑顔ながらもぴしゃりと言った。
「あら、はしたない。聞こえていますよ。噂話は人のいない場所でしなさいな」
若い二人はあわてた様子で頷いた。ぎこちない笑みを浮かべて足早に去った。
「あんな事を言って大丈夫なんですか?」
自分の為に言ってくれたのだが、彼女たちとの関係が悪くならないだろうか。
「仕事場なりの作法がございます。チュウゼンジ様はご心配なく。彼女達はまだ経験が足りないのです」
ロザリーが鷹揚にフォローする。しかし通りがかった者は、みな一様に目を剥く。それほど黒髪は珍しいというか、初体験なのだ。
(鎖国時代の日本に漂着した外国の人ってこんな感じだったのかな)
などと思うカナデだった。しかしロザリーが言った通りに、すぐに彼らは平静を取り戻すのだった。さすがは王族の住居である。使用人たちは自らの感情を隠すのに長けている必要があるらしい。
リシュリュー宮の台所に到着した。大型レストランやホテル並みの厨房だ。ガスコンロやオーブンが主体だ。炭が燃える竈もまだ使っている。調理場の横には小さなホールがあった。使用人たちの食堂も兼ねているようだ。大きなテーブルが幾つかあった。
もう彼らの食事のピークは過ぎているようで、あまり人はいない。食べ物は大皿に盛られてある。ロザリーがてきぱきとカナデの分も用意してくれた。飲み物は幾つかのピッチャーから注ぐ。やはりコーヒーは無い。豆茶というのが少し焙煎した豆の匂いがする。それを飲んでみたが、味も色も紅茶に近いようだ。
みんな遠巻きだ。セシルやロザリーのような茶色や栗色の髪が多い。何となく静かだ。大柄なコックの一人が傍に来た。タルトが二つ乗った皿を差し出す。
「異次元のお客さん、これもどう? ロザリーさんと食べて。俺はルイ」
「ありがとう。中禅寺奏です。チュウゼンジが苗字です」
彼はしげしげとカナデの髪を見た。それから数本をつまんで擦った。
「本物かあ!」
「...です。僕の国ではこれが普通です」
「へええ。チュウゼンジ君は今『蝶の間』にいるんだって?」
「はい」
頷くと、ルイはぽんと手を打った。
「そうか! なかなかご結婚されないと思ってたが、ついに!」
危うく飲んでいたお茶を噴き出す所だった。激しくせき込んだ。やはりあそこは夫婦の間だった。しかし伴侶として連れ込まれたわけではない。ロウタから離す緊急避難だ。
「ほ、保護と監視の為って殿下がおっしゃってました!」
居合わせた侍女が笑った。
「まあまあ。そういう事にしておきましょうか」
笑いが起きた。ロザリーが顔をしかめたが、カナデも苦笑いするしかない。しかしその発言をきっかけに雰囲気が和んだ。皆賑やかに喋り始める。きっとこれがいつも通りなのだろう。
「どもーっ!」
威勢の良い声がする。木箱を積んだ台車が戸口に現れた。業者の納品らしい。箱の横に赤いマークとチボー物流と印字がある。配達員は職員らと顔見知りらしく、軽口を叩きあっている。こちらの世界にも、あちらと同じ光景があった。
口に運んだタルトは甘酸っぱくて美味しかった。
その頃、王宮内にあるシンプルな棟にリシュリューがいた。魔闘士団の本拠地だ。執務室は広い。奥の壁を背にしてリシュリューの机がある。手前の応接用ソファはオフホワイトの革製だ。
「ディミトリ、君はチュウゼンジを疑っているのか?」
「そうは言っていない。本人が知らないうちに妖狗に利用されているかもしれないと心配しているんだ」
妖狗が暴走した時にカナデが現れた。昨日の墓所でもそうだ。もし妖狗と繋がっているのなら宮殿に置くのは危険だ。しかも王族の私室とは危機意識が低いとディミトリは思う。
「グリフィスは『落とし前をつけろ』と言ったそうじゃないか。ラファイエット王国が奴らに何かしたのか? 何もしていない。それなのに襲撃をかけるとはおかしいぞ」
「それは確かに...」
「あまりチュウゼンジに構うな。それより友人としての忠告だ。早く彼をそれなりの場所に移せ。それからさっさと結婚しろよ」
「大きなお世話だ。もう一人伴侶を増やせと言われたら君はどう思う?」
「君とは立場が違う。子供も二人いるんだぞ。今更もういいよ」
ディミトリはリシュリューと同じ二十五歳だ。しかしすでに五歳と三歳の子供がいる。ラファイエット王国では結婚が早い。特に貴族出身が多い魔闘士は、十八歳で上級士官学校に入学して二十歳の卒業と同時に結婚する者が多い。多夫多妻制度の国だが愛妻家のディミトリは奥さん一筋だ。
「殿下、いつまで彼女にこだわっているんだ? もう五年も前の話だろう」
「こだわっていない。縁が無かっただけだ」
「縁談を断り続けているじゃないか」
士官学校を卒業と同時に縁談が公爵家から持ち込まれた。婚約したのだが婚姻には至らず破局したのだ。その後はあちこちから令嬢を紹介されても、彼は首を縦に振らなかった。同性婚も普通なので令息との縁談もあったが全て断った。
「やはり彼女に断られたからだろう」
「まあね。そう言えるかもしれない。でも彼女に未練があるわけではないんだ。もう聞かないでくれ」
「じゃあ聞かない。だが陛下にはお世継ぎがまだいらっしゃらない。側室を迎えるのにも良い返事が無いし」
「兄上は皇后陛下にベタ惚れだからなあ」
正妃に世継ぎがいなければ側室を迎えるのがセオリーだ。だが国王はまだ早いと拒んでいる。
「だからこそ、君も結婚した方がいいだろう」
二人の言い合いは平行線だ。
魔闘士団員が顔を出した。
「研究班の方々がいらっしゃいました」
ディミトリとリシュリューは立ち上がり、会議室へ移動した。すでにロジェ・デマレをはじめとする魔闘士研究班の面々が揃っていた。資料が配布される。
「さっそく聞こうか。デマレ研究班長」
リシュリューの指示でデマレが口を開いた
「次元が裂けた件からです。やはり妖狗の大量飛来とグリフィスの強大な力が原因と思われます。過去の文献に数回の類似事件がありました。過去の事件でもやはり被害者は出ておりまして、全員が死亡。次元を超える時に凄まじい圧力がかかるようです。生存者がいる今回が特殊です」
「こちらから吸い出された者は?」
「いません。魔法陣の効力でしょう。魔闘士がいたのは幸いでした」
デマレは資料を示した。
「被害者の状況です。先に落下した者ほど激しく身体が損傷しています。しかし後になるほど被害が少なくなるのです。最後から二番目のロウタ・コマツは擦過傷と打撲の軽傷のみで、最後のカナデ・チュウゼンジに至っては外傷がありません。着地の際にも衝撃が無かったものと思われます。
また黒の八芒星魔法陣が見えたのは落下事象の最後に近かったそうですね、コリニー長官」
ディミトリは頷いた。それが見えてまもなく落下事象が収まったのだ。
「そうだ、デマレ研究班長。二つに分かれて、どちらも消えた」
「そこで」
デマレは身を乗り出した。
「実に興味深い事です。コマツは異次元の波動を持つが魔法陣を持たない。チュウゼンジの波動能力は未確定です。また魔法陣を持つものの自分では発動できない」
「どういう意味だ?」
「推論ではあります。チュウゼンジはグリフィスからどうにかして黒の八芒星魔法陣を得たのでしょう。ただ神獣の魔法陣です。人間が持てるシロモノではない。それで自らの波動能力を総動員しても保持するのが精いっぱいで、発動はさせられないのかもしれません」
例えるならば最大威力の武器を手に入れた。しかし動力が無い。動かすには他から補充が必要だ。セシルやフーシェがチャネリングして使った白の魔法がその役目を果たしたのだろう。ただカナデの魔法陣の力が強大すぎる為、効果が強烈になってしまう。
ディミトリが言った。
「チュウゼンジはグリフィスと取引したという事か?」
「それは本人に確認しないと」
「昨日もグリフィスが出現した。『仲間』に呼応したのならまた来るだろう。彼を王国に置いておくのは危険だ」
リシュリューが手を振った。
「強大な武器でもあるんだろう? 国外に出す方が危険だ。ここで保護した方がいい」
デマレも頷いた。
「私もそう思います」
また団員が顔を出した。
「シモン・メーストル副長官とカナデ・チュウゼンジが来ました」
カナデは朝食の後、シモンに呼ばれてやって来た。王宮の敷地は広いのでカートで移動だ。カナデは腰縄付きで木製の手枷を掛けられていた。すごく済まなそうな顔でシモンが縄の端っこを持っている。
リシュリューは音を立てて立ち上がった。
「シモン、何をしている? はずせ!」
「はい殿下」
そう返事をしつつも、ちらっとディミトリを見る。長官である彼の命令らしい。リシュリューは王族らしからぬ舌打ちをした。
「総帥の私がはずせと言っている。チュウゼンジの能力はチャネリングなしでは発動しないそうだ。緊縛など無意味だ。そもそも彼は被害者で客人だ」
ディミトリが片手を挙げた。公的な場所なので立場に応じた話し方だ。
「殿下。お言葉ですが彼の身分はまだ確定ではありません。危険性は否定できないのです」
カナデが言った。
「別に付けていても構いません」
一同の視線が集中する。
(あ、発言しちゃまずかった?)
上層部の会議だ。日本でも不規則発言は歓迎されないものだ。しかし自分のせいで会議が紛糾するのは避けたい。できれば早く解放されたいのだ。手枷はびっくりしたが、デザインがカナデから見たらアンティークな感じだ。むしろ目新しい。すぐに外してくれるのなら付けてもいてもいい。それでディミトリが安心するなら仕方がない。
はああ~とディミトリがため息をついた。
「そうですね。無意味だ。シモン、外してやれ」
カナデよりもシモンがほっとした顔になる。この年かさの副長はカナデに同情的らしい。
擦れて少し赤くなっている手首をさすっていると、リシュリューの心配そうな目とぶつかる。あのオパールの瞳だ。柔らかい笑顔で軽く頷く。まるで安心してもいいよ、と告げられたようだ。こんな場所なのにドキッとしてしまう。手で座るように指示される。後ろにシモンが立った。
ディミトリが聞く。
「君は吸い込まれた際、妖狗達と何か話をしたか?」
「話というか...こちらから声をかけました」
「何と言った?」
「正確には覚えていません。会いたかったとか、かな? 前に家で飼っていた犬かと思って」
「君はやたらにグリフィスを犬と言うが、神獣だぞ? 奴は何と答えた?」
「返事は無かったです。吠えていました。黒い光を触ったらつかめたので引っ張りました。後は記憶がありません」
まだ翻訳陣が無かった。取引ができるはずがない。リシュリューは横目でディミトリを見た。彼もそれに気が付いたのだろう。ちょっと面白くなさそうに顎をこすった。
「あの、僕の荷物はどこにありますか?」
カナデの問いにデマレが答えた。
「研究室に保管してあるよ。機械は外見からすると壊れてないみたいだが動かない。コマツの物とはとても似ている形だけど少し違うね。用途は同じかな? 何に使うのか教えてくれる?」
「通信機器です。専用の電池と電波が必要なので、ここでは使えません」
「電波を使うんだね。ラジオみたいな?」
「う~ん。あまり詳しくは無いですが、そんな感じ?」
スマートフォンとワイヤレスイヤホンがバッグに入っていたはずだ。破損は無かったとしても、とっくに電池は尽きている。保存した写真さえ見られない。カナデは俯いた。何となく指をもじもじといじる。こんなに長くスマホをいじらないのは人生で初めてだった。
「安全性が確認されるまでは預かる。衣類の一部は後で返すよ。あ、私は研究班班長のロジェ・デマレだ」
アナログ電話さえ、この世界では最先端の技術のようだ。異次元の器機は得体の知れないシロモノなのだろう。本当に体一つでここへ放り込まれたのだな、と思うと切なかった。
「靴は要りません」
「へえええ、コマツは持って帰ったよ。変わった素材だよね。じゃあ研究班でもらうよ。調べたい」
「どうぞ」
布の他に合皮も使われている。ここには無い素材だ。調べられるのに異論はない。ディミトリが軽く咳払いした。
「チュウゼンジ、君をここに連れて来たのは事情聴取の為だ。コマツからの情報を確認する」
「はい」
「家名はチュウゼンジ。名前がカナデ。十八歳。...こちらの暦では十七歳だな。ニホン国の首都トーキョー出身。身分は中産階級の子息である。絵画美術を勉強する上級学校へ進んだばかりで間違いないな」
翻訳陣は言語を訳すが、内容まで説明はしてくれない。微妙に違う気もするが、ほぼ合っている。
「はい」
「コマツと逢引き中に」
「違います」
間髪入れずにカナデが否定した。上層部の顔色など構っていられない。誤解されたくないのだ。ディミトリは片方の眉を跳ね上げた。遮られたのが気に入らないらしい。先ほどよりも声が大きくなった。
「...コマツと会っていた時に、異次元落下事象に巻き込まれた」
それも微妙に違う。逃げるのを追いかけてきたのだ。しかし逢引きよりはましだ。カナデは声を飲み込んだ。ディミトリはロウタからの聞き取り内容の確認を続けた。しかしロウタもさほどカナデの個人情報について詳しい話を知らない。家族などの個人情報よりも妖狗との繋がりが重要視されているようだ。もちろん関わりなどない。すぐに終わった。
だが聴取はまだ続く。
「記憶を取り出して検証する。国外と繋がっていないかなど確認が必要だ。コマツの分は済んでいる」
その為にはカナデの記憶を取り出して装置に記録する。いかにも魔法のある国らしい。
カナデは上目遣いに彼を見た。自分はむしろ被害者だ。記憶は個人情報の塊である。しかもトイレや風呂など覗かれるなど真っ平だ。無言の拒否だ。睨んだつもりはない。しかしこの世界には存在しない黒い瞳に圧力を感じたのだろう。ディミトリはすっと目を逸らした。
しかし逆にリシュリューは身を乗り出した。
「大丈夫だよ。ここ一か月ほどの記憶でいい。内容は選んで取り出せないが、閲覧はフィルターを掛けられる。君の記憶に該当の言葉がなければ、何も見られないよ」
これは事情聴取だ。本来なら有無を言わせずされる事なのだろう。それにカナデが黙っていれば膠着状態が続くだけだ。ふう、とため息が勝手に漏れた。
「分かりました」
では、と動こうとするディミトリをリシュリューが制した。
「デマレにやってもらおう。記憶取得のスペシャリストだ」
「そうですね」
ディミトリは立ち上がるデマレに忠告した。
「彼の魔法陣に気を付けろよ。フーシェ閣下の報告書を読んだだろう? 増幅力が半端ないらしい。もし出現したら囁くくらいの魔力でいい」
「ほほう。それは楽しみですな」
研究班の面々が動いた。大きな木箱を用意する。中は空だ。蓋に手のひらサイズの機械が付いている。デマレがカナデに説明してくれた。
「これが記憶用のレコードボックス」
「空ですね?」
「いやいや、魔法がかかっているよ。魔力がある者なら見えるんだ。この中に君が見たり聞いたりした事柄を一か月分吸い込む。ただのデータ、記号みたいなものにしてね。それで蓋の部分がデコーダー。読み込み装置だね。ここに検索したい事柄を登録して内容を復元する機械だ。映像と音声を再現できる」
地球には存在しない装置だ。魔法があればこその機械である。
「......トイレとか見られたら嫌だなあ...」
「大丈夫。そういうシモ方向及び夜の営み系は最初から読み取れないように暗号化しているから。特別な事情がある時のみ解除するんだ」
まだ不安そうなカナデに、デマレは晴れやかな顔を見せた。
「大丈夫。実は、再現の実験台が若い頃の私でね。どれほど研究班に披露したか。トイレの方はちょっと辛かったね」
「そうでしょうね...」
「でも夜の方は連れ合いもノリノリで協力してくれたよ。どうやったら上手く暗号化できるか検証しなくてはならないだろう? 幸い私には男性伴侶も女性伴侶もいるからね。どちらもじっくり記憶に残したよ。さらに何度も何度も、色々な方向から工夫して頑張ったもんだ。時には複数でね...」
そこまで聞いていない。殆どセクハラである。
(そこで何で楽しそうに語る?)
硬直したカナデだった。デマレははっと言葉を止めた。
「子供相手にはマズイな。いやでも成人済だったね?」
この国の成人は十六歳だし、日本は十八歳。どちらにしても成人だ。
「そうです! ただ...夜のハナシは個人的な事なので...普通は話しません」
「へええええ。愛し合う同士なら当然の行為だろう? 皆で報告しあったりするよ」
さらにカナデは固まった。日本もかなりオープンになったとはいえ、真っ昼間から話題にはしない。恋愛に関してはかなり緩いというか、自由なお国柄のようだ。
「ソレはとにかく、努力の末の結果を信じていいよ」
「......はあ...」
カナデの隣に座る。
「始めるよ」
データを記号化するので、多少の時間が必要らしい。だが期間と記録時間は比例しない。さほど時間はかからないそうだ。白の八芒星魔法陣が頭上に光る。カナデは落ち着かない気分だ。膝に置いた手を眺める。ぞわり、と皮膚の内側を撫でられるような感覚が湧いた。始まったらしい。記憶の取り出しは、相手の同意のチャネリングなしで可能のようだ。
(犯罪者みたいで嫌だなあ...)
カナデはそう思いつつも黙って座っている。
魔力のないカナデには、何がどう動いているのか見当もつかない。室内の面々は厳しい表情だ。研究班はレコードボックスとデマレの魔法陣を見比べながら何かをせっせと書きつけている。時計の音ばかりが響く。ふと頭上の八芒星を見た。個人の名前が装飾的な文字で刻まれている。まじまじと見たのは初めてだ。夕べも見た美しい光の円と同じ白だ。だが幾つかのエレメントに光がない。中央の陽の印の光が点滅する。シュリューよりは小さくて弱い。
(殿下の光って強くてきれいだな)
自分を見つめるあの瞳を思い出す。彼の魔法陣も完璧な光で美しかった。胸がキュンと締め付けられる。途端に黒の八芒星が出現した。自分では統制できない。デマレの魔法陣と合わさった。重なりあう魔法陣が激しく輝く。周囲が白い闇に包まれた。
数秒後、リシュリューとカナデ以外は頭を抱えて床に伏せていた。リシュリューの魔法陣も現れていた。黒の威力を知っている彼は、咄嗟に魔法陣を出してカナデの力を抑えたのだ。
「デマレ、大丈夫か? 溢れた分は私が引き受けている」
一か月分だけのつもりが、物心ついてからの全てをデータとして取り出してしまった。当然ボックスには収まりきらない。それを今はリシュリューが受け止めている。
デマレも頭を抱えていた。しかしすぐに首を振った。少し上ずった声だが、何となくはしゃいでいる感じもある。
「うわ~すごい! 殿下、私は大丈夫です」
カナデはきょとんとしているだけだ。一同は改めて黒の八芒星魔法陣の威力を目の当たりにして呆気に取られている。平然としているのは、それを経験しているカナデとリシュリューだけだ。
いち早くディミトリが我に返った。軽く咳払いをする。
「き、記憶の取得はできたようだな。チュウゼンジはこちらの暦では十七歳で成人済には違いない。処遇は未定だが、社会人として役割は必要になるだろう。何か希望はあるか?」
すぐには答えが出なかった。ゆっくりと言葉を選ぶ。
「まだ...何も考えられません。ただデザインの勉強を始めたばかりだったので、できる事なら続けたいとは思います」
教育制度がまるで違う。今までに覚えた美術の歴史も画材の使い方も全く使い物にならないだろう。おまけにカナデはパソコンでデザイン画を描いていたのだ。それでここでは何かできるのか。今の時点ではただの願望だと分かっている。それが切ない。
リシュリューはシモンを指で呼んだ。
「チュウゼンジを部屋に戻してくれ。記憶の精査をする。腰縄と手枷は不要だ」
自分の記憶をどのように見るのか。アルバムのようならちょっと見てみたいななどと思っていたカナデだが、参加はさせてもらえないようだ。
「はい」
シモンの額にもまだ冷や汗が浮いていた。少しうろたえているらしい。視線が左右にきょろきょろ動く。カナデと一緒に会議室を出た。それでも言葉は優しい。
「手枷は痛くなかったかい? 少し擦れてしまったようだね」
「大丈夫です」
「何か不都合があったら、すぐにお付きの者に言うんだよ」
「...はい...」
心が弱っているようだ。優しくされると何だか泣きそうだった。
再びカートに乗った。芝生の中のレンガ道を行く。花が彩るアーチを何度かくぐった。邸宅と呼ぶには大きすぎるお屋敷や庭園が点在する。そこで働く人々がいる。
リシュリュー宮は四階建てで塔が二つあり、眩く白い。玄関前の噴水を回った車寄せでは白髪頭の執事とセシルがお出迎えだ。ロザリーと交代したようだ。彼女の顔を見るとほっとする。
リシュリューの私室『鷹の間』は三階が入口だ。その前にも護衛士がいる。扉を開けてもらって中へ入った。すぐにホールで、さらに上階へ上がる螺旋階段がある。
(どれだけ広いんだ)
応接室と書斎を抜けるとやっとリビングルームだ。こちらにも応接セットがあり、カウンターバーまである。更に奥が寝室だ。『蝶の間』と同じく天蓋ベッドだがこちらは四角い。内装は落ち着いたオフホワイトと淡い緑で、いかにも若い男性の部屋という雰囲気だ。自由にして良いと言われてはいても、やはりひと様の私室である。大人しく奥のピンクの『蝶の間』へ戻った。
使用人控室に一度引っ込んだセシルが、すぐにお茶とクッキーを持って来てくれた。ソファにへたりこんだカナデの前に置く。やはり気疲れはした。
「お疲れ様です、カナデ様」
「ありがとう。セシルも一緒にどう?」
「いいえ。私は使用人ですから、ここでお茶を頂くなど不遜です」
「僕もただの庶民だよ。様を付けないで欲しいな。話し方も普通にしてくれる?」
セシルは春風のように微笑んだ。
「では二人の時にはそうしましょう」
敬語を使ってしまってから、軽く口を押えた。ここでは敬語が普通なのだ。身に沁みついているのだろう。
「さっき研究班から洋服の一部が届きました。箪笥に入れておきましょうか?」
「...うん...」
セシルが衣類を抱えて来た。落下当時の服だ。きれいに洗濯とアイロンがけがしてある。日本ではごくごくありふれた少し細身のデザインだ。しかしこちらのゆったりした流行とはまるで違う。着る機会は限られそうだ。それにバッグとチノパンがない。
「デマレ研究班長がまだ調べたいそうですよ。えっと、自動で開け閉めできる装置が装着されているって」
「は?」
共通する機構といえばファスナーくらいか。百年ほど技術が遅れているラファイエットにはまだ無さそうだ。しかし自動ではない。
(好きなだけ調べてくれ...)
カナデは聞いてみた。
「町に出かけてみたいけど、できるかな?」
「まだ無理ですね。許可は出ていないの」
少し考えた。それから、ぽん、と手を打った。
「リシュリュー宮をご案内...案内しましょうか。塔の上はとっても景色がいいの!」
「見たい!」
二人はまたすぐに部屋を出た。時々使用人たちとすれ違う。軽く頭を下げてお互いすれ違う。観光地の大ホテル並みの人数が働いているようだ。さすがは王家の城だ。まだ旅行に来ている感覚で、別世界へ来た実感が今一つ希薄だ。
四階建てのリシュリュー宮は、これでも国王が住む王宮に比べてかなり小ぶりらしい。しかし施設は充実している。舞踏会ができるホールはもちろん、高級スイートルーム並みのゲストルームだけでも八室ある。
半地下のフロアは従業員用のエリアだ。洗濯室や倉庫などはもちろん、住み込みの侍従らと、宿直当番用の部屋も複数ある。彼らが使う二十四時間経営の売店すらあった。理髪店はリシュリューの為だが、使用人たちも利用可能だ。ロザリーのように看護師が常駐しているのは、簡易な医務室があるからだ。
「ここだけで暮らせそう」
カナデの言葉にセシルが頷く。
「そうね。リシュリュー宮自体が小さな町みたいなの」
二人は図書室へ行った。新聞や『市民便覧』なども置いてある。市内で生活するにあたって必要な事項が書かれた物だ。
(外で暮らすようになったら必要だな)
ここで通貨の説明に目が一瞬点になった。呼称がエンなのだ。記号は半円にダッシュがついたようなデザインだ。
(絶対に円じゃない!)
おそらく翻訳陣がていねいにカナデの知識に合わせてくれたらしい。乗合馬車の料金が一回五百エン。列車の初乗り料金が二百エン、ゴミ捨て料金が一回百エン。生活に必要なこまごました金額を知る事はできた。それが日本と比べてどの程度の物価なのか、八進法との兼ね合いがどうなっているのか。カナデは考えるのを放棄した。
壁には大きな地図が貼ってある。ラファイエット国はコンドアナ大陸のやや西よりの中央だ。海はない。西南側は幾つかの小さな国と隣接し、さらに南には海に面した大国。ラファイエットの北東には大きな山脈がある。そこを越えても国があるようだ。
(また来よう)
二人は部屋を出た。どこを歩いているやら。正面玄関の他にも出入口はたくさんある。その一つから屋外へ行く。二つの塔は宮の両側にあり、同じ形だ。出入り口に衛兵がいる。彼に挨拶をして塔へ入った。見上げると螺旋階段が上まで続く。七階建てくらいだろうか。セシルは軽いステップで昇っていく。
「ここは倉庫として使われていて、最上階は非常時に監視部屋になるの。カナデ、体調はどう?」
「大丈夫」
やっと名前で呼んでくれた。足取りだけではなく心も軽くなる。
一週間の昏睡から覚めたばかりだ。体が動かないかと思いきや、さほどではない。フーシェ閣下の治療が効いているらしい。セシルが振り返った。
「良かった! 私は妹が二人いるの。弟もいたらなってずっと思ってたのよ。あ、ごめんなさいね。勝手に」
「ううん。僕は女のきょうだいだけなんだ。姉が二人。どっちも四歳ずつ離れているんだ」
あちらではちょっと変わっていると思う人が要るかもしれない。でもこの世界ではきりの良い数字だ。やはりセシルは笑顔を浮かべた。
「あら素敵な年齢差ね! じゃあ下のお姉さまは私と同い年...? 結婚されているのね」
「まさか。まだ二十二歳だよ。働き始めたばかり」
「え?」
セシルの足取りが止まった。まん丸の瞳だ。
こちらでは専門性の高い研究職以外は、通常の教育なら遅くとも二十歳までだ。そのせいもあって結婚が早い。成人になる十六歳から適齢期で、二十歳程でほぼ婚姻するそうだ。だから二十二歳の女性が結婚していないのは珍しいらしい。二十五歳のリシュリューは相当遅い。日本では結婚適齢期という言葉自体がもはや殆ど使われず、個人のタイミングの方が重要視される場合が多い。そう言うとセシルは納得の顔になった。
「そうなの。自由なのね」
「どっちが?」
カナデは思わず言ってしまった。
多夫多妻制で同性婚もあり。愛の交渉も昼間の話題。そんなこの国の方がよほど自由な気もする。
「やはりカナデの国だと思うな。この国では身分差がある婚姻には、世間の目はとても厳しいのよ。ロマン小説のネタになるくらい。私は...そうね、読む専門よ」
まだ若い彼女は、実は寡婦だった。
「夫は三年前に亡くなったの。再婚はしないかなあ。私には彼だけだから」
「あっ...ごめん」
「嫌だ、謝らなくていいのよ。仕事は大好きだし」
一瞬の曇りを吹き飛ばすように彼女はくいっと顎を上げた。
「ほら、もう着くわ」
階段の終わりが見える。二人とも息切れしつつ最上階に着いた。丸い部屋だ。窓と小さな椅子があるだけだ。セシルが窓を開け放した。ふわっと風が彼女の髪を巻き上げる。
「王都が一望よ。丘の上の王城には敵わないけれど良い眺めでしょう」
「すごい...きれい」
高い建物があまりない。ヨーロッパの古都を思わせる街並みだ。屋根の色は灰色やベージュが多い。そろそろ紅くなってきた陽を浴びてはいるが、全体的に白っぽい感じだ。映画のセットに入り込んだような気がする。現実感が欲しい。両手をぎゅっと握りしめた。遥か山脈はずっと遠くに霞む。ずっと眼下に平野が広がっている。
西日を背景に蒸気機関車が通り過ぎた。煙は灰色だし、車体は何の金属なのかこちらも灰色のようだ。
「本当に濃いめの色ってないんだね」
「ええ。もともと陽の気が強い国土だし、混ざりけのない淡い色が人気なの」
色素がほぼ無いといっても、全ての色を混ぜれば黒は作れる。しかしそもそも人気がないのだ。髪と瞳も淡い方が好まれるし、白・金銀の色は高貴とされる。だから逆に濃い色の髪のカナデに対して、使用人たちは気安く接するのだろう。
(まあ避けられるよりはいいか)
もう東の空に月が現れた。空は水色のままだ。ここから十四人が落ちた。夢なら本当にいいのに、とカナデは思った。
「セシル、何か僕にできる事はないかな? 皿洗いでも掃除でもいいんだ。面倒を見てもらってるし、お礼って言ったらなんだけど」
「そんな! お客様なのに。でもすることが無いのも退屈よね」
セシルは首を傾げた。すぐに手を打つ。
「では絵を描いてもらおうかしら? カナデはとてもうまいでしょう? 私とロザリーを是非!」
まだまだ絵に関しては勉強中だったし、人物画はあまり得意ではない。単純作業の方が気楽だ。
「皿洗いの方が...」
「絵がいいわ。そうしましょう! 素敵! 画材はどうしよう...あ、営繕部はどうかしら? あそこはデザイン課があるの。きっと色々と画材があると思うわ。さっそく話を通しておかないと。楽しみだわ!」
「うん...」
流されるままに同意したカナデだった。しかしセシルのはしゃぐ様子を見ているうちに、だんだんと心が高揚してくる。やはり絵を描くのは好きだ。
塔の頂上に吹く風に夜の湿気が混ざった。肌を撫でるのが心地よい。疲れた心身に染み入るようだ。セシルは一歩下がっている。
(あ、夜の陰の気か)
カナデにはちょうど良いくらいの空気の冷たさが、彼女には冷えすぎるようだ。やはり自分は陰の印を持つのだ。カナデは窓を閉めた。そしてゆっくりと階段に向かった。
一方の魔闘士団詰所の会議室。レコードボックスの解析はすぐに始められなかった。一か月分の記憶を取るつもりだったのが、全てをデータとして得てしまったのだ。
そこで会議室から、同じ棟にある研究班の部屋へ移動した。デマレの指示で別のレコードボックスが数個用意された。一見すると形態はデコーダー付きの石だ。しかしこの方が大容量の記録ができる。デマレとリシュリューの得た情報を一度ここに登録した。そして一か月分を木箱のほうに移す。それからやっと解析だ。
デコーダーに『妖狗』『スパイ』など幾つかの単語を登録し、カナデの記憶を検索してみた。しかし何も出てこない。
それであの日の落下事件の映像を再現することになった。デコーダーから宙に映像が浮かぶ。ロウタの記憶再現の際も見たものの、新宿の街に一同は目を見張る。建物の形状も驚きだ。人々は黒髪が多い。車はスマートだ。見た事もない機械に溢れて、高級品である電気が惜しげもなく使われている。技術の差は明らかだ。
ロウタとのやり取りの後、空が割れる。カナデの目には先に落ちていく人々。圧力に耐えかねて潰れ、血が噴き出す。そして黒の八芒星魔法陣。何度かグリフィスの声が入る。この時、カナデには只の獣の叫びとして記憶されている。それでラファイエット王国の面々にも聞き取れなかった。
カナデは導かれるように黒い環に触れる。グリフィスが協力したのか、或いはカナデの波動能力が発動したか。判然としない。しかし巨大な力が発生した。この時点ではまだ分からないものの、それがバリアとなって地上に繋がった。これがロウタとカナデを守ったのだ。先の人々の命を救えなかった。だがこれで順番によって損傷の程度が違うのが説明できた。
そしてブラックアウト。病院で目覚めてからは、皆も知っている。
二人の異邦人は、この事件では何の陰謀にも関わってはいない。やはりただの巻き込まれた被害者だった。過去の事例では、おそらく吸い込まれた者が魔法陣に触れられなかったのだろう。その差がどこかは検証不可能だ。
ディミトリが会議参加者に向けて言った。
「彼はこの場面で黒の八芒星魔法陣を得ている。脅威だ。この件は国家最高機密とする。口外しないように。やはりこの地に置き、監視対象とするのが相当だろう」
そして、まだデコーダーと格闘中のリシュリューを横目で見た。彼はせっせと再現を何度も試みている。それも検索の単語は『コマツ』や『デート』とか。何度か二人の映像が流れては消える。
低く声をかけた。
「殿下、見るのはソコか?」
「もちろん。二人の関係性も重要だろう。コマツは嘘つきだ。二人は恋人ではなかった」
それがどうした、と言いそうになって飲み込んだ。カナデに関わるとリシュリューの理性が少し揺らぐようだ。ディミトリは何度目かのため息をついた。
あまりに強烈なカナデの力に対処するのに気を取られた面々は、大切な作業を一つ忘れていた。デマレの記憶聴取の魔法がカナデにかかったままだったのだ。リシュリューの強力な禁忌陣の下に隠れていた。
カナデにとってリシュリュー宮の夜は長い。使用人食堂へ連れて行ってもらい、食事後に戻ればもうすることはない。デザイン課に行くのはセシルの交渉待ちだ。
部屋にリボンの彫刻付きのラジオはある。つまみをひねるタイプだ。アンティークショップとか古い映画で見たような形だが、おそらく最新型なのだろう。音楽のチャンネルに合わせて、低い音で流した。そして壁際の机に向かう。以前持って来てもらった画用紙を広げた。どういう肖像画を望んでいるのか、二人に聞いてみたい。
(クロッキー程度じゃないよなあ...)
マントルピースの上にある時計を眺めた。それを見ながら色鉛筆を動かす。時計の針は三度目の五時。二十一時頃だ。やはり二十四時間計が欲しい。
(他にはどんな画材があるんだろう?)
そう思いながらせっせと線を走らせる。
突然ドアが開いた。リシュリューが顔を出した。
「入るよ」
「わ」
集中していたので全身がびくっと震えてしまった。そんなカナデに構わずに近づいて来る。優しい色の青の部屋着に同色の薄いカーディガンを羽織っている。寛いだ格好なのだが、やはり王族としての凛とした雰囲気だ。背後から画用紙を覗き込んだ。
「チュウゼンジ、絵を描いていたのか。あの時計だね。巧いなあ」
「ありがとうございます。まだまだ未熟ですが」
「君の名前...カナデはどういう意味だ?」
「楽器を演奏するという意味です。祖母が音楽家で父が画家なのです。それで旋律を奏でるように絵を描いて欲しいとつけたそうです」
「麗しい由来だ」
リシュリューはベッド脇のソファに腰を下ろした。手招きする。しかしカナデは立ち上がっただけで動かなかった。親切にしてくれる人ではあるが、まだ気安く語り合える仲でもない。動くギリシャ彫刻のような容姿に緊張もしていた。どうすれば王族への正しい対応なのかも不明だ。
「ご用事は何でしょうか」
リシュリューは肩をすくめた。
「そんなにかしこまるな。君に魔法陣の扱いを教えてやろう。今日のように勝手に反応したら大変だ」
「はい、お願いします」
座れ、とまた手で示された。机の前の椅子に腰を下ろす。椅子を回してリシュリューと向かい合った。
「前回出た時、君は何を思い描いた? デマレ研究班長に合わせようとした?」
ぎょっとして俯いた。会議室でなら目の前の殿下その人だ。
「今は自分の魔法陣を思い描く。心の中で、なるべく具体的にね。深呼吸するのもいい」
どのような絵柄だったか。細部はやや怪しいものの、絵心はある。そのおかげか、ほぼ覚えている。思い浮かべると手足が暖かく感じる。ふっと息を吐いた。すると目の前に黒の八芒星魔法陣が浮かび出た。
「これが魔法陣?」
「フーシェ閣下に聞いたかな? ここに吸い込まれた時に掴んだ魔法陣だ。君には魔法を動かす力はないようだね。印があるだけだ。しかし」
リシュリューも白の八芒星魔法陣を出した。やはり彼の名があった。向かい合う。
「今はわざとずらしている。分かるかい?」
「はい」
八つのエレメントがそれぞれ少し違う角度になっている。
「合わせてみて」
「え...どうやって」
「自分の心の声に従うんだ。他の誰も君の魔法陣に手を出せない。君だけだ」
オパールの瞳が煌めく。それに励まされるように、カナデは再び大きく深呼吸をした。どうやったらぴったり図柄が重なるのか。
(あ、ラジオ...)
調整のつまみをひねるつもりで、頭の中で魔法陣を回した。絵柄が重なる。セシルやフーシェに対しては無意識に合わせてしまっていたようだ。
「これでチャネリングが完了だ。俺に君の魔法陣が使える状態になった。次はシンクロナイズドさせよう。お互いの魔法陣同士をつなげる感じだ」
見えない物を動かすのは本当に感覚的だ。
まるでかちり、と音がしたようだ。カナデの周囲の光景が暗転した。妖狗グリフィスと向き合った時と同じ暗闇だ。しかし目の前が眩い。微笑むリシュリューが立っていた。二人は闇と光を分け合って向かい合っている。
「よくできたね。これが俺とチュウゼンジの魔法陣がシンクロしている状態だ。合わせたくなければさっきと逆をいけばいい」
「ここは...」
「魔法陣が作った亜空間だ」
電話番号を交換するイメージらしい。直接頭にイメージの魔法陣が浮かび、声がする感じだ。魔力やエレメントの数が違い過ぎると、少なく持つ側からは呼び出せず、シンクロナイズドは出来ないそうだ。
(アップデートがあった時、上位機種なら対応できるけど下位機種はダメだな。それみたいな?)
などとカナデは自分の知識に置き換えて考えてみる。リシュリューは続けた。
「俺達は意識としてここに存在するけれど、五感は普通に働くよ。明晰な夢という所かな。ほら」
差し出された手をそっと握ると温かい。美しい顔とはうらはらにがっしりした手だった。
「チュウゼンジの手は冷たいね」
リシュリューは片手をカナデの肩辺りに差し出した。手のひらには黒い靄が丸くなって乗っている。
「少し陰の気をもらってみた。戻してごらん。グリフィスのパワーを吸った時みたいにやればいい」
あの時は腕を広げて全身で受け止めた。しかしこれは小さい。すうっと息を吸い込むだけで良かった。煙のようにカナデの背後に輝く陰の印へ消えた。
「上出来だ。次は吐き出して」
呼吸は必要なかった。思い描くだけで黒い塊が二人の間に飛び出す。カナデはそれをボールのように両手の間で投げ合った。
「好きに扱えるんですね。形も変えられる...」
「俺の陽の気をちょっと吸って」
こちらも呼吸のイメージだ。手のひらに光の塊ができた。頭上に放り投げてみた。散り散りになって闇に広がる。煌めく夜空が出現した。
「君は良い生徒だ。飲み込みが早い」
気の塊はカナデのイメージ通りに変化する。陰の気が黒い野球帽になった。それをリシュリューが受け取り、頭に乗せた。
「これはいいね。面白い形の帽子だ。強すぎる陽の気避けにできそうだ」
「陽を避ける必要があるのですか?」
日光浴という言葉があるくらいだ。健康に良いのでは? と首をひねるカナデにリシュリューは言った。
「陽と陰は対の関係だ。同じくらいのバランスが最も安定した形なんだよ。君は陽の気に当たってのぼせを起こしていただろう? 強すぎたんだ。ご覧。俺の陽とチュウゼンジの陰を合わせるときれいな円になっている」
円は調和や安定を示す。チャネリングしている今、お互いの勾玉の形はぴったりと寄り添って円を描く。
「墓所でのグリフィスの件で思ったんだ。君は魔法陣を使えないが、陰の印は使えるのではないかと。俺の見立て通りだった。君は印を通して陰の気を扱える」
「それは...私はここで何かお役に立てる事があるのでしょうか?」
ただ衣食住をあてがわれるだけではただの居候だ。別世界へ来たこと、たった二人で生き残ったこと、自分に力があること。これらに意味を感じたい。
向き合う二人は、お互いが背負う八芒星魔法陣に挟まれる形だった。カナデの髪がリシュリューの顎に触れそうだ。彼の口から出た言葉はあまりにも噛み合わない返答だった。
「チュウゼンジ、君は夜の空から舞い降りた精霊のようだ。もっと髪を伸ばしてくれないか? きっと似合う」
「え?」
思わずまぬけな声が出てしまった。確かに髪は少し長めになっている。
「指に絡めてくるっと回してみたいんだ。さぞや美しいだろう」
顔が近づく。香水か石鹸なのか、華やかな香りがした。
(美しいって...髪か? 髪のことか?)
幾ら美しい人とはいえ、会ってたった二日だ。まるで口説かれているかのような物言いに軽くパニックになった。そのせいか。亜空間が溶けた。『蝶の間』に戻って元通り。いや違う。カナデはベッドに移動してリシュリューの隣に座っていた。いつの間にか連れて来られたようだ。顔が真正面だ。
(ち、近い)
カナデの動揺をリシュリューが楽しそうに見つめる。
「い、いつここへ?」
「シンクロしたまま動けるよ。本を読みながら歩く感じだ。今度やってみてごらん」
真っ黒な空間だったのに、どうすればいいのだろう。
「カナデと俺の魔法陣を交換しておいた。いつでも俺を呼べるようになったぞ」
「へ?」
またもすっとんきょうな声が出た。電話番号とかラインの交換のように魔法陣をやり取りできるらしい。中央の星の部分がいわゆる電話帳のような役割を果たしてくれるようだ。
自身の魔法陣をイメージしてからリシュリューの印字を思い浮かべる。すると彼の魔法陣が目の前に現れた。
(う~ん、確かに電話をかけるような感じかな)
などと考えていると、リシュリューが更に近くなった。
「名前で呼んでもいいか? カナデ」
許可する前にもう呼んでいる。後頭部に手が添えられた。近すぎて彼の顔はぼやけた。思わず目を閉じた。額に温もりが触れた。チュッと軽い音がする。
(え、え、え?)
何が起きたのか、すぐに理解できない。
リシュリューは立ち上がった。
「ではゆっくりお休み、カナデ。良い夢を」
カナデは固まったままだった。言葉がうまく出てこない。口をぱくぱくさせているうちに扉が閉まった。心臓の鼓動が痛いほど速いのに気が付いたのはしばらく経ってからだった。
(外国だから挨拶のキスくらい普通なんだ。きっとそうだ!)
天蓋ベッドのカーテンをめくる。目に入る度に新婚の部屋なのだと教えてくれる桃色だ。まだ鳴っているラジオにようやく気が付いた。止めてからまたベッドに戻った。
肌に唇の感触がまだ残る。
(一体何なんだ...夢なら覚めてくれ...)
朝が来たらきっといつも通り。そう願いながらピンクのシーツに横たわって目を閉じた。様々な事がありすぎて、もう何も考えたくなかった。
ツヅク! 次回Ⅱ-Ⅰ ロウタの行方、そしてカナデの貴人との邂逅 ロウタの移送先は意外とリッチだったけど…その出会いはマズイのでは?
お読みいただきありがとうございます。
ファスナーが『自動開閉器』。我ながら何なんでしょうか。
能力者ではあるが制限もある。そういう設定が好きかもです。




