ⅠーⅡ ピンクの内装のお部屋へ。そしてカナデの能力が発現
王宮での生活が始まる
再び現れた神獣グリフィスと何を語るのか
ⅠーⅡ ピンクの内装のお部屋へ。そしてカナデの能力が発現
少し前。病院の前に白い車が停まった。現代日本でいうならクラシカルなデザインだが、ラファイエット王国では最先端である。降り立ったのは煌めく銀色の髪の若い男性だった。乳白色の中に緑や青色が混ざるホワイトオパールの瞳だ。白と金を基調にした軍服の胸には、階級を示す印章がずらりと並ぶ。
助手席からディミトリが降りた。
「殿下、明日でも良かったんじゃないか? 外遊から戻ったばかりだろう」
「その間に大事件だ。妖狗が暴れたんだろう? それに黒髪の人間が現れただって? 目覚めたそうじゃないか。会ってみたいのは当然だ」
「だから明日でも...。付き合わされるこっちの身にもなってくれ。相変わらずだよな...我慢が効かないのは。子供の頃からだ」
「ふむ。君の父上...コリニー公爵は息災かな? 悪口を言ったと言いつけてやる」
「子供か」
身分証の提示は必要ない。胸に付けた印章は王族だし、そもそも顔パスだ。警備員が胸に手を当てて軽く膝を曲げた。最敬礼だ。彼こそラファイエット王国の王弟殿下であり魔闘士団総帥のリシュリュー・ラファイエットだった。ディミトリとは幼馴染で学友である。カジュアルな物言いができる間柄だ。
灯りを落とした廊下を特別病棟へ向かう。
入口に警備員がいない。
「不用心だな」
ディミトリが扉を開けた。すぐにセシルの叫びが聞こえる。
「開けて! 開けなさいってば!」
警備員がようやく到着したところだ。現れた援軍に助けを求める視線を送る。
ディミトリが前に出た。
「どけ」
腕を前に突き出した。白の八芒星魔法陣が光った。全てのエレメントが眩い輝きを放つ。中央には陽の印がある。ドアが開いた。ベッドが部屋の中央まで飛ばされる。
「何があった?」
ひっくり返ったゴミ箱と破かれた紙が散乱していた。床のカップは割れているし、カナデのスリッパも乱れたままで放置だ。リシュリューが呟いた。
「妙な気配がしたぞ」
カナエとロウタを謎の風が襲った時だった。
リシュリューはいきなり窓から飛び出した。通った後通りに草が踏まれている。後を追った。池のほとりで絡み合う人影を見つける。
「やめろ」
ロウタの襟首を指先でつまんだ。手の先に魔法陣が浮かぶ。その力で、ふわっと浮き上がるように離れた。
「髪を染めているって事は、お前がコマツか。何の騒ぎだ?」
ロウタは猫の子が運ばれるようにぶら下げられたまま、口を歪ませた。
「恋人同士のプレイですよ! コイツはこういうのが好きなんだ」
「詳しい話は後で聞く」
倒れたカナデを見たリシュリューは眉をひそめた。服が乱れている。頬が殴られて赤いし、目の焦点もしっかり合っていないようだ。
それから追いついたディミトリにロウタを引き渡した。
「君も見たな? 詳細がはっきりするまで放し飼いにしないように」
「了解」
何のかんのと言い訳をするロウタは、警備員とディミトリに挟まれて庭園を去った。
(まるで無頼漢だな。それとも異界では当たり前の行状なのか?)
彼を見送るリシュリューの背後でぱちゃ、ぱちゃと水音がする。
はっと振り返った。
カナデだ。よろめく足を踏みしめて立っていた。池の水を顔や胸にかけて洗っていたのだ。リシュリューの視線に気が付くと動きを止めた。
二つの月と星々に照らされて、くっきりとカナデが浮かび上がる。この世界には一人もいない漆黒の髪と瞳。それが意思の強い光を湛えてリシュリューを捕らえた。びしょ濡れの服が肌にまとわりつき、体の線を強調する。全身から滴る水滴の一つひとつが星の煌めきを湛えて輝いた。
(この者は夜空の精霊か...?)
リシュリューの時間が止まった。しばらくぽかんと見つめるだけだ。
カナデがよろめく。我に返って駆け寄った。見て分かるほど震えている。肩に手をかけようとしたが身をよじって逃げられた。ボタンの取れたパジャマを胸の前で合わせる。そこにも赤い痕が点々と散る。
「拭くといい」
ハンカチを差し出したが目もくれない。上着を脱いで肩にかけてやる。それだけでカナデはふらふらと膝をついた。伸ばされた手に、イヤイヤと首を振ったものの、もう抗う体力は無さそうだ。それでそのままお姫様抱っこをした。
「軽いな」
返事は無い。息が荒く、真っ青だ。庇護欲をくすぐられる。甘い感情がこみ上げた。思わず抱きしめたくなる。
(俺はどうした? この気持ち...何だ?)
駆け付けた看護師や警備員を制して、そのまま庭園を抜けた。玄関から入り直す。セシルが軽く悲鳴を上げた。
「何て事! カナデ様!」
病室は片付けの途中だった。それでも定位置に戻ったベッドにカナデを横たえる。縋りつくようなセシルに、それでも笑顔を浮かべようとする。少しでも安心させようとしているのだ。セシルの目から涙がこぼれた。
「一人にしてごめんなさい」
リシュリューは肩をすくめた。
「事情は後だ。まずは濡れたのを何とかしよう」
「やります! 私は水魔法なら使えます」
カナデに向けた手から白の八芒星魔法陣が現れる。彼女に陽の印はない。光っているのは水のエレメント一つだけだ。そこが光を増した。セシルが首を傾げる。
「え...?」
カナデの顔の前にも八芒星魔法陣が出現したのだ。しかしディミトリやセシルとは違う。中央に漆黒の印が浮かぶ。そして全てのエレメントが黒い輝きを放つ。そこへセシルの水の魔法が届いた。閃光が病室を貫く。一気に部屋が真っ白になった。
光が消えた時、カナデは服どころか、髪や体まですっかり乾いた。さらに濡れたシーツも元通りだ。パジャマに付着していた泥や草まで消えてしまった。
カナデはもちろん、当のセシルも目を丸くした。
「私...私、こんな力は無いです...。乾かすのがやっとのはず...。そ、それにカナデ様の八芒星は」
ようやくリシュリューに気づいたかのように、セシルはあわてて居住まいを正した。背筋を伸ばして膝を折る。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。殿下におかれましては」
「いいよ。緊急時だ」
リシュリューは笑って手を振った。
「それにしても黒の八芒星の魔法陣とはね。人間では俺も初めて見た」
「医師が気になる点があると申しておりました。これでしょうか」
カナデは横たわったまま、体のあちこちを探っていた。一気に乾いたのがやはり気になるようだ。
リシュリューはベッドに座った。屈んでカナデを真正面から覗き込む。漆黒の瞳に自分が映った。
(吸い込まれそうだ...やはり美しい...)
思わずうっとりと見とれた。
(だ、誰?)
うっと一瞬カナデが怯む。しかし見つめてくる瞳にはっと息を飲む。かつて見た事のない煌めく色だ。生物なら黒いはずの瞳孔も濃い茶色だった。
(宝石みたいだ...)
そのチャンスを逃さない。リシュリューがふっと息を吐いた。ディミトリよりさらに強い光の魔法陣がカナデに向かった。黒の魔法陣が反応する。カナデの全身がびくりと震えた。頭を押さえる。
リシュリューが体を起こした。小さな魔法陣が浮いた指の腹で、ぶたれた跡を優しく撫でた。すっと痛みが消える。
「気分はどう? チュウゼンジ、君は一週間ほど眠っていたんだ。どこか気持ち悪いとか痛い場所はあるか?」
「一週間も?」
カナデははっと息を飲んだ。言葉が聞き取れる。ちゃんと日本語として聞こえるのだ。
「言葉が分かるようになりましたが...何で」
「翻訳陣を君の精神に組み込んだ。俺はリシュリュー・ラファイエット」
自分が発した言葉はあくまで日本語なのだが、通じるようだ。
セシルが言い添えた。
「もうお話できますね、カナデ様」
##は様だったのか、とカナデは納得した。
聞きたい事はたくさんある。しかし今は目の前がぐるぐる回るようで気持ち悪い。それでも、もっと落ち着かない事がある。
「あの...まずお風呂に入りたいのですが...」
そう言いながら胸の前を合わせた。水と汚れは消えた。しかしロウタに触れられた感触が肌に残る。これを全て流してしまいたい。
「どうぞ。お着替えとタオルは用意してあります」
セシルの手助けを受けつつ、カナデは浴室に消えた。すぐに水音がし始める。
リシュリューはまだベッドに座っている。
「セシルも見たね? 黒の八芒星魔法陣を人間が保持できるんだな。異世界ではアリなのか? しかも陰の印まであった。こちらでアレを持つのは」
最後は独り言のようだった。言葉を切る。腕組みをしてしばらく考えた。しかし、首を振る。
「まあいいか。実際に居るんだから。セシル、この件は他言無用だ」
「かしこまりました」
浴室から物音がした。かなり大きく、一度だけだ。セシルがすかさず向かう。
「どうされました? カナデ様!」
返事を待たずにノブを回す。
「カナデ様!」
シャワーのある洗い場で着衣のままカナデが倒れていた。速足で駆け寄った。猫足のバスタブにはまだ水が半分程度しか溜まっていない。急いで湯を止めた。
「お気を確かに! 誰か!」
カナデは懸命に起き上がろうとした。手足が僅かに震えるだけだ。
悲鳴を聞きつけたリシュリューが駆け付ける。セシルが止めるのも構わずに、すぐにカナデを抱き上げた。
「殿下、人を呼びますから! お手を煩わせては」
「放っておけないよ。チュウゼンジ、また濡れてしまったね」
バスタオルを取ってかけてやる。体を包んだ。カナデは肩で息をしていた。天井がぐるぐる回るし吐き気もこみ上げる。一週間の昏睡から目覚めたばかりだ。ただでさえ体力が落ちている。そこへあの暴行だ。
リシュリューがセシルに命じる。
「セシル、医者を呼んで」
カナデが震える声で遮った。
「やめて下さい。大丈夫です」
キスマークが残る体を見られたくない。
「ふうん? 本当か?」
抱かれたままだ。リシュリューの瞳が顔を覗く。カナデは目を逸らした。今にも引き込まれてしまいそうだ。いや、もうむしろずっと見つめていたくなる。意味の分からない状況にも関わらず、そんな感情が湧くとは。自分の気持ちを受け止めきれない。
翻訳陣のように相手の精神に関与しなければ、意識を合わせるチャネリングをしなくとも魔法を使える。対象の意思など関係ない。しかし治癒となると、専門知識を持つ者の判断は必要だ。
「君は目覚めたばかりだ。きちんと診察を受けるべきだ」
「...大丈夫です...」
カナデは頑固に首を振る。リシュリューは少しだけ首を傾げた。それからにっこりとカナデに微笑みかける。
「うん、分かった。チュウゼンジを俺の所に連れて行こう」
「え」
セシルとカナデの声がユニゾンした。どこにいるのかも判然としないのに、さらに違う場所に連れて行かれるとは。そんなカナデの戸惑いなどまるで無視だ。リシュリューは楽しそうに続ける。
「防護陣は強力だし、警備を増やさなくても元からいる。合理的だ。セシル、この子の荷物をまとめて。一緒に来い」
「は、はい」
国の中枢にいる人物の命令だ。セシルは急いで取り急ぎ必要な物をまとめた。その間にもカナデはリシュリューの腕の中だ。首や頬に触れるタオルが心地よい。それにリシュリューの温もりを感じる。ロウタの不快な感触を全て拭い去ってくれるようだ。緊張と安堵の間で心が揺れる。
荷物は殆どない。着替えと薬くらいだ。セシルの準備はすぐに整った。カナデはおずおずとリシュリューの腕を押した。
「下ろしてください。歩けます」
「だめ。そうは見えない。倒れたらまた抱き起さなくてはならないよ。手間は一度でいい」
抱かれたままで廊下を進む。ディミトリと行き会った。
「コマツには念の為に禁忌陣を施した。普通病棟の鍵がかかる所へ...。チュウゼンジをどうする?」
「倒れたんだ。俺の所へ連れて行く。コマツと離した方がいいだろう?」
「そうだが...ここで診察を受けた方が良いのでは? それに本人は納得しているのか?」
「しているさ。翻訳陣だって俺には入れさせてくれたんだ。もう話せるぞ」
「王宮はまずい。何か起きたら」
「俺がさせないよ。禁忌陣を彼に張った。誰が俺の魔法を破れるものか」
禁忌陣は魔法の一つだ。掛けられた者は魔法が使えなくなる。異界人の能力はまだ不可知なので、いわば保険をかけた形だ。
腕の中のカナデは見るからに体を固くしている。色のない顔は少し頬が赤い。これは...発熱というよりは恥ずかしいのか? リシュリューは思い立ったらすぐ行動に移す。少しだけカナデに同情したディミトリだった。
「すぐにでも休みたいだろうに...。仕方がないなあ。念の為に同行するよ」
「そうか。許す」
リシュリューが運転席で、セシルとカナデは後部座席だ。助手席にディミトリが滑り込む。
車はすぐに発車した。木の上に鉄を張ったタイヤだ。レンガの道で派手な摩擦音を立てる。乗り心地はあまりよろしくはない。
ディミトリを市中で下ろした。車は市内中央の高台へ向かう。正門を通り過ぎた。城壁の横手に小ぶりの門がある。両脇に立つ門番に顔を見せると、開けてくれた。
敷地内の芝生の道を抜けた。あちこちにガス灯が立ち、柔らかい光を地面に投げる。
丘の中央付近で道を曲がった。邸宅が現れる。
宮殿と呼ぶにふさわしい威容だ。そこの車寄せに止まった。燕尾服の使用人が歩み寄ってドアを開ける。
「お帰りなさいませ、殿下」
それから後部座席のカナデを見るとびくっと大きく震えた。
「かっ、髪が! 黒いっ?」
「ああ。話を聞いていないか? 例の異次元から来た者だ。バトラー、そんなに驚くか? 俺の部屋に運ぶ」
「はい。動揺してしまい、お見苦しい処をお見せしました。申し訳ございません」
手伝おうとする彼を制してリシュリュー自身がカナデを抱き上げた。もう寝息を立てている。小さな包みを抱えたセシルが続いた。
何だか体が浮いているようだ。暗闇に包まれているのだが、恐怖はない。むしろ心が穏やかになる。遠くに点のような光が浮かぶ。それはみるみる大きくなった。目が痛い。腕で顔を覆った。
はっと気が付く。明るい。夢の中の姿勢と同じだった。少し手足が痺れている。薄い白いカーテンが丸いベッドを覆う。そこから柔らかい光が差し込んでいた。ここへ来た記憶は無かった。
(ベッドが丸い...)
しかもキングサイズだ。天蓋付きの寝台を使ったのは生まれて初めてだ。重い体を半分だけ起こして腕を伸ばした。ぺき、と関節が鳴る。カーテンを少し開けた。ピンクの壁が目に入る。
(ピンク? 女の子の部屋みたい)
白いサイドボードの引き出しを開けてみた。ガラス瓶と、きちんと畳まれたハンカチサイズの薄い布が数枚入っている。瓶の中身は白っぽい液体だ。蓋を開けて匂いを嗅いでみた。ふんわりと甘く優しい花の薫りだ。ローションらしい。
(ベッド脇にコレ...まさかのラブホ?)
薄い布越しの動きが見えたのだろう。反対側のカーテンがめくられた。セシルの茶色の瞳が心配そうに揺れた。
「カナデ様。お目覚めですね。ご気分はいかがですか?」
「はい...まあまあです」
やはり頭を起こすとふらつく。吐き気と頭痛もする。セシルがクッションを幾つか用意した。カナデの背に当てた。上半身を楽な角度で起こしてくれる。
「すみません、お世話をかけます」
「いいんですよ」
夕べは風呂から意識がはっきりしていない。だがちゃんとパジャマを着ている。しかも病院とは違う品だ。手触りがとても柔らかい。セシルが言った。
「お着替えさせていただきました。殿下も手伝って下さったんですよ。他の着替えは箪笥に用意しておきました」
「......どうも...」
年齢の近い女性と、初対面の医療従事者ではない男性に全裸を見られた。とても気恥ずかしい。カナデははっとした。
「あ、あのっ! 僕が寝ていた間の世話って...」
「清浄は私とロザリーの担当でした」
「えええ」
カナデは真っ赤になった。もしや導尿などシモのお世話も彼女達か。ひきつるカナデに、ちょっと困った顔で笑う。
「私もロザリーも水魔法が使えますよ」
簡単にその魔法の説明を聞いた。それはカナデの羞恥心には幸いだった。直接肌に触れなくても昏睡状態の患者の世話ができるそうだ。指一本触れずに全身がきれいになるとは便利だ。
それから彼女は飲み物を運んで来た。病院で飲んだ物と一緒だ。昨日は少しだけでロウタに邪魔をされた。ゆっくりと口に含む。空っぽの胃にしみわたる。
「美味しい...」
「良かった!」
「セシル様は看護師さんなんですか?」
「やだっ、セシルでいいんですよ! 私はここの侍女なんです。異次元からのお客様のお世話を殿下に仰せつかったので病院にいたんですよ」
「そうなんですね。ここはどこですか?」
「リシュリュー宮と呼ばれる宮殿です」
王宮の敷地は広い。王族や高位貴族が居住する宮殿だけでも八箇所ある。これはその一つだ。先代王からリシュリューが下賜されたので、そのまま名前になった。
「この部屋は?」
見渡してもどこもかしこも装飾は華美だ。ロココ調が近いか。ただ柔らかいピンクと少しの金色使いのおかげで優しい雰囲気でもある。円形ベッドには度肝を抜かれたものの、落ち着く部屋だ。窓は大きく、外の庭園が光を浴びているのが見える。高級ホテルのスイートルーム並みに広い。
「殿下の私室『鷹の間』の一部ですよ。二つの寝室の奥の方で『蝶の間』と呼ばれています」
カップを持つ手が固まった。奥の寝室。この色使い。ベッド横の引き出しの中身。そういえば飾り棚には卵を抱く鳥の陶製人形。まさかの夫婦用、しかも新婚向き?
「殿下...というと...」
夕べ助けてもらった人だろう。確かに殿下と呼ばれていた。しかし意識がもうろうとしてあまりよく覚えていない。カタカナの長い名前はよく聞き取れなかった。
「ファルコン公爵リシュリュー・ラファイエット様です。ラファイエット王国国王の王弟殿下で、魔闘士団の総帥をされていらっしゃるんですよ」
またよく分からない単語が出て来る。しかし偉いのは分かった。そして気になる点は。
「...殿下は独身でいらっしゃる...んですよね?」
「そうなんです! もう二十五才になられるのに、お気に召すお相手と巡り合えずにいらっしゃるんです。せっかく奥様用のお部屋もこのように用意されているのに」
「え、やっぱり。僕が居ていいのかな...」
「もちろんですよ」
昨日の美しい男性がリシュリューなら、結婚相手が見つからないとは意外だった。
(モテすぎて一人に選べないのかな)
壁に飾り暖炉がある。その上に時計があった。やはり八時間計だ。セシルが時間や暦について簡単に教えてくれた。
まず一分が六十四秒。六十四分で一時間。一日は二十四時間で、朝の刻・昼の刻・夕の刻の三つに分かれる。だから時計は八時間計だ。時計の針は現在七時を過ぎたところだ。朝の刻は地球時間と一緒だが、昼と夜は何時が対応するのか。考えているとこんがらがってきた。
一週間は八日、一か月は四週三十二日。大の月や小の月はない。一年は十二か月だから三百八十四日。全てカナデの世界より少しずつ長い。
「八とか四が基本なんですね?」
「そうですよ」
セシルは体の正面に手のひらを広げて見せた。
「並んでいるのは人差し指から小指まで。親指は少し離れているでしょう? だから四が基本なんです」
実はこの世界は八進法らしい。翻訳陣が十進法に置き換えてカナデに伝えてくれている。ちなみに指を折って数える時も、親指は使わないそうだ。真似をしてみて指が吊りそうになった。
ドアが開く。
「入るよ」
現れたのはリシュリューだった。自室だからノックなどしないのだろう。昨日の軍服ではなく、生成りのシャツをふんわりと羽織っている。朝の光のような笑顔だ。やはり目を奪われてしまう。彼はつかつかと歩み寄ってベッドに腰かけた。
「起きたね、チュウゼンジ。顔色はあまり良くないな」
「おはようございます。あの、夕べの...助けていただいて...」
「それ以上言わなくてもいい」
多少ぶっきらぼうな言葉使いだが、声音はビロードのような厚みと柔らかさがある。耳に心地よく届いた。目が合う。あの瞳だ。朝になってさらに煌めきを増したようだ。さらりと流したプラチナブロンドもあいまって、そこにいるだけで眩い。
(こんなにきれいな男の人がいるんだ...)
思わず見とれてしまった自分に気が付いて、あわてて視線を落とした。そんなカナデを楽しそうに眺める。
「朝食は?」
セシルが答える。
「お目覚めになられたばかりです。これから用意いたします。殿下はいかがされますか」
「俺は済んだよ。用意の間に少し説明しておく」
セシルはリシュリューが出て来たのとは反対側のドアから出て行った。
「あちらが使用人の控室と廊下だよ。向こうが俺の私室で『鷹の間』。居間や書斎もあちらだ。好きに出入りしていい。ここにも鍵はないが、望むなら内鍵を付けさせよう」
「いいえ」
この提案には首を振った。あくまで彼の部屋なのだ。
内線もあるのだが、交換手が出て相手に繋ぐ。日本よりも少し前の技術のようだ。
ベッド脇に太いヒモが下がっている。これを引くと使用人の控室でベルが鳴る。それで部屋に来てくれる。アナログと先端技術が同居だ。『蝶の間』の使用目的は主に寝室だが、奥方専用の執務室やドレスルームもある。もちろん洗面所や風呂も完備だ。ちょっとしたアパートよりもはるかに広い。
「どこも自由に使って良い」
「なぜ私は病院からここに来たんですか?」
「警備の都合上だね。君らは怪我をしていたので保護対象だ。しかし同時に監視対象でもある。ここならどちらも両立できるから連れて来た」
この世界にとって正体の分からない存在なのだ。監視されるのは当たり前だろう。
(それにしては歓待されている気がするのはナゼ?)
と思わなくはない。王宮で王子の部屋、さらに使用人付きだ。リシュリューの笑みからは監視の厳しさを感じなかった。
「コマツと離したかったしね」
ぎくっと肩が震えてしまった。顔を上げられない。襲われている現場を見られているのだ。そんなカナデの髪に触れようとリシュリューが手を伸ばす。しかしすぐに握りしめて戻した。
「不同意であればすぐに実刑案件だ。今は隔離してある。君とコマツの関係を聞いてもいいか? 色違いの靴を着用していたが」
「たまたまです! あれは流行りだから...。同じ高校の出身というだけです。恋人ではありません。そうだった事もない」
高校で出会って以来の様々な出来事が蘇る。入学当時、彼は陽気で人気があった。違う組ながら知っていた。三年でクラスが初めて一緒になった。それから猛アタックが始まったのだ。そして高校生活二年の間で、彼には人望が無くなってしまったのを知る。三年の頃には、友達もあまりいなかったはずだ。
理由はすぐに分かった。最初は愛想もいいし親切だ。しかし親しくなればなるほど、彼は自分の感情のままにふるまう。思い通りにならないと粗暴な行動に出る。だから人が離れてしまう。
カナデに対してもそうだった。
だからいくら言い寄られても、なびかなかった。そして卒業式の前日の件だ。クラスの全員の前でいきなり恋人宣言をされた。キスされそうになって肩を突いてしまった。その時は笑っていたロウタだが、それからはしつこい待ち伏せと付きまとい。冷たくあしらえば暴力に訴えようとする。卒業で離れたと思ったら、通学路を付き止められてしまった。そしてここへ一緒に吸い込まれたのだ。
「一方的な」
平板な声がさらに固くなった。カナデは口をつぐむ。今、ここでリシュリューに言っても仕方がないことだ。しかし彼の表情も険しくなった。
「では投獄の手続きを」
「あっそれは...。顔を合わせなければいいので...」
一応、同窓生だ。しかも同じく今回の被害者なのだ。それに自分の為に誰かを犯罪者にするのは躊躇がある。それが甘かったと後悔するのは、まだずっと先の話だ。
「分かった。対処しよう。他に何かあるかな?」
「一緒に吸い込まれた人達は、やはり亡くなったのですか?」
消息を尋ねた絵にロウタが×を付けてしまった。リシュリューはさらに顔を引き締めた。
「そうだ。残念ながら十二名は死亡した。君らの流儀とは違うかも知れないが、葬儀を執り行い埋葬した」
カナデは深く頭を下げた。同胞が異国で命を失った。それをきちんと弔ってくれたのだ。
「ありがとうございます。それでお願いがあります。その方達のお墓に参りたいです。庭の花を摘んでもいいですか?」
「もちろんだが。花をどうする?」
「私の国ではお墓に花を供えるんです。できれば黒いリボンがあれば」
「黒はない。濃い紫を用意させよう。彼らは君の知り合いか?」
「いいえ。でも同じ国の人達です」
セシルがお盆を持って戻った。穀物が何か分からないが、見た目はオートミールのお粥が近いようだ。スプーンを持ったものの食欲は全くない。
「黒は不人気のようですね」
「というよりも、黒い色素自体があまり存在しない。影や炭くらいだ。この国では地面も赤土だ」
カナデはつい自分の髪を引っ張った。病院で渡された鉛筆とインクも黒ではなかった。
「コーヒー...黒っぽい飲み物なんですが...ないんですね」
「それは聞いた事がないな。夜の空も真っ暗なのは嵐の日だけだ。四つの月はいつも二つ以上出ている」
月の数まで四つだ。八進法になったのは必然だろう。
リシュリューは立ち上がった。
「時間だ。そろそろ行くよ。セシル、チュウゼンジに医者を呼んである。シモンに頼んでおいたから都合をつけてくれたはずだ。時間を確認してくれ」
カナデは目を伏せたまま首を振った。
「大丈夫です」
「食事もまともに摂れないのに? 医者が嫌ならきちんと食べてしっかり休む!」
リシュリューは子供を諭すようだった。
「墓所には一緒に行こう。昼の刻遅くに行けるかな? いや夕の刻かも。使いをやるよ」
それから手を振って出て行った。ドアが閉まる寸前、誰かに話しかけている様子が見えた。あちらにも従者がいるのだろう。
(夕の刻...? 夕方から夜だよな?)
先ほどのセシルの話だと三回目の八時間だ。だから夕の刻は十六時から二十四時まで。それぞれ八時間を足していくだけなのに痛む頭ではすっと計算ができない。すぐにあきらめた。二十四時間時計があるのなら頼もうかと思ったが、この世界で過ごすならば慣れねばならないのだ。
何とか口に入れたお粥はほんのり甘い。
「お医者様はこれから予定を確認しますね」
殴られた頬の痛みはもうすっかりない。リシュリューが夕べ指でこすっただけで消えた。軽い傷や打撲なら治癒魔法で直せるそうだ。だが体の不調や重症となるとそうはいかないらしい。
治癒の魔法陣を使えばその部分だけは一気に快癒する。しかし変化が急激すぎると、周囲の組織と不適合を起こす。だから病変の周囲となじませながらゆっくり治療を行う。また薬と魔法のどちらが治療に向いているのか、それは医者が判断するそうだ。
やはりお粥でも喉を通らない。それでも半分ほどは頑張った。セシルが心配そうだ。
「花ばさみとリボンは朝の刻のうちに用意できると思います。それまでお休みください」
言われるまでもない。すぐ横になった。何だかずっと体が重くて熱っぽい。
(スマホはどうしたかな)
もう使えるはずのない物だが、右手が寂しかった。
一時間ほどでロザリーが部屋に来た。
「まあまあチュウゼンジ様、お目覚めですね」
半分眠っていたカナデは目をぱちぱちさせた。病院で目覚めたものの、すぐに連れて来られたのだ。彼女とはまともに顔を合わせていない。セシルが言った。
「ロザリー、カナデ様は分かってないみたい」
「あら残念なこと。ロザリー・ダンテスでございます。看護師資格も持っておりまして、病院ではおそばにおりましたのよ」
彼女もリシュリュー宮付きの使用人だった。看護師の資格があり、簡単な治療用の水魔法と風魔法が使えるそうだ。なぜ病院の看護師ではなくて王宮から派遣されたのか。カナデの疑問に二人は顔を見合わせた。ロザリーが言う。
「殿下は魔闘士団の総帥でいらっしゃいますから、そこから人を派遣したかったのでございましょう」
やはり監視対象なのだ。簡単なレベルと自分たちで言うものの、魔法が使える者を傍に置かれている。
内線が鳴った。猫の足がデザインされた受話器をセシルが取った。そしてドアを開ける。白衣の男性がいた。小太りで頭のてっぺんが少し薄い。金色の眼鏡に金に近いような灰色の瞳だ。彼はちょこまかとベッドに近づいた。カバンを持つ若い男性も後に続く。ロザリーが膝を折って挨拶する。
「フーシェ閣下、ご多忙の中をおいでいただきありがとうございます」
「まあ殿下の直々のお願いだからね。おお、本当に黒髪に黒い瞳ときたかい」
セシルは頭を下げて出て行った。ロザリーが紹介する。
「こちらは王宮病院の総責任者様。ディディエ・フーシェ閣下でございます」
「よ、よろしくお願いいたします...閣下」
挨拶はこれで合っているのだろうか。カナデはベッドの上で身を固くした。今度は閣下ときた。平民がいきなり王宮に放り込まれたのだ。殿下だの閣下だの日常ではあり得なかった単語が飛び交う。もう少しいわゆる普通の医者はいなかったのか。吐き気が強くなった。
(絶対ストレスだ、これ)
ロザリーがベッド脇に椅子を運んだ。そこにディディエが座る。眼鏡を押し上げた。そして手のひらをカナデの頭上にかざした。白の八芒星魔法陣が浮かぶ。彼もまた全てのエレメントが輝く。中央に小さな陽の印があった。ディディエは眉をひそめて魔法陣を消した。
少し甲高い声で言う。
「じゃあ診察するね。カナデ・チュウゼンジ君。十八歳? こちらの暦ではまだ十七歳だね。若いなあ、若い! これからはもう痛くないからね~楽にしてね~」
小児科出身なのだろうか。幼児を診るかのようだ。ぐずっていないのに宥められている。しかし、今はそれが嫌ではない。やはり神経が高ぶっているのだろう。甘やかされるのにほっとする。
助手が近づく。ベッドには乗り上げないと手が届かない。膝でシーツの上に乗り、カナデの布団を剥がした。一瞬ぎょっとして前を合わせた。だが彼はすぐに下がった。
「大丈夫~すぐ済むからね~痛くないようにするよ~」
ディディエの魔法陣がまた出現した。カナデの頭からつま先まで流れた。痛みはない。眉間のあたりに圧を感じるだけだ。
「うん了解了解。もういいよ」
一人で頷く。助手を指で呼んだ。バインダーを受け取る。さらさらと何か書きつける。その間にロザリーが上掛けを直してくれた。
「貧血だね~血が足りないね。頭がふらふらするよね~。これは薬を出そうか」
素早く助手が自分のメモ帳に手を走らせる。ディディエは幾つかの薬の名を告げた。
「それと昨日は頭をぶつけたりした? 脳震盪を起こしているよ。吐き気がするのは眼振...目が回るような状態になっているので、船酔いみたいな感じかなあ。どちらも軽症。安心してね。一週間ほど寝ていたのも良くないね。体力が落ちている。こっちも合わせて少し手当しておこうね」
再び手をかざす。また魔法陣が出現した。
「怖くないよ、痛い事はしないからね。はい、私を見てね~それほど面白くないかもしれないけどね~」
歌うような調子だ。笑いそうになった。少しだけ力が抜ける。視線が絡む。また眉間に押されるような感じだ。ディディエの八芒星に呼応するようにカナデの目の前にも八芒星が現れた。黒い。ディディエは一瞬息を飲み、のけぞった。だがすぐに体を戻して頷いた。
「ほほ~う。これぞ殿下が言っていた...すごいな。じゃあ早速」
二つの魔法陣の間に閃光が飛び交った。一瞬だったがカナデの脳内に雷が落ちたようだった。思わず頭を抱えて丸くなった。うめき声が漏れる。魔法陣は消えた。
「あ~ゴメン! 気を付けたんだけね~すごいすごい」
彼の魔法陣はまだ浮いている。ディディエはそれをカナデの頭上に移動させた。一瞬だけ光る。すっと激しい痛みが消えた。ふらつきと気持ち悪さも無くなった。ロザリーが額の汗を拭く。そしてコップの水を渡した。
ディディエは真面目な顔で腕を組んだ。
「痛い思いをさせてしまったね。悪かったね~もう大丈夫」
「はあ...」
頭痛と吐き気は確かに失せた。特大の注射とでも思う事にする。
「チュウゼンジ君は八芒星を今までどう使っていたかな?」
「使っていません。というか、そんな物があるなんてここに来るまで知らなかったです」
「もう一度出せる?」
カナデは首をひねった。どうやって出したのかさえ分からない。
「いいえ。あれは何ですか? 僕が出したんですか?」
「そう。君のは黒の八芒星魔法陣だよ」
エレメントの説明を軽く受けた。ラファイエット王国では普通に使われている魔法陣だ。ただ使える能力は個人差が大きい。魔法をどれだけ理解して使いこなせるか、個人の努力だけではないからだ。生まれつきの能力や学力の差があるのと同じだ。基礎の個人能力の土台の上に築かれ、使用できるのだ。
「チュウゼンジ君は全てのエレメントが有効になっているんだよね」
四つの要素は火・水・風・土で、方角は東西南北だ。
「しかも陰の印があるのはとても珍しい」
「ルキ...デュイ?」
「そう。陽の光と対になる闇の陰だね」
陰とはあまり印象がよろしくない。
「良くないって事ですか?」
「違う違う。パワーの方向性を便宜的な言葉で言い換えているだけ。陽は光、陰は闇。ちょっと聞くとマイナスなイメージだけどね。静寂とか安らぎも君の側だ。これは生物にとって必須だろう? 良い悪いなんてないんだ。そもそも光と闇はバランスが取れているのが大事」
ディディエは目を細めて頷いた。
「チュウゼンジ君は人を静かに癒す印を持っているんだよ。そう思いなさい。さらに面白いのは、その黒の八芒星魔法陣とチャネリングすると魔力が増幅されるんだよ」
「は?」
「とてつもない量になってしまった。おそらくそれほど強いんだ、君の星魔法陣は」
治療の為に同調してみたところ、とんでもない量の魔法になってしまった。加減した治癒力でさえ、なお強くなりすぎてカナデを苦しめてしまった。セシルが風魔法で乾かそうとした時、一瞬でキレイになったのもこの魔法陣のおかげだ。彼女の力以上の効果が出た。
「なぜ自分の魔法陣を使えないのか調査が必要だね。これを持っているとは誰にも言わない方がいい。悪用されると困るよ、分かるね?」
ロザリーが口を挟んだ。
「僭越ながら閣下、申し上げます。殿下がチュウゼンジ様に禁忌陣をお掛けになりました。魔法は使えないはずです」
うむ、とディディエは顎をこすった。
「彼が魔法を使ったわけではない。発動したのは私の魔力だ。でも間違いなくチャネリングすると陽の気を増強するみたいだ。異次元では使ってないなら、どこから出て来たんだろうね、チュウゼンジ君?」
「分かりません。あ...そう言えばここに吸い込まれる時、触ったのがの八芒星魔法陣だと思います」
「ふうむ。まあ私の担当は治療だよ。そっちは専門外だな。詳しくは研究班がやってくれるだろうね。君の体調の悪さはこの国の空気のせいもあるかな。ラファイエットは陽の気が強い国なんだ。陽のパワーにのぼせている感じだね」
だから熱っぽいらしい。
「じゃあ薬は後で届けさせるね。一回二錠、朝と夜。ビタミンも一緒に出すね。美味しくはないけど、頑張ってちゃんと飲むんだよ。じゃあいい子で休みなさいね」
頭を撫でられた。最後まで子供扱いだった。
ふらつきは少し残るものの、起き上がれるようにはなった。ディディエと助手が帰った後、軽くシャワーをした。これはありがたい。ボイラーがあるそうだ。シャンプーはない。体用と洗髪用の石鹸は別々だ。どちらも香りが優しい。洗い心地もしっとりする。
(これってすっごい高級品だよね)
主な動力は炭だ。揚水を利用した電力発電所もあるそうだ。だが施設を準備するのがまだ高額の為に、病院など公共施設や貴族の館で限定的に使われていカナデシュリュー宮は一部で電気導入済だ。家電はまだまだ発展途上だ。もちろんドライヤーはない。濡れた髪をせっせと拭いて乾かす。
(本当にすごい所に来ちゃったみたいだな)
やっと少し現実感が湧いてきた。
その頃にはセシルが花ばさみとリボンを持って戻った。そしてもう昼の刻の半ば(十二時)になっていた。簡単に昼を済ませた後、寝室横の庭園に出た。高い壁に囲まれている。簡単に侵入できないようになっているのだ。庭師が来る時だけ、壁の扉が開錠されるそうだ。
新婚さん仕様の庭のせいか、ピンク系統の花が多い。せめて落ちついた色を選ぼうとしたが逆に派手になる。花嫁が投げるブーケのようだ。それで数少ない白と黄色を選んで摘んだ。
(......開店祝い...?)
しかしピンクよりはマシだ。リボンとからめてささやかなリースを作る。全部で十二個だ。セシルとロザリーも手伝ってくれた。
リシュリューの使いが来たのは三度目の一時。つまり十七時だ。執事に連れられて玄関のホールまで出た。カナデには初めて見る景色だ。上品な豪華さに圧倒される。車寄せに白い車が着いた。運転席からリシュリューが降りた。
「チュウゼンジ、俺と後ろに座るよ」
それまでリシュリューの隣にいたディミトリが運転席に移動した。カナデは保護および監視対象である。腰縄を後部へ放り投げた。捕縛用だ。だがリシュリューはちらっと見ただけだった。
馬車や人を縫って町を抜ける。カナデはじっと外を眺めていた。郊外の森までは一時間ほどだった。空はそろそろ茜色だ。月はもう二つ昇っている。おかげでさほど暗さは感じない。
森の手前の丘で車が停まった。近くに人家はない。眺めの良い高台まで上がった。丸い石が半分ほど等間隔で土に埋まっている。それがラファイエット王国の墓標だ。鉄のプレートが打ち付けられている。名前はない。現場は昼下がりの新宿駅前だった。色々な人が行き交う場所だ。バラバラなおおよその年齢と性別が刻印されていた。
カナデは一人で墓所に進んだ。プレートの一つずつに花を供えて頭を垂れる。呼びかける名前を知らない。
(本当にここにいるんだろうか?)
彼らの魂がまだここにとどまっているような気配を感じる。望めば土の下から答えが来そうだ。カナデの感傷的な希望なのか。恐れは感じない。
リシュリューとディミトリにはその表情は見えなかった。
ディミトリが小声で尋ねる。
「フーシェ閣下は何だって?」
「貧血と脳震盪だって」
「じゃなくて。チュウゼンジの本性は掴めたのか?」
万が一暴れたりすると大変だ。敢えて強い魔力を持つ医師に治療をさせたのだ。
「いいや。でも素直な良い子だって褒めていたよ。俺もそう思うな。何か企んでいる感じじゃない」
「まあ...自分の髪の心配をしていたコマツと比べたらな」
「彼をどうした?」
「もう病院には置いておく必要はない。護衛士団の長官に預けた。コマツは魔法陣を持っていないんだが、妙な波動が出ているようだ。ちょっと心配だ」
「ああ」
二人の視線の先でカナデが立ち上がった。墓参が終わったのだ。暮れていく最後の茜が彼を照らす。黒い髪につややかな光が滑る。カナデの輪郭の線が赤く照らされていた。
リシュリューはうっとりと眺める。
「美しい...闇が凝って宝石になったようだ。あんなきれいな子は初めてだ...」
「ああ...まあ...」
魔闘士団の配下にある魔術研究班から興味深い報告があがった。陰と陽の関係性だ。この二つは相反するファクターだ。
妖狗の陰の印は、自らが持つ角と同じ数の星の形だ。だから人間と感情のやり取りは発生しにくい。しかし人間が持つのは勾玉のような形で、白と黒は相対形である。合わせると完全な球体になる。そのせいなのか、惹かれ合う可能性がある。
ディミトリも陽の印を持つのだ。ここでは存在しえない存在ながらも、畏怖はない。もっとも彼は妻子持ちなので恋愛感情は発生していないが。どうやらリシュリューは違うようだ。まだ正体の知れない人間に強く惹かれている。
(大丈夫なのか?)
ディミトリはふう、と軽く息を吐いた。
カナデが近づいて来る。ふと足を停めた。少し離れた森を眺める。ガラスをひっかくような音がしている。
異変に二人の魔闘士も気が付いた。強い風はないのに森の木々がざわめく。激しい咆哮と同時に枝葉が舞い上がった。森を覆うほどの黒い八芒星魔法陣が空に浮かんだ。濃い靄が辺りに立ち込めた。
リシュリューが叫んだ。
「チュウゼンジ、下がれ!」
しかしカナデはぼんやりと立っている。
靄は黒い塊となった。地上に襲い掛かる。森が割れた。木々が飛び散る。土が舞い踊った。
リシュリューが走った。両手を前に突き出し、白の八芒星魔法陣を発生させる。白い光の渦が獣を襲う。直撃を受けてよろめいた。しかしすぐに黒の八芒星魔法陣がその前に出現した。正面にリシュリューを捕らえる。
カナデは今一つ現実感が無かった。ここに落ちた時に、確かに見た景色のはずだ。映像がゆっくり動いているようだった。リシュリューが何か言っている。光が弾けた。
(あれ...何? 空が割れた時も見た?)
小山ほどある黒い渦を前に恐怖感がない。姿がはっきり見て取れないのに、カナデの脳裏に浮かんだのはやはり懐かしいりノワールだった。漂うムスクの薫りのせいか。大きな犬が怒って吠えている。そんな感じだ。怖くはない。そいつの黒い星魔法陣が輝く。光が束になった。今にも溢れそうだ。危険な匂いを漂わせる。
......ノワール、何を怒ってるの? でもダメだよ、人を噛んだりしちゃ......
大きく両腕を広げた。
......落ち着いて。殿下は怖い人じゃないよ......
カナデの前にも黒の八芒星魔法陣が現れた。カナデは自分がどこにいるのかよく分からない。周囲が闇に包まれた。上も下もない。ただひたすら漆黒が包む。彼の背に陰の印が煌めく。そして溢れるエネルギーを一気に吸い込んだ。
靄の中で獣が形を取り始めた。象ほどの大きさか。それより少し大きいかもしれない。まだ輪郭がぼやけている。頭を振ったようだ。瞳が現れた。白目がない。真っ黒だ。興味深そうにカナデを眺める。カナデもそいつをじっくりと見つめた。
(やっぱりノワールに似ているかも)
靄の色がかつての家族サーロス・ウルフホンドを思わせる。フランス語で黒を意味するノワールと名付けたのは祖母だった。
そんな思いでだけではない。同じ魔法陣と、形は違えど陰の印を持つのだ。親近感を覚える。魔獣も同じなのか、二人はしばらくじっと見つめ合った。互いの印を通して戸惑いが伝わってくる。輪郭がはっきりと形を取った。首と尾が長い。頭から首筋にたてがみのように毛があった。四肢と背中は黒光りする鱗に包まれ、犬とは程遠い姿だ。ばさり、と背中の翼が羽ばたく。胸から腹にかけては鱗がなくて毛皮だ。カナデがしがみついたのはここのようだ。
(...似てない...)
やがて魔獣はふん、と鼻を鳴らす。頭の中に声が響いた。
『お前の名は?』
「中禅寺奏。カナデが名前。君は?」
『お前の呼ぶ名ではない。かつて会った事はないし、迎えに行ったわけでもない』
「そうか...そうだよね...」
死ぬ瞬間に、懐かしい存在が迎えに来てくれのたかと思ったのだ。カナデはしょんぼりと肩を落とした。やはりここでは独りぼっちだ。
『お前は身の程知らずにも共に行こうと誘って来たな。どこへ向かうのか。それ次第では捨て置けぬ』
カナデは少し考えた。冥途でなければどこだろうか。
「う~ん。取り敢えず散歩? ノワールとは毎日行ったよ」
『そいつを知らん。我の名はグリフィスだ。それに歩かずとも我は飛べる。異次元のそのノワールとやらは地面を歩いていたのだな』
「うん。そうだよ、グリフィス」
今度はグリフィスがしばし黙った。どうにも調子が狂う。人間は彼にひれ伏すのに、コイツだけはやたらに親しく話しかけてくる。恐れを感じていないようだ。
また自身がまとう黒い靄を吸い込まれたのは初めてだった。カナデが黒の八芒星魔法陣を手にしたせいだ。
そもそもそれを人間が手にできるなど、今までは無かった事だ。次元の壁を越えた時、確かにカナデはこの世界にはない力を使ったようだ。
グリフィスの周囲に再び靄が沸く。彼の姿が隠れた。
『お前は我の眷属となった。それに免じてここは引いてやる。しかし猿どもには落とし前をきちんとつけてもらおう。アルニウスより使いを送る』
現れた時と同じく唐突に魔獣は消えた。カナデは現実世界に引き戻された。後には荒らされた森が残った。
ディミトリが追いついた。ぐいっとカナデの襟首を片手で掴んだ。
「お前が呼んだのか?」
「呼んでいません。何が何だか...。でも人を噛んじゃダメって言いました」
「犬じゃないんだぞ。あれはグリフィスだろう。奴は妖狗どころじゃない。特別だ」
「妖狗って生き物ですか? 大きかったな。でも話せて良かったです」
「何を話した?」
「散歩しようって」
「はあ? ふざけているのか?」
ディミトリに揺すられてもカナデはきょとんとしているだけだ。リシュリューが息を吐いた。ディミトリの手をいささか勢いよく払った。
「チュウゼンジは病み上がりなんだ。乱暴にするなよ。グリフィスは神獣だ。一緒に散歩だって? やはり知り合いなのか?」
「いいえ。落ちる時に見かけたのがグリフィスなのかなあ?」
妖狗とは知らない単語だ。翻訳陣が用語解説までしてくれるといいのにな、とカナデは思った。
リシュリューがカナデを覗き込む。乱れた襟を直してくれた。
「大丈夫か?」
「はい」
ふらつきが収まった。砂を詰め込まれたような重さもすっかり消えて、むしろ気分が良い。この世界で目覚めてから一番の体調の良さだ。
グリフィスは黒の八芒星魔法陣を持っていた。陰の印があるのも一緒だ。瞳も黒い。
(仲間?)
眷属とはそういう意味だ。カナデに免じる、と言ったのだ。彼のエネルギーを吸ったので体調が回復したのだろうか。陽にのぼせているとフーシェ閣下が言っていたが、今はとても快調だ。
帰りはリシュリューの運転だった。ディミトリは頑として後部座席にカナデと乗るのにこだわった。保護より監視を重視したのだ。だから今度はちゃんと腰縄付きだ。妖狗が現れたら役に立たないのだが、それでディミトリが納得するならとカナデが受け入れた。
(やっぱり僕も犬扱いなのかな?)
空には三つ目の月が出た。ガス灯が灯る街を車が王宮に向かって走った。車内は緊張感が漂う。ディミトリは腰綱をしっかりと握り、ちらちらとカナデを見つめていた。
ツヅク!
次回Ⅰ-Ⅲ 魔法の世界で事情聴取 そして王弟殿下のレクチャーはソレですか
お読みいただきありがとうございます。
王宮に連行されました!
グリフィスは象くらいの大きさなのに、お腹の一部だけ触って犬かなあって…。
とんでもない状況下で、判断力が低下していたのでしょう。




