Ⅶ-Ⅰ 襲撃と脱出 そして温浴治療
鉱山への襲撃とカナデの脱出。
また アルニウス側でもロウタ一行が動く。
Ⅶ-Ⅰ 襲撃と脱出 そして温浴治療
月明りが部屋に忍び寄る深夜。木造の質素な小屋だ。食卓用のテーブルに書類やカバンが無造作に散らばる。凍てついた空気を裂いて電話のベルが鳴り響く。目をこすりながら男が受話器を上げた。モリス・ベルナールだ。
「…はい」
少し話した後、彼は受話器を机に置いた。扉を開ける。雪が舞い込んだ。彼はしばらく目を細めて山並みを見つめた。月は三つだ。昼間ほどではないにしろ明るい。彼は軽く頷くと中にもどった。また受話器を耳に当てる。
「はい、見えました。強い防護陣がかかっていますね」
ここはラファイエット王国の端、西アトラン山脈北側だ。こちらも緩やかな傾斜の連山だ。ナント川の水源もある。国境の地域で、麓の森を抜けるとアルニウス領だ。
山肌には、人がやっと通れるほどの穴が幾つも残っている。新たな鉱脈を求めた山師の採掘の跡だ。また、彼らが過ごした小屋も複数残っていた。ただアルニウスとの国境が近いうえに、ラファイエット側へ物資を運ぶのが不便だ。さらにこの周囲は魔鼠に加えて妖狗の生息地だ。優良な鉱床が見つかる前に、早々と採掘は放棄された。
それで住人はいない、はずだった。だが山の中腹から細い煙が昇るようになってから三か月ほど経った。ナントを脱出したロウタ達が行き着いたのはこの地だ。居を構えていた先客がいた。アルニウス人の一行だ。ヤーコブ・タウノとユーホ・ザイラスを筆頭に部下が数人。もちろん密入国だ。
盗掘事件で一度は逮捕されたものの、自国への損害はほぼ無いに等しい。一時釈放が認められた。しかし彼らにナント自治区での居場所はない。新興のザイラス商会がスキャンダルで潰れたら、ニューホルム商会の勢いが復活だ。権力、財力ともに総裁のハッキネンには及ばない。ここを潜伏先に選んだのは、やはりダイヤモンドの為だ。ラファイエット側だから採掘が可能だ。もっと手っ取り早いのは、南側の産出品を安く手に入れる事だ。
そこへ逃亡してきたロウタ達は恰好の人材だ。猿属だからラファイエット側と取引しやすい。ロウタ側にしても、受け入れ場所があるのは有難い。そして先住の盗掘団は幾つかの家を修復して、逃亡者一行を受け入れたのだった。
「さて、と」
モリスは電話を切った。リビング横の部屋へ戻る。小さなベッドが二つ並ぶ。後は作り付けの棚があるだけだ。黄色いランプがわびしく部屋を照らす。小さなストーブが赤い光を放ち、周囲は温かい。
ベッドの一つには、毛布をかぶったアンリ・ヴァランタンが胡坐をかいている。足の間には酒の瓶。足元にも何本が転がっていた。
モリスが声をかけた。
「起こしてしまいましたか。あまりお飲みになると体に毒ですよ」
アンリは瓶に直接口をつけてラッパ飲みだ。
「侯爵ともあろう私が、こんな打ち捨てられた小屋に押し込められているのだ。しかもすぐ横にはお前達が夜中でも音を立てる。眠れるはずがなかろう。ダイヤの横流しは、いずれラファイエットに返り咲くのに必要だから我慢もできようが…狗属にいいように使われているのだ。屈辱だ!」
小屋を住めるようにしてくれて、身の回りの品や食料までそろえてくれたのは彼らだ。持ちつ持たれつの関係である。だが上級貴族のアンリには、おちぶれたと感じる環境だ。モリスは静かに尋ねた。
「閣下、まだラファイエットに戻るおつもりですか?」
「当たり前だ! 妖狗を使って混乱させる。そこをロウタが助けにいけば英雄だ!」
彼はまだ返り咲きの夢を見ている。もう一つのベッドでロウタが寝返りを打った。ぱちりと目を開ける。
「うるせえな。ただでさえ月が眩しくて寝られないってのに、ぶつくさ文句を垂れやがって。アンリ、てめえも俺達に混ざって仲良くするか?」
彼はもはや侯爵を呼び捨てだ。アンリはまた酒を煽った。
「ああ…恥を知らぬ男を信じたばかりに…。チュウゼンジの方を預かってさえすれば…」
ロウタの襲撃を退けたのはカナデだと、キルデベルトから伝わっている。カナデも妖狗を扱えたのだ。エレメント数のせいでキルデベルトからシンクロはできないが、アンリからは連絡ができる。
ちょこちょこと連絡をとっているようだ。
(ここを教えてはいないだろうな)
モリスの心配をよそに、アンリとロウタの口論が始まりそうだ。毎日の事である。アンリは飲んだくれているばかりだし、ロウタはすぐに悪態をつく。実質的に動き回っているのはモリスだけだ。
もっとも、彼は二人の険悪さに動じる様子もない。今も淡々と告げた。
「ベルモンターニュの鉱山長より電話がありました。鉱山に密偵が入り込んでいるようなので、確認してほしいと。すぐに行って来ます」
アンリは酔いで充血した目をモリスに向けた。
「これからか? そういえばキルデベルトが言っていたな。異界人がベルモンターニュにいるようだと」
ダヴィッドの上申もキルデベルトを通じてアンリに伝わっていた。リシュリューが心配した通りになってしまった。
「それは余計に気になりますね」
ロウタは爪を噛んだ。
「カナデがいるのか?」
「それを確認しに行きます」
「じゃあ妖狗を送ってびびらせておくか」
盗掘団にも、大人しく働いているだけとはいえ、魔法がかけられた流れ者がいると情報が入っていた。もしや鉱山に送り込まれたスパイかもしれない。自らは自覚がないままに、情報を集めてどこかへ送っている可能性もある。横流しの先がただアルニウスではなく、逃亡者集団だとばれたらただでは済まない。魔闘士団から一人でも派遣されたら、ここは潰されるだろう。
さらに鉱山全体に不意に強力な防護陣が掛けられた。鉱山長エルザに相談も報告も無かったそうだ。ただの妖狗除けのみならず、魔力の攻撃もかわせる強さだ。空にかかっている分は先ほど確認できた。中のカナデを守る為だが彼らが知る由はない。
「近く何らかの動きがあるでしょう。そいつの正体を早めに確認しておきたいのです。閣下、ここをすぐに引き払えるようにしておいた方が良いかと存じます。ロウタも」
ロウタは起き上がった。ぼさぼさの髪は肩を越えた。しばらく染めていない。半分ほどは少し茶を含む黒に戻っていた。アルニウス人にとっては神の色だ。そして妖狗を躾けたからこそ盗掘団に受け入れられた面もあるのだろう。
「めんどくせえ。それにここを出たってどこに行く? いっそサントルラファイエットに襲撃をかけようぜ」
「それもいいですね」
棚から畳んであるコートを着る。そして長剣を携えた。逃亡の際、護衛士の制服のままだった。それで剣を持っている。モリスはにっこり笑って振り返った。
「例え地獄の窯の底でも付いて参りますよ、ロウタ」
それから外に出た。風が強まったようだ。雪が舞う。小屋の傍に二頭の馬が繋がれている。首を軽く叩いた。
「こんな夜に悪いね。ちょっと頑張ってくれる?」
馬は軽くいなないた。モリスの古い相棒だ。
少し離れた小屋は静かだ。そちらがアルニウス人の住居である。モリスはそれを横目に馬にまたがった。南側へ至る道がある。山師たちが作ったかつてのままだ。古く狭いが馬でも通れる。雪が積もっていてもモリスには問題がない。彼は護衛士団ではトップクラスの魔力量とエレメント数を持っているのだ。
魔法陣が彼の前に浮かんだ。進路の雪を吹き飛ばす。走りやすい道が整う。月あかりの中、モリスは馬を進めた。
一睡もできないまま夜明けを迎えた。まだ朝食準備の時間ではない。しかしカナデはまとめた荷物を背負って部屋を出た。現金も少しある。ナントへの片道切符なら何とかなりそうだ。行ける場所がそこぐらいしか思いつかない。
短かったし忙しく過ごした部屋を振り返る。楽しかった思い出はほぼない。それでも生きる為の場所だった。庭のスケッチは置きっぱなしだ。机にはフランク親子への感謝を綴った手紙を置いた。足音を忍ばせて階段を上がる。
獣の咆哮が響いた。静かに扉を少しだけ開けた。妖狗が鉱山の頂上で群れを成す。瘴気は降りてこない。防護陣のおかげだ。
(もうモリスは来ているのか? 昼くらいってメモがあったけど…)
突然、背後から肩を叩かれた。
「おいボー!」
ソフィだ。まだ寝巻だ。扉からの冷気に身をすくめる。強い目付きでカナデを見上げた。厚手のコートで背中に布袋を背負っているのだ。
「そんな恰好でどこへ行く?」
「と…トイレ」
「雪の中で尻を出すつもりかよ」
彼女はそっぽを向いた。やっぱりあの夫婦のせいか、等とぶつぶつと呟く。
「出ていくなら行くで、あらかじめ言っとけ。忙しいんだよ。こっちにも予定ってもんがあるんだから」
彼女はまたぎろりと目を剥いた。腕がまっすぐ外を示す。
「買い出しの道を使いな。この雪だ。足跡はすぐに消える」
カナデはソフィの目を見下ろした。零れ落ちそうなほど丸い。この瞳が、何も聞かずに人買いから助けてくれた。そして逃げだすカナデの背中を押してくれる。
(楽しい事…あったな。ソフィと親父さんの会話は漫才みたいだった)
そこにカナデも参加させてくれた。庭の秋の花、空の色に変化する彩りを見せる山脈。思い出は確かに鮮やかに心に刻まれている。結んでいないウェーブのかかった赤毛をそっと撫でた。
「ありがとう、ソフィ。親父さんによろしく」
彼女はそっぽを向いた。数歩下がる。
「ふん。冷えちまった。もう少し寝る」
小さな背中が廊下の暗がりに消えた。
食堂の外に出た。殆ど吹雪だ。カナデはフードをかぶった。上着の襟をしっかり合わせた。買い出しの歩道へ入るには、広場の端を横切る必要がある。時間がはっきり分からないものの、まだ誰も活動を始めていないはずだ。
妖狗の叫びが大きくなった。動きが激しい。怖くはない。ドッグランを見上げている感じだ。ナント自治区で見た情景と同じだ。カナデは胸を抑えた。ざわざわする。何かの塊が腹の底でうごめく。今にも飛び出しそうな衝動を懸命に抑えた。
急いで歩道へ向かった。砂利道のはずだが、雪かきをしていない。二十センチほど積もっていそうだ。一度踏み込んだら、足を抜くのが大変だ。数メートル進むだけで汗がにじんだ。
その頃、鉱山前の広場に馬が到着した。飛び降りたのはモリス・ベルナールだ。フードを深くかぶり直した。コートの上のマフラーを鼻の上まで引き上げる。顔はほぼ隠れた。腰には護衛士の長剣がある。馬も彼も息が荒い。彼は馬の背を何度か叩いた。広場を見渡す。一晩かけて飛ばしてきたのだ。
なおもきょろきょろしていると、食堂の扉が開いた。ソフィだ。雪かき用のスコップを勇ましく肩に担いでいる。いつもの三つ編みで、もう身支度は完了のようだ。腰の長剣を見て、はっと息を飲む。見覚えのある護衛士の備品だ。
「お早いお越しだな。営業前だよ!」
彼女はモリスを背に玄関前の雪かきを始めた。モリスは彼女に声をかけた。
「食堂の人かな? 友人を探しているんだ。ボー・デクノはここにいる?」
マフラー越しでも分かる柔らかい落ち着いた声だ。ソフィは身を起こした。モリスは少し目を細めた。うっすら微笑んでいるようだ。昨日の訪問者も名指しだった。探しているのはどこの組織やら。でも彼の滞在はもう知られているようだ。
「ボーならまだ寝てるよ。あんたの名前は?」
「…いるんだね。古い知り合いだから、サプライズで驚かせたいんだよ。入っていいかな?」
「だから営業前だって言ってるだろう? それにここはアタシの家でもある。初対面の女の家に入るような護衛士さんがいるのかい」
立ち去るカナデの為に、少しでも時間稼ぎをしたいソフィだ。モリスの笑みが動かなかったが、眉毛がほんの少しだけ跳ね上がった。
「お嬢さん、どうして僕が護衛士だと思った?」
「あぁ? その剣は護衛士のモンだろうが。魔鼠だって知ってるよ」
貼り付けたような笑顔の底から無言の圧が吹き付ける。モリスは束に指をかけた。ちゃり、と低い音がした。ソフィは息を飲む。スコップを危うく落とすところだった。
隣接する寮の扉が開いた。首までマフラーでぐるぐる巻きになったアダンが現れる。帽子のつばに手を当てた。挨拶替わりにちょっと持ち上げる。ソフィがスコップを構え直した。声が少し上ずる。
「どいつもこいつも早いって! 監督、メシはまだだよ。雪かきしてから。どうせこれだけ妖狗が来ているんだ、坑道へ入れないだろう? 今日は休みだ、休み! ちょっと手伝ってよ!」
「悪いなソフィ。俺はちょいと町まで降りる」
彼はモリスをちらっと見た。先ほどの殺気は消えた。もう束から手を放している。フードとマフラーのせいで顔は良く見えない。
(見かけない顔だな)
アダンは彼に特に気を払う事なくソフィに軽く手を振った。さくさくと雪を踏み、買い出し道へ向かう。不審に思ったが、構っている時間はない。ソフィは望みをかけて背中に声をかける。
「あれ、監督。馬車を待たないのかい?」
「この天気に妖狗だ。欠便だろうさ」
背中が雪に隠れていく。カナデも出てまもない。追いつくだろうか。モリスがまた長剣に手をかけた。再度尋ねる。
「…ボーは寝ているんだね? 急ぐんだ。やっぱり起こしてくれないかな?」
いざとなればソフィを切ってでも内部に入るつもりだった。逃亡護衛士だと通報でもされたら厄介だ。
目撃者と遭遇してしまったものの、お互いに初対面だし顔ははっきり見られていないはずだ。
モリスはアダンが視界から消えたのを確認した。深く大きな足跡が残る。先に付いた足跡に気が付いた。アダンよりも小さい。もう消えかけている。モリスは周囲を見渡した。アダンはもう歩道に入ったようだ。寮のカーテンは動かない。しんしんと雪が降り積もる音だけだ。
「ボー・デクノは、本当はどこなのかな?」
「だから寝ている…」
「話せない口なら要らないね」
顔を上げたソフィは固まった。身動きできない。体全体が痺れる。モリスの魔法陣が目の前にあった。見えない魔力が首を締め上げる。息が詰まった。視界が暗くなる。意識を失う一瞬前に呪縛が解けた。ソフィはがっくりと膝を付いた。ぜいぜいと息を吸う。全身が冷や汗にまみれた。
きらりと光りが目を射た。鼻先に長剣の先があった。ソフィの体が大きく震えた。マフラーが少しずれた。モリスはまだ微笑みを浮かべたままだ。背負った魔法陣が白く輝く。背後からの光で顔が暗い。白い歯だけがやたらに目立つ。
「話したくなったかな?」
唇がわななく。声にならない。小刻みに動き続ける腕をようやく上げた。定まらないながらも、アダンの去った方向を示す。がたり、とどこかで音がした。
(誰か起きたか?)
剣はすらりと宙を舞ってさやに納まった。長居は危険だ。
「ありがとう」
まるで迷った時に道を聞いたような調子だ。コートを翻してモリスが去る。
雪が顔に降りかかる。冷たさがいっそ心地よい。ソフィは這うように食堂へ入り、鍵を閉めた。ようやく大きく息を吸い込んだ。
(ボー…あいつ何者なんだ…)
自分の両肩を抱いて震えた。カナデの部屋へ降りる。夜具はきっちり畳まれて、数少ない荷物は無くなっていた。机に紙片がある。
『親愛なるフランク、ソフィ。短い間だったけれど親切にしてくれてありがとう。料理とっても美味しかったよ。魔鼠以外はね! お元気で』
フランク親子の可愛らしい似顔絵付きだ。彼らにとっては、やはりボーはボー・デクノだった。絵が上手くて勤勉で大人しい。それなのに時々とても頑固になる。そして自分の事を教えてくれなかった。
(何から逃げているんだよ…)
とにかく逃げ切ってくれ、とソフィは心から願った。
モリスはアダンの足跡を追った。道は狭く急な斜度だ。馬は使えない。そのまま歩道に入った。足を取られる。なかなかアダンは見えない。雪道を歩きなれているようだ。モリスは魔法で雪を吹き飛ばした。砂利道が露出する。舗装されていないので足元は悪い。雪道よりはマシなだけだ。
やっとアダンの小さな後ろ姿を見つけたのは、三十分ほど経ってからだ。監督は走るように移動していた。モリスは大声をかけた。
「すみません! ちょっとお尋ねしたいのです、止まって下さい!」
彼は歩みを止めない。聞こえなかったのか。むしろ動きが早くなった。モリスの魔法陣がアダンの背に襲い掛かった。彼はそのまま倒れた。
息を切らせてモリスが追いつく。アダンの顔を覗き込んだ。
「聞こえなかったのかな? 待ってって言ったのに」
アダンも息が荒い。幾つかの魔法陣は彼からも見えていた。だからこそ急いだのだ。
「お前…何者だ?」
「…ボー・デクノを見ませんでしたか?」
「は? 食堂だろう」
アダンはしっかりとコートの前を合わせた。裏帳簿は背中に隠してある。これの持ち出しがばれたのかと思ったのだが、見知らぬ男の目的は違うようだ。
「かなり先へ進んだようですね」
モリスは体を起こした。雪道の足跡は埋まってしまった。吹雪のせいと、モリスが魔法で雪を吹き飛ばしたせいだ。アダンを置いて先を急ぐ。始末するのは後でもできる。時間が惜しい。麓まで行かれる前に追いつきたい。
もう何度も魔法を使っている。その度に魔法陣の光が発生する。それを見ている者が他にいるかもしれない。誰かが来てしまう前にボー・デクノを確保したい。
視界が悪い。カナデの背中を見つけた時には、かなり距離が縮まっていた。またモリスは道の雪を蹴散らせた。風の勢いでカナデの体が傾き、フードがずれる。ちらりと振り返った。茶色の髪がはみ出す。
モリスは目をみはった。幻視だ。だがモリスには幻の下で実像が見て取れた。
(え…チュウゼンジ卿? やはりスパイとして来たか?)
王弟殿下の恋人だと噂の彼だ。
(たった一人で来ているはずがない。だとしたら周囲のお付きに気づかれないうちに行動しなくては)
モリスは急ぐ。足を停めようと、また魔法陣を出す。まっすぐにカナデを狙った。
一方のカナデは振り返りながら急ぐ。モリスはもうすぐ後ろだ。ナント自治区とアルニウスでロウタと一緒だったのは覚えている。
(何で僕がここに居るってわかったんだ?)
逃げなくては。モリスの魔法陣が背後に迫る。呼応して目の前に黒い八芒星魔法陣が沸いた。無意識だった。
(これ…使えるはずなのに…どうしたらいいんだ?)
うろたえるばかりだ。強い魔力に反応して出て来てしまった。モリスの魔法がカナデに届いた。黒い光が沸き起こる。カナデの両足がぐきりとねじれた。極端に膨れ上がった魔力が自身にかかる。倒れた。横たわったまま痛みで身もだえた。拳で地面を叩く。そこは乾いていた。周囲の雪が全て吹き飛び、枯草の平野が出現した。
モリスの口がぽかんと開いた。カナデの強烈な増幅魔力を見たのは初めてだ。
(え? 彼も魔力がある? それならどうして僕を狙わない? なぜ自分に使う?)
モリスは、黒の八芒星魔法陣がただ魔力を増強するだけとは知らない。ただしあまり派手に使うと、周囲にいるかもしれないカナデ側の人間にばれてしまう。
妖狗がひと際啼きかわした。神獣の魔法陣が現れたのだ。大急ぎで退却する。ナントの平和広場と同じだ。ロウタはなかなか彼らを排除できなかった。それがとある一瞬で彼らは消えた。
(宮殿で追い払ったというのは本当だったか。彼も妖狗を扱える。それならどうして僕を襲わせない?)
分からないままモリスが追いついた。腰に手をやる。
「魔法を使わない方がいいみたいですね、チュウゼンジ卿」
「違う、僕は」
問答無用だ。刃がひらめいた。カナデは必死に顔を防ぐ。皮膚の下に騒めく感覚があった。何かが喉を駆け抜ける。波動能力だ。刃の向きが逸れた。それでも防御の為に上げた腕をかすめる。袖を切り裂き、皮膚が切れた。自分の血が飛び散るのが見えた。
「やっぱりあなたも波動が使えるんですね」
モリスの動きが止まった。横たわって呻くカナデを見下ろす。懸命に両手で後ずさろうとしている。モリスは戸惑う。ロウタと同じ能力があるなら、モリスには歯が立たない。それなのに自らに怪我をさせた理由が理解不能だ。
(まさか時間稼ぎか⁈ それにしては重症のようだが)
蹄が地を蹴る音がする。モリスは周囲を見渡した。馬に乗ってやって来る人影がある。
「何をしている⁈」
男の声がした。雪が飛び散る。モリスの剣が魔法で弾き飛ばされた。息を切らせたマチアス・ジュスタンだ。馬からひらりと飛び降りた。
「ベルナール! どうしてお前がここに居る?」
彼は護衛士団の一年先輩である。モリスは息を飲んだ。
「…ジュスタン先輩こそ…」
「あんなに派手に魔法を使いやがって。それを追いかけたんだよ!」
カナデの黒の八芒星魔法陣のおかげで視界が開け、周囲は地面がむき出しになった。夜明けとほぼ同時にモリスの魔法陣が何度か沸いた。待機中のマチアスはその場所を目指して駆けて来たのだ。ダヴィッドとのシンクロを中継して、麓の魔闘士にも連絡済だ。
モリスはじりじりと剣に近づいた。
「…やはりチュウゼンジ卿は密偵なんですね」
「何の話しだ? ベルナール、下がれ。彼に手を出すな」
「エレメントは僕の方が多いですよ。先輩こそ下がって下さい」
また剣を飛ばそうとマチアスが魔法陣を出す。
「だてに王宮勤めじゃない。俺の魔力量を舐めるな!」
しかしモリスの方が早かった。二人の円陣がぶつかる。閃光が走った。カナデの魔法陣が加わる。視界がきかないほどの眩さに包まれた。長剣が吹き飛ぶ。カナデは痛みと恐怖のせいで魔法陣の制御ができないのだ。
「やはり魔法はダメですね」
モリスはすっと身を低くした。マチアスの両足を抱え込み、タックルだ。そのまま倒した。素早く体に伸し掛かった。首を狙うが両手首で交わされる。モリスはその腕を取り、逆方向にねじった。マチアスの小さな魔法陣が浮く。カナデの魔法陣がまたも干渉する。二人は逆の方向へはじけ飛んだ。すぐに両者は立ち上がる。荒い息で互いの間合いを図った。
「ベルナール、何があった? なぜここにいる? 何のつもりだ?」
「質問がたくさんですね。今はご覧の通り、チュウゼンジ卿の命が欲しいのです。異界人は一人でいいでしょう?」
ロウタの罪を知っていればこその発言だ。ロウタをアルニウス籍にしてナント自治区に住まわせたい。それなら生活に不便はない上、国籍が違う人間にラファイエットは手が出せないだろう。そもそも一人きりになった異界人を処罰どころか、恩赦かもしれない。
「お前…チュウゼンジ卿を手にかけたらただじゃ済まないぞ」
「僕はいいんです」
モリスの口元は笑っている。しかし目が細くなった。彼の魔力が噴き出す。
あ、とマチアスは目を逸らした。モリスの背後だ。
「古い手を…!」
モリスが再び飛び掛かろうとした刹那、背後から拳が首筋に落ちた。よろめく。振り返るとアダンだった。追いつかれた。山側を背にしていたので気が付かなかったのだ。アダンは軽々とモリスを持ち上げた。地面にたたきつける。
「うっ…」
肩を抑えてそれでも立ち上がる。じりじりと下がった。
マチアスはカナデをかばいながら怒鳴った。
「ベルナール、投降しろ。今ならまだ戻れるかもしれない」
「僕は敢えて…自分の判断で行動しています。…加勢を呼びましたか? 先輩一人のはずがありませんね?」
雪がうっすらと積もり始めた。モリスは剣の行方を捜すが、近くに見当たらない。
「ベルナール…頼むから…。一緒に行こう、来てくれ」
モリスは無言だ。身を翻した。刀は諦めたようだ。尚もマチアスは声をかける。
「どうして? なぜ? お前ほどの奴が」
「先輩には分かりません」
背中越しの声は冷たい。山道を戻り始めた。マチアスは怒鳴った。
「分からねえよ! だからちゃんと説明してくれよ! 行くな! ベルナール!」
声が吹雪に吸い込まれた。
「じゃあ…今の俺の気持ちは分かるのかよ…」
はあ、とため息をつく。
マチアスは急いでカナデに駆け寄った。彼は顔をしかめて地面を叩いていた。ひっきりなしに呻く。
「…痛い…痛い…マチアス・ジュスタンさん? 怪我は…ない?」
「…さん? 呼び捨てでいいよ。俺は大丈夫だけど…チュウゼンジ卿? 遅くなってすまない」
マチアスの問に首を傾げる。
「ボー・デクノなんですけど。多分チュウゼンジだと思います…。足が…」
マチアスはカナデの肩を撫でた。セシルに言われるまでもなかった。この声、仕草、自分の事よりも先に他人の心配をする。まさにカナデだった。近くで見れば、幻視の下もうっすら分かる。腕の方は大した事はなさそうだ。服のおかげで深く切れていない。マチアスでも止血できる程度だ。
足は見るからに重傷だ。両足とも膝から下が捻じれて曲がっている。既に腫れ始めたようだ。
モリスは足止めをするだけのつもりだったろうが、増幅された魔力は大きかった。周囲には添え木になるような木の枝もない。治癒魔法が使えない彼には、もうどうしようもなかった。自分たちの周囲に魔法陣で空間を作った。雪避けだ。中も温める。馬が少し離れた場所で、所在なさげに首を振った。
透明の臨時テントにアダンも入って来た。
「昨日は夫婦で来たな。あんたの本当の目的は?」
「聞いてどうするよ? とにかく礼を言う、ありがとう。もう少ししたら魔闘士が来る。この人…ボー・デクノを麓まで運んでもらう。もう行ってもいい」
カナデが顔を上げた。
「マチアスさん…おめでとう」
「は? え~と?」
斜め上の祝辞にきょとんとした声を上げてしまった。カナデは声を出すのも辛そうだ。それでも懸命に続けた。
「セシルと結婚したんですね。でも僕はマチアスさんと浮気してないかと…」
「今、その話はいいから! どうしてこんな所にいるんだよ」
「マチアスさんこそ…」
それ以上の返事はない。すぐに目を閉じてしまった。歯を食いしばる。唸り声が止まらない。相当痛いのだろう。
カナデの服に付いた雪を払ってやる。
「あっちに馬車道があるだろう? 途中の避難小屋で待機していたんだ。モリスは何度も魔法を使っていた。そこで浮かんだ魔法陣を追いかけたんだよ」
山道と歩道が併走しているので、林を横切る事ができた。増幅された魔法により、地面の雪が消えたおかげだ。
モリスは昨日からダヴィッドとシンクロを維持したままだ。そこに連絡する。
…見つけたよ、対象を確保。いやいや、保護した。けがをしている。詳細は後ほど。
…了解。殿下に上申する。
モリスはほうっと息を吐いた。とりあえずミッションはクリア。一安心だ。
目をつぶったままでカナデが聞く。
「小屋の中は寒くなかったですか?」
「大丈夫。今だって寒くないだろう?」
「うん。ありがとう」
カナデは呟いた。
「王都に戻りたくない…」
アダンはまだその場にいる。カナデの傍にかかんだ。足を確認する。
「やっぱり知り合いだったか。ひどくやられたな」
「監督…どうしてここに」
「何もしゃべるな。これは完全にいっちまったな。ボー、ちょっと我慢だ」
患部を確認して手をかざす。小さな魔法陣が浮いた。対応する黒の八芒星魔法陣は出てこない。もう気力が尽きた。アダンの少ないながらも温かい力が足の上を滑る。痛みが軽減した。アダンはカナデの様子を確認しながら、手探りでできるだけ足をまっすぐに整えた。手慣れた様子だ。
カナデは目を閉じた。体全体の力が抜けた。マチアスが小さく感嘆の声を上げた。
「すげえな、あんた。それっぽっちの魔力で治癒魔法が使えるのか。あ、えーと」
言ってしまってから、マチアスは咳払いした。アダンは苦笑した。この若い男は、人は良いが口が滑りやすいようだ。
「構わん。俺の魔力はこれっぽっちだし、治癒魔法じゃない。痛みを抑えているだけだ。坑道で事故が起きる事もあるから、救助が来るまでだな。他には土木魔法に特化している」
岩盤事故への対応だ。
「俺は現場監督のアダンだ。あんたは? 事と次第によっちゃボーを連れて行かせるわけにはいかない。土に埋めるぞ」
裏帳簿を守るためだ。事情を知らなくとも、そこまで言われては仕方がない。こちらに加勢してくれた。彼とやり合うつもりはなかった。マチアスは懐に手を差し入れた。身分証明書を見せる。
「護衛士だ。この方を保護する為に来た」
その言葉通りなら、かなりの身分のはずだ。
「こいつ…こちらは何者でいらっしゃる? えらく強い魔法がかかっているようだが」
「知る必要は無いね。邪魔をするならあんたこそ地面の下だ」
アダンは目を細めた。しげしげと証明書とマチアスを見比べる。ふん、と鼻を鳴らした。ただの浮気相手ではなさそうだ。
「魔闘士も来るんだったな。そりゃいい。俺を逮捕しろ」
きょとんとするマチアスの頭を、アダンが拳で小突いた。
「ほら、護衛士への暴行罪だ。連行しろ」
無くなったとエルザに気が付かれる前に、信頼できる機関へ裏帳簿を渡したい。麓の市役所か警吏と考えていたのだが、護衛士団なら王府直属だ。不正の告発をもみ消したりはしないだろう。何しろ王家所有のダイヤモンド鉱山での横領だ。反逆罪である。
カナデを正体不明の者に託したくなかったのも同じ理由だ。彼から裏帳簿をアダンが持ち出したと漏れては困る。正体を知りたい気持ちもあるが、アダンにとっては鉱山の方が大事だ。
下りの道で雪が吹きあがる。比較的強い魔力が段々と近づく。初老の魔闘士が除雪しながら上がって来たのだ。市内在勤の護衛士も一緒だ。遭難者を運ぶ山岳用のそりを持参だ。護衛士はアダンの姿に目をぱちくりさせた。
「監督? あんたもこの作戦に参加してたのか?」
顔見知りのようだが、カナデの正体をばらしてはならないだろう。
わぁっ、とマチアスが飛び上がった。それを横目にアダンが重々しく頷く。
「俺を放置すると情報が漏洩するぞ。逮捕しろ」
彼はもう一度マチアスを小突いた。今度は背中だ。よろめいたマチアスは怒鳴った。
「よし! そんなに拘束されたければしてやるわぁ!」
買い出し道は馬では降りられない。傾斜が強すぎる。マチアスはカナデを魔闘士達に任せた。再び馬に乗り、馬車道へ向かう。
それから一行は山を下りたのだった。
ベルモンターニュから南西にバーデ市がある。西アトラン山脈から少し離れたベッツィー連山を望む中規模の都市だ。ここは温泉が湧く地で保養所が多く存在する。
温泉療法は世界が違っても人間に有効のようだ。ラファイエット国の北西に位置するので気候は寒いが、ベルモンターニュほどではない。ときたま小雪が舞う程度だ。常緑樹が多く、冬の花も咲く。
カナデは王立保養所に収容された。警護がしっかりしているし豪華で充実の設備だ。医師も市内から派遣された。そして治療を受けている。
すでに一週間が経過していた。カナデは全ての事情聴取を拒否しているが、お咎めなしだ。それどころか、手厚い看護を受けている。セシルはこの地に居残り、世話をしてくれている。
朝食後には朝の診察だ。窓が広く、庭園に面した貴賓室だ。カナデはベッドで身を起こす。雪山に来た魔闘士は幻視を解けなかった。まだ外見はラファイエット人である。記憶を奪う魔法も解除がまだだ。コレットの強い魔力に対抗できる者が、この近辺にはいない。だからカナデは相変わらず『ボー・デクノ』のままだ。
「もうすぐお医者様がいらっしゃいますよ」
セシルが背中のクッションを整えてくれた。幅広のズボンを膝までまくる。カナデには見えないものの、ギプス替わりの魔法で固定されている。皮膚はまだ青くはれ上がって痛々しい。
「ありがとう、セシルさん」
カナデは彼女に顔を向ける。どことなくよそ行きの笑顔だ。少しよそよそしい。まだ記憶が戻っていないのだ。共に過ごしたのは落下直後の病院と最初のナント自治区だけだ。宮殿でのふれあいは無くなっている。
看護婦を従えた医師がやって来た。恰幅の良い初老の男性だ。銀髪をきれいに撫でつけてある。
「おはようございます、チュウゼンジ卿」
まだカナデには居心地の悪い呼称だ。ぴょこんと頭を下げる。彼は身を屈めて足の状態を眺めた。
「腫れはまだ酷いですね」
膝下の骨は二本ある。内側の脛骨と外側の腓骨だ。それが両方砕けるように折れる重傷だった。もし日本でこの怪我なら手術で骨片を繋げる必要があっただろう。下手すれば両足切断である。しかし医療魔法のおかげで切開なしで治療が進む。
だが問題があった。カナデの黒の八芒星魔法陣である。お互いに意図しない形で出現してしまう。窓の一部が新品なのは、魔力の暴走で破損したせいだ。
だから治療は夜間だけだ。カナデを薬で眠らせてから魔法をかける。骨片を集めて再建し、痛んだ神経を修復する。一気に治すと筋肉や無事な神経とも不整合を起こしかねないので、治療はゆっくりと進んでいる。また、無意識に動かさないように敢えて痛みは消さずに残してある。カナデは自由になる足の指をもじもじ動かした。それでもすねに痛みが走った。
「歩けるのはいつぐらいになりそうですか?」
「状況次第ですが一か月はかかりそうです。さらにリハビリに一か月ほどでしょうか。でも王都にお帰りなら二週間あれば見通しが立ちそうですね」
「帰りません」
何度か繰り返された問答だ。戻れば殺される。これはまだカナデの中では有効な呪いだったし、やらなければならない事もある。
日中は、夜間にかけた魔法でゆっくりと骨の修復が進む。体をむやみに動かさなければ後は自由だ。医師が帰った。次の診察は就寝前だ。
「チュウゼンジ卿、起きましょうか」
セシルの手を借りながら車椅子に移動した。机の上にはセシルが用意してくれた新聞や雑誌が乗っている。それらを手にした。
(こんな生活でいいのかな~)
治療費の支払いは断られている。王家がもつらしい。
新聞の見出しは、今日もダイヤモンド鉱山の不正を伝えている。ここ数日はずっとそうだ。アダンが持ち込んだ裏帳簿が魔闘士団を通じて政府に渡った。収賄受託の官吏は逮捕され、エルザは即日更迭だ。また横流しにアルニウス人が関与していたのも、彼女の証言から分かった。ラファイエット王国の領地に密入国である。
(…もう潜伏地にはいない、と)
モリスは密輸団の一味に加わったのか、カナデには判然としない。彼は口にはしなかったが、おそらくロウタと一緒だろう。意外と近くに居たのにぞっとする。目の前できらめいた刃は今でも夢に出て来るほど怖かった。彼の目は吹雪よりも冷たかった。異界人についての記事はない。隠匿されているのだろう。
セシルが豆茶を運んで来た。
「チュウゼンジ卿、天気が良いわ。昼の刻はお散歩に行かない? ずっと部屋の中は退屈でしょう」
「ううん、大丈夫です」
セシルは少し肩を落とした。散歩を断るのは、セシルの手間を考えてだろう。車椅子移動は一人でもできるが、部屋から出るとなると必ずセシルが付いて来てくれる。それが大変だろうと気を回してくれるのだ。カナデは他人行儀になってしまった。彼女に手間暇をかけさせまいとする。もう少し甘えて欲しいのだ。それをカナデは少し勘違いしたようだ。
「セシルさん、マチアスさんは先に帰ったんですよね? 居残りをさせてすみません」
二人の結婚は、カナデを探す為の口実である。それはもうカナデに説明済みだ。だが馬車の中でマチアスはセシルを口説いていた。実はかなり仲が良いのでは…とカナデは勝手に思っている。だから彼がいなくなって淋しいと思ったのだ。
「ええ。仕事。ゆっくり話をしたがっていたわ。チュウゼンジ卿が王都に戻れたらねって言ったの」
「はあ…」
会話はなかなか弾まない。セシルは記憶が早く戻るといいなとずっと思っている。どうにもカナデとの距離感がなかなか縮まらない感じだ。
カナデは新聞を置いた。ふう、とため息が出る。
「歩けるようになったら、アルニウスへ行きたいな」
ロザリーを連れて帰りたいのだ。
「まずは治してからね」
「はい」
カナデは時計を見た。さすがにもう八時間計も見慣れたものだ。昼の刻二時(午前十時)近い。温浴療法の時間である。保養地だけあって温泉を利用した治療も組み込まれているのだ。病室から移動が必要だ。
内線が鳴った。受話器を上げたセシルはえっ、と息を飲んだ。
「はい、はい、ただいま」
落とすように受話器を置いた。
「ちょっと…ちょっと出ます。待ってて!」
スカートを翻して走り去る。
(何だ…)
カナデはしばらく待った。だが時計の針が定時を回っても戻らない。温浴治療用の部屋は、他人に肌を見せないラファイエットらしく個室だけだ。予約してあるはずだ。入院者はカナデだけではない。次の予約者に影響を与えてしまう。
(仕方ないな)
車椅子のブレーキを外した。自分で車輪を回して外に出る。一人で部屋に行っても、車椅子から浴槽への移動がかなり難しい。セシルの手を借りなくてはならない。探しに出た。
出入口の方が何やら騒がしい。そちらへ向かった。玄関ロビーに職員が集まっている。ほぼ全員ではないだろうか。彼らの向こう側に軽く手を挙げた男性がいた。
テーブルに飾られた花瓶の赤い花が映える。オフホワイトの上着越しでも分かるがっしりした体格だ。職員の背中越しにプラチナブロンドが光った。周囲を見渡したようだ。横顔が見えた。透き通るような白い肌、形の良い鼻と顎。何か言いたげに淡いピンクの唇が少し開いている。少し伸びた前髪を、顔を振って払った。乳白色に緑や青がきらめくホワイトオパールの瞳だ。
彼は花瓶から一輪の花を取って胸ポケットに差した。一つ一つの動きが計算され尽くしたような美しい所作だ。その美貌もあいまって動くギリシャ彫刻のような存在感だ。
カナデの時間は止まっていた。少し口が開いてしまっていた。あまりの美しさに圧倒されたのだ。もちろん彼はリシュリュー・ラファイエットなのだが、カナデは記憶を消されたままだ。
(あんなに綺麗な男性がいるのか…)
全職員が出迎えるほどの身分なのだろう。それでセシルも呼ばれたようだ。カナデは車椅子の方向を変えた。先に治療室へ向かう。そこで出迎えの儀を終えたセシルを待つつもりだった。
かすかに硫黄のにおいがする。番号が付いた扉が幾つか並ぶ。施錠されている。
(あ、鍵がない!)
そういえばセシルがいつも開けていた。待つしかない。カナデは廊下をもう少し進んだ。窓辺に寄る。太陽が昇り切った。日差しが温かい。庭園ではロビーにもあった花が満開だ。カナデは窓を開けた。窓枠に肘を付いた。頬杖で庭園を眺める。かつ、かつとレンガの道を踏む音がした。数人の話し声がする。あの男性と職員が数人だ。病院長もいる。彼は庭園の説明をしていた。
「散歩もリハビリテーションの一環です。目も楽しんでもらおうとここは通年で花が咲くように庭師が手配しておりまして…」
男性が答えている。
「皆が患者の為に尽くしているのはよくわかった。ご苦労。だが私はすぐにでも面会したいのだ。回復は順調なのだな?」
「はい。ただ、今の時間は温浴治療の時間です。しばらくお待ちを」
「うむ。ならば待とう」
カナデはぼうっと男性を眺めた。声まで魅力的だ。
(素敵…)
一方のリシュリューは、何気ない様子を装っているが少しイライラしていた。すぐにでもカナデに会いたい。しかし到着するなり玄関で足止めだ。病院長の挨拶に始まり各職員の紹介を受けた。王族の来院なのだから当然だ。その後には院内の案内に連れ出された。
(早く会いたい…無事な姿を見たい…)
ふと開いた窓に気が付いた。薄暗い背景に白い顔が浮かぶ。リシュリューにコレットの幻視は通じない。
長い黒髪が揺れた。愛しい想い人が肘を付き、わずかに上気した頬でこちらを見つめる。まるで窓枠が額縁だ。カナデの肖像が浮かび上がった。
視線が絡んだ。カナデの全身に電流が走ったようだ。胸が高鳴る。
(き…キレイすぎる…)
はっと肘を戻す。急いで窓を閉めようとした。そんなに高貴な方の邪魔をしてはいけない。
リシュリューが駆け足でやって来た。閉まりかけた窓に手をかける。カナデの手を取った。二人は黙って見つめ合った。しかしほんの少しの時間だ。リシュリューは無言でカナデの頭を引き寄せた。肩をしっかりと抱き寄せる。ふわりと良い薫りがする。
(うわわわわわ)
驚きすぎて何もできない。リシュリューはカナデの顔を覗き込んだ。両頬を包んで微笑みかける。蕩けそうな甘さだ。唇が少し動いた。
「…こんなくだらん暗示で…」
ぶわっと大きく風が吹いた。眩い八芒星魔法陣がカナデに覆いかぶさる。カナデの魔法陣が反応した。
稲妻が走ったようだ。視界の全てが光に覆われる。
カナデの脳内に雷が落ちていた。リシュリューの魔力がカナデに掛けられた呪いを吹き飛ばす。ただでさえ彼の怒りを含む強さだったのが更に膨らんでしまった。コレットの魔法は消し飛ぶ。さらに記憶取得及び治療用の魔法、ついでに全く役に立たなかった禁忌陣まではずれてしまった。ボヤを消すのに台風並みの風雨をあてがったようなものだ。
今まで忘れていた記憶が嵐になって押し寄せる。映像や言葉が一気に蘇り、翻弄される。同時に足の固定が外れた痛みに襲われた。
リシュリューの腕からカナデの体が滑り落ちた。虚ろな目付きだ。急いでリシュリューは肩を支えた。それどころか窓越しにカナデを引き出してお姫様抱っこだ。ぎゅっと腕に力をこめ、額に頬ずりする。人目など構わない。だがカナデの表情はぼんやりしたままだ。目は虚ろで肢体に力がない。
「カナデ?」
呼びかけにも反応がない。
病院長が咳払いした。
「殿下、恐れながら申し上げます」
「何だ、邪魔をするな」
「しかしながら、チュウゼンジ卿は魔力酔いを起こしておられるようです。さらに魔法ギプスも外れてしまいました。すぐに治療が必要かと存じます」
「私がかけた魔法が悪かったとでも?」
この発言は、多少八つ当たりが入っている。リシュリューの想定では、カナデの記憶が戻って熱い抱擁を交わすはずだったのだ。しかし愛しい人は半ば気絶している。
(なぜだ⁈)
やむを得ない。不承不承ながらも、庭園に運ばれた車椅子にカナデを戻したのだった。
強すぎる魔法が全身の不調を引き起こす。浴びてしまった陽の気も半端ない量だ。緊急の減弱治療が施された。それでもラファイエット国でトップクラスの魔力の影響が抜けたのは昼の刻遅くだった。ギプス固定もそれからだ。カナデが魔法陣の使い方を思い出せば、不用意な暴走もなくなる。ようやく睡眠薬なしの治療が始められる。
リシュリューがカナデの病室に呼ばれたのは夜になってからだった。セシルは気を利かせて席を外した。
貴賓室のベッドに腰を下ろしたリシュリューは、カナデを抱き寄せた。肩を強く抱く。カナデも懸命に腕を回して彼を抱きしめた。お互いの体温を確かめあう。二人は見つめ合い、唇を合わせた。
リシュリューがカナデの頬を指の背で撫でる。肩に回した腕にカナデが頭を預けた。少し浮かない顔だった。
「まだ色々と混乱しています」
「そうだろう。ゆっくり養生する事だ。来るのが遅くなったな。事務処理が色々とあった。そうだ、君に伝えておこう」
研究班の班長ロジェ・デマレの分析結果だ。異界人は次元の壁を越えると波動能力が解放されるらしい。だが発現する前に強い圧力を受けて死亡してしまう。たまたま最後だったカナデは波動が発動したので、圧力から体を守れた。それでロウタと共に助かったのだ。黒の八芒星をグリフィスから受け取ったから発動したのか、波動が先なのかは分からない。
しかし魔力は無い。しかも黒の八芒星魔法陣を保持している為、波動を出せるとしても弱い力しかないのだ。カナデにとってはやっと納得できた。
「そうだったんですね。波動が先だと思います。王宮に移動したのは自分の魔法陣をくぐったからです。妖狗の真似をしてみたんですが、詰まってしまいました。出入りできたのは波動能力のおかげですね。でもくたくたになっちゃいました」
まるで誰かが後ろから押してくれたようだった。それはひどい疲労が見せた錯覚なのか、それとも現実なのか分からない。
「八芒星魔法陣の動かし方は思い出しましたけど、波動の使い方はまだよく分かりません」
売春宿から逃げた時と、モリスに襲われた時に使ったようだが、もう一度できるか。
「俺も教えてやれないな。王都に帰ったらデマレに色々と実験をさせられそうだぞ」
カナデは胸の前のリシュリューの指を弄んだ。
「殿下、少しお痩せになりましたか? ご心配をおかけして申し訳ありません」
「謝るな。俺は君にむしろ礼を言う立場だぞ」
リシュリューはお返しとばかりに、カナデの髪を指にからめる。妖狗の襲来を撃退したのは彼だ。
「兄上も義姉上も、お腹の子供たちも無事だ」
「良かった」
カナデの微笑は次の言葉で消えた。
「君が帰るのを待っている。俺は迎えに来たんだ。一緒に王都へ帰ろう」
「いいえ。まずアルニウスへ行きたいです。ロザリーさんを迎えに行くと約束しました」
リシュリューは体を起こした。カナデは唇を引き結んでいる。曲げない意思の表れだ。
「ダメだ。そこで体調を崩したのだろう? 引き止める為の陰謀かもしれない。次は何をされるか」
ずっと後悔していたのだ。アルニウスを訪問させたばかりに、辛い目に遭わせてしまった。妖狗の襲来も彼らのせいではないと言い切れないのだ。
バーデ訪問まで一週間かかったのは、情報の収集と確認作業のせいだ。鉱山の横流しは総理府のパルクに任せた。だが本来は出るはずのない妖狗の発生も調査が必要だ。鉱山監督アダンとマチアスの証言から、逃亡した護衛士モリス・ベルナールが居合わせたのも分かった。
魔闘士団が調査に赴いた時には、彼らの姿は消えていたのだ。盗掘事件に関与したアルニウス人と同行しているようだ。ロザリーは人質のままだ。ナント自治区にさえ連れて来られない。また一段と交渉は難しくなるだろう。そこへカナデを再入国させるわけにはいかない。
カナデは俯いてしまった。王宮以外の生活を体験したが、それは大変ではあったが嫌ではなかった。何よりも自分で働き、普通の生活を送ったのだ。贅沢はできなくても、自分の欲しい物を自分で買えた。部屋では自由。一人の時間が持てる。
「僕はシンデレラになりたいわけじゃないんです」
「灰かぶり? そんな真似をさせるはずがなかろう」
違う次元の物語である。翻訳陣は親切にもシンデレラの元の名前をリシュリューに伝えたようだ。カナデは笑った。心配そうなリシュリューの首に両手を回す。自ら唇を重ねた。
「お話ししたい事がたくさんあります、リーシュ様」
「俺もだ」
その前に、まずはお互いの温もりを味わう。リシュリューはカナデをまた抱きしめる。今度はそっと、優しく。耳たぶを軽く噛み、そのまま首筋へ唇を這わせる。
「あ…ダメです…」
「ん? 嫌ではないのだな?」
手が頬に触れた。指が熱い。舌が鎖骨をなぞった。カナデの息は乱れがちだ。
遠慮がちに小さなノックの音がした。うっすらドアが開く。ダヴィッド・ブリアンだった。
「あの~大丈夫でしょうか?」
彼としてはせっかくの再会を楽しんでいるだろうと気を使った言葉だったのだろう。足がコレなのに、ナニを心配するやら。だが実際にカナデはリシュリューの腕の中だ。あわててリシュリューの肩を押し、少しだけ乱れたパジャマの裾を引いた。
「だだだ大丈夫! 久しぶり、ダヴィッドさん…」
体を起こした。アルニウスの時といい、どうも彼にはソノような場面で出くわしてしまう。彼は少し目を細めただけだ。これが精いっぱいの彼の笑顔なのだろう。
「はい。息災の御様子、何よりです。私は殿下の護衛として参りました。殿下、お迎えにあがりました」
彼はリシュリューを迎えに来たのだ。警備と施設の関係で、彼を病院には泊められない。市内の迎賓館で宿泊の用意が整っている。
「ここで良いではないか」
「警備上の問題です、殿下」
なおもゴネたリシュリューだったが、そこは公人である。何度もカナデにキスした後で病室を後にした。
ツヅク! 次回 Ⅶ-Ⅱ 夜空のランデヴー そして海辺の要塞へ
記憶を取り戻したカナデはグリフィスと再会する。そしてロザリーの奪還は?
お読みいただきありがとうございます。
いよいよ終盤に差し掛かってまいりました! 起承転結の転かな?
最後までお付き合いいただければ 幸いです。
六話の最終行、Ⅶ‐Ⅰの予告題名と違います。変更しました。
モリスがどうしてロウタに執着するのか。次回以降となりますが、今回はコワイわ~。




