Ⅶ-Ⅱ 夜空のランデヴー そして海辺の要塞へ
ロザリーの奪還なるか。
そしてロウタ一行は 返り咲きを夢見て
帰還を目指す。
Ⅶ-Ⅱ 夜空のランデヴー そして海辺の要塞へ
一人になったカナデは息を吐いて天井を見上げた。この世界に来てまもなく一年になろうとしている。めぐるましく過ぎた日々のせいなのか、かつての世界が遠い昔の出来事のようだ。
やや間隔が短く数回ノックがあった。答える間もなく扉が開く。ディミトリ・コリニーだった。少し息を切らせている。
「チュウゼンジ卿、元気そうだな。足は災難だったな」
カナデは半身を起こした。何回目かの挨拶をする。
「お久しぶりです」
魔闘士の長官だと分かるが、名前がうろ覚えだ。
(記憶喪失のせいじゃないよな…)
ディミトリは室内をざっと見渡した。
「殿下はこちらではないのか」
「ダヴィッドさんが迎えに来ました。え~と貴賓…館だったかな?」
「分かった。そちらへ向かう。全く人を呼びつけておいて…」
カナデの見舞いに来たわけではなさそうだ。彼はさっさと踵を返す。去り際にカナデに声をかけた。
「鉱山の騒動も聞いた。モリスが噛んでいるとは、おそらくコマツも一緒だろう。ガス爆発も彼の仕業と判明した。疑って済まない。次に会った時、我らはコマツを…。いや、忘れろ」
カナデは返事ができなかった。横たわるのも忘れ、座ったままだ。頭の中が真っ白だ。考えがまとまらない。
(ロウタを…ロウタをどうするって? 犯人はなぜ今頃分かったんだ?)
爆発事件も酷かったが、王宮襲撃もロウタだとしたら。王族への反逆は死罪だ。
どれほどそうしていたか。魔法陣に響くものがある。シンクロで呼ばれている。黒い光はグリフィスだ。記憶を失っていた期間でも呼びかけは感じていたものの、応え方が分からず放置したままだった。急いでシンクロした。亜空間の暗闇が広がる。意識だけの存在になったせいで足の痛みが消えた。
「グリフィス?」
呼びかけに返事はない。ただ漆黒が広がる。唸り声がした。少し離れた場所に陰気の塊があった。
「グリフィス!」
駆け寄るが、ふんっとばかりに交わされた。グリフィスにまとわりつく陰の気を吸ってみる。輪郭がぼんやり現れた。背中を向けている。
「ねえグリフィス…」
ぐうう、とまた唸る。しっぽがぱたんと倒れた。
「こんなに長く我の呼びかけを無視するとは…」
拗ねているのか。
(神様なのに!)
でもそれが可愛い。
「ごめん。ねえグリフィス…ごめんってば…」
背中に抱き着いた。固い鱗だ。その上の首から生えたたてがみを撫でた。
「あっそうだ。ここ、編み込みにしてあげるよ。飛ぶ時に邪魔じゃない? 姉さんにやらされたから出来るんだ」
ちょっと体が動いた。まだこっちを向いてくれないが、離れない。それをいいことに、太い腿の上によじ登った。たてがみを手に取る。手櫛でほぐした。手早く編んでいく。がっしりした髪質だ。姉の繊細な手触りと違う。下の姉は長い髪なのに、自分で編み込みはしない。カナデの御役目だった。鏡の中で目が合うと、悪戯っぽい笑顔を浮かべて弟を見つめかえしたものだ。つんと鼻の奥が痛くなる。ぐすん、と声が漏れてしまった。
グリフィスはちらりと振り返った。
「泣いているのか? それほど嫌なら」
「違うよ! …こっちの世界にも、僕が髪を編んであげる人が…グリフィスがいるって思って…。できた! 最後の所、留める物がないんだ。魔法でやって? 僕は三つ編みにするよ。ほら、お揃い」
自分の髪も素早く編んだ。そしてカナデは背中から降りた。
グリフィスは頭を振ってみた。たてがみがきっちりと編み込まれて顔にかからない。正直なところどうでも良かったのだが、小さな手で一生懸命編んでいたのが可愛らしい。とても心を動かされた。自分に手を触れる者などいなかったのだ。
(これが犬や猿が言う触れあいか。このようなものとは知らなかったぞ。こんなちっぽけな者が、ご機嫌取りに我に触れるとは。いじらしいと言うのであろう。それに、あんなちゃちな魔法に惑わされたのだ。恥じ入ったのだな。我が恐れ多くて応えられなかったのであろう。まあ許してやるか)
さすがは神様の発想である。しかしご機嫌は回復した。
ようやくグリフィスはカナデに向き直った。大きな風がカナデを包んだ。あやうく転ぶ所だった。
「何と言うざまだ、その足は。我を呼べと言い置いたであろう? そんなささいな猿の魔法ごときでおのれを失うとは情けない。我の眷属なのだぞ。もっと自覚を持て」
「…ごめん…」
言い訳をするつもりはなかった。足の怪我は自分の増幅能力のせいだ。それにやり方が分からないとはいえ、強く呼びかけたらグリフィスから声を拾ってくれたかもしれない。
カナデは柔らかい腹にしがみついた。温かい。馴染みの薫りが鼻腔に広がる。
「グリフィス、本当にここが気持ちいいな」
「やはり我をとても敬愛しておるのだな」
ぐるぐる、と喉が鳴った。
「カナデ、散歩に行ってやっても良いぞ」
「えっ本当? 一緒に出掛けたいってずっと思ってた」
カナデの目が輝いた。見かけはかなり違うが、においと体毛の色は懐かしいノワールだ。そう思えるのは黒の八芒星魔法陣と陰の印のせいなのか。それでも親愛の情は嘘ではなくカナデの心に存在している。
「よし」
亜空間が溶けた。元の病室だ。大きな窓が真っ暗だ。グリフィスの体が塞いでいるのだ。カナデはベッドから降りた。足の痛みはやはり消え去っている。窓を開けた。グリフィスが片手を差し伸べる。ひれのついた龍の手だ。尖った爪を避けながら掴むと、胸に抱かれた。
「行くぞ」
ばさっと羽音がした。体が浮き上がる。地面がみるみる遠ざかった。足の下のどこかで複数の悲鳴が聞こえた。グリフィスの羽音に気が付き、姿を見たのだ。カナデはそちらへ向けて怒鳴った。
「ちょっと出かけて来ます!」
カナデがグリフィスと出奔したのは、すぐに市内のリシュリューにも伝えられた。お付きの護衛士ダヴィッドは感情の動きをあまり感じさせない表情だ。しかし眉毛がこころもち八の字になっている。
もう寝室にいたリシュリューは、窓の傍に立っていた。もう黒の八芒星魔法陣を感じていた。彼はダヴィッドに言った。
「グリフィスと出かけたんだろう。記憶がきちんと戻ったという事だ」
「ご心配では?」
「まあ足があれだから、少しはね。でも元気が一番だ」
どこか、何かがずれている。そう思わずにはいられないダヴィッドだった。
グリフィスとカナデは順調に空の旅だ。
冷たい風が頬を撫でる。グリフィスの毛並みに体を寄せた。
「ありがとう。足を治してくれたんだ」
「ふん。もっと我を頼れ」
彼ほどの魔力ならば、不整合を起こさず怪我を治せるようだ。両足とも違和感は全く無かった。
「あったかい…落とさないでね」
「こうか?」
グリフィスがぱっと手を放す。空中に放り出された。今日の月は三つだ。明るい空にカナデの悲鳴が響いた。内臓がふわっと浮く感覚に襲われる。
「え~待って!」
すぐに体の下にグリフィスが来た。背中で受け止める。翼の間にくぼみがあった。そこに座る。
「び、びっくりしたぁ!」
「ふふ、お前を落とすはずがなかろう」
カナデの心配をからかったのだ。二人とも髪は解けていない。どうやらちゃんと留めてくれたようだ。
「ひどいなあ…あ、グリフィス笑ったね。初めてだ!」
「そうだったか? まあ悪くはない」
神官はひれ伏すばかり。感情を分かち合うのは、一人で過ごしてきたグリフィスには初めての体験だ。心が高揚する。それに戸惑いを覚えながらも、さらにカナデを構いたくなる。
「こんなのはどうだ?」
ジェットコースターさながらにローリングし、空中で回転した。もちろん魔法で落ちないように抑え込んでいる。カナデは怯えるかと思いきや、キャッキャッとはしゃいだ声を上げている。笑い声が背中で途切れない。
「すごい! すごいよグリフィス! 楽しい~!」
もともと絶叫マシンは大好きだった。明るく輝く夜空にグリフィスの影が踊る。大河を越えた。
「もうナントの上だね」
「そうだ。我の住処を見せてやろう」
都市の東側の東アトラン山脈に飛来した。中腹に家ほどの岩がある。その陰にグリフィスが突っ込んだ。
「うわあ!」
思わず悲鳴を上げた。顔を伏せる。
風が止まった。目を上げると、高い天井の洞窟だった。全体がほんのり明るい。彼の魔力で明るいのだ。
背中から降りたカナデは周囲を見渡した。
「あ、あ~」
声を出してみる。天井から残響が戻った。洞窟の中には何もない。むき出しの岩肌だけだ。
「グリフィスは超ミニマリストだね」
「物は不要だ」
奥の壁に亀裂がある。そこで灯火が燃えていた。近づいてみる。幻だった。赤いカーテンが炎の後ろにある。見覚えのある光景だ。
「あ、これって神殿かな」
「そうだ。亜空間で繋がっている」
ここでムスクの匂いがすれば、神官からの呼び出しだ。
「へえ。グリフィスは地の気を吸うんだっけ?」
「その通り。こうだ」
空気が揺らめいた。グリフィスが首を上げた。すぅーと音がする。これで食事終了だ。味気ないようだが、これが彼の習性なのだ。
「う~ん、早くていいかなあ。妖狗達も同じ?」
「奴らは獣なのだ。人間を食う。一緒にするな」
「ごめん」
ふとカナデは違和感を覚えた。落下の当日、空には妖狗がひしめいていた。中にはグリフィスもいた。次元を割いたのはどっちだ? 獣である彼らができるのか? 黙り込んだカナデを黒い瞳が覗き込む。
「どうした? 怒ってはいない。お前は色々と知らぬだけだ。聞けば教えてやろう」
「うん。あの…僕が落ちた日、空を割ったのって誰?」
「妖狗どもだ。数が集まり、力が増した。はしゃぎ過ぎだな。だから我が閉じてやったまで。奴らがやる事で我が出来ない事はないぞ」
「それはそうだよね」
妖狗の群れが次元の壁を割いた。カナデ達が吸い込まれる。閉じたのはグリフィス。そこに黒の八芒星魔法陣が浮かんだ。次元の壁を越えたのでリミッターがはずれ、カナデの波動能力が発動した。そして八芒星魔法陣を手に入れ、生き残る事ができた。カナデの中でやっとつながった。
『妖狗ができる事はグリフィスも可能』
当たり前だ。神獣と呼ばれるグリフィスだ。しかし一度も考えた事が無かったのだ。ハッキネン・ニューホルムの言葉がようやく腑に落ちた。
…帰るおつもりがないのなら…
神の御使いとされるカナデが、当然この事実を知っていると思ったのだろう。それにも拘わらずカナデは王国に留まっている。帰る気が無いのかと思われたのだ。だからこその発言だった。グリフィスは異界への道を開ける。この時のカナデは気が付いていなかった。だからこそ面会の時に言葉を濁したのだ。ハッキネンはカナデをこの世界に留めておきたいだろう。
(帰れるのか…!)
グリフィスが首をかしげた。じっとカナデの様子を窺っている。カナデは彼の腹にもたれた。
「やっぱり神様なんだね、グリフィス」
「今更か。他に気になる事があれば言え」
「…うん…あの…今思いついただけなんだけど…」
続く言葉をグリフィスは黙って聞いた。カナデが不安になるほど彼は考えていた。
「それで良いのか?」
「うん…」
「迷っているな? それならば時期ではないのだ」
「そうだね。この次にゆっくり話したいな」
カナデは少し寂しそうに笑った。話を替える。
「その前に、アルニウスにラファイエット人がいる。その人を連れて帰りたいんだ。どうしたらいいか考えないと…」
「今、連れて行ってやろう」
「えっいいの? やったぁ」
それは有難い申し出だ。ただグリフィスも彼女がどこにいるかは知らない。
ナント自治区のグリフィス神殿で雷が轟いた。神官が急いで扉を開ける。そこにいたのはカナデだった。グリフィスが八芒星の印で移動させてくれたのだ。アルニウス人が顔を出す。フードが揺れた。彼らも久しぶりに見る感じだ。お辞儀をする神官に軽く頭を下げた。
「夜分に恐れ入ります。ここの近くにニューホルム商会がありましたよね」
「御使い様、ご来訪を歓迎いたします。グリフィス神は何をお伝えでいらっしゃいますか?」
「う~ん、僕の用事なんですけど、ハッキネンさんに会えますか?」
神官にとってカナデはグリフィスの化身である。否があろうか、あるはずはない。すぐにカナデはニューホルム商会へ連れて行ってもらったのだった。無礼は承知の上だ。
応接室の時計は、まもなく日付が変わる。カップがテーブルに置かれた。ウーロン茶のような薫りのアルニウスのお茶だ。だがカナデは手を付けなかった。やや待たされる。やはり十二時間計は見やすいなあ、等と思っているうちに扉が開いた。頭の上の髪がやや乱れたハッキネンだ。立とうとするカナデを制して正面に座った。
「お久しぶりです。驚きましたな。直接こちらにお越しになるとは」
カナデは彼の言葉を遮った。
「こんな時間に突然押しかけて申し訳ありません。教えて下さい。ロザリーさんはどこですか?」
「はて。どうして私が知っていると?」
「あなたは僕をアーネコスキに留めようとしたでしょう? だったら僕の連れがどこにいるのかご存じかと」
「何を仰っているやら。ラファイエット人が国内にいるのはもちろん存じております。しかし大切な客人ですから、身に危険が及ぶような事があってはいけません。居所は政府が管理しておるでしょう」
ハッキネンは手の付けられていないカップを見た。
「せっかくいらしたのです。部屋を用意させましょう。お休み下さい。お話しは明日にでもゆっくりと」
「お断りです。何か入りのお茶なんか真っ平ですから」
意識を失う前のハッキネンの言葉だ。そのまま返す。カナデは立ち上がった。ここで情報が得られないのなら、アーネコスキに直接行くまでだ。ハッキネンは扉を開けるカナデを止めなかった。
廊下には護衛がいた。カナデが一瞥をくれただけでびくっと震える。カナデは怒っていた。顔に正直に出ていたのだろう。
外に出た。暗がりに寝巻のままのヒューゴ・ニューホルムが立っていた。背後に車がある。急いで駆けつけたようだ。口が僅かに開く。カナデは無言で彼の前を過ぎた。神殿に向かう。
ヒューゴが着いて来た。
「…すまねえ」
カナデは振り返らない。ヒューゴの親切は嬉しかったし、頼りにもしていた。それを自分でつぶしたのだ。背後でぐすっと鳴き声がした。
「これは…これだけは見てくれ。試作品だ」
思わず足を停めて振り返った。ヒューゴは頭を垂れた。体の両脇で握りしめた拳が震えている。両手で握りしめた布を差し出した。ハンカチほどの大きさだ。三つの月の灯りを吸い込む黒さだ。
「お前が教えた泥染めだ。どうだ? よく出来てるだろう?」
ヒューゴは片手で顔を拭った。
「製品化に向けて増産中だ。それと工場で毛並みを褒めた女の子がいただろう? お前に手紙をくれたんだと。ここのアルニウス役所が預かってる」
カナデは布を見つめた。自分の蒔いた種が芽を出したのだ。人々の熱意に満ちた目が蘇る。あの時の交流は嘘ではなかったと思いたい。
「…僕に毒を盛ったよね。ハッキネンさんに飲まされた。ヒューゴは初めから知ってた?」
「何を言っても言い訳だ。だまし討ちになってすまねえ」
かすかに聞こえたハッキネンの言葉。忘れはしない。しかしヒューゴはヴァーラリスタの危険性について、あらかじめ教えてくれていた。それで敢えてそれの入った豆茶を飲ませるだろうか?
「知らなかったら知らないって言ってくれ! 友達じゃなかったのか?」
ヒューゴの拳のみならず、全身が震えた。
「…知らなかった…俺は無事にお前をナント自治区まで戻す役目だったんだ…。でも許してくれなんて言えねえ。ミッションは失敗だ、完遂できなかった。自分が情けねえ」
ヒューゴの方から背を向けた。
「俺は独り言を言うぞ。古い城塞に猿属用の着替えが搬入されたとかしないとか。もう海が見える場所とか。エケナスとか」
「…本当に?」
「独り言に返事をすんじゃねえ」
政府管理の極秘情報だ。それを伝えてくれたのだ。
行き先は分かった。カナデは空を見上げた。
「グリフィス!」
呼びかけに応じて黒い神獣が姿を現す。宙に留まりながらカナデの襟首を口でくわえた。ポイっと背中に放り投げる。
ヒューゴはぽかんと口を開けた。その場に尻もちをつく。カナデの声が振ってきた。
「本当だったらお礼を言うよ!」
「お…おう…」
見えるだろうか。ヒューゴはおずおずと両手を掲げて振った。
(やっぱアイツは御使いだわ~!)
神獣を呼び捨てで呼び出すとは。重要機密を教えてしまった心の痛みはある。国を裏切る行為だ。だがその前に彼は友達を結果的に裏切ってしまった。その借りを返しただけだ。また会えるだろうか。彼らはすぐに見えなくなった。それでもヒューゴは手を振り続けた。
一方、応接室にはまだハッキネンがいた。窓際で飛び去るグリフィスを見送る。傍らの執事が声をかけた。
「ヒューゴ様をお呼びしてよろしかったのですか?」
「構わん」
ハッキネンは、もともと無理やりカナデを留めるのには反対だったのだ。ヒューゴが情報を漏らすだろうと思いながらも、市内の彼の自宅から呼び出した。それで、カナデを応接室で待たせる事になった。
「政府には何とか誤魔化そう。二つの国が友情と信頼で結ばれる日が来ると良いのだが。ヒューゴとチュウゼンジ卿のように…」
最後は独り言のようだった。これでアルニウスは人質というカードを失う。宮殿来襲の件も未だ解決を見ない。盗掘事件から始まった一連の騒動は、一年経った今も尾を引いているのだ。
北への飛行はアーネコスキを越えた。ヒントは古い城塞でエケナス。グリフィスはその場所を知っていた。かつて海から妖獣が内陸部にまで侵入した。それらから首都を守るために築かれた場所だ。
「まだ千年ほど前ほどだ。人間の血液に侵入して中から食い荒らすという奴らだった。寄生された人間は肌が青くなるが狗属は分かりにくくてな。頭の上から首筋まで剃るスタイルが流行ったものだ。助けを求めるので我は…」
ほうほう、とカナデはずっとグリフィスの思い出話を聞いている。長く生きているだけあって、話のネタは尽きない。しかもカナデの知っているどんな神話とも違う。興味深いのだが、もう明け方が近い。密着した部分は温かいし、魔法のせいなのかさほど風にあおられる事もない。自然と首がこっくりこっくり倒れる。
グリフィスも、自分の話しをそこまでした事はなかった。悪い感じでもない。カナデの反応構わずに話し続ける。
「それでその連中ときたら…こら、聞いているのか」
「うん」
カナデは目をこすった。
「神官さん達にも話したの?」
「いいや。奴らはつまらん」
怯えてひれ伏すばかりだ。それなのに要望ばかり告げるのだ。
「してあげればいいのに。もっと話したがってたよ。今の話を書き留めて本ができるね。グリフィス叙事詩とかどう?」
「本? 読んだとしても、その人間はすぐにいなくなるぞ」
カナデはあくび交じりだ。睡魔と闘いながら声を出す。
「うん…でもさ…グリフィスの事を、皆にも知ってもらいたいっていうか…もっと親しみってものが…」
自分でも内容がよく分からないまま話す。
グリフィスは口を噤んだ。自分の記憶を人間に伝えるなど考えた事はなかった。彼らはほんの短い時間だけをこの世界で過ごし、消えてゆく。それなのに親交を結んでも無意味だと思っていた。グリフィスにとって人間は川のような物だ。そこに流れてはいるが、水は常に入れ替わっている。彼は望まれるままに流れを守るだけだ。そうすれば自らの住処と孤独の静寂を邪魔されずに過ごせる。
この外来者もほんの一滴だ。行きがかりで自分と同じ印を与えただけだ。すぐにいなくなるだろう。だがグリフィスは彼をもう忘れない。自分をより知って欲しいなどと思ったのはいつ以来か。
カナデがいなくなった時の事を考えたら、胸の奥に痛みを感じた。彼に会ってからというもの、それまでは知らなかった感情が沸いて来る。陰の印を通じて流れ込んできたようだ。
谷間を進む。灯りのすっかり落ちた町を幾つか過ぎた。
「見えてきたぞ。あれだ、エケナス砦と呼ばれているのはあそこだ」
一見するとただの灰色の岩の塊だ。だがのっぺりとした壁のあちこちにくり抜かれた窓があり、黄色い明かりが灯る。砦の周囲では城壁が崩れたであろうがれきが積み重なっていた。
カナデは大きく伸びをした。まだ眠い。グリフィスが砦の周囲を旋回した。そこでカナデは怒鳴った。
「ロザリーさん! いたら窓を開けて!」
幾つかの窓が次々に開いた。カナデの声というよりはグリフィスの羽ばたきのせいだろう。そのうちの一つで、布が振られている。 最上階だ。七階くらいだろうか。片手にランプを掲げてハンカチを振っているのは、まさしくロザリー・ダンテスだった。満月よりもなお目をまん丸にしている。窓を開けてから、グリフィスの全容が見えたようだ。声を出せないようで、口をあんぐり開いたままだ。手の動きも止まってしまった。さほどやつれた様子がなさそうだ。
(ああ、元気そう)
カナデはまずそれにほっとした。
彼女の前の空中でグリフィスが停止した。カナデは手を差し伸べる。
「迎えに来たんだ。こっちへ来て!」
部屋のドアが開いた。アルニウス人の護衛が二人だ。すっと長剣を抜く。しかし窓の外を見るなり、二人の口も開いてしまった。神獣と御使いがセットで突然やって来た。
カナデは彼らに言った。
「連れて帰るよ。ロザリーさんの荷物を持って来て」
ロザリーがあわてて首を振った。
「自分で持って参ります」
就寝時にも関わらず、彼女は普段着でなおかつ靴もちゃんと履いていた。枕元の布袋を持つ。そして護衛達に頭を下げた。
「お世話になりました。ごきげんよう」
さっさと窓に歩み寄る。やはりグリフィスの姿に圧倒されたのか、ごくりと喉が鳴った。差し伸べるカナデの手を取ろうとするが、窓枠に足を掛けるのを躊躇している。護衛達が追いかけて来た。
「ま、待て!」
カナデはじろりと彼らを見た。
「危ないよ。剣をしまって。グリフィスの背中に乗せるのを手伝って」
「いや、その、我々は」
本来なら阻止する側だ。脱出の手伝いをさせようとは。カナデは眉をひそめた。眠くて機嫌が悪いのだ。早く帰って眠りたい。
「ロザリーさんはお客さんなんだよね? それが帰るって言ってるのに、お手伝いくらいしてよ! グリフィスをいつまで待たせるつもり?」
窓に背中を向けるには、体を斜めにしてバランスを取り続ける。体勢的には楽ではない。グリフィスの不機嫌そうな低い鳴き声が重なった。
「はい…」
彼らは目を見交わした。上司よりもさらにさらに上にいらっしゃる方の御言葉である。剣を収めた。ロザリーの体を中から押し上げてくれる。彼女はぶるぶる震えていた。布袋を抱きしめて、おずおずとグリフィスの背中に乗った。カナデに背後から両腕を回す。
「の、の、乗りました」
上ずった声だ。
「うん。じゃあ行こうか。グリフィス、お願い」
「元の場所で良いな。お前の望みでなければ猿を乗せてなどやらないのだぞ」
ロザリーは声も無い。鱗の上でうん、うん、と頷くばかりだ。カナデがグリフィスの翼を撫でた。
「本当に感謝しているよ」
夜が明け始めた。白い朝陽を浴びてグリフィスが輝く。再び空の旅だ。ようやくロザリーは呻くように言った。
「チュウゼンジ卿、お久しぶりでございます。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。お迎えをありがとうございます。グ…グリフィス様におかれましてご健勝のようで何よりでございます…」
こんな時でもロザリーはロザリーだった。きっちり挨拶をする。未体験の飛行機並みの速度だ。体中に力が入ってしまう。
「待たせてごめん。それにしても準備が良かったね」
「王宮勤めですから、有事の際の教育は受けております」
人質に取られたら、すぐに移動ができるように着衣のうえ靴を履いて寝る。そして荷物も常にまとめておく。これらは鉄則だ。ロザリーはそのように行動していたのだが、まさかお迎えがこのような形になるとは予想もしていなかった。
「元気そうだね、良かった」
「はい。監禁はされましたが、皆さま親切でございました。食べ物も濃い味付けになれてしまえば美味しくて…うっ…失礼を…」
まっすぐ飛んでいるだけだ。しかし揺れるし、飛び去る景色の速さに圧倒されて目が回る。魔法でかなり体は安定しているはずだ。しかし耳元で風切り音が響くし、いつ落ちるかと恐怖もある。胃がむかむかしてきた。
「ロザリーさん、酔った? 目をつぶると少し楽だよ」
「と、閉じました…うう…」
カナデの眠気も吹き飛んだ。何しろずっと背中越しにロザリーの体がぴくぴく動く。吐かれたら大惨事だ。しかもグリフィスが話し始める。
「さっきの続きだ。もうどれほど前か分からぬほど昔だ。かつて陰の印を持つ猿がいたのだ。八芒星魔法陣は白いのだから不思議だな。そこで我はその猿に会ってみたのだ…」
なかなか途切れない。カナデは祖父が友人と話しているところを思い出した。どちらも延々と自分語りだ。自宅での会合だったせいで終わりがない。確か彼は結局泊まりになった。
すっかり夜が明けた。活動を始めた人々は、空を横切るグリフィスを呆然と見送るのみだ。地上から彼が出る事もあるが、ただ飛んでいるのは珍しい。
グリフィスはふん、と息を吐いた。
「犬どもが起きて来たな。飛ぶのもそろそろ飽いたわ。カナデ、魔法陣を出せ」
「うん」
彼はいきなり体を起こす。カナデと、彼にしがみつくロザリーは宙に放り出された。
「ぎぃやああああ!」
ロザリーの悲鳴が轟く。言われた通りに八芒星魔法陣を出してある。そこへグリフィスがふぅっと息を吐く。すると二人の体は中央の印へ吸い込まれる。移動で使える手段だ。今回もグリフィスが彼らを押し込んだ。
「グリフィス、ありがとう。また連絡する!」
そう言って手を振る余裕まであった。彼の魔力で通してくれるようだ。ぐるり、と景色が回った。
どさり。二人は床に着地した。勢いあまって倒れる。バーデの病室だ。戻ったのだ。電気が点いていた。
「きゃああ」
セシルが悲鳴を上げた。何の前触れもなく黒の八芒星魔法陣が沸いたと思ったら、二人が現れたのだ。ロザリーは体を起こそうとして両手を床についた。目が虚ろだ。
「ロザリー…ロザリーなの?」
抱きしめようとするが、ロザリーは首を振る。
「おえええええええ」
声にならない。涙とよだれで顔がべとべとだった。もう胃が空に近かったのだろう。白い塊が口から垂れた。セシルは急いでタオルを顔にあてがう。
「お医者様を…殿下にもお知らせなくちゃ」
カナデは立ち上がり、内線を手にした。セシルが見とがめる。
「チュウゼンジ卿、足は⁈ 歩いてはダメでしょ!」
「グリフィスが治してくれたよ。ここにも送ってくれたんだ」
「はああ⁈ 勝手に出て行って、ロザリーはボロボロになって! どうなっているの⁈」
セシルはとても心配していたのだ。またカナデがどこかに去ってしまうのではないか、危険な目に合わないかと。骨折も親身になってお世話していた。それがあっさり『治った』で済まされるとは。ほっとしたのと戸惑いが同じくらいの強さで押し寄せる。セシルの目からも涙があふれた。
「ご、ごめんなさい…」
素直に謝った。改めて心配をかけたのだと自覚する。同時に、自分がどれほど大事にされているのか分かって嬉しい。
「セシル…ありがとう。ロザリーを連れて帰って来たよ」
「本当に…本当に…あなたときたら…」
ロザリーの顔をやや乱暴に拭う。セシルはすすり上げながらも笑った。カナデの記憶が戻った。やっと前の状態で話ができる。
廊下が騒がしくなった。護衛士や看護師がやって来たのだ。
ロザリーはすぐに違う病室に搬送された。グリフィス酔いの治療と健康診断の為だ。枕元には、アルニウスから持ち帰った布袋がちゃんと乗っていた。
とりあえず病室のベッドに横たわったカナデは、そのまま寝落ちだった。ほぼ徹夜だし体も疲れた。その間に医師が診察した結果は、両足とも綺麗に治っていた。亜空間でグリフィスに風を拭きかけられたのが魔法だったらしい。神獣の力なら不整合を起こさずに即時完治できるようだ。
昼過ぎに良い匂いで目覚めた。昼食が既に病室に用意されている。ベッド用のテーブルの上だ。セシルが豆茶を淹れてくれた。目の下に隈ができている。
「セシルは夕べ寝られた?」
「それ、聞く?」
「すみません…。もう休めそう?」
昨夜は眠れるはずがない。カナデの行方が心配だし、今朝はロザリーの世話などで休む間も無かっただろう。
「ええ。この後、少し仮眠させてもらうわ。ロザリーも一応落ち着いたみたいだし。事情聴取は明日以降みたいね」
人質生活は四ヶ月ほど。アルニウスでたった一人のラファイエット人だ。心理的な圧迫は強かっただろう。とどめを刺したのがグリフィスとのランデブーだ。彼女の日常の限界を超えてしまった。ちょっと心神耗弱の状態を起こしているらしい。
「しばらくバーデで療養してからサントルラファイエットへ戻るって。ご家族もこっちへ向かっているそうよ」
セシルは口に手を当てた。しまった、と顔に出ている。カナデは家族と未だ生き別れのままだ。それを忘れていた。カナデは気が付かないふりをして笑った。
「良かった! じゃあセシル、休んでね」
「もちろん。あ、チュウゼンジ卿が起きたって殿下に連絡するわね」
だがリシュリューが貴賓館から到着した時、カナデはまた夢の中だった。そしてその間にも、着々と退院の手続きが進められていたのだった。
ベルモンターニュの旧鉱山跡から東へ下ると、ナント自治区の西側へ出る。そこはまだアルニウス領だ。山脈沿いの国境は長い。そのために検問所がある場所も少なく、自治区への違法出入国の現場ともなっている。
カナデの殺害に失敗したモリス・ベルナールは、すぐに山道を引き返した。そしてすぐに鉱山跡を引き払い、ナント自治区へ入った。ロウタの髪と目さえ隠せば、アンリやモリスの顔はあまり知られてはいない。アルニウス人達とは別行動となった。
潜伏場所は市街地の一角の小さな一軒家だ。幸い二頭の馬を繋ぐ場所があった。
治安に不安がある通りだが、その分家賃が安い。あまり郊外だと、逆に目立ってしまう。家を借りるには、モリスの魔力が役に立つ。交渉の際に身分証明書を求められ、保証人を要求されても相手に幻覚術を掛ければ済む。書類の偽造も同じく簡単だった。また、当座の資金は持ち出したダイヤモンドがある。エルザが横流しで回してくれた分だ。
相変わらず実務的に動くのはモリスだけだ。当座の生活は何とかなる。しかしすぐに資金は尽きるだろう。妙案の出ないまま一週間がすぐに過ぎた。
その日も酒に溺れるアンリ・ヴァランタンと、だらしなく寝ているロウタを残して買い出しに出かけた。ナント自治区は平地でさほど雪は降らない。もう三月が近いのだ。ラファイエット歴の初春は終わりを迎えようとしている。四月からは春だ。
モリスの帰宅を迎えるように二頭の馬がいななく。
「良い子だね、よしよし」
どちらの首も軽く叩いてやる。彼らの足元に紙屑や空の酒瓶が捨てられていた。
(まあ傷をつけられなくて良かったか)
家に戻った。鍵が開いている。思わず扉を思い切り開いた。小さな家屋だ。開けるとリビングダイニングである。そこにセブラン・キルデベルト護衛士副長官が立っていた。灰色のコートだ。制服ではない。モリスは息を飲んだ。条件反射で胸に手を当てた礼をする。
「久しぶりだね、ベルナール。長官から連絡を受けて来た」
キルデベルトは秋の夜のように笑った。ダイニングのテーブルにはアンリが突っ伏している。魔法陣を使った連絡は、上位者からならできる。ナント自治区から外部へシンクロができない。おそらくここに入る前に副官を呼び出したようだ。お互い自治区に入ってしまえば連絡は可能だ。
モリスは買った物を部屋のパントリーにしまい始めた。酒や食べ物だ。
「私たちを捕縛に来たのですか?」
「いいや。顔を見たかった。君は少し…いや元気そうだね。コマツは一緒かな?」
「はい。二階で寝ていると思います」
モリスは彼の前に立った。キルデベルトは少し顔を伏せた。しばらく黙っていた。アンリの手が震えている。酔いなのか。眠っているわけではなさそうだ。キルデベルトはモリスに言った。
「消息不明だったチュウゼンジ卿は、やはり国内にいたそうだ。ベルモンターニュ…君らが居た場所の西側だな」
モリスは黙ってうなずいた。彼を殺そうとした事は伝えていない。キルデベルトは続けた。
「今、彼は政府の保護下だ。状況は君らにとって最悪になったかもしれない」
「どういう理由でしょう?」
「言わなくても分かるだろう。君らがベルモンターニュでダイヤの横流しに関わったとは、護衛士の一人から聞いた。君がチュウゼンジ卿を襲ったとも」
彼にも情報が知れていた。だが責める調子は無かった。彼は本当に戸惑っているようだ。
「王宮へ妖狗襲来があった時、なぜ逃げたんだ? それで君らの所業となってしまった」
「その通りですが?」
アンリが唸った。
「私は知らん! 異界人が勝手にやった事だ。許可しておらん」
「ではラファイエットに戻りましょう。一緒に参ります。この老体の首にかけてでもお守りいたします」
「反逆罪だぞ!」
「コマツの独断ならば侯爵閣下には罪はありません。むしろ異界人に脅されて同道した被害者でありましょう」
高位貴族なら罪に問われない。責任がロウタにあるのなら尚更だ。だからこそキルデベルトはアンリを迎えに来たのだ。居場所を教えてくれたのは、助けを求めての事だ。彼はそう判断したのだ。
モリスは二つのグラスに酒を注いだ。テーブルに置く。アンリが手を伸ばし、一気に煽った。
「被害者…だと? この私にそんな負け犬の烙印を押すつもりか⁈」
グラスを床に投げつける。砕けた破片がキルデベルトの足元で跳ねた。アンリはわななく指をキルデベルトに向けた。
「異界人に脅され、騙された間抜けにするつもりか? 私は違う。違う! 王宮の連中と並ぶ魔力を持つ偉大な貴族だ。尊重され、尊敬を集めるべき護衛士の長だ!」
「職を解かれました」
「…知っている。陥れられた…」
誰になのか。アンリはもう一つのグラスに手を伸ばした。それも飲み干す。
「いいか。私は凱旋するのだ。それ以外の帰国はあり得ない。お前を呼んだのもその為だ」
「何をするおつもりですか?」
「コマツを利用してやる。ラファイエットに妖狗どもを集合させ、混乱させるのだ。そこへ私が事態を納めに登場してやる。私は英雄だ! アルニウスは関係ない。妖狗が自ら押し寄せるのだからな。王宮に現れたのはタイミングが悪かったのだ」
酔いのせいなのか、不意に饒舌になる。そんな計画が上手くいくはずがないのだ。カナデがラファイエットに戻った今なら尚更だ。ナントでもアーネコスキ湖でも、妖獣を鎮めたのは彼だった。
「コマツには抑制能力があるのでしょうか?」
「無くても! 妖狗が暴れたらチュウゼンジが結局収めるだろう。それをこちらの手柄にすれば良い」
モリスは無言で破片を片付けている。感情のない顔だ。
「ベルナール、君はどうなんだ?」
「私はロウタと共にいます。侯爵閣下は副長官とラファイエットに戻られるのが宜しいかと存じます」
「なぜ? 君ほどの護衛士が…」
欠片を捨てようとして、モリスが小さく声を上げた。指を切ったようだ。自分の血を見つめる。彼の母は市井の民だ。だから貴族の父を持つが身分が低い。エレメントの数が足りずに魔闘士ではなく護衛士となった。身分制度が厳しいこの国では、さほどの出世ができるはずもない。エレメント数の多さを利用されるばかりだ。
そこへロウタが現れた。彼には身分など関係ない。立場や忖度なども無視だ。自らの欲の赴くままに行動して周囲を破壊していく。それでいて常に怯えているのだ。モリスを求める時は、いつでも縋りつくようだ。
モリスは顔を上げた。キルデベルトの目をしっかりと見返す。
「ロウタがどこまで行き着くのか見届けたいのです。私は彼を愛しています」
弱さゆえの強がりと、小心さゆえの攻撃性。その矛盾がモリスには堪らなく愛しい。アンリが乾いた笑い声を上げる。
「私の横で昼も夜も…。色欲だけだろう!」
「彼には私が必要なのです」
かつてここまで自分を欲する者がいただろうか。ロウタだけだ。モリスはどこまでも彼と行動を共にするつもりだった。
アンリが呻いた。
「モリス、もっと酒を」
瓶のままでモリスがテーブルに酒を置く。アンリはラッパ飲みしようとした。キルデベルトが腕に手を添えた。
「お止め下さい。お体に毒です。このような状態を父上がご覧になったら何と思われるか」
アンリの動きが止まった。これは禁句だった。アンリは酒瓶を振り上げた。
「お前も言うか。皆が父を褒めるのだ。私は…私は父を超える!」
聡明で人格者。アンリの父が受ける評価だ。対して息子は…と言われているような気になる。だから護衛士を騎士へと昇格して爵位も授与させれば、アンリの評価も上がるはずだった。その為に異界人を利用してのし上がるつもりだった。
「キルデベルト、お前も俺を見下していたのか!」
瓶を彼に振り下ろす。避けた腕に当たった。アンリは瓶をテーブルの角にたたきつける。大きく割れて欠片が飛び散った。鋭い切っ先を持つ凶器と化した。零れる酒はアンリの腕を伝って服を濡らす。
「閣下、どうか落ち着いて…」
「許さん! この下僕が!」
アンリがキルデベルトに襲い掛かる。瓶の先端が彼の顔面をかすめ、肩に刺さった。
「閣下!」
「坊ちゃん!」
モリスとキルデベルトの制止が重なる。モリスの魔法陣が絡み合う二人を割った。アンリはよろめいた。
「うるせえ!」
階段から声がした。ロウタが降りて来たのだ。もみ合う三人にぎょっとした顔を見せる。もう根本は少し茶色がかった元の黒髪だ。金色は肩より下に残るだけだった。
「何をしている…逮捕に来たのか…」
キルデベルトが動いた。素早くドアを開けて外に走り去る。魔法陣が沸いた。開かないようにしたのだ。もっともモリスは追わなかった。エレメント数は彼より多い。しかし魔量は同等だし、経験値が違う。やり合うには相手が悪い。
アンリはその場にへたりこんだ。瓶が手から離れて転がった。自らも手を切ったようだ。右手が血で真っ赤だ。酒が傷にしみるようで、顔をしかめて手首をしっかり握った。顔を伏せて呻く。まるで幼い子供が親を呼ぶような声がした。
「…セブラン…セブラン…」
モリスは彼の前に屈んだ。魔法陣を傷にかざす。
「止血します。治せず申し訳ありません」
聞こえているのか返答はない。すすり泣くような声だけが響く。ロウタはぽかんとしている。
「どうしたんだよ? 酒くせえな。モリス、晩メシまでには片付けろよ」
「はい」
モリスは微笑みをロウタに向けた。この場を読まない無神経さはむしろ有難い。
アンリが勢いよく顔を上げた。
「コマツ、総攻撃をかけるぞ。集められるだけ妖獣をまとめて王国へ向かわせろ。そうだ…そして君が、私が英雄となるのだ。ああ、それを見せつける為にはサントルラファイエットに戻らねばならないな。モリス、いざ王都だ!」
彼の目はアルコールの効き目でとろんとしている。しかしロウタは大きく頷いた。
「ずっと逃げるのもうんざりだな。やってやろうじゃないか」
キルデベルトが来た意味を全く理解しようとしていないのだ。モリスはまたガラスの破片を集める。
「閣下、ロウタ、お着替え下さい。すぐにここを出ます」
入れたばかりの食料をテーブルに戻した。持てるだけ持つつもりだ。
王国に妖狗を集結させるのは、王宮襲撃の時と同じ遠隔操作でできそうだ。そしてその場にロウタがいなくてはならない。
(どうやってラファイエットに戻れる?)
正規の出国は難しい。出国審査はアルニウス人だ。証明書は偽造できても、この三人はアルニウスに入国歴があり、顔がばれている可能性がある。おそらく検査官はそれなりの魔力があるだろう。
(僕の魔力で三人分が誤魔化せるかな?)
少し危険な賭けだ。
非合法に川を渡る方法もある。業者を探すには金銭と手間と時間が必要だ。それは惜しいし、どこからか情報が洩れるか。正規業者は頼れず、闇業者は信用できない。
ベルモンターニュを回る方法はもう無理だ。
「ああ面倒くせえ。そもそも何でこんな事になったんだよ~」
ロウタが階段を上がって行く。
(そもそもって…空が割れてあなたが来て…いや…もともとは)
モリスは手を止めた。通れる場所がある。
王国に帰れる。
間もなく脱出の用意が整った。荷物は片手で持てるほどしかないのだ。ロウタは靴を履き替えた。
モリスは部屋を見渡した。一週間ほどもいなかった家だ。愛着は無くとも無念が残る。ロウタのお付きになってからどれほどの物を失くしただろう。自宅、妻と娘、身分と立場、護衛士の剣、そして日常。
全てが掌から零れ落ちた時、何が残っているだろう。自分たちはどこまで落ちる事ができるのか。誰も知らない光景を見られるはずだ。むしろ気持ちが高揚するモリスだった。
ツヅク! Ⅷ-Ⅰ 帰還のルート そして迎撃の準備
ロウタ一行が帰国を目指す。ナント付近はグリフィスの住処なのに、無事に通過できるのか?
お読みいただきありがとうございます。
神様なのに拗ねるグリフィス…。
カナデの陰の印から人間らしい感情が流れ込んでいるのでしょうね。
そしてあくまで犬扱いするカナデ。良いコンビかも。
ロウタも困ったちゃんですが、モリスの壊れっぷりもなかなかです。
こちらも良いコンビです!きっと、多分。




