Ⅵ-Ⅱ 悪事の露見 そしてセシル渾身の小芝居の行方
カナデの行方が判明、悪事は露見する
鉱山では別の企みが進行していた
Ⅵ-Ⅱ 悪事の露見 そしてセシル渾身の小芝居の行方
陰鬱なみぞれ交じりの午後だ。ミレーユは夫の書斎へ向かっていた。
アポリネール子爵家は、貴族宮に部屋を持たない。有った所でミレーユは居られなかっただろう。コレットの新パートナーを襲った手引きをしたと、よりによってデルフィーヌ・デュポンドルール公爵に知られた。サミュエルを戻す為だが、やり方がまずかった。その上、皇后を招いた茶会に乱入しての直訴だ。彼女は大変ご立腹である。結果として、当面の間はデルフィーヌの目の届く範囲には出入り禁止を言い渡された。これは貴族間の交流全てを絶たれたのと同じ事だ。誰も敢えてデルフィーヌに逆らわないだろう。
頼りの皇后ベルナデットはご懐妊だ。ミレーユの不祥事が原因ではないがお付きを外された。コレットから願いを伝えるのもできない。ただ家でじりじりと、サミュエルがその気になるのを祈るばかりだ。
「コレットがサミュエル様に婚礼の話をできたのですって」
アポリネール子爵は白い物の混じった眉毛を上げた。黒ぶちの眼鏡越しに妻を見る。妻の謹慎理由はもちろん知っている。慇懃無礼に問いかけた。
「まさかお申し込みがあったのですか?」
「いいえ。ご両親にお任せだそうです。埒が開きません。あなた、どうにかなさってシャルパンティエ公爵にコレットを推薦して下さい。デビュタントのペアをお勤めしたのですよ?」
子爵は眼鏡を外した。机に置き、目頭を押した。
「無理でしょう。あの一件は王宮の雀にまで知れ渡っているようです」
コレットの新パートナーの襲撃事件だ。
「冤罪です!」
デュポンドルール公爵が出入り禁止の鉄槌を下したのだ。噂以上の証拠を手にしたのだろう。子爵は敢えてそこに触れなかった。今更だ。
「ミレーユ。異界人殿が王弟殿下の恋人であると知っていましたか?」
「ええ。それなのにサミュエル様にも秋波を送るなんて破廉恥な」
「異界人殿の思惑は分かりません。しかし公爵家は王弟殿下の恋人との婚姻を望まないでしょう。だから何もせずとも良かったのです」
異界人は既にお手付きだと噂がめぐっている。だとしたら、デビュタントでどれほど意気投合しても、サミュエルとカナデが結ばれる可能性は限りなく低い。子爵は続けた。
「確かにコレットに罪はありません。しかしこちらから公爵家に婚姻の申し込みは難しいでしょう。私の身分ではお目通りさえ困難です」
「そこを何とかされるのが父親ではないですか。娘が可愛くはないのですか」
コレットは子爵の実子ではない。だが婚姻を結んだ間柄なら、子供は伴侶全員で育てる。コレットの面倒を主に見ていたのは子爵だ。
「可愛いですよ。あの声はあなたの若い頃にそっくりです」
「だったら動いてくださいませ。コレットの不幸はあなたと最初に婚姻を結んだせいですよ。あの子は私と父親譲りの高い魔力を持ちます。低い爵位に甘んじて良いはずがありません」
子爵はミレーユを見た。デビュタントでペアを組み、踊った仲だ。彼女は快活ではっきり物を言う。真夏のバラのような人だと思った。自分には無い所に惹かれて結婚を申し込んだ。当時ミレーユが望むような高位の貴族が同期にいたかどうか子爵には思い出せなかった。
「自分でシャルパンティエ家にお願いしては? あなたはデュポンドルール公爵の血筋でしょう」
「それができたらしています! 私は無実の罪を着せられました。宮廷にはびこるくだらない噂のせいで遠ざけられているのです」
それがただの噂ではないと子爵は分かっていた。暴行事件に関わったとされる男の特徴は、この家の下男である。また使途不明の出金もあった。
「それならイネス公爵にあなたからお願いしなさい。コレットの母としてなら会っていただけるでしょう。私とは…ミレーユ、離縁しましょう」
ミレーユはしばらく無言だった。言葉の意味がすぐに理解できなかったようだ。
「ここで…ここまで来て放り出すのですか…」
「こんな低い爵位ですから。しがみつく必要がありましょうか」
金切り声が上がった。
「嫌味返しなんてなさるの? なんて下品な! 私は同意しませんから。何が何でも縁談をまとめて下さいませ。お願いしましたからね!」
離縁したところでミレーユの実家は子爵家だ。身分に何ら変更はない。ドレスの裾が翻る。床を踏みぬく勢いでヒールが鳴った。嵐のようにミレーユが去った。ドアが乱暴に閉まる。
夕闇が迫り、みぞれは雪に変わったようだ。子爵は眼鏡を掛け直した。それからペンを取る。何度かためらった。宛先は弁護士だった。
リシュリュー宮の半地下階は使用人たちの占有箇所である。住み込みの居住室もここだ。セシルは自室でぼんやりと積もる雪を眺めていた。夕べからの雪はまだ止まない。夜勤明けの朝だが、疲れているのかどうかよく分からない。ずっと気が張り詰めているのだろう。
ドアがノックされた。普段着のマチアスが立っている。片手にリュックと厚手のコートを掛けていた。
「どこかへ行くの?」
「うん。それでちょっと話があるんだ。入っていい?」
マチアスは左右を伺った。セシルの部屋に入ると、強めの防護陣を掛けた。
「ちょっと! 何をするつもり?」
「話だけだよ! 人に聞かれたくないんだ」
邪な気持ちは無い。マチアスはあわてて首を振った。
「俺のセシルだから伝えたいんだ。仲間の護衛士から連絡があったんだ」
聞き捨てならないセリフがあったが、とりあえず無視する。
「官吏付きの同期がいるんだ。この間行った先で、気になる子を見たそうだ」
長髪の若い男。本名と年令は不詳。髪と瞳は茶色。複数の魔法がかけられている。
「同期には解析不能な強さだって。しかも絵が上手いらしいよ。食堂のメニューとか描いてるって。護衛士を避けるそぶりを見せた」
「それだけじゃ何とも…髪色が違うし…」
「幻視がかかっているのは間違いないらしい。さらに。育ちは良さそうで、三か月前に来たそうだ。名前以外は誰も何も知らない。さらにさらに魔鼠くらいしかいない土地なのに、妖狗の声がしたって」
本来なら東アトランに生息するのに、西アトランで聞こえたのだ。それに三か月前なら、カナデの失踪と時期が合う。
「でも…元気だったらどうして殿下に連絡をしてくれないの?」
セシルとマチアスのエレメント数は少ない。いわば下位魔法陣だ。上位魔法陣へは互換性がなく、魔法陣のシンクロ連絡ができない。逆は可能だ。
「そこが気になる。確認してみてもいいだろう? 俺はこれからそこへ向かう」
セシルは飛び上がった。
「私も行くわ。ちょっと待って。支度するから」
カナデが居ない分、シフトに余裕がある。しかし無理やりにでも向かうつもりだ。
「そりゃ嬉しいな。でも俺はすぐに出るよ、馬車の時間だ。場所はベルモンターニュ。知ってる?」
「ダイヤモンド鉱山の町ね。分かった。シンクロで連絡してね」
わずかな可能性でもいい。そこへ賭けてみる。セシルにとってカナデは弟のような存在だった。二人がベルモンターニュで合流したのは翌日の午後遅くだ。
先に現地入りしたマチアスがホテルを取っていた。駅で落ち合い、まずは荷物を下ろしにホテル入りだ。隣り合ったシングルルームが二つだった。未婚の男女が二人である。一応マチアスは気を使ってくれた。
フロントには観光地図がある。鉱山もルートの一つだ。ダイヤの直売所があるからだ。
その夜、その地図を手に二人は部屋で作戦を練った。念の為に防護陣をかけた。
カナデと見られる人物がどのような状況にあるのか、ある程度は同期から聞いた。殆ど外部と接触がないので、こちらから出向く必要がある。場所は郊外の鉱山だ。取引業者や観光客用の馬車便が使える。さほど距離はなさそうだ。問題はどうやって該当の人物と会えるかだ。
「観光客が従業員用の食堂に入れるかしら?」
「逆に皆さんを出す? にせ火事でも起こすとか」
しばらく考え込んだマチアスは、やがてニヤリと笑った。計画を聞いたセシルは身をすくめた。拳を握りしめる。声を絞り出した。
「正気なの…? それ…本当に私が…?」
マチアスは満面の笑みだ。
「もちろん! チュウゼンジ卿の為だよ!」
セシルは真っ赤になって震えた。しかし、最後には諦めたように頷く。
そして翌朝、二人はさっそく鉱山行きの馬車に乗ったのだ。雪の山道を蹄が蹴る。寒い時期だけに車内は空いている。取引業者らしい男が一人いるだけだ。彼が物珍しそうに声を掛けて来た。
「こんな季節にどうした? 商人じゃないな。観光かい」
マチアスがへらへらと笑う。
「新婚旅行なんすよ~。俺ら同じお屋敷で働いているんだけど、こんな時期じゃなけりゃ休みがとれないっす。ねっハニー」
セシルは顔をしかめた。
「そっそうね。せっかくベルモンターニュに来たんだから、奥方様ほどじゃなくてもダイヤの髪飾りくらいは欲しいわね!」
いささか棒読みでぶっきらぼうだ。これからの作戦に緊張しているのだ。だが業者には違うように伝わったようだ。肩をすくめた。マチアスに耳打ちする。
「はっきりした嫁さんだなあ」
「まあね。そこが良いんっす」
セシルの目つきが鋭くなった。
「あなた! 誰のせいでここまで来たと思ってんの⁈」
もう作戦は始まっている。マチアスはしょぼんと肩を落としたふりだ。
業者も口をつぐむ。静かな車両を引いて馬車が進む。じっと膝に目と落とすセシルとは対照的に、マチアスは窓から景色を眺めている。山道沿いに三角屋根の小屋が点在する。案内板はない。半ば雪に埋もれている。
「あれは何かな?」
セシルが顔を上げた時には通り過ぎた。業者が教えてくれる。
「避難小屋だよ。落石だの雪崩だの」
「それって、結局は逃げ込む間に巻き込まれちゃわないか?」
「う~ん。頑張れ」
それから二人は危機からの逃れ方について議論を交わし始めた。話し好き同士らしい。そのおかげで、彼らは乗車時間が短く感じたかもしれない。
そこから三十分ほどで鉱山に到着した。馬車寄せは山を切り開いて平地にしてある。広場に面するのは加工場と、併設された土産物屋だ。時期のせいか閑散としている。二人はそこを一巡しただけだ。
外に出て建物の位置を確認する。加工所からさらに坂道を上った場所に建物が三つ。一つはそれなりに装飾があり、豪華な造りだった。こちらが事務所で、より坑道に近いのが寮だ。間に挟まる小ぶりな二階建てが食堂らしい。
そろそろ昼時だ。マチアスは懐中時計を確認した。
「よし行こう」
「…ええ」
二人は雪を踏んで食堂を目指した。
鉱員たちが昼食の為に坑道から上がって来る。そして食堂に吸い込まれる。二人はそっと中をのぞいた。暖気とやや大きな話声が開いたドアからこぼれ出る。ほぼ満員のようだ。見慣れない二人に、出入口近くにいた鉱員が声をかけた。
「ここは従業員専用! 物見遊山なら直売所のネズミを食いな」
笑いが起きた。マチアスはセシルを振り返った。声を出さずに唇で伝える。
『行こう。頑張れ!』
セシルは首まで真っ赤になった。足を踏ん張る。目いっぱい声を張り上げた。
「ここに用があるのよ! 私の…私の夫の浮気相手がここにいるって聞いたの。話をつけようじゃないの!」
ぶるぶる震えているのは怒りではない。恥ずかしいのだ。しかし傍目には夫に怒り心頭の妻にしか見えない。
「か…顔を改めさせてもらうから! あなた! アイツはどこにいるの⁈」
「許してよダーリン…君も彼もどちらも愛しているんだよ…」
「寝言はいいわ! 探しなさいよ!」
きょろきょろしながら二人は席の間を縫って厨房に向かった。ヒューヒューと冷やかしの口笛も上がる。色々な事情を背負って来る鉱員もいるのだ。恋愛がらみのトラブルは、それほど珍しい出来事でもないようだ。
セシルはマチアスに囁いた。
「中にいるはずなのね?」
「うん」
カウンターに近づいた。ソフィが腰に手を当ててぐっと二人を睨み上げた。
「ここは食事を出す場所だ。食わないならとっとと帰りな」
二人は身をかがめた。かなり強引に厨房を覗き込む。コンロの前のフランクが振り返った。その背後でさっと人影が動く。しゃがんでいたカナデだ。確かに二人と目が合った。厨房側のドアから逃げ出す。
「チュウ…」
叫びそうになったセシルだが、急いでマチアスが制した。
「ボーと名乗っているな? …よく分からん…会わせてくれ」
フランクとソフィは顔を見合わせた。正体不明の彼だ。だが今の通り名を呼ぶ男が来た。こんな日が来ても不思議ではない。フランクはちっと舌打ちした。
「好きにしな。おいソフィ。呼んで来い。お前らは外で待ってろ。邪魔だ」
今度はひそひそ声が沸き起こる。
「ボーか。やっぱりアイツ…」
それを背に二人は外に出た。マチアスは首を傾げる。容姿がまるで違う。
「どうかなあ。幻視はかかっているようだけど」
「来ればはっきり分かるわ」
もう来ないのかと思った頃、ようやく現れたのは赤毛のソフィだ。先に立ち、食堂から少し離れた所へ二人を誘導した。ベルモンターニュの町が見下ろせる場所だ。
ソフィは腕を組む。セシルよりもさらに頭一つほど小さいのだが、背伸びするように二人を見上げた。
「人違いだよ。全く記憶にないってさ。他を当たりな」
マチアスは顔をこすった。幻視がかかっているのは分かる。だが高位の者がかけた魔法だ。実像はマチアスには伺い知れない。だからカナデなのか確信が持てない。
「どうなんだ…顔がまるで違ったな…」
「顔が違うなら別人だろうが」
セシルは首を振った。
「ねえ、ちゃんと会わせてちょうだい。ちらっと見えただけよ。分からないじゃない?」
ソフィも頭を振る。
「あんたの旦那が違うって言ってる。恋人が間違うかよ。見つからなくて悔しいのは分かるけど、後は夫婦で何とかしろよ。こっちは忙しいんだよ」
話は終わった、とばかりにソフィが背を向ける。さくさくと雪を踏む音が遠ざかった。冷気が山から吹き下ろす。小雪が二人の頬を打った。マチアスが笑顔をセシルに向けた。
「外したかな…。まあ仕方がない。せっかく頑張って一芝居売ってくれたし、ダイヤを奮発しちゃう?」
目指す人物は茶色の目と髪だった。視線も絡んだ。だが容貌が全く違う。それにカナデ本人なら会ってくれるはずだ。
セシルの返事はない。すすり泣いていた。
「セシル…ごめん。こんな所まで連れて来て」
抱こうとした肩は交わされた。彼女は低い声で唸るように言った。
「幻視が掛かっているんでしょう? それでも私が見間違うはず無いわ。あれはカナデよ」
容姿は変わっていた。だがセシルには分かる。あの動作、手や足の感じは紛れもなくカナデだ。彼が最初に来た時から、ずっと世話をしてきたのだ。弟のように思ってさえいる。
「俺には分からなかった。本当にチュウゼンジ卿なら会ってくれるだろう?」
「何か事情があるのかもしれないじゃない!」
浮気をした側…マチアスが違うと言ってしまった。同じ手は使えないだろう。それにまだマチアスはカナデだと確信が持てない。
「とにかく一度町に戻ろうか」
「…嫌よ。会いたい」
その時、山に叫び声が響いた。瘴気をまとった妖狗が少し離れた頂きに群れている。そして一瞬魔法陣がその周囲に浮かんだ。マチアスは息を飲んだ。魔法陣の上部の名前が見て取れたのだ。後輩の護衛士モリス・ベルナールの飾り文字だった。
「どういう事だよ…」
彼はロウタと共に逃げたはずだ。ボーがカナデではなくとも、何かがこの地にはある。マチアスは顔を引き締めた。
「…ごめん、セシル。早まった。違うなんて言わないで、強引にでもボーを連れて来てもらうべきだった」
また食堂へ行っても会えないだろう。
「ここは一旦引こう。作戦を練り直すんだ」
馬車寄せからラッパの音がする。乗合馬車が出るのだ。二人はそちらへ急いだ。風が強くなり、雪が吹きつけた。
セシルの休暇願は突然だった。体調を崩したので休みたいとの事だ。
王宮の魔闘士団棟も雪に包まれている。不安定な天気が続く。魔闘士詰所の奥の応接間には副長官のシモン・メーストルがいた。相対しているのは魔闘士初級士官学校の教頭だった。
「このようなお話をするのはいかがな物かとは存じますが、生徒より話がありまして」
彼は何度か言いよどんだ。シモンに促されて口を開く。
「異界人殿は居ないのですか?」
「どういう意味ですかな?」
「文字通りです」
カナデがアルニウスから戻ったのは、襲撃の救護や治療に当たった者が知っている。だが王立病院に入院した後の消息が不明だ。転院した事になっているものの、どこにいるのか噂さえ出てこない。
「彼の所在は最高機密です」
「そうですが、もし居ないと知っている者がいたら?」
サミュエルが教頭に伝えたのだ。コレットの名前は出さなかった。彼女ははっきりともう居ないと言ったのだ。ペア変更を巡るミレーユの不祥事はサミュエルも知っている。まさかまた何かやらかしたのかと不安になったのだ。コレットにカナデへの恋心はばれている。まさかカナデを排除すれば婚姻できると勘違いさせたのか。カナデの身が心配になった。
またミレーユの行動も過激さを増している。貴族宮の廊下で佇んで誰かを待っている日もあった。デルフィーヌに見つかるのを恐れてか物陰にいるのだ。ついに先日は魔闘士学校へ訪れたのだ。ぜひサミュエルに会いたいとの事だった。もちろん学校側が門前払いだが、サミュエルは事情を聴かれた。これが教頭への相談に繋がった。
ベテランのシモンはにっこりと相手を安心させる笑顔を浮かべる。
「ただの憶測です。心配ありません。不要な発言は控えるようお伝え下さい。ちなみにその方のお名前は?」
「匿名でお願いしたいとの事でした」
不確実な情報を広めたくないのだろう。教頭からサミュエルの名は出なかった。彼はすぐに立ち去った。
研究室にはリシュリューがいた。カナデの行方は杳として知れない。不安は日に日に増す。幾ら呼びかけても返事はない。また意識不明なのか。体調は大丈夫なのか。せめて記憶に触れたい。彼はどのようにリシュリューとの日々を覚えているのだろう。研究班長のデマレに声を掛けた。
「カナデの記憶ボックスを出してくれ」
「はい、ただいま」
彼は資料室に消えた。しかしすぐに駆け足で戻る。今にも溢れそうな石の記憶装置を持っていた。やや乱暴に机に置く。その意味はすぐにリシュリューにも分かった。溢れんばかりの情報は増え続けている。カナデには、もともと強い魔法が二つかけられた。リシュリューの翻訳陣と禁忌陣だ。この二つのせいでデマレの魔法が隠れて見えなかったのだ。
デマレは唸るように呟いた。
「…記憶取得の魔法…解くのをすっかり失念しておりました…」
「よくやった、デマレ!」
あの日、黒の八芒星魔法陣が暴走したせいだ。おかげでカナデの直近の記憶が読める。動いているのは、彼が生きて無事な証拠だ。早速デマレがデコーダーをセットした。
「記憶が固定するのには一日前後かかります。これは昨日か一昨日の朝ですね。音も出しましょう」
ビジョンを空中に映し出した。カナデの視線だ。暗くて狭い室内だ。階段を上がって洗面所へ向かう。鏡に映るのはラファイエットの一般的な青年に見える。
「誰だ?」
「鏡のようですが、チュウゼンジ卿でしょうか。早回しにします」
食堂に移った。見えるのは手元の鍋や皿ばかりだ。男女の声が時々入る。それ以外は無意味な音が多い。日常の細かい動作や会話は、正確に記憶には残らない。
「何をしているんだ…どこだ? カナデ、外を見ろ…」
仕事が終わっても建物の中ばかりだ。天気のせいだろう。たまに見る窓にはびっしりと霜が付いている。そこで映像を遡った。数日前も大して変わらない。もっぱら屋内で過ごす。厨房か画用紙に向かっているか。たまに庭で植物を写生しているようだ。毎日鏡に映るのは茶色の髪の青年だ。これがカナデ自身の記憶なのだ。
一か月ほど遡ってようやくカナデが暮らす場所が分かった。西アトラン山脈ベルモンターニュのダイヤモンド鉱山だ。
「何故そんな所へ行ったんでしょうね? 病院から消えた日を検索しましょう」
視界はほぼ白い。半覚醒だったせいだ。看護師の制服が、たまに視界を通り過ぎる。
「ボー・デクノ。あなたは王都に戻れば殺される」
それがはっきり記憶に残っている。可愛らしい声だ。リシュリューは眉をひそめた。聞き覚えがある。
魔法のせいでこの辺りの記憶がない。しかし突然フードの女性が現れる。一瞬だったが充分だ。横たわっていたからこそ、フードの下から見えた顔はコレット・アポリネールだ。二人は息を飲んだ。
「病院でコレットを見た記憶はないな。入館者台帳を調べてくれ」
「はい」
続いて民家のシーンだ。こちらはもうコレットの魔法の範囲外だ。ヴェールを掛けた女性と人買いの男性とのやり取り。『泥被りの男娼』とはカナデだと分かっての発言だ。ヴェールで顔が見えなくても分かる。親子で良く似た声だ。
リシュリューが青ざめた。ぐっと唇を噛み締める。
投げつけられる侮蔑の数々。
仰向けになった視界に二人の男。
それから波動を使った脱出。
犯人が分かった。カナデの行き先も判明した。デマレは映像を止めた。二人ともすぐに言葉が出なかった。リシュリューの顔が歪む。
(カナデ…何という酷い扱いを…)
額に血管が浮き出ている。温厚な彼のそんな顔をデマレは初めて見た。部屋の片隅にポットがある。豆茶を注いでリシュリューに渡した。
「殿下、お気を確かに」
「ああ…」
リシュリューは深く深呼吸した。
「これが我を失うほどの怒りなのか…眩暈がした」
シモンがやって来た。妙に鎮まった雰囲気にうろたえた様子だ。
「失礼します。先ほど魔闘士初級士官学校の教頭が来ました。チュウゼンジ卿が居ないと知っている者がいると。生徒からの相談があった…」
彼は絶句した。記憶レコーダーが未だに動いているのを見たのだ。すぐに状況を把握したようだ。彼は言った。
「そりゃ犯人なら『いない』と知っているでしょうな」
「その情報を聞いたのは誰だ? その者にも事情聴取の上で口止めをしておけ」
リシュリューの顔色はまだ青白い。心の中は怒りと心配がせめぎ合っている。しかし口調はいつも通りになってきた。感情の抑制は慣れたものだ。シモンに命じる。
「コリニー長官を呼べ。アポリネール母娘を秘密裏に連行しろ。情報が漏れないようにするんだ。どのような魔法をかけたのか詳しく知りたい。それとカナデを売り飛ばそうとした女衒を探せ。逮捕しろ」
取り調べでさえ貴族相手に警察は手が出せない。最高権力の一端を担うリシュリューがトップである魔闘士団が動くのだ。
「それからベルモンターニュに魔闘士の派遣を。隠密で動け。カナデの安全の確保が最優先だ」
「はっ、かしこまりました」
護衛士は長官が不在だ。動かせるのは魔闘士だけである。リシュリューは遥か北西に思いを馳せた。
アポリネール母娘は即日呼び出された。収容されたのは王都の郊外にあるサントル砦だ。元は軍用施設で堅牢な造りである。現在は未決囚や位の高い者を収容する場所として使われている。二人は離されて別々に事情聴取を受けた。どちらも自分は悪くないどころか被害者であると主張する。埒が明かない。身分の高さを出されたら、警吏にはそれ以上は聞けないのだ。
そのまま夜を迎えた。リシュリューが赴く事になった。リシュリュー宮付きの護衛士ダヴィッド・ブリアンが同行した。
親子は二人とも高い塔の一部屋に収容された。石を積み上げただけの壁に冷たい床だ。敷物さえない。粗末な木のテーブルと椅子。身を横たえるだけの簡易寝台と、トイレ付の浴室があるだけの小さな部屋だ。トイレとはいえ浴槽の傍にお丸が置いてあるのだ。このような状況は貴族の子女にとっては衝撃的であり、屈辱だろう。
コレットは足を停める事なく歩き回っていた。檻の中を行き来する動物園の獣のようだ。身一つで連行された為、夜会のドレスのままだ。ランプの灯りが壁に影をゆらゆらと落とす。開いたドアの向こうにリシュリューが見えた時、彼女の顔がぱっと輝いた。彼なら、コレットがどれほど宮中でベルナデットの為に働いていたか知っている。それに温厚な性格だ。膝を折って挨拶する。
「私の…私の話をお聞きくださる為にいらしたのですね。有難き幸せに存じます! どうぞ、お座りになって」
リシュリューは立ったままだった。
「君は皇后陛下の為によく尽くしてくれた」
「恐れ入ります、当然の行いでございます」
ここで礼を言われるとは、コレットは意外だった。ベルナデットが口利きをしてくれたのだろう、と嬉しくなった。しかしすぐに笑顔は凍った。リシュリューの目は窓の外の木枯らしよりも鋭く冷たい。
「以前、王立病院に皇后のバラを届けてくれたな。異界人への見舞いと称して」
あの日の入館者台帳に、たしかにコレットが記名していた。
「はい。皇后陛下にお願いされまして」
リシュリューはじっとこちらを見ているだけだ。コレットは口ごもった。
「あ、あの、きっと皇后陛下もお見舞いされるだろうと思いまして…その、私も異界人様を存じ上げておりますから…勝手ながらお名前をお借りしました」
コレットは顔を上げた。
「私は皇后陛下のお気持ちを汲んだつもりですの。無礼でしたかしら? 陛下に聞いていただければ許して下さると思います」
優しい彼女ならかばってくれるはずだ。カナデの記憶に自分が残っているとはコレットは知らない。
「そうだろうか。あれは皇后陛下にも可愛がられていた。それなのに陛下を悲しませる行為に及ぶとは何事だ」
「…皇后陛下も…きっとお見舞いを…」
再度の言い訳をリシュリューは無視だ。
「異界人の名前は何といったか?
「え…チュウゼンジ様では…」
「そなたが呼んだ名を答えよ」
平板な声だ。強い圧力を感じる。リシュリューの魔力が漏れ出ている。コレットは数歩下がった。テーブルに当たる。
(大丈夫よ、大丈夫。しっかりフードをかぶっていたもの。ばれているはずはない…)
彼さえいなければサミュエルが自分に振り向いてくれるはずだった。首尾よくパートナーになった姿を舞踏会で披露したのだ。それなのにどうして自分はこんな冷たい場所に一人でいるのか。コレットは胸の前で両手を組んだ。ひざまずく。冷たさと固さで膝が痛い。眉をひそめてリシュリューを見上げる。
「殿下…私はいったい何の容疑でここに連れて来られたのでございますか? 私はサミュエル様を異界人様にお譲りしたではありませんか? その後は私のあずかり知らぬ事情で交代しただけです。それが罪ですの?」
髪が乱れている。それが痛々しい。彼女の可憐な声と美貌は、事情を知らぬ者なら駆け寄って抱き起こしたくなっただろう。しかしリシュリューの表情は氷のままだった。言葉が氷雨となってコレットを打つ。
「あの日のリネン交換が洗濯場に到着したのは、いつもよりずいぶんと遅かったようだな。問いに答えよ。そなたが異界人に付けた名は?」
固い言葉使いはリシュリューの凝った感情そのままだ。彼は味方ではない。コレットはやっと理解した。
運転手が付き止められたのか。依頼をしたのはミレーユのはずだ。別室にいる母親はどこまで話したのだろうか。コレットの全身から力が抜けた。異界人は王弟の恋人だった。なぜ忘れていたのだろう。そんな人物を放逐するなどなぜ考えたのか。間違えたのだ。コレットは呻いた。
「私が一体何をしたとおっしゃるのですか? 私はむしろ冤罪を被った哀れな者です。どうかどうかお慈悲をいただきたくお願い申し上げます。
「異界人の名は?」
リシュリューの魔力が彼女の喉に絡みついた。
「…ぐっ…」
圧力よりも、魔力の強さに恐怖を感じる。ドレスの胸をかきむしった。気を失いそうになる刹那、見えない拘束が解けた。コレットは激しくせき込む。涙がにじむ瞳で、壁のように立つリシュリューを見上げる。温情をかけてくれそうにない。
「…パートナー交代なんかさせられなければ! 私は本当にサミュエル様をお慕いしているのです! それなのに無理やり…! 公爵夫人になれたはずだった! 私の魔力にふさわしい立場を手に入れるはずだった!」
小鳥の声は低くかすれた。ざらざらと紙やすりをガラスに擦りつける音のようだ。
「アイツなんか…男に媚びを売るだけのでくの坊です! だからボー・デクノって付けてやりました。髪だって普通の色にしてあげたのです。今頃どこかで殿下など忘れて楽しく過ごしておりますわ!」
叫びの残響が消えてから、リシュリューが口を開いた。
「私は先んじてそなたの母の部屋を訪れた。娘の罪が軽くなるならば、と全てを白状したのだ」
「え…」
自白を聞いてから、さらにコレットへ尋問を行った。
カナデを売ろうとしたと。これで母親の証言と彼女の所業が一致した。リシュリューはこめかみを押えた。
「幻視をかけたな? 記憶はどうだ? 全て消したか? 正直に答えよ」
「…王宮での出来事と…殿下の事を全て…。いい気味…」
コレットは泣いているのか、笑っているのか。端麗な顔は歪み、喉からひくひくっとひっきりなしに音がする。そして次の言葉で完全に床につっ伏した。
「コレット・アポリネール。シャルパンティエ公爵は、君を息子の第一伴侶に選んでいたそうだ。あのパートナー襲撃が無ければ」
デビュタントパートナーになるとは縁談の第一歩である。息子を異界人と組ませたのは高位貴族の義務ゆえだった。それだけだった。王弟殿下のお手付きと噂の異界人と婚姻を結ぶのは望まない。
コレットは身分が低いながらも、デュポンドルール公爵の血筋にあたる。魔力も多い。エレメントも両親譲りだ。彼女の祖母から一つしか落としていない。パートナー替えも王家からの依頼だ。最初のパートナーでもある。皇后ベルナデットにも可愛がられていた。シャルパンティエ家の第一伴侶として遜色はなかった。それを目先の事に捕らわれてしまい、台無しにしたのはミレーユである。
「…何てこと…! お母様のせいだなんて…」
「そなたも誘拐に加担したのを忘れるな」
すすり泣きがひそやかに響く。
ランプの陰がリシュリューの頬で踊る。カナデは記憶を奪われた。それが王宮内での全てなら、八芒星魔法陣の使い方も忘れているだろう。さらに今のカナデにとってリシュリューは見知らぬ男に過ぎない。
(だからいくら呼びかけても返事をしないのか…)
コレットの嗚咽が激しさを増す。そして室内に満ちた。それを背にしてリシュリューは部屋を出た。扉の前に刑務官がいる。がちり、と固い音を立てて錠前が降りた。最大級の禁忌陣が部屋を包んでいた。ここでコレットは魔法を使えず、外部との接触もできない。
塔を降りた時、ダヴィッドが足を停めた。素早く周囲を見渡す。
「殿下、お時間を少しよろしいですか? 発言をお許し下さい」
「話せ」
二人は足早に庭を横切った。馬車寄せに向かう。ダヴィッドは早口に言った。
「マチアス・ジュスタンからシンクロで連絡がありました」
「彼は休暇中ではなかったか?」
「いいえ。実は同期の護衛士からの情報を確認に向かっていたのです。場所はベルモンターニュです」
カナデの居場所と一致する。リシュリューは止まった。待っている御者に目をやり、声をひそめる。
「見つけたのか?」
ダヴィッドは視線を巡らせた。マチアスとシンクロしている。それを伝えた。
「どちらとも言えないようです。該当の人物はチュウゼンジ卿と違う顔立ちでした。髪も目も茶色です。しかしセシル・レイが本人だと言っております。まだ彼と…セシルも現地にいます」
「よし。これから魔闘士団本部へ向かう」
空は四つの月のおかげで明るい。馬車は王宮へ向かった。リシュリューはダヴィッドを伴って急いで研究班室へ向かう。現在も更新されつつあるカナデの記憶を確認だ。今日の出来事だが、印象が強かったらしい。記憶が固定されていた。彼の視線は確かにあの二人を捉えていた。
「間違いない」
リシュリューはマチアスの魔法陣を呼び出した。矢継ぎ早に命令を伝える。
「ボー・デクノはカナデだ。幻視がかかっている。魔闘士を向かわせるから無理に保護しなくても良いが、何かあれば支援に回るように。ダヴィッドとシンクロを保持して、常に連絡が取れるようにしておけ。ただの休暇ではないな。日当は出す。何かあればすぐに連絡しろ」
シンクロを終了してから、はっと気が付いた。ダヴィッドに尋ねる。
「セシルも一緒なのか? もしや、あの二人は恋人だったか?」
「私は存じません」
お互い伴侶の居ない同士で地方にお泊りとは。二人はしばし黙り込んだ。
それはさておき、ディミトリ・コリニーが夜中にも関わらず招集された。マチアスからの情報で現地でも妖狗が確認されたからだ。ベルモンターニュには魔闘士がいない。そこよりも東に位置する大きな都市デュダンから移動させる。それが一番早く現地へ着けそうだ。
シモン・メーストル魔闘士団副長官も呼ばれた。彼は留守を預かる。てきぱきと色々な事柄が決まっていくなか、ダヴィッドが念の為にと口を開いた。
「現在、護衛士団長官が不在です。そのため、今回の件はセブラン・キルデベルト副長官にも報告済です」
ディミトリが目を丸くした。
「何だと? もしもヴァランタン侯爵やコマツにチュウゼンジ卿の居場所が伝わったらどうする? キルデベルトはどこだ?」
「所在は未確認です」
記憶が不完全なカナデがどう動くか見当もつかない。
ディミトリはベルモンターニュ鉱山に防護の魔法陣をかけるつもりだった。
冷たい空気の中、客のいない食堂に食器の触れ合う音がする。手元のランプだけが光源だ。カナデは複雑な気持ちでいっぱいのまま、暗い厨房で片づけをしていた。セシルとマチアスは覚えている。その二人が訪ねて来た。どこで自分の存在を知りえたのか。それも不安だ。さらにその理由が驚きだ。
『夫の浮気相手を探す!』
マチアスと恋愛したのだろうか? しかもセシルの夫とは。確かにナント行きの馬車の中で、マチアスがセシルを口説いていたようだ。
(結婚したのかあ…)
呼ばれた時に逃げ出したのは、マチアスが護衛士だからだ。幸い彼はボーをカナデとは違うと言ったそうだ。ソフィがそう教えてくれた。それ以上は何も聞かなかった。
カナデはランプを持ち、客席へ行った。夜のうちに席のカトラリーを準備しておくのだ。筒の中にフォークとナイフを別々に差し込む。
厨房の戸が開いた。フランクが来た。彼は客席に来た。どっかりと座る。
「おう、ボー。ご苦労。ところでお前はいつまでここにいるつもりだ?」
カナデの手が止まった。身元不明なのに何も聞かずに助けてくれた。居場所も用意してくれた。有難い。しかし今日のようにいつどんな来訪者があるか。フランク親子にも迷惑がかかってしまう。
「お金が貯まったらナントに行こうかと思ってる」
「知り合いがいるのか」
「…ううん…うん…」
「どっちだよ。身分証明書を持っていないだろう? そこら辺の流れ者と一緒だよ。ナントに入れても出られなくなる。それでいいのか?」
自治区への出入りに関しては覚えている。確かにフランクの言う通りだ。ヒューゴ・ニューホルムに会えて情報を得たとしても、身の振り方をどうするのか。さらに毒を盛ったのは彼の祖父ハッキネンだ。また危険な目に合うかもしれない。
「逃げ続けるのも人生だな。お前が自分で選ぶ道だ。俺は何も言いやしない。遠くない先にいなくなるつもりなのは分かった。料理は教えねえよ」
カナデは項垂れた。今は逃げるしかない。王都に戻れば殺される。暗示は強くカナデの心を縛る。それともう一つ、彼には縛られる事がある。
「…僕は…僕は幸せになっちゃいけないような…いけない気がして…」
立ち上がりかけていたフランクは座り直した。
「ふん。若さゆえの勘違いだな」
「…え…どういう意味…? 僕の目の前で…たくさん人が亡くなった…もしかしたら助けられたかもしれないのに…僕はただ見ているしかできなくて…」
彼らは無念だっただろう。救える力は、その時に得たのだ。それが届かなかった。遅かったのだ。生き残った自分だけが幸せになっていいのか。
「ああ、恨みに恨んでいる奴もいるだろう。原因はお前か」
「違う」
ばん、とフランクの手がテーブルを叩いた。カナデの肩がびくっと震える。
「じゃあお前を恨んでるって死んだ奴らに聞いたのかよ」
「ううん。聞けないじゃないか」
「そうだ。奴らはもう口を開かねえ。じゃあ何を考えてるかなんてどうやってお前に分かる? 何人が亡くなったか知らないが、生きてる連中を恨み倒す奴もいるだろう。逆に自分の分まで生きて生きて生き抜けって思う奴がいるかもしれない。どっちにしろもう聞けないんだ。どう思ってるなんて誰が言える? 勝手な憶測だけだ。どう思われてるか決めてんのはお前だ。生きるなんざ、ただの自己満足だよ」
いつになく饒舌だ。フランクの顔は半ば暗闇に埋もれている。表情は伺い知れない。
もしカナデが死んだ側だったら、と考えてみる。恨むだろうか? そうかもしれない。だが生きてくれとも思う。
またフランクは腰を浮かせた。よっこらしょとテーブルに手を突いて立ち上がる。
「とりあえず明日はまだ居るんだろう。とっとと片付けて寝ろ」
カナデは彼の後ろ姿に声をかけた。
「親父さんはどうしてここで働いているの?」
ふん、と彼は鼻を鳴らした。
「十年くらいしたらな。酒でも飲みながら話してやる」
「……色々とありがとう」
彼は振り返らなかった。肩を竦めただけだ。厨房のドアから自宅へ向かった。
廊下にソフィがいた。寝巻の上にショールを羽織ってもまだ寒そうだ。両腕で身を包み、父を見上げた。フランクはまた肩をすくめた。
「こんな夜中にどうした? 冷えるぞ、早く寝ろ」
「ちょっとトイレだよ」
嘘だ。彼女は閉まった厨房の扉に目をやった。
「まだボーは起きているのか?」
「もう寝るだろう」
フランクは小さな居間に向かった。暖炉の熾きが赤い。灯りがなくともほのかに明るいし暖かい。そこに近いゆり椅子に腰を下ろした。数個の潰れたクッションが体を受け止める。ソフィが付いて来た。部屋の暖気に肩の力を抜く。
「今日来た夫婦は知り合いなのかな? 旦那の方は違うって言ってたけどさあ」
カナデが外部からの来訪者に神経質なのは分かっていた。殆ど外出しようとしないうえ、鉱員以外の者が食堂に来るとあからさまに避ける。今日もそうだ。いや、反応が激しすぎる。二人の顔を見るなり仕事を放棄して逃げ出した。
「違うと言うなら違うんだろうよ。とにかくボーは逃亡者のようだ。目の前でたくさん人が死んだとさ」
そんな事件が王都で発生した。大規模なガス爆発だ。事件の概要はここまで聞こえている。陰謀説だのただの事故だの、原因は特定できていないようだ。
フランクは一人で頷いた。
「もしかしてそのせいかもな」
犯人グループの一人…いや、彼の性格なら巻き込まれたか、意に反して協力させられたか。それで犯行グループに監禁されていたところを逃亡したか。それなら外来者に警戒するし、自責の念にかられるのも当然だろう。
ぎぃ、と椅子がきしんだ。ゆったりした揺れに身を任せる。
「そのうち出ていくつもりらしい。それなら早いところ荷物をまとめて欲しいもんだ。面倒は御免だ」
きっと本気ではない。父は彼を気に入っている。
「そうだね。アタシはもう寝る。親父も早く休めよ」
ソフィはショールを掛け直した。父は振り返らずに片手を挙げただけだ。熾きに照らされた頭皮が透けて見える。
(髪が減ったなあ…)
父の老いの姿の一つだ。ソフィは廊下に出た。自室は廊下を挟んだ向かいだ。部屋に戻ると、すぐにベッドにもぐりこむ。湯たんぽのおかげで寒くない。
(ボーにも湯たんぽを用意してやるかな)
いついなくなるか不明でも、明日はまだいるだろう。そして夜は冷える。
ガス爆発は夏ごろだったか。死傷者が出た大きな事件が二つ続いたはずだ。ソフィははっと目を見開いた。先の事件の方も死者数が多い。詳しい経緯は分からないものの十名を超える者が命を失ったと聞く。妖狗の襲来で次元が裂け、異界人がやって来た事象だ。
(まさかね…)
その思い付きを頭から追い出した。足の先が温かい。ソフィは忍び寄る睡魔に身を任せて目を閉じた。
一方カナデは客席から外に出た。すぐに眠る気になれない。フランクとの会話を何度も反芻する。雪はやまず、カナデの周囲で舞い踊る。今日の月は三つ。雲の向こうでにじんで光る。積もった雪に鈍いながらも光が反射してそこそこ明るい。足元ははっきり見える。
さくさくと雪を踏む音がした。振り向くよりも早く腕を掴まれる。鉱山監督のアダンだ。しぃっと唇に指を当てた。低い声で言う。
「丁度良かった。ボー、付き合え」
有無を言わさない。引きずられる。
「嫌だよ、もう寝る」
「静かにしろ」
「助け…」
叫ぼうとしたが口を塞がれた。さらに両腕の上から大きな体躯に抱え込まれてしまった。力の差は圧倒的でどうしようもできない。カナデの頭上でアダンが囁いた。
「何か起きているぞ。周りを見てみろ」
雪に霞む鉱山は、いつもと同じだ。
「何?」
「お前は魔力ないんだな。俺も強い方じゃないが、それでも分かる。この辺全体に防護陣がかかった。ついさっきだ。妖狗除けにしちゃ強すぎる。鉱山長にできる量でもない。外部からの干渉だ」
アダンの声は低い上に、積る雪に吸い込まれていく。カナデは抵抗するのをやめて耳を澄ませた。
「採掘量が減ってるなんて嘘だ。坑道に入る日も減ってないし、ノルマ分も満たしているはずなんだ。帳簿を確認したい」
向かう先は鉱山事務所だ。裏口へ向かった。やっとカナデは解放された。アダンはポケットから鍵を出した。
「じゃあ僕はこれで」
「これからだ」
アダンはカナデの襟首を掴んだ。猫の子扱いだ。入った場所は物置とゴミの集積所を兼ねた場所だった。アダンは廊下側のドアに耳を当てた。薄く開く。廊下の灯りが漏れた。
「せっかく行き会ったんだ。誰か来ないか見張りをしろ。それにお前は数字が強かったな」
「弱いし。文系なんだ」
「ブン…何だと? 掛け算と割り算が一緒にできるじゃないか」
はあ、とため息が出る。できれば食堂以外の業務をお断りしたいのだが。
足音を忍ばせて廊下に出た。襟首を掴まれたままのカナデも一緒だ。廊下の灯りは、壁のくぼみに乗せられたランプだ。それを一つアダンが取った。左右を確認しながら壁に沿って進む。アダンは内部構造を熟知しているようだ。まっすぐに大きな木の扉の前に着いた。探索は計画的らしい。ここの鍵もアダンは用意していた。さっと入り、内側から閉める。
エルザの執務室だ。大きな白い木の机がある。やはり高級感があるのは、ここでも淡い色のようだ。内装が全体的に薄い色で統一されている。
「帳簿を探す。誰か来たらすぐ教えろよ」
「…だから協力するなんて言ってないのに」
ぼやきながらも扉の前に立った。耳をそばだてる。
アダンは部屋中を探り始めた。
「表向きの帳簿はあったな。やっぱり採掘量が少なすぎる」
アダンが探す物はエルザの机にはなさそうだ。
カナデが小さく叫んだ。
「足音がする!」
「来い」
アダンは素早く引き出しを戻した。カナデを掴む。一緒に室内を横切る。クローゼットを開けた。コートが何着かかかっている。ランプを吹き消す。そこに二人で身を潜めた。
鍵が回った。コツコツとヒールの音がする。漂う香水はエルザだ。彼女は自分の机の前に来た。電話を取り上げる。なかなか繋がらない。ちっと舌打ちの後、ようやく会話が始まったようだ。
「遅くに申し訳ない。ベルモンターニュのエルザだ。確認したいのだが、鉱山全体に防護陣をかけたのはトゥルッパか? …いや。そちらかも見えるくらい強い。見てくれ」
しばらく時間が空いた。
「ああ、見えたか。そちらではないとすると、よろしくない兆候だな。今日、例の流れ者に客が来た。人違いだったようだが…奴のせいか? そちらに強い魔力の者がいただろう? お前か。来てくれ。奴にかかっている魔法の内容を確認したい。本人が知らないままでスパイをしているかもしれないだろう?」
メモをしているのか、かさかさと音がした。
「ああ、頼む。名前は…分かった」
電話が切れた。エルザの足音が奥へ向かう。数分後、彼女は部屋を出た。アダンとカナデはずっと息を殺していた。彼女の気配が去ってからもしばらくじっとしていた。
またカナデが扉の前に立った。捜索再開だ。ランプを消してしまったが、アダンが再びマッチで火を点けた。
「奥へ向かったな」
アダンも奥へ向かった。カウンターバーがある。開けられる引き出しを全て開けた。カウンター内部の足元に近い所は、コースターやナプキン入れだ。アダンは首を傾げた。カウンターの幅に対して奥行が小さすぎる。この引き出しだけだ。
身を屈めて奥を覗き込む。鍵のかかった隠し引き出しがあった。アダンの指先に魔法陣が浮かぶ。エルザと同じくらいの魔力持ちなのだ。彼女がかけた魔法は解除できる。
「…あったぞ」
彼は帳簿を掲げてみせた。エルザの机から表向きの帳簿を出す。机の上で並べた。
「…やっぱりな。ノルマ分の半分近くが記載されていない。裏の方では…売上が立っている」
「うん」
横流しの証拠だ。しかしカナデはそれよりもエルザのメモに気を取られていた。書きなぐった文字は『遅くても昼過ぎ。モリス・ベルナール』とあった。トゥルッパという名前も聞き覚えがある。
(トゥルッパ…。ナント自治区で聞いたか?)
ヒューゴと誘拐された時に聞いた名前だ。顔はもう覚えていない。まさか同一人物なのか。逮捕されたはずだ。さらにモリス・ベルナール。ナントとアルニウスで小松狼太に付き従っていた護衛士だ。
王宮襲撃がロウタの仕業だと断定されたのはカナデが昏睡中の時だ。だから彼らが逃亡しているのも知らない。でもモリスとロウタが一緒にいるのは想像できた。
(モリスに会ったら…ロウタも来てしまったら…)
まともに護衛士とやりあった事はない。何が起きているのか、どうやって妖狗や魔鼠を抑えたのかやり方を忘れている。今また彼らに再会したら、どうなるのか。ロウタはまだカナデに執着しているかもしれないのだ。
(黒い靄が出て来て…吸い込んだ…でもどうやって…)
無言になったカナデを気にすることなく、アダンは帳簿を懐に入れた。再び鍵を閉じる。
「査察官は仕事が雑だ。信用ならねえ。もっと上に直接チクる。ボー、口外無用だ。分かっているな」
二人は外に出た。アダンは手を降り、寮へ向かった。足跡をみるみる雪が埋める。夜半を過ぎて月は四つになった。ますます明るい。
カナデは大きく息を吐いた。真っ白な塊が宙に消える。それから急ぎ足で部屋に戻り、荷物をまとめ始めた。
ツヅク! 次回Ⅶ‐Ⅰ それぞれの脱出 そして療養場所は温泉地
モリス、コワイよ……
お読みいただきありがとうございます。
セシル、頑張りました。
例え魔法がかかっていようとも、
その人特有の醸し出す雰囲気ってあるだろうな、と思っています。
特に 大切に想う相手ならなおさら感じ取れるでしょう。
さて無事に脱出なるか?
カナデの受難はまだツヅク……
セシル、とても優しいお姉さんです。




