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十四人目の髪の色 異界に転移したら王弟殿下と異形の神に寵愛される最強の能力者になった  作者: あべ舞野


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Ⅵ-Ⅰ 目覚め そしてまさかの『でくの棒』

カナデはようやく目覚めを迎えた。

だがそこに黒い企みが忍び寄る…

Ⅵ-Ⅰ 目覚め そしてまさかの『でくの棒』


 澄んだ空の下で木々の葉は黄色く染まる。町を行き交う人の上着も厚手になった。王都サントルラファイエットはすっかり秋の装いだ。

 今日もリシュリューは市内の王立病院を訪れた。最初にカナデとロウタが収容された特別棟だ。前回と同じく出入口と病室の前には護衛士が立ち、室内にはセシルが控える。

 中は豆茶の薫りが漂う。リシュリューはここで午後のティータイムを過ごすのが日課になった。豆茶とルイのタルトをお持ち込みだ。カナデが眠り続けて、もはや一か月近かった。ベッドは頭の方が高い。カナデの上半身は軽く起こされている。

「ほら、濃いめに淹れた。好きだろう」

 リシュリューはカナデの鼻先にカップを差し出した。セシルが見とがめる。

「殿下、昨日みたいにこぼさないで下さいませ。それに勝手にタルトをお口に入れるのはご遠慮下さい。巧く呑み込めなくて、夜まで口の中に残っていたんですよ!」

「ずっと味わえたって事じゃないか。ほら、カナデも反応している」

 カナデはうっすらと目を開いた。ふんふん、と豆茶を嗅いでいるようだ。口をもぐもぐさせた。

「見ただろう、セシル。何て可愛らしいんだ! キスをしてやろう」

 セシルは業務用にっこりを浮かべた。

「オヤメクダサイ。病院でございます。チュウゼンジ卿は意識が無いのですよ」

 ふん、とリシュリューは近づけていた顔を上げた。

 カナデは唸った。さらにもう少し目を開ける。

「俺だ。分かるか?」

 手がぴくりと反応する。リシュリューがそっと掴むと、わずかに動いた。まるで握り返したいようだ。しかし、すぐにまた瞼が下がってしまった。それでもリシュリューは満足げだ。手をシーツの上に戻してやり、指の背で頬を撫でる。これくらいならセシルにも許容範囲だ。

「かなり反応が良くなったな。もうすぐ目覚めそうだ」

「はい。医師の先生方もそのようにおっしゃっています」

「よし。抱っこしてみよう」

「オヤメクダサイ」

 こんなじゃれ合いは、ほんのつかの間の癒しに過ぎない。

様々な状況は厳しい。そもそもカナデが王宮外の病院にいるのも、二重スパイの疑いがあるからだ。妖狗は異界人が居ない時に出現したのだ。自分で呼んで自ら退治した可能性もある。事情聴取ができないまま王宮に置いてはおけない。セシルは自分から志願して付き添いをしている。

 窓際の花瓶には白いバラがあった。

「昨日と違う色だな。君が持って来ているのか?」

「いいえ。ほぼ毎日、お届けがあります。皇后陛下からのお見舞いだそうです」

「そうか。ありがたい事だ」

 リシュリューはカナデの髪を撫でた。豆茶を口に運ぶ。

(それにしてもどうやって現れたのか…)

 突然の出現も謎のままだ。ロウタは捕縛前に逃げてしまった。従者であるモリス・ベルナールと、あろうことかアンリ・ヴァランタンまで逐電した。彼は長官の任をはずされた。消息は不明のままだ。

リシュリューは軽い切り傷だけだった。オレリオンソルは肩の脱臼と複数個所の打撲だった。国内最高の医師であるディディエ・フーシェが担当して数日の加療で済み、公務への復帰はすぐだった。

ベルナデットは精神的なショックが大きく、まだ夏の離宮に引きこもっている。幸い胎児は無事だった。

(お礼を言うのは、義姉上が落ち着いてからだな)

 アルニウスとの協議も膠着状態だ。ロザリーは未だ帰国を果たしていない。アルニウスにとって彼女は客人である。同時に国賓のお付きの立場だ。その主賓が突如いなくなった。国の責任としてカナデと一緒に送り届けると言う。要はカナデを返せとの主張で、体のいい人質だ。彼女の周囲には防護陣が掛けられている。

 同僚のセシルは、ずっと切ない気分を抱えたままだ。

 カナデと一番仲が良いと自負はあるし、ナント自治区での一件がなければ、アルニウスに居るのは自分なのだ。

「…ロザリーは…元気でしょうか」

「ああ、そのようだ」

 それ以上は語らなかった。ロザリーの周囲にあるアルニウスの防護陣は弱い。一般の魔闘士でも突破できる程度の魔力だ。それで彼らが定期連絡をしてくれている。健気に振舞っているそうだが不安だろう。

 リシュリューは先日の検証会議を思い返した。


 検証会議が行われたのは、襲撃から一週間後だ。ロジェ・デマレ班長を中心として事象の解析を試みたのだ。魔闘士詰所の棟の会議室で発表があった。いつもはどこか楽しそうなデマレだが、この日は緊張した面持ちだった。

「王宮を襲った波動はコマツが発したのか、確認する手立てはありません」

 消えてしまうから証拠が残らない。彼は続ける。

「もしも彼の仕業ならば遠隔操作が可能なのでしょう。チュウゼンジ卿の波動能力ですが、我々の見込み違いでした。黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣の保持に加えて異界の波動をも使えるようです。但し、さほどの力は出せない。ですから最初の攻撃はチュウゼンジ卿ではないと思われます」

 オレリオンソルを守り、妖狗を去らせたのは波動だった。しかし王宮内を暴れまわっていた暴風よりは遥かに弱い。

 ディミトリが確認する。

「つまり八芒星(オクトグラム)魔法陣が重すぎて持っているのがやっとだ。だが波動も何とか出せる。というわけか」

「はい、左様です。お目覚めになったら、検証作業をさせていただきたく存じます」

 黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣を持った上で更に発動できるのが異界の波動能力だ。それは強大な威力だからこそだろう。

「二人とも脅威だな」

「ええ。しかしチュウゼンジ卿は限界まで心身を酷使する為に昏睡に陥るのかと。ここに来た時と同じですね。今回も貧血が酷く、血圧、体温ともども低レベルに陥っていると医師から報告がありました」

「難儀な能力だな。自分ではままならないとは。まあもっともあの場で黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣を出しても使える者がいなかったか」

 オレリオンソルは気絶していたし、リシュリューや護衛士はその場にいなかったのだ。夜でもあり、城外の活動がメインの魔闘士も少なかった。

「そうですね。おそらく異界人は全てあの波動を持つのでしょうかね。あちらの世界には魔法がないと聞きました。何らかの制限があり、こちらへ次元を超えた時にリミッターが外れて使えるようになるのかもしれません。サンプル数が少なすぎて確定できないのが残念です」

 デマレの舌がどんどん滑らかになっていく。

「チュウゼンジ卿の八芒星(オクトグラム)魔法陣と波動は同時に使えるのか疑問も残ります。何せ前例のないケースです。もっと色々とあの二人を使って実験したいですな。黒髪は遺伝するのか? それならラファイエット人の女性と婚姻していただきたく」

 コン、とリシュリューが指で机をたたく。

 デマレは慌てたように口を噤んだ。神妙に喋っていたのが、だんだんといつもの調子が出て来た。口調が楽しそうになってしまった。饒舌(じょうぜつ)が過ぎたようだ。カナデは王弟殿下の恋人である。実験などもっての外だ。無難な言葉を選ぶ。

「え~と検証する価値はあるかと存じます」

 リシュリューが口を挟んだ。

「話を戻そう。王宮にも波動に対する防護陣を用意したはずだな?」

「もちろんです。しかし今回は波動に加えて妖狗が襲来しました。しかも大量です。用意してある防御の限界を超えました」

「さらに強化しておけ。引き続きコマツ一味の消息を探れ。アルニウスとも…一応、連携するように」

 コマツ達は、アルニウス訪問後にナントまで戻っている。そこまでは確認済だ。

(まさかアルニウスに再入国していないだろうな)

 ロザリーを人質にして二人とも手中に収めるか。グリフィスの怒りを買ってまでそうするか。答えは出ない。


 リシュリューの意識が現在に戻った。ぼんやりしたようだ。カップを持ったままだ。傾いて危うく零れそうだ。セシルが様子をじっと伺っている。

「こぼすのは注意だな」

 飲みかけのカップを置いた。カナデがまた呻いた。身をよじる。うっすら目を開けた。視線がきょろきょろ動く。自分の居場所を確認しているようだ。リシュリューに気が付いた。震える両腕を差し伸べる。か細く呟いた。

「…病院? …殿下? …ご無事で…」

「カナデ! ああ俺だ。良かった、起きたな。ここは病院だ。俺は大事ない」

「……殿下…良かった…リーシュ様…」

 カナデの顔が泣きそうに歪む。これを我慢するのは無理だ。リシュリューはベッドに覆いかぶさるように抱き寄せた。胸にしっかりと包み込む。カナデは腕を懸命にリシュリューの背に回そうとした。

「…陛下は…」

「皇后陛下ともどもご無事だ。安心しろ。よくやったぞ、カナデ」

 セシルが背後からのぞき込む。カナデと目が合った。軽く息が切れている。二人とも言葉を交わしたいのだが、リシュリューの厚い背中が阻む。彼はカナデを腕にすっぽりと包んでいる。

「うう…」

 カナデが目を閉じた。めまいがする。

「大丈夫か? まだ辛いか?」

 リシュリューは、やっとカナデを放して寝かせた。

「セシル、医師を呼べ」

「はい」

 言われるまでもない。彼女はもう内線の受話器を持ち上げていた。

(良いところを持って行っちゃった…ずっとお世話していたのは私よ!)

 目覚めの瞬間を私で迎えて欲しかった~! などとお姉さんの気持ちになるセシルだった。更に悔しい事に、交代の時間である。

(お話ししたいのに~!)

 医者が診察を始めた。リシュリューはまだ残るようだ。それを横目に、別の付き添いと入れ替わる手はずだ。しかし、しばらく部屋でねばった。残念ながらカナデはまた目を閉じてしまい、まともに会話できないまま病室を後にしたのだった。


 

 目覚めはしたものの、半覚醒の時間が長い。前回の昏睡は一週間だったが、今回は一か月にも及ぶ。もう少し意識がはっきりしてからリハビリテーションを行う予定が組まれた。まずは体力の回復だ。事情聴取はその後になる。翌日の付き添いは、病院が手配したベテランの女性看護師だった。

 朝食の介助が終われば見守りだけになる。

 そこへ内線が鳴った。雑音ばかりで聞き取れない。彼女は病室の扉を開けた。立ち番の護衛士に声をかける。

「内線で呼ばれたようです。でも接続が悪いみたい。詰所に行って来るのでよろしくね」

 彼は頷いて、足早に去る背中を見送った。そこへ、廊下の反対側からすうっと白い光が流れて来る。廊下全体に広がった八芒星魔法陣だ。背後から彼を包む。

 すぐに無人のストレッチャーが来た。白い帽子を深くかぶった看護師風の男性だ。彼は前を見つめたままの護衛士の横を通り過ぎた。まっすぐベッドに向かう。カナデを手早くストレッチャーに移動させた。さらに海苔巻きのようにシーツを巻き付ける。

「ん…? 何ですか?」

 ぼやっとした声で尋ねるが返事がない。男は枕を手にした。さっとベッドの布団に押し込み、人型に山を作った。カナデの体全体に白い布を掛ける。そして病室を出た。護衛士は全く反応がない。

 廊下の魔法陣はまだ有効だ。彼とすれ違う者も、特に反応はない。ストレッチャーに寝かされているのは、珍しくはない茶色の髪の持ち主だ。

 看護師は突き当りに近いドアを開けた。魔法陣が一気に消えて戻る。そこは薄暗い部屋だ。作り付けの棚が壁一面にある。そこには畳まれたリネン類がぎっしりだ。魔法陣はそこに立つ小柄な人物に吸い込まれて消えた。くるぶしまでの長いローブをまとい、顎までフードを掛けている。男に頷いたのか、頭が揺れた。

 男は反対側のドアを開けた。白い光が差し込む。そこには馬に繋がれた荷台があった。男はそこへカナデを横たえた。そして使用済みのシーツやタオルを頭からかける。

「え…ちょっと…」

 カナデは懸命に手足を動かした。これはヘンだ。ローブの人物が言った。

「動いちゃだめ。やっと目が覚めたのね。ようやくお外に出られるわよ」

 ローブに隠れた腕が上がった。魔法陣が浮いた。カナデは力なく横たわる。小鳥がさえずるような可愛らしい声が命じた。

「王宮で起きた事は全て忘れるの。王弟殿下もね。ここで暗示を掛けられたのも覚えていちゃダメよ。でもこれは覚えておいて。あなたは王都に戻ったら殺される。だから戻れない。それだけの事をしでかしたの。名前は…そうね、ボー・デクノはいかが。でくの坊から取ったの。素敵でしょう? これからはそう名乗るのよ」

 強い光を放つ八芒星魔法陣がカナデの体を通り過ぎた。エレメントは七つだ。男に声をかけた。

「すんだわ。ではよろしくね。しばらく体が動かないようにしておいたわ」

 男は礼をした。馬の方へ歩く。カナデはまだぼんやりとしていた。何かが体から抜け出るような感覚がある。中からドアが閉まる刹那、フードが揺れた。横たわるカナデの視線には、その人物の顔が下から見えた。

(可愛い人なのになあ)

 もう思い出せなかった。まるで親の仇でも見るような目つきの上、唇の片側だけが上がった笑みだった。悪役のお決まりのような表情だ。馬が歩き始めた。

 コレット・アポリネールはさっとローブを脱ぎ捨てた。使用済みの籠に放り込む。ドアをうっすら開けて左右を確認する。まだ静かだ。無人なのを確かめてから、無垢な笑顔を浮かべて外に出た。

 彼女がここに居ても不自然さはないのだ。入館者台帳にも実名を記載した。自分は皇后の御使いで花を届けに来て、もう帰るだけだ。カナデの様子を探る為に、ちょこちょこと来院していた。

 ベルナベッドには実は何も頼まれていない。しかし後で勝手にお使いをしたとバレても、優しい彼女はコレットを責めないだろう。それどころか、気を使ってくれてありがとうと褒めてくれるに違いない。

(うまくいったわ。邪魔者は消えたのね)

 彼女の胸は高鳴った。

 リネン交換は一頭の馬が荷台を引く。その日もいつも通りに病院を出た。御者は固定ではなくたびたび変わる。通行証を持っていればいい。コレットが魔法をかければ偽造でもばれない。同じ市内の洗濯業者の店に到着するのは時間が決まっていない。道路の混雑次第で変わる。業者が籠を数えながら荷台から降ろす。その時にはもうカナデの姿は無かった。

 カナデは旧市街の一角で下ろされた。小さな家に運び込まれる。御者はすぐに去った。やっと手足が少し動かせる。見覚えの無い場所だ。石の床に直接転がされた。標準的な家屋なのだろうか。漆喰の塗られた壁だ。カナデの感覚ではアンティークな西洋古民家のようだった。家具は木製で、白い塗料があちこち剥げていた。

 見知らぬ男性が腕を組んでカナデを見下ろしている。彼は軽くカナデの肩を蹴った。髪が床に広がる。魔力が薄い者には茶色に映る。顔もどこにでもいるようなラファイエット人の印象に変わっていた。

 もう一人の女性がいた。こちらもローブを身に着けている。彼女には魔法を通した真の姿が見て取れる。

「間違いないわ。こいつね」

「何者なんです?」

 椅子から女性が立ち上がった。帽子をかぶり、顔には顎までの濃い紫のヴェールだ。さらにハンカチを口に当てて顔を隠す。

「次から次へと男をたぶらかすクズよ」

 ミレーユ・アポリネールだった。ゴミでも見るような目つきでカナデを見下ろした。布越しで声がこもる。

「奥様がお怒りって事は、貴族様相手に手を出したんですね?」

 答えがないのは肯定だ。男はそう受け止めた。

「どうします?」

「死ぬよりも辛い目に遭わせてやりたい。そうね、その筋の店にでも売り飛ばして。泥被りの男娼にはお似合いよ」

 ミレーユはうっかりカナデの髪の色に関する単語を言ってしまった。しかし男はただの侮辱だと受け取ったようだ。軽く笑った。

「となると、王都では難しいなあ。そういう場所には貴族もお忍びで来たりするんでね。こいつが尻軽野郎なら、顔が割れているかもしれないでしょ」

「そうね、王都の近くは避けてちょうだい」

 魔力の高い者に見られたら、正体がばれてしまう。

「地方…となるとそんな所は…」

 男はポンと手を打った。

「あそこにしよう。すぐに送り込みます」

「頼んだわ」

「病気持ちじゃないでしょうね? 具合が悪そうだ」

「ただの寝不足みたいよ」

 男は片手を差し出した。そこへ小袋を乗せる。チャリ、と金属が触れあう音がした。彼は何度か手の平で転がした。重さを確認したのか。頷いて上着のポケットに入れた。

 ミレーユも頷く。ヴェールを直して部屋を出て行った。

 カナデには現実感がまるでない。初めてこの世界に来た時のような気分だ。床の硬さよりも、意味の分からなさが気になる。彼の記憶はまだらになってしまった。

(えーと、吸い込まれて…病院で襲われて…)

 リシュリューに助けられた記憶は消えた。『蝶の間』で過ごした日々もだ。黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣の使い方や陰の気(ルキデュイ)の扱いも、王宮でリシュリューが教えてくれた。そこが消えている。だから爆発事件の時に市内の病院に行って何をしたのか、さっぱり理解できなかった。ナント自治区とアルニウス訪問も忘れてはいないのだが、記憶に連続性が全くない。自分の名前さえ、中善寺奏だと分かっているのに真っ先に浮かぶのはボー・デクノだ。

 混乱しつつも、かなりよろしくない状況なのは理解できた。幸い手足はまだ痺れているが動かせる。縛られなかったのが幸いした。もぞもぞとシーツから抜け出していると、まだそこにいる男が振り向いた。

「何だ、起きてんのか」

「あの…トイレ…」

 男は少し考えた。それから戸棚から紐を出す。荷造りに使うような荒縄だ。それをカナデの右の足首に縛り付けた。片方の端を自分で持つ。指さされた方へ、這いながら進んだ。

「本当に寝不足なのかね」

 ドアがきちんと閉まらない。カナデは男を誤魔化そうと、とりあえず用を足した。それから体が隠れるように身を寄せた。窓がある。出られそうだ。全部が親指になったような感覚だ。上手く動かない手を懸命に動かした。縄を解き、排水管に縛り付けた。便器に乗った。窓枠に手がかかる。しかし体をそこまで持ち上げられない。

「おい」

 外からの声に、あわてて水を流した。しかし男が扉を開けた。

「てめえ、ふざけるなよ」

 声が低い。襟首を掴まれた。床に引き倒される。シーツに戻された。今度は縛られてしまった上、猿ぐつわまでかまされた。

 やがて訪問者があった。女衒(ぜげん)のようだ。彼に引き渡される。扉のすぐ前に幌馬車があった。カナデはそこに放り込まれて長い旅に出たのだった。

 時折の休憩を挟みながら馬車が行く。カナデはずっと同じ状態で転がされていた。体中がきしんで悲鳴を上げる。そして丸一日かけて西アトラン山脈が見える町まで運ばれたのだった。グリフィスの棲む東アトラン山脈とは真逆の方向だ。

 とある通りで馬車が停まった。狭い広場だ。中央に噴水があるが、水は止まっている。濁った水に枯れた茶色の葉が沈む。それでも御者は馬をそこへ連れて行き、水を飲ませている。

 酒と料理の匂いが漂う。二階から三階ほどのあまり大きくない建物が並ぶ。殆どが三角屋根だ。

 女衒が馬車を降りた。別の男性を連れて来る。でっぷり太った彼は、幌をめくった。カナデの緊縛をナイフで切る。引き寄せて顔を改めた。

「ふん、ずいぶんと具合が悪そうだ。大丈夫なのか?」

「ああ。売主からお墨付きだ。移動中は食わせてない。飲み食いさせれば戻る」

「本当かよ。まあいいだろう」

 またも小袋が彼に渡された。ちゃりん、と音が鳴る。

(…売られた…?)

 男の顔が影になって黒い。

「しっかり稼げよ。まずは味見が必要か」

 にやりと笑った。歯ばかり白く光る。

「や…嫌だ…」

 ……助けて。

 誰に? ここには三人だけだ。

 恐怖と怒りが同時に沸き起こった。この意味不明な状況に不安といら立ちもある。体の奥底から熱い塊がこみ上げた。光景が歪むほど空気が揺れた。男が息を飲む。

「嫌だ!」

 気が付くと二人の男が倒れている。カナデは無意識に波動を出していたのだ。彼らは地面に叩きつけられて気を失ったようだ。八芒星魔法陣の使い方を忘れている今、本来異界人が保持している波動能力の方が出現しやすくなっているようだ。しかしそれも今のカナデには理解できない。

(ナニ…何が起きてるんだ…?)

 悪夢の中にいるようだ。とにかく逃げなくてはならない。

 カナデは男から靴を脱がせた。大きいが仕方ない。彼を跨いだ。周囲に人はいるのだが、見て見ぬふりだ。強盗事件や泥棒など、ここでは珍しくないようだ。御者もちらりとこっちを見ただけだ。彼の仕事はカナデをここまで運ぶだけだ。むしろ面倒ごとは御免なのだろう。

 カナデは男の服を探った。さっきの小袋がある。

「悪いけど、もらいます」

 どうせ自分の代金だ。意識のない男に声をかけた。よろめく足を踏みしめて幌の外に出た。黒みを帯びた西日が目を射た。秋の夕暮れだ。風は冷たい。寝巻のままだ。

(どうしよう…上着ももらってくれば良かった)

 当てはない。しかしこの場を離れなくてはならない。カナデの脳裏には、呪いのような言葉が渦巻く。

(王都にいたら殺される…殺される…)

 壁に手をかけて支えにする。風が肌を刺し、肌がひりひりする。大きな通りに出た。馬車が行き交う。カナデはひたすら歩いた。よろめく。足の力が抜けた。道に敷かれたレンガが膝に痛い。

 頭の上から、不意に風船を破裂させるような声がした。

「そんな薄着で何をやってんだい?」

 見上げるとツインテールの女性だった。少し赤を含んだ茶色の髪だ。年はカナデの上の姉よりも少し上のようだ。両手いっぱいに紙袋を抱えている。

 カナデは壁を支えにして立ち上がった。肩ほどの顔を見下ろす。

「…実は…仕事を探していて…」

「はあぁ? そんな恰好で、そんな顔色で?」

 少し離れた道路に馬車がいる。幌をかぶった客車が繋がれていた。その傍で男が叫んだ。白髪がぽやぽやと生えている頭だ。豊満な腹に荷物が乗っているようだ。

「出発だ! ソフィ! さっさと来い!」

 ソフィと呼ばれた女性は、さっと袋の一つをカナデに渡した。

「持てよ。仕事をさせてやる。名前は?」

 勝手に口から飛び出したのは、なじみのない響きだ。

「…ボー…ボー・デクノ…」

「よし、ボーだな。話は後だ。帰るぞ」

 駆け足で馬車へ向かう。カナデもよろめきつつ後に続いた。思ったより大きな声が出た。

「乗ります!」

 乗客は体の大きな男ばかりだ。一斉に視線が集まる。薄着でぶかぶかの靴で長髪。しかも若いが体は細く顔色は悪い。ソフィに声を掛けた男がしげしげとカナデを見た。ソフィに尋ねる。

「本気か? えらい者を拾ったな」

「仕事したいんだとさ。どうせ鉱山には事情のある奴ばっかりだろう、親父」

「まあそうだな」

 カナデは必死だった。見知らぬ男と居るよりはマシだ。

「行きます。お金が必要なんです」

 客車の男たちが笑った。

「そりゃみんなそうだ」

 ソフィがさっと飛び乗る。それから周囲の男性たちがカナデを引き上げてくれた。ソフィの父が言った。

「事情がありそうだな。まあ行くだけ行くか。雇ってもらえるかは鉱山長次第だからな」

 カナデが最後の一人だった。馬がいななく。そして発車した。カナデは小さく息を吐いた。男たちの間に縮こまって座る。圧迫感はあるがむしろ温かい。だがめまいがする。目を閉じて馬車の揺れに身を任せた。馬車は町を抜けた。西アトラン山脈を上る。行き先をカナデはまだ知らなかった。


 付き添いが離れたのはせいぜい十分ほどだ。護衛が扉の前にもいた。それにも関わらずカナデが消えた。枕の人型などすぐにばれる。病院長に報告され、かん口令が敷かれた。すぐに大がかりな捜索が始まった。誘拐なのか自ら出て行ったのか分からない。宮廷に出現した時も寝巻で裸足だった。それならまたアルニウスへ戻ったのかもしれない。

 特別棟に出入りする者は限られる。入館者台帳に記名せず入館したのはリシュリューだけだし、不審者は見当たらなかった。当日の就業者は記憶さえ聴取されたのだ。だが糸口が見つからない。内線の不具合は不自然だ。そこから、おそらく誘拐だろうとなった。数日経っても状況は同じだった。   アルニウスからの働き掛けもない。ロザリーの帰国を言い出さないのは、カナデが戻っていないせいだろう。

 パルクの判断により、表向きにはカナデは病院から療養所へ移送された事になった。そして捜索は続行となった。



 年が変わった。もう二月だ。ラファイエット歴では一月から三月は初春だ。しかし冬といってもいいだろう。一面の雪原に小雪がちらつく朝だ。西アトラン山脈を背中にして、東側は谷になっているから朝日が差し込むのも早い。アルニウスとは山脈で隔てられている。山越えなら国境はさほど遠くない。

カナデはまだ眠りの中だ。半分だけ覚醒しているような感覚で、真っ暗な空間に立っている。遠くに白い点が輝く。そこから声がする。

……カナデ…聞こえるか? 返事をしてくれ……

切ないような語り掛けだ。誰なのか分からない。白い空間は遠いままだ。

(僕の名前はボーなのに…)

 はっと目が覚めた。いつもの夢だ。布団の中で体を縮めた。空気が冷たくて、心地よいはずの寝床にも冷気が忍び寄る。時計の針は五時少し前。まだ暗い。

 カナデはかなり覚悟を決めて起き上がった。髪の長さは肩を越えた。何故か切ってはいけないような気がして、伸ばしっぱなしだ。ごつごつした麻の紐で一つにまとめる。ゴムが無いのは不便だ。窓に映る見慣れない自分の顔にももう慣れっこだ。吐く息が白い。

「寒い…」

 半地下の部屋だ。作り付けの棚と机、それにベッドで一杯だ。居住空間としては三畳ほどだろうか。暖房器具はない。吐く息が白い。地面と同じ高さに窓がある。カーテンを開けてもまだ暗い。

カナデに与えられた部屋は、鉱員寮に隣接した食堂の一室だ。コック親子の家でもある。

この地がベルモンターニュだとは、移動中に聞いた。山に囲まれた小さな町だが鉄道が通っている。ダイヤモンド鉱山が郊外にあるからだ。ラファイエットのダイヤの産出はここだけだ。取引所や加工業者も鉱山の手前の広場に設置されている。おかげで商人の往来のみならず観光客も多少は訪れる。産出地ならではのお得な値段で販売しているからだ。

麓の町からさらに山中に鉱山がある。グリフィスの居住地とは離れている。妖狗はほぼいない。魔鼠(まそ)の生息地だ。魔獣除けの魔法陣で充分避けられる相手だ。

カナデはちょいちょい、と頬に水を付けた。飛び上がりそうに冷たい。それで洗顔終了とする。階段を上がり、一階の厨房へ向かった。

鉱山の朝は早い。夜明けとほぼ同時に寮の食堂ではランプが灯る。まだ電気が通っていない。そしてストーブが入れられ、食事をする鉱員が集まり始めた。メニューはトレイに乗せた定食のみだ。体を使う仕事だけに、朝から焼いた肉も供される。カウンターで渡すスタイルだ。置く傍からトレイは無くなる。

皿を見た鉱員が眉をひそめた。

「おいおい、また魔鼠か! もっとがっつりした肉を食わせろよ」

 エプロンをかけた赤毛の女性が顔を上げた。ソフィだ。彼女はせっせと鍋から皿に盛りつけをしている。三十代前半か。目がくりくりして可愛らしい。ツインテールの三つ編みで細身だ。それが爆竹のような声を上げた。

「採掘量が減ってんだろ。こっちに回る予算も減らされてんだ。もっと食いたきゃもっと掘れ!」

「まあまあソフィちゃん、ちょっと感想を言ってみただけで…あ~おっかねえ」

 鉱員は肩をすくめた。カウンターの中で食器を洗っている後ろ姿に声をかける。

「なあボー。お前もいじめられていないか?」

 茶色の髪が振り返る。同じ色の瞳が少し細くなった。ボー・デクノと呼ばれるようになったカナデだ。

「親父さんは優しいよ。ソフィも」

「ソフィ様って呼べ。それに『も』って何だ。後で覚えとけ」

 ソフィは片手で鉱員を払った。

「ほらさっさと退け。次がつかえてるだろうが! 親父、肉が足りないぞ!」

 奥でフライパンを振るうソフィの父フランクも赤毛だ。娘とは対照的な腹を揺する。ふん、と鼻を鳴らしただけだった。

 鉱員は百名ほどだ。それをフランク親子だけで食事を賄っていたのだ。山奥だし三食を用意するからほぼ外出などできない。なかなか採用ができないところに来た貴重な人材がカナデだ。

 朝食がひと段落した。しかし鉱員は昼食には戻る。次は昼の仕込みだ。朝食の片づけが終わったわずかな空き時間を利用して、フランク親子とカナデが一息入れる。厨房の一角に座って朝ご飯だ。カナデの前に置かれたのは魔鼠の野菜炒めである。カナデは急いでパンとスープを口に押し込んだ。

「ごめん。無理!」

「あっこら! ちゃんと食え、ボー!」

 ソフィの怒鳴り声を背に急いで席を立つ。手早く皿を洗い、厨房を逃げ出した。 

「何だアイツは! 好き嫌いしてるからいつまでも肥えないんだ!」

「ボーを俺みたいにしたいのか?」

 フランクが腹を叩く。

「そうじゃないけどさ。痩せすぎだろう? 最近は笑う時もあるけどさ、何だかいつもちょっと暗いっていうか、寂しそうなのも気になる。もっと食えば元気になるかもしれないよ」

「逆だ、元気だから食えるんだろう? そうだ、買い出しに連れて行ったか? 少しは町で遊ばせてやれ」

「ダメダメ。もう連れて行かない! 山を下るだけでヘロヘロになっちまった。結局、荷物は殆どアタシが背負ったんだよ!」

 鉱員寮の日用品や消耗品などは、定期便で馬車が届けてくれる。臨時や緊急で物品が必要になった時は、徒歩用の山道で町まで下るのだ。カナデと会ったのはその時だ。道の斜度は急で一本道だ。それでも二時間ほどはかかる。馬車の方がもちろん速いが、好きなタイミングで行き来できる。体力のないカナデには向かなかったようだ。

 外で獣の吠える声がする。どこか遠くからだ。ソフィが手を止めた。

「魔鼠じゃないね。最近、たまに聞こえるよね。妖狗(ようく)かなあ。奴らが来ると色々と面倒だ」

 瘴気が沸くと坑道に入れない。フランクも首を傾げた。

「この辺じゃ確かに珍しい鳴き声だな」

 今度は客席から物音がした。ソフィが立ち上がる。やって来たのは鉱山長のエルザだ。ここの最高責任者である。金髪の巻き毛を一つにまとめている。先代の長女で跡を継いだ。もう十年ほどか。鉱員たちほどではないが背は高く、がっちりした体格だ。彼女はカウンターに肘を付いた。強い花の薫りが漂う。いつもまとっている香水だ。大粒ダイヤのはまった指でカウンターを叩いた。

「フランク! 今日はラファイエットから査察が来るって言っただろう」

「ああ。いつもと時期が違いますね?」

「抜き打ちだ。役人様の昼メシ用に魔鼠以外があるのか?」

「はいはい、ヒツジと川魚がありますよ」

「ここではご馳走だな。ところで新入りはどうだ?」

 カナデが来てからそろそろ三か月だ。

「よくやってますよ。さっき部屋に戻りました。また絵でも描いてるんでしょうよ」

 フランクは顎で食堂の壁を示した。手書きのメニュー表は可愛らしいイラスト付きだ。カナデ作である。

 彼が来たのは十一月だ。鉱員希望者はエルザが直々に面談をする。名前以外は何も言わなかった。いかにも偽名だ。服装はまるでどこかの施設から脱走したばかりに見える。肌のつやも悪い。まともに歩くのさえやっとだ。しかし長い髪は滑らかに手入れされ、シャツも上物だった。話し方もきちんとしているし、育ちはそれなりに良さそうだ。

 さらにエルザが気になったのは、彼に幾つか掛けられた魔法だ。どれも強いロックがかかっている。魔力がさほど強くはないエルザには解けないし、内容も分からない。高位の者が施したようだ。

 様々な理由で鉱員はここへやって来る。彼もそうなのだろう。念の為に王都での誘拐事件を調べたが、該当者はいない。何よりも自ら志願して馬車に乗ったのだ。それでも体力的に鉱員は務まらないだろう。そこで慢性人手不足の食堂へ回したのだった。意外にも勤勉で役に立ってはいるようだ。

(貴族か富裕層の落としダネか? 軟禁されてたとか? それが逃げて来たか?)

 だとしたら、鉱山に留め置くのは悪くない。後で彼の身分が明らかになった時、利用価値があるかもしれないからだ。

そして鉱山生活が始まったのだった。

部屋に戻ったカナデは両手をこすり合わせて息をふきかける。室内なのに上着が必要だ。多少の金貨を持っていたのは助かった。鉱員用の寮に売店が併設されている。そこで衣類など当座の生活用品を揃えられたのだ。

画用紙を広げる。消しゴムは存在しないので、デッサンはパンくずで消す。黒の絵の具は手作りで用意した。鉱山だけあって、作業場には金属の粉や煤が大量に落ちている。それらを集めてわずかな廃油で練ってみた。たくさんではないが、アクセントに使えるくらいは作れた。

食堂で働き、絵を描き、眠る。その繰り返しだ。業務にも慣れ、顔見知りも増えた。それなりに充実した日々である。

記憶はやはりまだらのままだ。ナントとアルニウスは覚えているが、どうして行ったのかがさっぱり分からない。とても歓待されていたし、黒い靄も自分が片付けたようだ。そこまではとにかく、さらになぜ病院から連れ出される羽目になったのか。戻れば殺されるほどの『何か』は完全に抜け落ちている。霧の中で迷子のようだ。あっというまの三か月だった。

(ロザリーさんは帰れたかな)

外で獣が吠えている。時折、頭に直接呼びかける幾つかの声がする。今朝の夢とは違う声だ。こちらは少し怒りを含んでいるようだ。

(グリフィスかな)

 応えようがない今、少し寂しい。

自分の記憶が確かならば、ロザリーは一人でアルニウスにいるはずだ。黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣と陰の気(ルキデュイ)の使い方は、王宮でリシュリューから教わった。だから今は忘れてしまい、この世界に吸い込まれた時と同じ状況だ。

(まさか中善寺奏という人格が、異世界のボー・デクノに意識だけ憑依したとか?)

 そんなゲームの設定さえ考えてしまう。忙しさにかまけて家族の事をあまり思い出していなかった。寒さが足元から忍び寄る。足を椅子に乗せて体を丸めた。どれほどそうしていただろうか。

ドアが乱暴に叩かれた。ソフィだ。

「寝てるのか、ボー。鉱員どもが帰って来るぞ。昼メシの支度だ!」

 カナデは机をそのままで扉を開けた。ソフィが腰に手を当てて仁王立ちだ。カナデを睨むように見上げている。怒っているわけではない。彼女の通常モードだ。

「早くない?」

「ああ。鉱山長に客が来るんだよ。特別メニューを親父が用意するんだ。だから今日はお前も料理を手伝え。また魔鼠だぞ」

 二人は狭い階段を上がった。

「…うぇえ…。そうだ、ソフィはナント自治区って行った事ある?」

「無いよ。急にどうした?」

 ナント自治区の記憶は、まだらになっているものの消えていない。セシルやマチアスと共にナント大橋を渡る時の高揚感も覚えている。平和広場で妖狗の瘴気を吸った後は、いきなりホテルの場面になる。何かがあったはずだ。ヒューゴ・ニューホルムに会えたら聞けるだろう。

「…いや…ここのダイヤはそこにも行くって聞いたから、どんな所かなって」

「ふん。狗と猿が一緒に暮らす楽しい夢の国だよ。アタシたちは現実の国でお料理だ」

 すぐに厨房だ。フランクはいない。鉱山事務所に向かったからだ。鉱山長の居宅であり、事務所がある建物だ。そこで料理にかかっているはずだ。手の込んだメニューは時間がかかるし、会食の場がそちらの貴賓室らしい。

「ボー、肉と野菜を切れ」

「はい、ソフィ様」

今日のお役目の為、包丁を手にする。

ソフィはそれを横目で見る。彼がやんごとなき御方の隠し子なのでは、という噂はすぐに広がった。

幾つかの理由からだ。読み書きに不自由がない。加減乗除、いわゆる四則演算を組み合わせた計算を楽にこなす。教育の機会が身分で差のつくのがラファイエットだ。計算が早いのはそれなりの勉強をしているはずだ。

テーブルマナーが身に付いているあたりも噂の根拠の一つだ。しかし髪色は庶民的だ。さらに富裕層出身ならば料理や掃除など、手早く出来るはずがない。色々と矛盾している不思議な存在だ。

「あんたは何者なんだろうね」

「ただ者」

 皮を剥がれ、首を落とされた状態の魔鼠肉はウサギほどの大きさで白っぽい。普段はフランクの仕事だ。カナデは一度目をつぶり、半泣きになりながらも思いっきり包丁を振り下ろした。勢いでも付けないと終わりそうにない。

 そんな努力の結果、昼食は何とか時間内に仕上がった。坑道から鉱員たちが戻る。食堂が込み始めた。フランクはまだ戻らない。カナデとソフィは大忙しだ。

 鉱山では見慣れない制服の人物が現れた。カウンターに身をかがめる。護衛士だ。

「お姉さん、こちらにもお願い」

 ソフィがトレイを差し出した。

「ん? 久しぶりだね。ここにはこんな物しかないよ。口に合うのかい」

「しがない護衛だもん、食える物があればありがたいって」

「そうだ、感謝しろ」

 何度かここを訪れているらしい。ソフィとは顔見知りのようで、軽口を叩きあっている。監査官はご馳走だが、彼はこちらで食事だ。

(あの制服、王都で見た記憶がある)

盛り付けをしていたカナデは顔を背けた。どん、と心臓が鳴る。何をやらかしたのか心当たりはない。しかし元は黒髪で異界人だとばれたら王都に連行されてしまうかもしれない。 

 その護衛士はカナデに目を留めた。

「新顔さんだね」

 カナデはそっぽを向いたまま軽く頷いただけだ。ソフィが答える。

「こんな素敵なレストランに来てくれたもの好き。良い子だから目も手も付けるなよ」

「はいはい。それで、これはまたネズミかな?」

「西アトラン名産の魔鼠。有難くいただきな」

「せっかく作ってくれたんだし、体が資本だし! いただきます!」

 アルニウス訪問で一緒だったダヴィッドもそんな事を言ったものだ。カナデはそれを頭から追い出し、目の前の作業に集中した。幸い、彼はすぐにカウンターを離れた。外で獣が咆哮する。その場に居た者達は首をすくめた。

 早めの昼食後、監査官はエルザを伴い坑道へ向かった。安全確認の為だ。作業員は昼休みでほぼ捌けている。現場監督のアダンが待っている。彼は二メートル近い体躯だ。小雪のちらつく中、青い作業着の袖をめくって腕まくりしていた。やって来た二人に軽く頭を下げる。

「中を見ますか?」

「いいや」

監査官は内部へは入らない。ざっと周囲を見渡しただけだ。エルザが渡したチェック表にちらっと目を落とす。ちょいちょい、とアダンを呼んだ。一緒に表を見る。

「半年に一度…これもチェック済…。はい。安全点検は法令遵守されているみたいですね」

「もちろん。俺が監督になって以来、死亡事故は起こしてないです」

「結構」

 彼はバインダーをエルザに返した。もう坑道の出入口に背を向けた。

「事故が起こらなければそれでいいんです。それよりも最近、とみに採掘量が落ちていますね。私が来たのはその為です。理由をどのように報告しましょうかね?」

 アダンは腕を組んだ。

「落ちている実感はないな。鉱員の数も減ってないし、いつも通りだ」

 エルザが顔をしかめた。

「監督を責めているんじゃない。ちゃんと計量の証拠は毎日残してるんだ。監査官は採掘量が減った原因をおたずねだ」

「秤の目盛りとあんたの目は大丈夫か、鉱山長」

「まさか納入分を自分用に隠匿しているんじゃないだろうな?」

 ノルマ分を越えて採掘した場合、残りは鉱山側に渡してもいいし、自分で直接取引所に持ち込んでもいい。

「余計な口を叩くな。監査官殿、帳簿をお見せしましょう」

「ぜひ」 

 二人は坑道を離れた。アダンがちっと舌打ちをした。

戻ったのは事務室ではなく客間だった。食事をした貴賓室だ。既にティーセットが用意されていた。まず監査官が上座に腰を下ろす。エルザは戸棚から小箱を取り出した。

「この地方名産ですよ。お土産にどうぞ」

 中身は手の平ほどの魔鼠の木彫だ。大きく開いた口には小ぶりながらもイリザスィヨンを咥え、土台は銀色に輝く。ラファイエットでは金よりも銀が高価だ。監査官は黙って見下ろした。エルザは彼の前に座った。

「先ほどの鉱員の態度をご覧になったでしょう。反抗的というか、士気が落ちているのです」

「つまり問題はあなたの監督能力だと?」

「いいえ。待遇改善に心を砕いております。むしろ士気を下げているのは妖狗の襲来ですね。瘴気が坑道まで降りる日が増えています」

 それは嘘だ。声はするが、姿はない。監査官はしばらく考えていた。やがて小箱を取り上げてポケットに入れた。

「妖狗のせいならば仕方ないでしょう。分かりました。報告を上げましょう」

 二人は握手を交わした。滞在時間は短い。しかしどちらにとっても得る物が多かったようだ。

 食事を終えた護衛士は、もう部屋の前で待機していた。

 

 温暖な気候ではあるが、王都サントルラファイエットでも二月は寒い。しかし王宮の中は暖房が行き届いて温かい。魔法でも補助的に温めている。

 コレット・アポリネールは貴族宮へ赴いたところだった。彼女は皇后のお付を外された。ベルナデットが妖狗の襲来で体調を崩しているためだ。ベテランの看護師たちがお傍に付くようになった。半ばお飾りの小間使いだったから仕方がない。だが空いた時間は他の令嬢と同じく、お茶会や夜会に費やせる。

 そして彼女は焦っていた。同年代の話題といえば婚礼である。皇后のお付きという立場を手に入れたのに、高位貴族に見染めてもらえなかった。さらにサミュエル・シャルパンティエとの縁談もアポリネール家に持ち込まれないのだ。

 だから貴族宮の廊下でサミュエルを見かけたのは幸運だった。魔闘士見習いの制服で颯爽と歩いている。背が伸びたようだ。コレットはうっとりと笑顔になった。お茶会の前だからドレスとメイクはばっちりである。早速駆け寄った。持ち前の春の小鳥と評される声で話しかけた。

「サミュエル様、すっかりご無沙汰しております。少しよろしいかしら」

「これからすぐに学校へ戻る。悪いが時間がない」

 彼は歩みを留めなかった。コレットは小走りに追いかける。

「歩きながらで結構ですわ。あの…学校はいかがですの? お休みがございましたら、ゆっくりお話ししたいわ」

「講義が詰まっている。今日は手続き上の問題で父上のサインを頂きに来ただけだ。君の為の時間は取れない」

 コレットは引き下がらない。

「差し出がましいようですがご婚約の方は進んでいまして? デビュタントの同期の方々は、続々と婚約されておりますわ。あなたのペアは私でしたのよ」

「違う。チュウゼンジだった」

「元々は私ですし、最終的には私と組んで頂きました」

 やっとサミュエルは立ち止まった。表情は高位貴族らしくあまり動かさない。ふう、と軽く吐く息が『うるせえな』と示している。それが分からないコレットではない。笑顔ながらも扇を握る手が震えた。

「…アレにご執心でしたのね。分かっておりましたわ。でも、もう居ないのですよ」

 え、とサミュエルの口が少し開いた。彼女にカナデへの想いがばれていたのにはあまり驚きがない。デビュタントの日は、確かに彼ばかり目で追っていたからだ。隠すつもりもない。しかし居ないとは。確かにアルニウス訪問以来、王宮でカナデを見かけない。襲撃事件の時に現れたらしいとのうわさ話が最後だ。どのような状態なのかサミュエルも知らない。

「居ないとはどういう意味だ?」

 コレットは扇で口元を抑えた。

「あの…入院加療中で、王宮内には居ないと申し上げたかったの」

「具合が悪いのか?」

「存じません」

「では、その話はどこで聞いた?」

「その…皇后陛下のお付きの…関係で」

 彼女はお側付きを外れたはずだ。サミュエルはまたコレットから視線を外す。

「婚約者の選定は父上にお任せしている。それだけだ。では失礼する」

 そして先ほどより足早に歩き始めた。もう貴族宮の出入口だ。前庭に咲くわずかな冬の花を背にして去った。コレットはサミュエルを見送るしかできない。

 残されて呆然と佇む。イネス公爵の娘とはいえ、身分は子爵令嬢だ。下位貴族から上位へ縁談を申し込むのは不躾とされる。家を介さずに本人同士が望むなら構わない。コレットの祖母が公爵令嬢でありながら子爵と結婚したのはその為だ。

大恋愛だったらしいが子供は母親の戸籍に入る。生まれたミレーユは子爵令嬢となり、同じ階位のアポリネール子爵の第一伴侶となった。

後にイネス公爵と婚姻をしたものの、すでに彼には第一伴侶がいた。彼の熱意は新たな若い貴族に移り、二人は離婚。娘のコレットは両親譲りの強い魔力を持つが、公爵令嬢にはなれなかった。サミュエルが望まない限り、家のつり合いを考えるとシャルパンティエ公爵家の第一伴侶になれないのだ。彼は両親に任せたという。つまり自分からはコレットを選ばない。

 ぎり、と歯が鳴る。自分の歯ぎしりに音で気が付いた。唇を噛み締める。そんな顔を誰かに見られたら、どんな噂を立てられるか。彼女は柱の陰に身を寄せた。涙がにじむ。

(悔しい…悔しい! 上手く事が運んだのに)

 皇后の侍女は、身分を高めるチャンスだった。小間使いとはいえ貴族の子女には行儀見習いだ。だからきつい作業はない。ベルナベッドは優しかった。サミュエルとダンスペアを組めたのも彼女の口添えだ。カナデを気に入った彼女の為に、かばいたくもないがお茶会で褒めたりもした。そもそもデュポンドルール公爵が自ら教えている相手をけなすなどあり得ない話だったが。

(炭かぶりとあのババアのせいよ)

 デルフィーヌの余計なお世話で異界人にペアを取られてしまった。母が手を回して新しい相手をつぶしてくれたおかげで、またサミュエルを取り戻せた。だが露見してしまい、母は謹慎中だ。さらにサミュエルの心は年上の異界人で一杯だった。パートナーに放置されるとは屈辱だ。デビュタントを思い出すと怒りが沸く。そして今日は最後通告のようだった。

(上級貴族の第一伴侶になる…お母様と私の願いだったのに!)

そんな母娘の悲願は打ち砕かれてしまった。

 背後から声を掛けられた。同じお茶会参加の令嬢だ。

「あらコレットさん。こんな所でどうされたの?」

 コレットは天使の微笑を浮かべた。

「前庭のお花がキレイですわ。こんなに寒いのに健気だと思って見ていたのです」

「まあ。コレットさんはお優しいこと。感受性が豊かなのですね」

 ミレーユの謹慎理由は貴族間に知れ渡っている。デュポンドルール公爵は噂に口止めをしなかった。先に使用人たちに広まっているし、懲罰の一部でもある。コレットにお咎めがないのは温情だ。この令嬢も知っている。しかしコレットと笑顔を交わす。これこそ貴族のコミュニケーションだ。そして会場へ連れ立って向かったのだった。


 ツヅク! 次回Ⅵ-Ⅱ 悪事の露見 そしてセシル渾身の小芝居の行方

      カナデの行方を見つけたのは、あの魔法だった。リシュリュー様、激おこです。

お読みいただきありがとうございます。

いよいよ後半戦に入りました!


鉱山での生活は、退屈だけれど安定しています。

と、思いきや…。

コレット、なかなか諦めが悪いです。ま~一生がかかってますからね~。

この自分の望むところに素直すぎる所、作者は嫌いではありません。


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