↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十四人目の髪の色 異界に転移したら王弟殿下と異形の神に寵愛される最強の能力者になった  作者: あべ舞野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/16

Ⅴ‐Ⅱ アルニウス訪問 そして再会

無事に終わったかに見えた視察最終日に事件が発生

アルニウス、ラファイエット両国が大きく揺れる

Ⅴ‐Ⅱ アルニウス訪問 そして再会


 翌日からは首都を拠点として数か所を巡る計画だ。地方では主に産業見学がメインだった。首都では美術館や市場巡りがとなる。相変わらず怒涛のカタカナ自己紹介だ。カナデは半笑いでやり過ごす。ロザリーが秘書も兼務してくれるのが助かる。彼らの肩書や名前なども完璧に把握しているのだ。挨拶の時など背後からそっと小声で教えてくれる。

 ただしロウタと同じコースなのだ。これには参った。挨拶の時には隣に立たねばならない。以前の事件を思い出してしまい、同じ空気を吸うのも辛い感じだ。周囲の目があるから何も手出しはしてこないのだが。公式の場でもニューホルム警護社がさりげなく二人の間に入って来るのは有難かった。

 休憩時間は、すかさずヒューゴが来てくれる。ダヴィッドもがっちりガードだ。

 そして三日目の朝になった。

 この日は早朝から馬車で出発だ。西アトラン山脈の麓まで馬車を走らせる。最初はロウタと二人で乗る予定だった。それを『酔うから!』と無理やり分けてもらった。

 ここまでくれば、異界人同士の不穏な空気は隠せない。アルニウス側の戸惑いを二人とも感じていた。

 馬車は二時間ほど郊外へ進んだ。山の中腹まで登る。そこでやっと止まった。山肌に囲まれた青い水面が広がる。森の木々は紅葉して湖面を彩り、そのほとりには数軒の宿を中心に小さな商店が並ぶ。アルニウスでも有名な景勝地だという事だ。

 水のある所は陰の気が強い。空気が気持ちよかった。景色が日本にとても似ている。嬉しさと哀しさが同時にこみ上げた。

(あそこに似ているな)

 自分の苗字と同じ日本の美しい湖を思い出す。その本来の表記を目にする事はもう二度とないかもしれない。じっと湖面を眺めていると、ハカミエス大統領がやって来た。

「お気に召しましたか? ここはアーネコスキが誇る景色でしてね。季節ごとに美しく変化するのです。名前は中禅寺湖」

 違うだろうっ⁈ カナデは目が丸くなった。翻訳陣は人名をそのまま音で示す。しかしカナデが対象物を知っているか、イメージが近いなと思い浮かんだ名前を採用してしまうようだ。バラ、ユリ、おはぎなどは明らかに日本の名称だ。本来の名ではないだろう。中禅寺湖も絶対に違う。イメージを頭から追い出す。

「そ、そうですか…すみませんがもう一度…」

「芦ノ湖です」

 ああ、やっぱり。場所も様相も全く違うのに、やはり記憶にある山に囲まれた湖を選んでしまった。勝手に命名してみた。

「……アーネコスキ湖ですね…」

「はい、その通りです」

 カナデの言葉もあちらには変化して伝わるのだ。本当の名前はもういい。これで決定だ。一行はぞろぞろと水沿いの遊歩道を歩き始めた。岸には引き上げられたボートが腹を見せていた。今日は異界人の訪問とあって、立ち入り禁止になったそうだ。普段ならもっと人がいるらしい。

ハカミエス自らガイドをしてくれる。

「休日には紅葉狩りに市民が訪れます。今はちょうど美しい時期なのです。まもなく湖面が凍結しますから、ワカサギ釣りもできますよ」

「……天ぷらが美味しいですよね……」

 観光案内はほぼほぼ日本である。もう異世界固有の単語を知るのは諦めた方がいいのだろうか。

「ええ、もちろん。ところでチュウゼンジ卿。以前ナント自治区へいらした際、黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣の出現があったのはご存じですよね? あれはお二方ともお持ちなのですか?」

 彼はこの質問をあきらめていなかった。

「グリフィスが来たんじゃないですか?」

 しらっと答えた。ヒューゴは少し離れた場所にいる。ハカミエスの護衛達の向こうだ。何と答えるべきか。ちらりと同胞を見た。

 ロウタの相手はベックマン宰相だ。ロウタの声が聞こえた。

「今日は静かですね? 妖狗は山にいる印象なんですが、こちらにも?」

「ええ。陰の気の強い場所には出現します。しかし特にこの地に多いのは別の種で、御屋を作り抑制しております」

 定期的に供物を捧げて出現を抑えている。動物の乳から作った蘇(そ)を奉納しているそうだ。強い薫りを放つ。いわばチーズか。彼らの位置からちょうど対角線上に祠らしき建物が小さく見える。

「へええ…チーズを食べる神獣ねえ…」

「いいえ。魔獣ですよ。あまり賢くもないですし」

 ロウタは顎に手を当てた。拳の下で唇が歪む。背後のモリスがはっとした。ロウタの周囲で空気が揺らめく。風景がぼやけた。ほんのわずかな動きだが、もう見慣れた前兆だ。

 地面が揺らいだ。一斉に木々が動く。あたかも山全体が揺れているようだ。枝葉がこすれて不規則な騒めきに包まれた。突然の地震だ。鳥が大挙して飛び立つ。

 御屋が大きく傾いだ。ぎぃぃ~と悲鳴のような鳴き声が響き渡る。羽ばたきと同時に大量の魔獣がそこから噴き出した。一気に湖を覆い、こちらへ向かって来る。体のサイズは小型犬ほどで、初めてみるタイプの妖狗…いや犬ではない。背中の羽は蝙蝠に似ている。羽毛がない。体は薄い灰色だ。鼻が尖り、伸びた前歯が口からはみ出す。

 ハカミエスが言った。

「あれは魔鼠(まそ)です。蘇が足りなかったか?」

 そう、彼らの外見はネズミだった。瘴気を放ちながらみるみる近づく。ロザリーがよろめいた。ダヴィッドが肩を支える。護衛士の彼は、魔力があっても妖獣と戦う技術と技量はない。アルニウスの護衛士たちも瘴気に対応する術を持たない。

 初めて見る魔鼠だ。少し怯んだロウタだったが、すぐに胸を張った。

「大丈夫です。俺が収めましょう。鎮まれ! 鎮まるのだ!」

 腕を突き出す。波動が彼らを目掛けて放たれた。群れが散り散りになった。しかしまたすぐに元に戻る。むしろ叫びが大きくなった。初めての力に戸惑い、怒りさえ覚えているようだ。魔法陣が鼻先に浮かんでいる。エレメントは三つ。三角だ。魔力はさほど多くなさそうだ。しかし個体数がすごい。さらに彼らにとっては、異界の波動は初体験だ。ロウタがしつけた妖狗達とは違う。彼の命令に従うつもりは毛頭ないのだ。アルニウス人たちは素早く下がった。建物に向かって避難を始める。

「チュウゼンジ卿、コマツ殿、早く!」

 そう言われても動けない。カナデは小さく悲鳴を上げた。その場に座り込む。見たくない。耳を塞ぎ、目を閉じて首を振った。ヒューゴが駆け寄った。

「どうした⁈ 妖狗みたいに抑えてくれよ。瘴気が来ちまう!」

「だ、だ、だって! 何であんなの出て来るんだよ⁈ 僕はネズミが大っ嫌いなんだ! ムリ‼ 無理無理無理‼」

 道端で潰れているのを見て以来、どうしてもダメだ。ぐしゃぐしゃになった肉塊からしっぽがぴょろりと伸びているのも不気味だった。

 そうこうする間にも、魔鼠の群れが押し寄せる。ロウタの波動は彼らを揺らすが、追い返すまではいかない。彼にも制御できないのだ。しかも瘴気が飛び散った。さらに広がる。

 頭上に群れが差し掛かる。ガンメタルの靄が降りて来た。

「やだやだやだやだ」

「はあ? こないだの晩餐会で喰っただろうが! メインの肉は魔鼠だ。とっくにお前の一部になってんだぞ、コラぁ。駄々こねてんじゃねえ!」

「たったっ食べたぁあああ…ネズミ…神様を料理するなぁ!」

 メニュー表をまともに見ていないのを悔やんでももう遅い。ヒューゴはカナデの肩を掴んで揺さぶった。

「魔鼠は神じゃねえ。獣だ。吸えや! やれ! 御使いだろうが、てめえはよぉ」

 神の使いに対してあまりに無礼。しかし危険は迫っている。カナデは半泣きだった。見たらできない。顔を伏せたまま陰の気を吸い込む。みるみる靄が薄くなった。

 魔鼠たちの勢いが鈍った。瘴気を扱える存在。それは自分たちと、更に高く君臨するグリフィスのみのはずだ。群れはばらばらになった。グリフィスの怒りに下手に触れれば、容赦なく彼らを滅する。圧倒的な力の差があるのだ。

 モリスがロウタに声を掛けた。

「波動で渦を作って下さい。それで包みましょう」

 妖狗を返す時に使う手だ。竜巻のような波動の渦を作り、そこに閉じ込める。あとは渦ごと動かせばいいのだ。

「分かっている。指図するな」

 ロウタは両手を大きく広げて空に突き上げた。そうしなくとも波動は出せる。背後の者に見せる為のいわばパフォーマンスのポーズだ。

「戻るのだ!」

 波動の渦が沸いた。魔鼠の群れに襲い掛かる。彼らの一部だけしか包めなかった。だがそのまま渦を御屋に向けて動かす。また奴らが叫び始めた。訳が分からないまま仲間が移動させられているのだ。グリフィスの気配はしないが、大人しく従った方が良さそうだと判断したようだ。渦に付き従う。ぞろぞろと出て来た場所へ帰って行く。

 ロウタは大きく息を吐いた。額の冷や汗を拭う。

(できるじゃないか、俺…)

 瘴気をカナデが吸ったからこその活動量低下だ。それをロウタは知らない。

 モリスはカナデを見ていた。まだ立ち上がれない。膝に顔をうずめたままだ。ヒューゴが何か言っても首を振るばかりだ。

(魔鼠が消えたから靄も? いや…瘴気が先に消えた。彼に向かって行ったような…。それらはどこへ?)

 ナントの妖狗騒動でも同じ現象があった。瘴気が消えたからこそロウタが奴らを抑え込めた。ロウタの近くにいたモリスには、そのように見えた。ずっとナント郊外に居住する彼には、カナデの保持する黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣の情報が伝わっていないのだ。

 アルニウス人たちが戻った。得意げなロウタを囲んで拍手を送る。中禅寺湖ならぬアーネコスキ湖は、元の平和な顔を戻した。

 それから周辺の牧場など視察という名の観光は続く。カナデは半分目が虚ろになってしまった。ただ付いて歩くばかりだ。心身ともに苦手なネズミが充満している気分だ。

昼食は湖を臨む高台のレストランだった。カナデはまだぼうっとして、見るからに魚なのだが食事には手を付けようとしない。お茶をすするだけだ。そんな彼を、周囲は遠巻きに見守っている。

食事を終えたロウタは、湖を見下ろす窓際に歩み寄った。そこへハカミエスがやって来た。

「お食事はお口に合いましたか? 湖でとれるマスです」

「美味しかったです」

 ロウタはにっこりと優等生の笑顔を見せた。

「良かった。それにしても先ほどの魔鼠退治はお見事でした」

 魔鼠の瘴気は魔法陣に比例して、あまり強くはない。だから建物内に退避すれば免れるし、万が一吸ってしまっても数日の発熱程度で済む。魔獣が現れるのに観光が盛んなのはそのおかげだ。

 ハカミエスは伺うような目線でロウタを見下ろす。

「アルニウスの印象はいかがですか」

「良い感じですよ。食べ物は美味しいし、皆さんは親切だ」

「それは結構。…こちらに活動拠点を置くのは如何ですか? 魔獣と対峙できる貴方は貴重な存在なのです。ああ、もちろん住居はナント辺りが便利でしょう。今の郊外のお住まいよりも、市内のもっと広いお宅を提供できます」

 妖狗の訓練の為に敢えて辺鄙な場所に住んでいるのだ。それをおくびにも出さず、ロウタは首を傾げた。

「う~ん。仕事とか立場ってどうなるのかなあ~。私の力を恐れているのか、ラファイエットには飼い殺し状態…。あ、言い過ぎました。忘れて下さい」

「あちらの目論見は私たちには分かりません。ただ、こちらは異界人の価値を正しく評価できると断言できます。それなりの地位は用意できるでしょう」

 八芒星(オクトグラム)魔法陣を持っているかと思ったもう一人の異界人は、怯えて座っているだけだった。魔鼠にショックを受けたようで、まともに食事さえできない。

(瘴気を消したのは…いや、魔鼠が去ったから消えたか)

 それならより欲しいのはロウタの方だ。

「そうだなあ…」

 少し考えたロウタは微笑んだ。

「前向きに考えてもいいんですが、ちょっとお話しがしたいなあ」

 モリスが二人を気にしている。ハカミエスはロウタに背を向けた。

「もちろんです。後ほどゆっくりとお会いしましょう」

 ロウタの視線は、食堂で未だぐったりしているカナデに注がれていた。

 魔鼠は山岳地帯での貴重なたんぱく源だ。罠をしかけて捕らえ、瘴気を吐き出し切った後に肉を取る。赤身肉だが、味わいは鶏肉に近い。癖も毒もない。フライやムニエルにするのが一般的だ。名産品でもあり、アーネコスキ周辺ではありふれた食材だ。

 その土地固有の食文化は重要である。理屈では理解できる。しかしヒューゴの『もうお前の一部』発言は堪えた。ダヴィッドは『食べた物には何も言わない』そうだ。ロザリーも魔鼠を初めて味わってしまった。ラファイエットでは口にしない食材だ。こういうのは後から知る方が心理的にはきつい。しかも食文化は個人の根幹を為す物だけに、滅多な事も言えない。またネズミではない。魔獣だ。名前に『鼠』と付くだけである。

 カナデも、もう弱音を吐かなかった。しかし食事に拒否反応が出てしまった。ロザリー共々ふらふらになりながらもスケジュールをこなしたのだった。リシュリューからは毎日のようにシンクロのお誘いが来ていた。しかしあまりに疲れてしまい、ほぼ定時連絡と化していた。

(帰ったらゆっくり話せるし)

 この時はそう思っていたのだ。

 そして全ての行事はクリアした。もっと北方へ向かえば海があるのだが、さすがに時間がかかり過ぎる。今回の視察は首都で折り返しだ。

 やっと明日は帰れる。帰路にはほぼ予定はない。帰るだけだ。夕方からはもう帰り支度だ。もっともロザリーがやってくれるので、カナデには何もない。休もうと思ったが、ヒューゴが呼びに来た。

「爺ちゃんが来たんだ。いいか?」

 ダヴィッドと階下の広間へ向かう。ヒューゴが扉を開けた。晩餐会会場よりは小さなホールだ。

「それじゃ俺はここまで。またな」

 ヒューゴは手を振って去った。隅に応接セットが置かれている。そこから灰色のアルニウス人が立ち上がり、二人を迎えた。

「お忙しい処をお越しいただきありがとうございます。お付の方からお聞き及びかと存じます。ハッキネン・ニューホルムでございます。これからお顔を合わせる機会も多いと思いますのでご挨拶に参りました」

 ハッキネン・ニューホルムだった。形式的な挨拶の後に二人は向かい合って座った。カナデの後ろにダヴィッドが立つ。ホテルの従業員が二人の前にカップを置いた。豆茶の香りだ。

「どうぞ。そちらの侍従よりお好きな飲み物をうかがいました」

「うわ~有難うございます」

 これは素直に嬉しい。さっそく口に含んだ。少し青臭さがあって苦みが強い。

「お口に合いますかな。こちらで焙煎した豆なので、ラファイエットとは風味が違うかもしれません」

「大丈夫です」

「ヒューゴのご案内は如何ですか。やんちゃが抜けずに困ったものです」

「そこが一緒にいて楽しいところです」

 やれやれ、とハッキネンが肩をすくめる。今までの威圧感が少し抜けた。祖父の顔になったのかもしれない。

「黒い絵の具がご所望と聞きました。後でお部屋にお届けしましょう」

 カナデは首を振る。

「いいえ。せっかくですがナントに戻ったら、自分で見て決めたいです。お気遣いなく」

 対するハッキネンは、また総帥の顔に戻った。しばらくカナデを眺める。成人したばかりの若者だ。ラファイエットではいざ知らず、アルニウスでは最高級のもてなしを受けたはずだ。しかし態度は謙虚だ。自己を卑下もせず、過大評価もしていない。厚意の断り方もスマートだ。ナントで汚れた服を取り換えた際も、きちんと対価を支払っている。

 染色工場での話も確認済だ。彼は異界の知識を隠す事なく伝えている。

(さすがは御使いといったところか)

 ハッキネンは軽く身を乗り出した。

「単刀直入にお尋ねしましょう。アルニウスにいらっしゃるお気持ちはございますか?」

「え…」

 再訪の心づもりを尋ねているのではない、とはカナデにも分かる。

「難しいです」

 初めに落下したのがアルニウスならとにかく、ラファイエットでの生活基盤はできつつある。またリシュリューの存在も大きい。ハッキネンは頷いた。

「左様でしょう。しかしながらラファイエットは我らを狗と呼び、黒を嫌い、グリフィス神を嫌っております。チュウゼンジ卿の生活環境はいかかでしょうか? 失礼ながら風説では政府の厳しい監視下に置かれていると伺っております」

 カナデはすぐに返事ができなかった。王宮内ではかなり自由になったと思う。リシュリューのおかげだ。だが単独行動は制限され、許可なしには門を出る事はできない。行き先はお手伝いの病院に限られる。ハッキネンの探るような視線が痛い。孫のヒューゴから、もしや黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣を持っていると聞いているのか。

「いいえ。親切にしてもらっています」

「ラファイエットの対応を責めているのではありません。よく知らない存在に対して警戒心を抱くのは当然の事です。しかし我らは違うのです。グリフィス神にお仕えしており、御使いのあなた様に見合った待遇ができます。ナント自治区でしたら、猿属の姿でもご不便なく過ごせるでしょう」

 会話が途切れた。カナデはカップを両手で包んだ。狗属への拒否感はあまりない。風土や食物も日本に近い。

(でも…やっぱりリーシュ様のそばにいたい)

 豆茶を口に含んだ。少し冷めたようだ。ドクダミのような臭いがさっきよりも強い。

 ハッキネンが背後の秘書に目で合図した。彼はダヴィッドに声を掛けた。

「これから内密の話をしたく、席を外していただきたい」

 ダヴィッドは首を振った。

「チュウゼンジ卿をお一人にはできません。守秘義務がありますからここでの内容は口外しないと誓います」

「それは結構。しかしお話しが終われば使いをやります。お部屋にお戻りを」

 彼は静かに立ち上がった。ダヴィッドに歩み寄る。頭一つ下から声をかける。ダヴィッドの視界の外で魔法陣が浮かんで消えた。彼の瞳が少しぼうっと潤んだ。

「かしこまりました」

 そう言うと、礼をして踵を返す。カツカツ、と軍靴の音が遠ざかった。

「ダヴィッドさん!」

 返事は無かった。扉が閉まる。

 どことなく息苦しさを感じた。それでもカナデはハッキネンに尋ねる。

「以前に頂いた伝言ですが、元の世界に帰れる方法があるのですか?」

 ハッキネンは座りなおした。じっとカナデを見つめる。

「…さて。少し違って伝わったようですな。帰るおつもりがないのなら…すなわち骨を埋める覚悟ができたのなら、という意味でございました」

 カナデは声を出せなかった。手足の先に電流が走るような痛みを感じる。段々と範囲が広がり、動かせない。

「う…」

 吐き気がこみ上げた。息が苦しい。脈を打つごとに頭全体が締め付けられる痛みに襲われる。座っていられない。ソファの座面が近づくのかと思いきや、自分が倒れていた。ぐるぐると回る景色がかすむ。かすかにハッキネンの言葉が耳に届く。

「慣れない物は口にすべきではないな。殊にヴァーラリスタ入りの飲み物など真っ平だ」

 瞼が勝手に下がった。

(…ヴァー…何だっけ…毒を…入れられた…?)

 それを最後に意識が暗闇に吸い込まれた。

 ハッキネンは腕を組み、背もたれに寄りかかった。

「もういいぞ」

 その声に応じて、広間の別の出入口から数人のアルニウス人が現れた。準備良く担架持参だ。気を失ったカナデを乗せる。

「猿属を診られる医師は来たか?」

「はい、御使い様の訪問時より待機させておりました。猿属用の解毒剤も準備してあります」

「よろしい。行け」

 担架が去った。

 ハカミエス宰相とロウタの極秘会談を受けての事だ。ロウタがアルニウス籍になる最後の条件、それこそがカナデも一緒に残るという物だった。二人が恋人同士なのに王弟殿下がカナデを利用しようと企んでいる。それでラファイエットでは二人を引き離そうとしていると告げたのだ。

御使いと話したいとハッキネンがこの場を用意した。自然に飲み物に毒をしこめる。

 ハッキネンの元には真贋定まらぬあらゆる情報が集まる。さらに孫から様々な報告も受けている。何が本当で嘘なのか、判断するのも巨大な組織を統合するには必要な見識だ。

 なぜ異界人はナントとサントルラファイエットに分けられたのか。訪問にも別ルートでとリクエストがあったのか。ナント自治区であった騒動は。そしてヒューゴがカナデから聞いた告白。全てを政府に伝えているわけではない。それでハカミエスからの要望がこれだ。

 どたどたと足音がする。乱暴にドアが開いた。孫だ。ヒューゴが息を切らしている。

「祖父さん! カナデが倒れたって? 今運ばれてんのを見た。どうしたんだ?」

「お疲れなのだろう。倒れられた。病院へお運びする」

 テーブルには飲みかけのカップが置き去りだ。ヒューゴの鼻がひくひく動いた。

「これってアレじゃねえか。祖父さん、まさか飲ませたのか? 何で⁈ 俺はカナデを無事にナントへ届けるのが使命なんだ。それを潰したのか⁈」

「だから体調を崩されたのだ。これ以上何も言うな。お前が御使いの健康管理を怠ったせいになる」

「…何で…俺は…俺はアイツとダチなのに…こんな…」

 唸りが喉から漏れた。ヒューゴは身を翻す。来た時と同じく足音荒く走り去る。

 ハッキネンは侍従に命じた。

「扉を閉めろ。雑音が聞こえぬように。…これが愚かな選択にならないといいのだが」

 それからゆっくりと立ち上がった。

 一方、カナデの部屋。待っていたロザリーが目をぱちぱちさせた。ダヴィッドが一人で戻ったのだ。

「あら? チュウゼンジ卿は?」

「ニューホルム総帥とお話しがあるそうです。終わったら呼びに来てくれるから戻れと…」

 ここでダヴィッドはこめかみを押えた。頭を振る。

「どうして俺はすんなり戻ったんだ? まさか魔法を使われたのか?」

「行ってみましょう」

 ロザリーがさっとドアを開ける。振り返った顔には色が無かった。

「部屋全体に外から禁忌の防護陣が掛けられているわ」

 ナント自治区と同じ種類の魔法だ。部屋の内外とではシンクロができない。さほど強くないアルニウス人の魔法でも、幾重にも重なっていれば強くなる。ロザリーとダヴィッドの二人がかりでも破れなかった。本国との連絡が取れない。

「先ほどの場所へ戻ります」

 ダヴィッドの一歩は、アルニウス人の護衛に阻まれた。

「お部屋で待機をお願いします。チュウゼンジ卿はまだ会談中です」

「お迎えに行くだけです。外でお待ちします」

「それには及びませんよ。お任せ下さい」

 数人の護衛がやって来た。騒ぎを起こすのは得策ではない。ダヴィッドはやむなく部屋へ下がった。

 そしてカナデの体調不良が伝えられたのは朝になってからだ。 全ての予定は終了している。ラファイエット一行は予定通りにナントに向けて出発した。カナデと共に残るのを許されたのは、看護師でもあるロザリーだけだった。



 一行がナント自治区に戻ったのは二日後の夕刻だった。旅の疲れを癒す為にしばらく滞在の予定だ。パルクたちはホテルに落ち着いた。彼らと会食を済ませて、モリスとロウタは仮の自宅へ戻った。

 アルニウスへ籍を移す決断は、もうパルクには伝えてある。本国に報告後、身柄はアルニウスの管理下に移される予定だ。

 荷ほどきもそこそこに、ロウタはベッドにひっくり返っている。

「は~犬ころどもに囲まれているのも疲れるな」

 モリスは片付けの手を止めた。ロウタの足元に腰を下ろす。

「本気で狗属の国民になるつもりですか?」

「う~ん。どうするか。お前はずっと俺に付いて来るんだろう?」

「はい」

 即答だった。迷いのない声だ。ロウタは一度起き上がった。しげしげと茶色の瞳を見つめる。モリスはいつもの通りだ。風が凪いだような笑顔で見つめ返してくる。

「離婚が成立したそうです。私があなたと離れる理由はありません」

 ロウタはやにわにシャツを脱ぎ捨てた。モリスの肩に寄りかかって押し倒す。足の間に体をねじ込んだ。モリスのベルトに手を掛ける。

「結局はナント暮らしになる。だったらどっちにいたって同じだ。もしもラファイエットが良い条件を出してくるならやめる。サントルラファイエットに戻れるか、爵位をくれるとかな」

 異界人を一人ずつ分けるとは、パルクのアイディアだ。しかしカナデを国内に留められてしまった。体調不良は本当なのか。モリスのみならず、訪問団の全員が疑っている。入院させたとの事で、出発までに誰もカナデに会っていない。

「チュウゼンジ卿をアルニウス側へ渡してラファイエットに戻れますか? 王弟殿下がそれには納得しないでしょう」

 ロウタの動きが止まった。王弟リシュリュー。病院でカナデを組み敷いた時が今の所は最初で最後だ。彼がカナデを囲っているのはもはや公然の秘密である。

「まんまと俺のネコをかっさらいやがって…。納得させてやる」

 起き上がった。上半身裸のままで部屋を横切り、扉を開けた。初冬の風が吹きつける。モリスが背後から上着をかけてやった。

「どうするおつもりですか」

「モリス、陽の印ってどんなのだ? 作ってみろ」

 彼自身はホワイトスターを持たない。中空に魔法陣を出してイメージを形作った。

「こんな感じですか。白く輝いているはずです」

「よし。しばらく保持してろ」

 ロウタの周囲で空気が騒めいた。波動が広がる。山が唸った。妖狗が沸きだした。上空を飛び交う。もうさんざん躾けた奴らだ。モリスが描くホワイトスターを示した。

「これを追え。食いちぎってやるんだ。モリス、こいつらを先導しろ」

 さすがに逡巡する。波動の渦が妖狗を包んだ。

「早くしろ! 王宮へ送るんだ」

 モリスの作ったホワイトスターが目印だ。それが波動の渦に乗って流される。妖狗達はそれを追いかけて南へ向かった。

「上手くいきますかね」

「別に王弟殿下を襲わなくてもいいんだ。王都を驚かせてやれ。俺という異界人がいなくちゃダメなんだって思わせてやる」

 二つの国が自分を巡って取り合いをしている。ロウタは楽しい気分で一杯だった。



 その頃、リシュリューは王宮にいた。まもなく使節団が帰ってくる。労いの晩餐会を数日後に控えての準備だった。招待客のリストや料理の選定などを兄の国王と協議中だった。二人はオレリオンソルの執務室にいた。

「兄上、カナデが帰国できないそうだ」

ナント自治区に戻ったパルクから最初に報告があったのはそれだった。

「チュウゼンジと連絡はつかないのかい?」

 部屋には兄弟の二人だけだ。おのずとお互い砕けた口調になる。

「うん。あの子の周りに防護陣が掛けられている。まあ狗属の魔法だからね。俺にとってはスカスカの網みたいな物なんだが、返事が無いんだ」

 ナント自治区には、ラファイエット側からも魔法をかけている。それゆえリシュリュー個人の魔力でも太刀打ちできない。無理やり複数で破れば、国際問題になってしまう。しかしアルニウス単独の魔法陣ならば、ラファイエットではトップクラスのリシュリューには通過するのはさほど苦ではなかった。

 ふう、とリシュリューは息を吐いた。この状況はあり得る事態だった。陰謀だろうと思う。飲食は全て同じはずなのに、カナデだけが体調不良で動けない。しかも最終日だ。初の異界人訪問だけに無事に終わると踏んでいたのだが。

 オレリオンソルは指を組んだ。少し首を傾げる。

「本当に具合が悪いだけかもしれないよ。彼は体が弱かっただろう」

「そうかもな。ロザリーとは連絡が取れたんだ。意識がまだ戻っていないそうだ」

 魔力の高位者からは、下位へ呼びかけができる。

「リシュリュー、心配なのはわかる。しかしコマツは戻ったのだし、しばらく様子を見てみようか。あちらとしても面倒くさい外交問題を起こしたくはないだろう」

 リシュリューは立ちあがった。

「そうだね。それでは続きはまた明日に。兄上の麗しい花にご挨拶をして帰るよ」

 皇后ベルナデットは妊娠三か月だ。まだ安定期とは言えない上に、もうつわりも始まっているようだ。ずっと自室にこもっている。部屋を出ようとして、リシュリューはふと上を見上げた。空気のかすかな震えを感じる。それに覚えがあった。ナント自治区だ。地震の前後と妖狗の襲来の際に感じた違和感と同じだ。

 不意に王宮の上空に風が渦巻いた。塔に掲げられた旗が千切れそうにはためく。妖狗の群れが到達したのだ。金切り声が周囲に満ちた。モリスの道しるべは既に消えた。しかし妖狗達は目指す印をもう覚えている。ホワイトスターだ。もっとも光り輝く印へ、国王めがけて群れがなだれ落ちた。執務室の窓が割れた。壁が崩れる。突風が部屋を駆け抜けた。

 最初の一撃はリシュリューの魔法陣に阻まれた。妖狗がはじけ飛ぶ。

「兄上! 大丈夫か⁈」

 あおりを受けて倒れたオレリオンソルだが、懸命に身を起こした。

「転んだだけだよ。リシュリュー、ベルを見てくれ。頼む」

「分かった。兄上、気を付けて」

 波動への備えはしてあった。しかし、同時に妖狗が来襲した。彼らは瘴気をまき散らして王宮を飛び回る。オレリオンソルは波動に巻き込まれた。体が宙に浮く。全身を床にたたきつけられた。二度、三度と衝撃が続く。高い魔力はあっても、ロウタの波動は初体験だ。

(これは…これが異界人の力…)

 気が遠くなる。ぼきり、と肩の辺りで音がした。痛みが走る。床に横たわった。動けない。妖狗が迫る。オレリオンソルは必死に八芒星魔法陣を稼働させた。八個のエレメントが光る。妖狗はぐるぐるとその上を舞った。

 王宮全体が揺れる。廊下を護衛士たちが走って来る。リシュリューは叫んだ。

「妖狗が侵入した! 陛下を守れ! 魔法が使えない者は隠れろ! 出るな!」

 ベルナデットの寝室はすぐそばだ。彼女は侍女と共にベッドで震えていた。傍に来たリシュリューにすがりつく。

「何が起きたの?」

 波動がこの部屋にもやって来た。天蓋が捲れあがって床に落ちた。

「きゃっ」

 リシュリューはベッドの前に立ちはだかる。ここにもホワイトスターがある。妖狗が迫って来た。リシュリューは急いで周囲に防護陣を張り巡らせた。波動と妖狗を両方防げる。しかし防御に専念する為に妖狗への攻撃ができない。

 ベルナデットは両手で顔を覆って震えている。

「リシュリュー…オレリーは?」

「…大丈夫だ。君は気をしっかり持って。頑張れ。くそ…カナデがいれば…」

「…え…カナデちゃん?」

「ああ。あの子の黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣は無敵なんだ。これくらいすぐに蹴散らせる。留守を狙われたのか?」

 彼さえいれば。しかし防御に精一杯だ。魔法陣をシンクロ用に開放できない。そもそも二日前から呼びかけても返事がないのだ。彼もまた危険にさらされているのか。

「ベル、魔法陣を出せるか?」

「……やってみる…」

 だが腹に電気のような痛みが走った。魔法陣が安定しない。ベルナデットは背中を丸めた。祈るように両手を組む。

(…カナデちゃん…本当にそんな力があるのなら…来て、お願い…。陛下を、私たちの子供を、リシュリューを助けて!)

 懸命にカナデに呼びかけた。

 カナデはアーネコスキの病院に収容されていた。VIP用の病室だ。来客用の部屋と付き添い用の部屋もある。唯一の残留を許されたロザリーが控えている。カナデのベッドの傍に座り、四つの月を見上げていた。

(ここの空もラファイエットと同じね)

 ふん、と両手に力を入れた。食べ物や見かけがどうだと言うのだ。やるべき事をきっちりとこなしてこそプロなのだ。そう自分に言い聞かせた。

 どこかでけたたましい鳴き声がした。鳥なのか妖獣なのか。びくっとしたロザリーだが、すぐに全身に力を込めた。

(私は負けないから!)

 カナデの体が不意に跳ねた。

「チュウゼンジ卿⁈」

 体の上に黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣が浮いた。白の八芒星(オクトグラム・ブラン)魔法陣が現れて重なった。だが一瞬だ。ロザリーには上部の名前が読み取れなかった。

「どうなさいました? 今のは殿下?」

 防護陣を突き抜けてきた。リシュリューの魔力ならあり得るだろう。

 カナデは目を閉じたまま唸った。身をよじる。ロザリーが病院に呼ばれて以来、意識がずっと混濁したままだ。アルニウス固有の毒草に触れたらしいと聞いている。解毒剤を使ったとしても、回復には数日かかるとも。

 またカナデは呻いた。夢うつつの中、ほんの僅かの間だが呼びかけを感じた。

 …妖狗が…王宮に…

(誰…殿下?)

 吐き気と全身の痛みがひどい。それからはっと気が付いた。リシュリューは王宮にいるはずだ。そこに妖狗が現れたとは。

(何で…どうして…そういえばロウタはどうした…)

 今すぐにでもリシュリューの元へ行きたい。妖狗は自らの八芒星魔法陣に体を通して移動していた。それなら同じ黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣を持つ自分にもできるのでは。

 …カナデちゃん…助けて…

 切れ切れに届いた魔法陣の声はベルナデットだ。彼女も高位の貴族である。魔力量は国王兄弟に遜色ない。病室の防護を越えるのはたやすいだろう。

 何かが王宮で起きている。

(どうやって行く? どうやってくぐればいい?)

 自らの上に浮かぶ八芒星魔法陣を見つめる。視線が定まらない。それでも輝く中央のブラックスターに手を伸ばした。ベルナデットの呼びかけは途切れがちだ。シンクロが安定せず、亜空間へ入れない。

 …陛下と赤ちゃんを…リシュリューを…

(行かなくちゃ…)

 優しく微笑むベルナデットの面影がよぎる。声に応えたい。

 カナデの内部から熱い塊がこみ上げる。次元を通り抜ける時、確かに感じた感覚だ。

 だが、それはすぐに消えてしまった。目の前の風景が揺れる。焦点がきちんと合わない。目をつぶれば、すぐにでも暗闇に引き込まれそうだ。

(しっかり…しなくちゃ…)

 空気が激しく揺れた。異界の波動が沸き起こる。カナデの体がその力に乗って浮く。

 がたり、と椅子が倒れた。ロザリーが立ち上がった。ぽかんと口を開けている。見るからに痩せてしまい、目の下の隈もひどい。そんな彼女を残してしまう。カナデは声を絞り出した。

「…迎えに来るから…絶対…待ってて…」

 ロザリーは大きく頷いた。 

「かしこまりました」

 カナデの体はブラックスターへ吸い込まれた。とても狭い空間に体を挟まれた。真っ暗だ。身動きが取れない。しばらくもがいてから気がついた。

(妖狗もグリフィスも魔法で通り抜けるのか!)

 カナデには魔力が無いのだ。ここでつかえたままになってしまう。極度の不安で波動が発動する。体が少し進んだ。そこでまた止まった。体が締め付けられる。息が苦しい。

(グリフィス!)

 呼ぼうにも、カナデがいるのは魔法陣の『中』だ。魔力が無い者にとってはただの檻に過ぎない。

 自分もまた、彼らと同じく圧死を迎えるのか。

 異界へ落下した時の記憶がよみがえる。先に落ちた人々も、懸命に助けを求めていた。男性も女性もいた。年齢もばらばらだった。ただそこにいただけなのに。絶望に満ちた顔、潰れていく体、ほとばしる血しぶき。あの時と同じ事が起きてしまうのか。

 彼らは墓所で眠っている。

 カナデの意識が揺らめいた。まるで夢を見ているようだ。静かな郊外の森、鉄のプレート。せめて彼らの名前を知りたい。

 突然、まぶたの裏で光がスパークした。同時に波動が沸き起こる。体が少し前に進んだ。

(い、いける…)

 何とか脱出できそうだ。ともすれば遠のく意識の中、まるで後ろから押されているようだ。波動が前へ前へとカナデを送る。カナデ自身も、王宮へと懸命に波動を出し続けた。

 残されたロザリーは乱れたベッドシーツを直した。それから椅子を起こして座る。ラファイエットに繋がる夜空を再び見上げた。

(お待ちしております…)

 遥か王都に想いを馳せる。

 王宮では、まだ騒動の真っ最中だ。

 オレリオンソルのもとに駆け付けた護衛士たちだが近づけない。波動の渦が執務室を包む。しかも妖狗が叫びながら飛び交っている。瘴気が周囲に満ちていた。魔闘士に比べて、魔力が低い。

「魔闘士を呼べ! 早く!」

 それでも懸命に妖狗に攻撃を加えた。渦が跳ね返す。

 そこへ黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣が現れた。渦の中央へカナデを落として消えた。オレリオンソルのすぐ傍だ。

(抜けたか?)

 べったりした汗が体中にまとわりつく。インフルエンザの発症中にフルマラソンをした気分だ。カナデの出現で妖狗達の動きが鈍った。グリフィスと同じ八芒星魔法陣のせいだ。戸惑いを覚えているようだ。

 カナデは体を起こせない。もうろうとしていた。光景がぼやけたりはっきりしたり。崩れた壁のせいでほこりっぽい。それらが波動で舞い上がり、部屋中が黄色っぽく霞む。横たわるオレリオンソルがやっと視界に入った。瘴気に包まれて腕が妙な方向に曲がっている。

「へい…か」

 呼びかけても返事はない。妖狗がカナデを伺いながらもオレリオンソルに迫る。ロウタの命令はまだ有効だ。カナデは這いながら彼に近づく。

(瘴気…吸わなくちゃ…。グリフィス…助けて…)

 八芒星魔法陣が上手く出せない。ロウタの波動のせいで大きく傾ぐ。安定しないのだ。

 カナデは何もできない。妖狗の活動がまた活発になる。オレリオンソルの体に一斉に食らいついた。

(やめろ…)

 声が出ない。腹の底からまたこみ上げてくる揺らぎがあった。

「やめろ!」

 波動がかすかに飛び出した。妖狗たちを散らす力はない。しかし今度こそ彼らは理解した。彼らに命を出した波動と同じ種類の力がここにある。それがホワイトスターを襲うのを遮る。命令は終わりなのか。

 彼らはさっと飛び上がった。黒の八芒星《オクトグラム・ノワール》魔法陣を鼻先に出す。体を丸めて中央に潜り込む。彼らは一気に城から消えた。カナデの全身が痙攣した。もう指先さえ動かない。そして気を失った。

 ベルナデットの部屋も静かになった。まだ瘴気は残っている。侍女が倒れていた。二人の周囲から靄を散らす。リシュリューはベルナデットの震える肩を優しく撫でた。

「ベル、しっかりしろ。大丈夫か?」

「……お腹が…痛い…」

「ご無事ですか⁈」

 女性の護衛士たちが到着した。青ざめる彼女に言った。

「皇后陛下を安全な部屋にお連れしろ。すぐにフーシェを呼べ。侍女も運んでやれ」

「はい。殿下もお手当を」

 そこで初めて左の袖が切れているのに気が付いた。血が手首まで垂れていた。

「俺は大事ない。陛下のお傍に行く。後は頼んだぞ」

 さらに複数の護衛士がやって来た。彼らに抱きかかえられてベルナデットが部屋から出た。

 それを見届けた。リシュリューは執務室へ戻る。ここの護衛士たちは呆然としている。

「どうした? 早く陛下を」

 リシュリューの言葉も途切れた。立ち込める瘴気の海に横たわるのは、身じろぎもしない国王と居るはずのない異界人だった。

「カナデ⁈」

 二人とも体が小さく上下している。傍にしゃがんだ。一度に両方の口元に手を当てる。呼気を感じた。リシュリューの肩から力が抜けた。

 護衛士がおろおろしている。

「どうして異界人殿が…」

 護衛士が次々と駆け付ける。王城内に待機していた魔闘士も、瘴気を散らしながら続々と来た。部屋の有様に息を飲む。黒い靄は少しずつ薄くなっている。意識の無いままに、カナデのブラックスターが陰陽のコントロールをしているようだ。

「護衛士は二人を運べ。魔闘士は瘴気を中和して、壁の再生を」

 矢継ぎ早に指示を出す。ようやくリシュリューは痛みを感じた。



 翌日のナント自治区。サントルラファイエットへの妖狗襲撃はすぐに伝わった。そのニュースでもちきりだ。

 ロウタが起きたのは正午近かった。ラジオから流れる襲撃のニュースを聞きながら、モリスに用意させたブランチに手を伸ばす。

「国王を襲ったのか。使えねえな。でも、まあこれで妖狗を扱える俺のありがたみが分かっただろうよ。俺がその場にいればあっさり解決なんだからな」

 モリスは曖昧にうなずいた。まだ詳細が分からない。死者が出なかったという事だけだ。ロウタは退避の命令を出していないのだ。だから妖狗がなぜ帰って来たのかも。

(魔闘士がいただろうから、彼らに反撃されたか)

 モリスはそう思った。

 外で馬がいなないた。扉が乱暴に叩かれる。モリスが鍵を開けるなり、息を切らせたアンリが現れた。

「コマツ! ニュースを聞いた。あれはどういう事だ? まさかお前が妖狗を送ったのか?」

「なら何だ? 俺の存在価値を分からせてやろうとしただけだ。それより、俺のアルニウス行きの話を進めてくれよ」

「何てことを‼」

 ロウタの言葉を遮り、アンリは叫んだ。拳で壁を打つ。

「妖狗をけしかけるなんて宣戦布告と同じだ! どちらも交戦を望んでいない、和平だ!」

「だから俺が役に立つんだろうが。あっちの猿どもをけん制できるだろう。頭悪いのか? 理解してる?」

 ロウタは人差し指で頭を突いて見せた。アルニウスで見せていた好青年ぶりはすっかり消えた。

 アンリは深いため息をついた。ソファに沈む。

「もうラファイエットには戻れない。怪我をしたのは国王だ。反逆罪で裁かれるだろう」

「だ~か~ら~。俺はアルニウス籍になるんだ。関係ないだろう」

 すぐには答えられなかった。まだ外部には漏れていない情報がある。しかも本国からアンリへ出頭指示があった。さらにロウタの連行を命じられた。彼が犯人だとほぼ断定されたらしい。国王夫妻を襲ったのは妖狗だが、同時に異界の波動が確認されたのだ。先のガス爆発事件も蒸し返されるだろう。加担したアンリも同罪だ。

「今朝…アルニウス側から伝令がラファイエットに送られた。グリフィス神が怒っているそうだ」

 パルクへの連絡だ。護衛師団の長官たるアンリも聞かされた。両国の交戦を両国とも避けたい。せっかく安定している足元で小競り合いを起こされるのは本意ではないのだ。それなのに妖狗を勝手に送り込んだ。

 グリフィスの立腹の原因は、カナデの体調不良によるところが大きい。幾ら呼んでも返事をしない。狗属は彼をもてなしたのではないか。グリフィスはそう信じて送り出したのだ。それなのに意識がなくなるほど体調を悪化させるとは。

 ……我の顔に泥を塗ったか!

 そう言われてもアルニウスの神官や政治家も返事のしようがなく、グリフィスの怒りは倍増だ。

 ロウタは鼻で笑った。

「地下の化け物なんか関係ないだろう」

「大ありだ。グリフィス信仰は国家宗教なんだ。奴は生き神様だぞ。チュウゼンジ卿を回復させて連れて来いと言っているらしい」

「アーネコスキでひっくり返って俺を待っているんだろう?」

 アンリは固く両手を握りしめた。

「いいや。襲撃の最中に王宮に現れ、妖狗を追い払ったそうだ。まだ発表されていないが、ラファイエットに滞在中だ」

 ラジオのニュースが終わった。軽快な音楽が流れ、ナレーターが今日の料理のレシピを説明し始める。モリスが止めた。三人ともしばらく無言だ。

 ラファイエットにはもはや帰れない。しかしカナデを連れて来なければアルニウスにも居場所がないのだ。さらに妖狗を送り込んだ責任を追及されるだろう。中立地区のナントでさえ、両国から目を付けられては滞在不可能だ。

「何が『卿』だ。奴をそんな名前で呼ぶな!」

 ナント平和広場で妖狗を散らしたのは自分のはずだ。アーネコスキ湖では怯えているだけだった。彼が何かの力を発揮したのは見た覚えがない。

アンリの声が氷点下まで冷たくなった。

「彼は準男爵だ。お前の知らない能力があったからこそ爵位授与じゃないのか? 遠い地へ瞬間移動までできるとは…。私は…」

 馬鹿だ、と言葉を飲み込んだ。自分が哀れだ。ロウタを呼ぶのも『貴殿』から『お前』に変わった。彼は頭を抱えた。ロウタの言葉をそのまま信じてしまったのだ。カナデには特殊能力がないと。それならばロウタを取り込んで護衛士の身分向上を図ろうとしたのだ。誰もが『人格者だ、偉大だ』と褒める父を越えたかった。

 電話が鳴った。モリスが取る。しかし答えずにすぐに受話器を置いた。

「ナント自治区護衛士団から、ヴァランタン侯爵の所在確認でした」

 肩書が護衛士団長官では無かった。それが何を意味するのか。護衛団を解雇かもしれない。

 モリスはカーテンをめくった。窓の外を見る。そしてすぐにうっすらドアを開けた。山道を確認する。

「馬車が山を登って来ています。どちらの配下か、まだはっきり見えません」

 ロウタが腰を浮かせた。

「ア、アルニウスが俺を迎え入れに来たんじゃないのか?」

 モリスはすぐに首を振った。

「だとしても、友好的ではないでしょう」

 それから大きなバッグを出した。ここへ引っ越した時に使った物だ。そこへ手当たり次第に服や当面必要な日用品を詰め込む。

「ここを一旦離れて様子を見ましょう」

「俺が逃げる必要なんか…」

「何も無ければ戻ればいいだけです。私は」

 モリスはいつもの静かな湖のような笑みを浮かべる。

「あなたにずっとお供します、ロウタ様。それであなたはどうされますか、侯(・)爵(・)閣下? ほら、もう中腹まで来ていますよ」

 アンリの全身が震えた。

 ナント護衛士の馬車はすぐにはロウタの家まで到達できなかった。行く手に激しい波動が沸き起こり、妖狗が飛び交う。ようやくたどり着いた時、馬小屋は空だった。家は無人だ。泥棒でも入ったかのように箪笥の引き出しは開けられ、床に散乱した衣類には靴跡があった。そしてテーブルの食事は食べかけのままだった。

 

  ツヅク! 次回 Ⅵ-Ⅰ 目覚め そしてまさかの『でくの棒』


お読みいただきありがとうございます。


ヴァーラリスタは「危険な草」みたいな意味で名付けてみました。

後先考えないロウタもロウタですが 

むしろ自らつき従うモリス…書いてて面白いです。


拙著「冥界の太陽たち」でもヒューゴという名前を使っていますが、

全く関連はありません。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。