パイの蓋
「遅い」
私が言うと、ヴェルズは朝日に目を細めた。
「まだ鐘、鳴ってないだろ」
「私たちは来てるわ」
「それは君たちが早いんだよ」
「グレンは、私より早く来てたの」
「……俺は一生間に合わないな」
グレンが横を向いた。
笑った。
朝から少し、嬉しくなる。
「行くぞ。湯が使えなくて困ってるそうだ」
「待って。先に言っとくけど、今日は私たちのやり方を見てもらうだけだからね」
「手伝わなくていいの?」
「手は動かして」
「口は?」
「閉じて」
ヴェルズはグレンを見た。
「いつもこうなのか?」
「仕事はできる」
「何よ、その説明。私、仕事以外に問題があるみたいじゃない」
グレンは答えずに歩き出した。
私も慌てて隣へ並ぶ。
こういうとき、少しだけ歩くのを遅くしてくれる。
本人は気づかれていないつもりらしい。
私は、ちゃんと知っている。
◇◇◇
共同浴場の女将は、グレンを見るなり顔を明るくした。
「ああ、よかった。今日も休みになるかと思ったよ」
釜の下から、がりがりと音がする。
火蜥蜴が住みついたらしい。
暖かい所を好む、小さな魔物だ。
放っておけばおとなしいけれど、怒らせると火を吐く。
薪の山のそばで暴れられたら、浴場ごと燃えてしまう。
「一匹なのね?」
私が依頼書を見せると、女将は頷いた。
「昨日は一匹だったよ」
「今日は?」
「怖くて見てない」
嫌な予感がした。
グレンが釜の下を覗く。
少し待ってから、指を四本立てた。
私は女将を見た。
女将はグレンを見た。
「一匹分の値段で、いいかねえ」
「駄目よ」
グレンが答える前に、私が答えた。
「四匹いるんだから、四匹分」
「ちっちゃいんだよ?」
「小さいのが四匹いるんでしょう」
「グレンは、そんなこと言わなかったのにねえ」
「言わないから、私がいるの」
隣でヴェルズが頷いている。
「頼もしい相棒だな」
少し、気分がよくなった。
「そうよ。こいつ、一人だとすぐ安請け合いするんだから」
「話、まとまったか?」
釜の前からグレンが呼んだ。
こっちの苦労も知らないで。
そう思ったけれど、振り返った瞬間に忘れた。
上着を脱いで、袖をまくっていた。
朝から、これはずるい。
「……何をすればいいの?」
「そこの石を温めてくれ」
「追い出すの?」
「今いる所より暖かくすれば、出てくる」
私は杖を向けた。
釜の手前にある平たい石だけを、ゆっくり温める。
炎を出す必要はない。
こういう細かい魔法も、私は得意だ。
最初に出てきた一匹が、石の上で気持ちよさそうに腹を伸ばした。
二匹目がその背中に乗る。
三匹目も出てくる。
「順番を守ってほしいわね」
「君の魔法が気に入ったんだろ」
ヴェルズが籠を差し出した。
中には温めた布が敷いてある。
グレンが一匹ずつ移し、ヴェルズが蓋をする。
四匹目は、なかなか出てこなかった。
「おまえが一番頑固か」
グレンがもう一度、釜の下を覗く。
「ああ。卵がある」
小さな白い卵が、奥に並んでいた。
親らしい一匹が、その前に座っている。
「それじゃ、離れないわね」
私が石を温め直すと、グレンは炭を掻く道具で卵を引き寄せた。
親は慌ててついてきた。
「分かった。取らないから」
籠に入れてやると、すぐに卵を抱え込んだ。
四匹とも、大人しくなった。
私は思わず笑った。
「さっきまで、あんなに威嚇してたのに」
「守るものがあったんだな」
ヴェルズが籠を持ち上げた。
そのとき、蓋の隙間から細い尻尾が出た。
「あ。待て。そっちは」
一匹が腕を伝い、襟元へ潜り込む。
ヴェルズが固まった。
「……グレン」
「動くな」
「動けない。背中が熱い」
「いいじゃない。好かれてるわよ」
「嬉しいけど、相手を選びたい」
笑いすぎて、杖を落としそうになった。
きっといい奴だ、こいつも。
グレンが襟を広げ、逃げた一匹を取り出す。
ヴェルズはようやく息を吐いた。
「脱ぐ前に助かってよかった」
「女湯の前で脱いだら、別料金を取るよ」
女将が言った。
「もらえる方じゃなくて?」
「取る方だよ」
「残念だな。働いた分が消えるところだった」
女将も、娘たちも笑っていた。
私も笑った。
この男は少しうるさいけれど、一緒に仕事をするのは悪くない。
◇◇◇
魔物を近くの岩場へ移し、戻ってくる。
グレンはもう道具を持っていた。
「何してるの?」
「隙間を塞ぐ。また入ってくるから」
「それは分かるけど」
「あと、女湯の踏み板も直してくれるんだよ」
女将が、当たり前のように言った。
私はグレンを見た。
彼は板を持ち上げたまま、目を逸らした。
「……グレン?」
「一枚、割れてる」
「見れば分かる。いつ頼まれたの」
「さっき」
「私に相談するって、昨日言わなかった?」
「言った」
「もう忘れた?」
「覚えてる」
「じゃあ、どうしてこうなるのよ!」
女将は面倒そうに手を振った。
「ついでじゃないか。そのくらい」
腹が立った。
ついでなら、いくら頼んでもいいと思っている。
グレンが断らないのを、知っているからだ。
「そのくらいなら、ご自分でどうぞ」
「リナ」
グレンが私を呼ぶ。
止められると思って、ますます腹が立った。
「何よ。私が間違ってるって言うの?」
彼は少し黙った。
「……先に聞くべきだった」
謝ってほしかったわけではない。
それでも、謝られると何も言えなくなる。
ヴェルズが、娘さんの一人に声をかけた。
「この板、いつから?」
「昨日です。母が転んでしまって」
「怪我は?」
「打っただけですけど。また誰かが転んだらと思うと」
娘さんは腰につけた袋から、硬貨を出した。
「母には私から話します。修理、お願いできますか」
私は息を吐いた。
「材料があるなら、このくらいでいいわ」
必要な分だけ受け取って、残りを返す。
「ありがとう」
娘さんは、今度はグレンにも礼を言った。
彼の顔が少し、柔らかくなる。
私はその顔を見て、ようやく落ち着いた。
別に、たくさんのお金が欲しいわけじゃない。
ありがとうと言ってくれるだけで、こんなに違うのに。
帰り道、グレンは修理代を私に渡した。
「自分で持ってなさいよ」
「今月の宿代、足りるか」
「足りる。前の討伐で稼いだでしょう」
「そうか」
そう言って、今度は別の袋にしまった。
孤児院へ持っていくお金を入れる袋だった。
私は口を開きかけて、やめた。
あそこには、まだ小さい子がたくさんいる。
私も、助けてもらっていた。
「全部、入れないでよ」
「分かってる」
たぶん、分かっていない。
◇◇◇
その日の夕方、グレンはギルドの厨房にいた。
食堂の親父さんに、夕飯の手伝いを頼まれたらしい。
私は卓に頬杖をついて、待っていた。
隣にはヴェルズがいる。
「なあ。あいつ、いつも料理するの?」
「頼めばね」
「へえ。うまい?」
「おいしいわよ」
「急に嬉しそうになったな」
「なってない」
「じゃあ、俺の見間違いか」
ニヤニヤしている。
やっぱり、少しうるさい。
グレンが持ってきたのは、小さな芋のパイだった。
焼けた生地の真ん中に、小さな穴が開いている。
そこからいい匂いの湯気が出ていた。
「熱いぞ」
「分かってるわよ」
待てなくて、すぐに一口食べた。
熱かった。
向かいから水を差し出される。
「言っただろ」
「……分かってたの」
「そうか」
それ以上は笑わなかった。
その代わり、ヴェルズが笑った。
「三人で食べると、にぎやかでいいな」
「二人なら、もっと静かに食べられるわ」
「それ、俺に帰れって言ってる?」
「あんた、話が早いわね」
グレンが、私の皿に肉を足した。
「まだある。喧嘩するな」
肉の取り合いだと思われた。
少しだけ抗議したかったけれど、肉はもらった。
厨房の親父さんが、鍋を持って顔を出す。
「なあ、葱の青いとこも入れたのか?」
「ああ。細かく切って、先に炒めた」
「そうか、いつも捨ててたんだが」
「固い所は出汁に使えるだよ、覚えておきな」
グレンは料理の話をするとき、いつもよりよく喋る。
親父さんが何か聞くたびに、手を動かして説明していた。
楽しそうだった。
「そんなに好きなら、毎日作ってくれてもいいのに」
つい、口に出た。
グレンがこちらを見る。
「……毎日か」
「嫌なら、別にいいわよ」
「嫌じゃない」
今度は私が黙った。
毎日、一緒に食べる。
それはもう、ほとんど・・・
「俺も食べに行っていい?」
余計な声が入った。
「駄目」
「即答だな」
「自分で作りなさい」
グレンが声を出さずに笑った。
私も、顔が熱くなったのをごまかすように、パイを食べた。
◇◇◇
九年前にも、こんなふうに食べ物をもらったことがある。
私の村が、野盗に襲われた日だった。
十歳だった私は、妹のクリスを抱えて泣いていた。
お父さんも、お母さんも、帰ってこなかった。
誰に助けを求めればいいのか、分からなかった。
そのとき、手を伸ばしてくれたのがグレンだ。
まだ十五歳だった彼は、私たちを安全な場所まで連れていってくれた。
寒いと言えば、上着を貸してくれた。
お腹が空いたと言えば、食べ物を持ってきてくれた。
大丈夫だと何度言われるよりも、私は安心した。
この人に頼めば、何とかなる。
そう思った。
孤児院に引き取られてからも、グレンは何度も来てくれた。
子供たちに囲まれ、遊びに付き合い、壊れた物を直す。
いつ見ても、誰かを助けていた。
私は、その後ろをついて歩いた。
十六歳になって冒険者の登録をした日も、彼の所へ行った。
『私と組んで』
断られても、引き下がるつもりはなかった。
ようやく頷いてもらえたときは、嬉しくて、夜も眠れなかった。
あれから三年。
私はまだ、グレンの隣にいる。
「何を考えてる?」
顔を上げると、グレンが私を見ていた。
「別に。あんたと組んで、長いなって」
「三年か」
「そう。よく私を選んだわね」
「おまえが毎日来たんだろ」
「でも、最後はいいって言ったでしょう」
「同じ孤児院の出なら、そのうち一緒に子供たちにも教えられると思った」
前にも聞いた理由だった。
きっと、それだけではない。
私のことを少しくらい好きじゃなければ、三年も一緒にはいないはずだ。
そう思うことにしている。
「いつか、あの子たちも冒険者になるかもね」
「ああ。なりたければな」
グレンは自分のパイの蓋を外して、私の皿に置いた。
私はこの、よく焼けた部分が好きだ。
中の芋をつけて食べると、おいしい。
「もらっていいの?」
「好きだろ」
私は笑って頷いた。
いつも、こうしてくれる。
彼が厨房へ戻ると、ヴェルズが自分の皿を見た。
「グレンも、好きなんじゃないの?」
「何が?」
「その、パリパリしたパイの蓋」
「そうかしら」
「最後に食べるつもりで残したのかと思った」
私はグレンの皿を見た。
芋と、少しの煮汁が残っている。
戻ってきた彼に聞くと、いつもどおりの答えが返ってきた。
「リナが食べればいい」
ほら、気にしすぎだ。
私は二枚目を食べた。
グレンはその向かいで、嬉しそうにしていた。
私も嬉しかった。
◇◇◇
食べ終わるころ、ゴズが階段から下りてきた。
私たちの卓を見る。
グレンが、その顔を見て立ち上がった。
「南か?」
「ああ。また村が襲われた」
ヴェルズも、匙を置いた。
「子供が二人、連れ去られた。親父は殺されて、おふくろも大怪我だ」
さっきまでの笑い声が、遠く感じた。
「……ほかに、家族は?」
「上に娘がいる。外へ出てて助かった。親戚が王都へ連れてくる」
「その子は?」
「怪我はしてねえ」
私はようやく、息を吐いた。
よかった。
そう思った自分が、すぐに嫌になった。
無事だった子だって、帰ったら家族がいなかったのだ。
怪我がないから平気だなんて、言えるはずがない。
「話を聞く」
グレンはそう言って、食器を片づけた。
まだ、食べ終わっていなかった。
私は残ったパイを紙で包んだ。
「あとで食べて」
差し出すと、グレンは少し驚いてから受け取った。
「ありがとう」
その一言が嬉しかった。
南には、助けを待っている子がいる。
少し怖いけれど、グレンと一緒なら行ける。
私は杖を取って、彼の後を追った。




