49話:恩返しじゃない
引き止めるつもりはなかった。
アレクが出直すと言った。それでいいはずだった。証拠はない。今日のところは、引くしかない。頭では、わかっていた。
それなのに、声が出ていた。
「その、左の肩」
足が前に出ていた。
「古い傷が、ありますね」
稽古のあいだ、ずっと目に入っていた。木剣を振るうたびに、左肩が上がりきらない。庇うような動き。視たくて視たわけではなかった。患者でもない相手の身体に、勝手に目がいった。それだけのことだった。
【左肩関節——古い脱臼の整復痕。関節包の肥厚と可動域の制限】
「見せて、もらえませんか」
ディートリヒが振り返った。
詰め寄る王子が二人いて、その横で、医者が傷を見せろと言う。場違いだった。自分でもわかっていた。それでも止まらなかった。
ディートリヒは、しばらくエリカを見ていた。
それから、上着の肩を緩めた。
なぜ応じたのか、わからなかった。アレクの問いには、口を割らなかった人が。
近づいた。注視した。
同じだった。あの夜、走り去る背中に視たものと。
エリカも確信した。アレクが太刀筋で気づいたものを、身体で。
だが、それより先に、目が別のものを追っていた。
「……この処置を、した人」
指が痕をなぞった。
「あなたが、また剣を握れるように、戻してある」
ディートリヒの肩がこわばった。
「外れた肩をはめるだけなら、誰でもできます。これは、違う。あなたがどう剣を振るうか。どこに負担がかかるか。全部わかった上で、戻してある。可動域を、少し犠牲にしてでも、痛みを残さないように。——剣を振るったときに、手元が狂わないように」
「……なぜ、それを」
「この傷を治した医者が、何を考えていたか。それを、考えただけです」
顔を上げた。
「マルガレーテさん、ですよね。あなたの肩を治したのは」
その名で、ディートリヒの目が変わった。
「……ご存じ、なのですか」
「お名前だけ」
ディートリヒが目を伏せた。
それきり、しばらく何も言わなかった。中庭に、風が通った。アレクも、クラウスも、動かなかった。
「……あの方は」
ぽつりと、声がした。
「もう、おられません」
「聞きました」
「私はね」
ディートリヒが、自分の左肩に手を当てた。
「肩をやったとき。終わったと、思ったんです。騎士は、身体が資本だ。一度どこかを壊せば、それきりだ。剣を握れない騎士に、価値はない。——荷物を、まとめるつもりでした」
手のひらが、肩を包んだ。
「他の医者は、みな無理だと言った。もう現役には戻れないと。あの方だけが、戻してみせると言ったんです。そして——本当に」
声が途切れた。
「戻してくださった」
それきり、また黙った。
エリカは何も言わなかった。言葉を挟まなかった。この人が、自分の速さで、自分の言葉を続けるのを、待った。
「感謝しか、ありません」
ディートリヒが言った。
「あの方には。それなのに、私は」
肩を包んだ手が、握りしめられた。
「あの方が倒れたとき。何も、できなかった。剣を握らせてもらった、この身で。恩人の、一番苦しいときに。——何も」
風が、止んでいた。
エリカは、その手を見ていた。肩を握りしめた、骨ばった手を。
聞きたかったわけではなかった。問い詰めるつもりも。ただ、傷を見て、この人の声を聞いて。手の握りしめ方を見て。
わかってしまった。
恩人の、娘。
その娘に頼まれたら。この人は——
「……あなたは」
口が、勝手に動いた。
「優しい人ですね」
ディートリヒが顔を上げた。
それきり、続きが出てこなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。責める言葉ではなかった。慰める言葉でも。ただ、この人がまっすぐで、それが悲しかった。それを、どう言えばいいのか。
沈黙が落ちた。
エリカは、息を吸った。
「その恩を、返せなかった。だから——その娘さんの頼みを、断れなかった。違いますか」
ディートリヒの肩が揺れた。
答えは、なかった。
「ディートリヒさん」
「……証拠でも」
声が遅れた。
「おありですか」
クラウスに言ったときと、同じ言葉だった。だが、響きが違った。岩のような声ではなかった。一拍遅れて、目がわずかに逸れた。
「ありません」
エリカは言った。
「何も」
ディートリヒが顔を上げた。
「でも」
言葉を探した。喉の奥から、ゆっくり。
「これは、恩返しなんかじゃ、ないんです」
ディートリヒの目が揺れた。
「医者は」
声が震えそうになるのを、抑えた。
「人を斬らせるために、人を治すんじゃない。マルガレーテさんは、あなたにもう一度、剣を握らせた。——それは、こんなことのためじゃ、ない」
「……っ」
「違いますか」
ディートリヒの喉が鳴った。
「ち、がう……違う」
それは、エリカへの否定ではなかった。自分に言い聞かせる声だった。
エリカは、一拍置いた。
それから、言った。
「マルガレーテさんは、喜んでなんか、いません」
ディートリヒの目が見開かれた。
「——きっと、今ごろ嘆いています。自分が助けた人が。自分の名前で、こんなことをしたって」
風が、また通った。
ディートリヒの顔が、崩れた。
声は上げなかった。膝が、ゆっくりと地についた。両手で顔を覆って。肩が震えていた。静かに。崩れ方まで、この人らしかった。
「……分かって、いました」
くぐもった声が漏れた。
「あの方が、こんなことを望むはずがないと。——分かって、いて」
それきり、言葉にならなかった。
エリカは、立っていた。
止めるつもりはなかった。詰めるつもりも。ただ、言わずにはいられなかった。それだけだった。自分がその刃に殺されかけたことは頭になかった。今はそんなことより。
アレクは動かなかった。地に膝をついた師を、見ていた。かける言葉を、探して見つけられずに。
クラウスも、黙っていた。エリカとディートリヒを交互に見ていた。
***
どれくらい、そうしていたか。
ディートリヒが、顔を上げた。
涙の痕を、拭った。それから、居住まいを正した。背筋を、伸ばして。崩れた姿を、たたみ直すように。
「……お見苦しいところを」
声が、落ち着いていた。
「お見せしました」
それからエリカを、見た。
「お詳しいですね。マルガレーテ様の、お仕事を」
「会ったことは、ありません」
「では」
「ルーカスさん、という方に、伺いました。あなたの肩を治したのは、マルガレーテさんだと」
ディートリヒの動きが、止まった。
「……ルーカス殿」
その名を、確かめるように、繰り返した。声が、わずかに低くなった。顔に、薄い翳りが差した。憎しみ、というほどではない。もっと、淡い。理解の外にいる相手への、生理的な距離。
エリカは、それを見て取った。この人は、ルーカスを好いていない。理由までは、わからなかった。
「あの方は」
ディートリヒが、ぽつりと言った。
「マルガレーテ様の、お仕事を潰した方です」
「潰した?」
「ええ。私には、難しいことはわかりません。ただ——マルガレーテ様は、ある薬草で、人を救う道を開きかけておられた。消耗して、倒れていく患者を、支える方法を」
ディートリヒが、続けた。
「甘草、という薬草だそうです。それを、ルーカス殿が——」
「——え」
声が出た。
「それって——」
そこで、止まった。
「……エリカ、殿?」
ディートリヒの声が、遠かった。
視界の隅で、クラウスがこちらを見た。
何か言いかけたエリカが、途中で固まった。その横顔を。クラウスの目が、変わった。軽く言いかけていた何かを、飲み込んで。エリカの異変に、誰より早く気づいた目だった。
クラウスは、声をかけなかった。
ただ、一歩、エリカの方へ寄った。それから、ディートリヒに向き直った。
「ディートリヒ殿」
声が、場を引き取っていた。
「これから、どうなさる」
エリカは、その声を、遠くで聞いていた。
「……イルゼ様のことは」
ディートリヒが言った。
「私に、お任せ願えませんか。あの方は、マルガレーテ様の忘れ形見です。だから——頼みを、断れなかった。私の、弱さです」
頭を下げた。
「あの方を、止めます。これ以上、罪を重ねさせるわけには。私が、責任を持って、宰相家に話を通します」
クラウスが、しばらく黙っていた。
「……いいでしょう」
それから、言った。
「預けます。ですが、次はない。これきりです」
「はい」
「兄上は」
アレクが頷いた。何か言いたげに、口を開きかけて。閉じた。師が、自ら責任を取ると言っている。それを撥ねつける言葉を、持っていなかった。
エリカは、何も言わなかった。
言える状態では、なかった。
***
ディートリヒが、見送りに立った。
崩れた姿は、もうなかった。背筋を伸ばして。元の騎士に、戻っていた。
「アレク殿下。クラウス殿下」
頭を下げた。
「立派に、ご成長なさった」
アレクは、その言葉をどう受けていいか、わからない顔をしていた。剣を教わった人。父や兄に近いと、思ってきた人。その罪を暴いた後で。なお、成長を認められて。
クラウスは、その一言を、別の重さで受けていた。杖なしで、立っていた。かつて、この場所で倒れ続けた身体で。ディートリヒは、その回復をまっすぐ見ていた。同じ言葉でも、二人の受け取り方は違っていた。
最後に、ディートリヒがエリカを見た。
「エリカ殿」
名を、呼ばれた。
その声で、頭の中の渦が止まった。我に返った。自分を殺そうとした男の声で、引き戻された。
「謝って、済む話ではありません」
ディートリヒが言った。
「本当に、申し訳なかった。——そして、ありがとう」
エリカは、その言葉を受け取れなかった。
謝罪は、わかった。だが、感謝は。なぜ。ただ、言わずにいられないことを、言っただけだった。救うつもりも、責めるつもりもなかった。
なのに、この人は、救われた、という顔をしていた。
何も、返せなかった。ただ、小さく頭を下げた。それが、精一杯だった。
ディートリヒが、館の奥へ戻っていった。背筋を伸ばしたまま。一度も、振り返らなかった。
***
帰り道は、静かだった。
三人とも、ほとんど口をきかなかった。アレクは、師のことを。エリカは、まだ頭の中の何かに、つかまったまま。
クラウスだけが、時々、エリカの横顔を見ていた。
何も言わなかった。問いもしなかった。ただ、見ていた。
やっと、頭が追いついたのは、診療所に戻る頃だった。
甘草。
マルガレーテの仕事を、禁忌にして葬ったのはルーカスだと、ディートリヒは言った。
そのルーカスは、あの廊下で、禁忌になった経緯は自分にもわからないと、そう言っていた。穏やかな顔で。淀みのない声で。
潰した本人が。
なぜ、知らないふりをしたのか。それは、わからなかった。何もかも、わからなかった。ただ一つだけ、はっきりとしたことがあった。
あの穏やかな人は、嘘をついていた。
それだけが、足元に転がっていた。
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