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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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49話:恩返しじゃない

引き止めるつもりはなかった。


アレクが出直すと言った。それでいいはずだった。証拠はない。今日のところは、引くしかない。頭では、わかっていた。


それなのに、声が出ていた。


「その、左の肩」


足が前に出ていた。


「古い傷が、ありますね」


稽古のあいだ、ずっと目に入っていた。木剣を振るうたびに、左肩が上がりきらない。庇うような動き。視たくて視たわけではなかった。患者でもない相手の身体に、勝手に目がいった。それだけのことだった。


【左肩関節——古い脱臼の整復痕。関節包の肥厚と可動域の制限】


「見せて、もらえませんか」


ディートリヒが振り返った。


詰め寄る王子が二人いて、その横で、医者が傷を見せろと言う。場違いだった。自分でもわかっていた。それでも止まらなかった。


ディートリヒは、しばらくエリカを見ていた。


それから、上着の肩を緩めた。


なぜ応じたのか、わからなかった。アレクの問いには、口を割らなかった人が。


近づいた。注視した。


同じだった。あの夜、走り去る背中に視たものと。


エリカも確信した。アレクが太刀筋で気づいたものを、身体で。


だが、それより先に、目が別のものを追っていた。


「……この処置を、した人」


指が痕をなぞった。


「あなたが、また剣を握れるように、戻してある」


ディートリヒの肩がこわばった。


「外れた肩をはめるだけなら、誰でもできます。これは、違う。あなたがどう剣を振るうか。どこに負担がかかるか。全部わかった上で、戻してある。可動域を、少し犠牲にしてでも、痛みを残さないように。——剣を振るったときに、手元が狂わないように」


「……なぜ、それを」


「この傷を治した医者が、何を考えていたか。それを、考えただけです」


顔を上げた。


「マルガレーテさん、ですよね。あなたの肩を治したのは」


その名で、ディートリヒの目が変わった。


「……ご存じ、なのですか」


「お名前だけ」


ディートリヒが目を伏せた。


それきり、しばらく何も言わなかった。中庭に、風が通った。アレクも、クラウスも、動かなかった。


「……あの方は」


ぽつりと、声がした。


「もう、おられません」


「聞きました」


「私はね」


ディートリヒが、自分の左肩に手を当てた。


「肩をやったとき。終わったと、思ったんです。騎士は、身体が資本だ。一度どこかを壊せば、それきりだ。剣を握れない騎士に、価値はない。——荷物を、まとめるつもりでした」


手のひらが、肩を包んだ。


「他の医者は、みな無理だと言った。もう現役には戻れないと。あの方だけが、戻してみせると言ったんです。そして——本当に」


声が途切れた。


「戻してくださった」


それきり、また黙った。


エリカは何も言わなかった。言葉を挟まなかった。この人が、自分の速さで、自分の言葉を続けるのを、待った。


「感謝しか、ありません」


ディートリヒが言った。


「あの方には。それなのに、私は」


肩を包んだ手が、握りしめられた。


「あの方が倒れたとき。何も、できなかった。剣を握らせてもらった、この身で。恩人の、一番苦しいときに。——何も」


風が、止んでいた。


エリカは、その手を見ていた。肩を握りしめた、骨ばった手を。


聞きたかったわけではなかった。問い詰めるつもりも。ただ、傷を見て、この人の声を聞いて。手の握りしめ方を見て。


わかってしまった。


恩人の、娘。


その娘に頼まれたら。この人は——


「……あなたは」


口が、勝手に動いた。


「優しい人ですね」


ディートリヒが顔を上げた。


それきり、続きが出てこなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。責める言葉ではなかった。慰める言葉でも。ただ、この人がまっすぐで、それが悲しかった。それを、どう言えばいいのか。


沈黙が落ちた。


エリカは、息を吸った。


「その恩を、返せなかった。だから——その娘さんの頼みを、断れなかった。違いますか」


ディートリヒの肩が揺れた。


答えは、なかった。


「ディートリヒさん」


「……証拠でも」


声が遅れた。


「おありですか」


クラウスに言ったときと、同じ言葉だった。だが、響きが違った。岩のような声ではなかった。一拍遅れて、目がわずかに逸れた。


「ありません」


エリカは言った。


「何も」


ディートリヒが顔を上げた。


「でも」


言葉を探した。喉の奥から、ゆっくり。


「これは、恩返しなんかじゃ、ないんです」


ディートリヒの目が揺れた。


「医者は」


声が震えそうになるのを、抑えた。


「人を斬らせるために、人を治すんじゃない。マルガレーテさんは、あなたにもう一度、剣を握らせた。——それは、こんなことのためじゃ、ない」


「……っ」


「違いますか」


ディートリヒの喉が鳴った。


「ち、がう……違う」


それは、エリカへの否定ではなかった。自分に言い聞かせる声だった。


エリカは、一拍置いた。


それから、言った。


「マルガレーテさんは、喜んでなんか、いません」


ディートリヒの目が見開かれた。


「——きっと、今ごろ嘆いています。自分が助けた人が。自分の名前で、こんなことをしたって」


風が、また通った。


ディートリヒの顔が、崩れた。


声は上げなかった。膝が、ゆっくりと地についた。両手で顔を覆って。肩が震えていた。静かに。崩れ方まで、この人らしかった。


「……分かって、いました」


くぐもった声が漏れた。


「あの方が、こんなことを望むはずがないと。——分かって、いて」


それきり、言葉にならなかった。


エリカは、立っていた。


止めるつもりはなかった。詰めるつもりも。ただ、言わずにはいられなかった。それだけだった。自分がその刃に殺されかけたことは頭になかった。今はそんなことより。


アレクは動かなかった。地に膝をついた師を、見ていた。かける言葉を、探して見つけられずに。


クラウスも、黙っていた。エリカとディートリヒを交互に見ていた。


***


どれくらい、そうしていたか。


ディートリヒが、顔を上げた。


涙の痕を、拭った。それから、居住まいを正した。背筋を、伸ばして。崩れた姿を、たたみ直すように。


「……お見苦しいところを」


声が、落ち着いていた。


「お見せしました」


それからエリカを、見た。


「お詳しいですね。マルガレーテ様の、お仕事を」


「会ったことは、ありません」


「では」


「ルーカスさん、という方に、伺いました。あなたの肩を治したのは、マルガレーテさんだと」


ディートリヒの動きが、止まった。


「……ルーカス殿」


その名を、確かめるように、繰り返した。声が、わずかに低くなった。顔に、薄い翳りが差した。憎しみ、というほどではない。もっと、淡い。理解の外にいる相手への、生理的な距離。


エリカは、それを見て取った。この人は、ルーカスを好いていない。理由までは、わからなかった。


「あの方は」


ディートリヒが、ぽつりと言った。


「マルガレーテ様の、お仕事を潰した方です」


「潰した?」


「ええ。私には、難しいことはわかりません。ただ——マルガレーテ様は、ある薬草で、人を救う道を開きかけておられた。消耗して、倒れていく患者を、支える方法を」


ディートリヒが、続けた。


「甘草、という薬草だそうです。それを、ルーカス殿が——」


「——え」


声が出た。


「それって——」


そこで、止まった。


「……エリカ、殿?」


ディートリヒの声が、遠かった。


視界の隅で、クラウスがこちらを見た。


何か言いかけたエリカが、途中で固まった。その横顔を。クラウスの目が、変わった。軽く言いかけていた何かを、飲み込んで。エリカの異変に、誰より早く気づいた目だった。


クラウスは、声をかけなかった。


ただ、一歩、エリカの方へ寄った。それから、ディートリヒに向き直った。


「ディートリヒ殿」


声が、場を引き取っていた。


「これから、どうなさる」


エリカは、その声を、遠くで聞いていた。


「……イルゼ様のことは」


ディートリヒが言った。


「私に、お任せ願えませんか。あの方は、マルガレーテ様の忘れ形見です。だから——頼みを、断れなかった。私の、弱さです」


頭を下げた。


「あの方を、止めます。これ以上、罪を重ねさせるわけには。私が、責任を持って、宰相家に話を通します」


クラウスが、しばらく黙っていた。


「……いいでしょう」


それから、言った。


「預けます。ですが、次はない。これきりです」


「はい」


「兄上は」


アレクが頷いた。何か言いたげに、口を開きかけて。閉じた。師が、自ら責任を取ると言っている。それを撥ねつける言葉を、持っていなかった。


エリカは、何も言わなかった。


言える状態では、なかった。


***


ディートリヒが、見送りに立った。


崩れた姿は、もうなかった。背筋を伸ばして。元の騎士に、戻っていた。


「アレク殿下。クラウス殿下」


頭を下げた。


「立派に、ご成長なさった」


アレクは、その言葉をどう受けていいか、わからない顔をしていた。剣を教わった人。父や兄に近いと、思ってきた人。その罪を暴いた後で。なお、成長を認められて。


クラウスは、その一言を、別の重さで受けていた。杖なしで、立っていた。かつて、この場所で倒れ続けた身体で。ディートリヒは、その回復をまっすぐ見ていた。同じ言葉でも、二人の受け取り方は違っていた。


最後に、ディートリヒがエリカを見た。


「エリカ殿」


名を、呼ばれた。


その声で、頭の中の渦が止まった。我に返った。自分を殺そうとした男の声で、引き戻された。


「謝って、済む話ではありません」


ディートリヒが言った。


「本当に、申し訳なかった。——そして、ありがとう」


エリカは、その言葉を受け取れなかった。


謝罪は、わかった。だが、感謝は。なぜ。ただ、言わずにいられないことを、言っただけだった。救うつもりも、責めるつもりもなかった。


なのに、この人は、救われた、という顔をしていた。


何も、返せなかった。ただ、小さく頭を下げた。それが、精一杯だった。


ディートリヒが、館の奥へ戻っていった。背筋を伸ばしたまま。一度も、振り返らなかった。


***


帰り道は、静かだった。


三人とも、ほとんど口をきかなかった。アレクは、師のことを。エリカは、まだ頭の中の何かに、つかまったまま。


クラウスだけが、時々、エリカの横顔を見ていた。


何も言わなかった。問いもしなかった。ただ、見ていた。


やっと、頭が追いついたのは、診療所に戻る頃だった。


甘草。


マルガレーテの仕事を、禁忌にして葬ったのはルーカスだと、ディートリヒは言った。


そのルーカスは、あの廊下で、禁忌になった経緯は自分にもわからないと、そう言っていた。穏やかな顔で。淀みのない声で。


潰した本人が。


なぜ、知らないふりをしたのか。それは、わからなかった。何もかも、わからなかった。ただ一つだけ、はっきりとしたことがあった。


あの穏やかな人は、嘘をついていた。


それだけが、足元に転がっていた。


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