48話:なぜですか
ディートリヒの住まいは、宮廷の外れにあった。
石造りの、古い館だった。蔦が壁を這っている。手入れはされているが、華やかさはない。引退に近い騎士が、静かに余生を送る場所。そういう佇まいだった。
門は、開いていた。
三人で、中庭へ入った。前を、アレクが歩いた。背筋が、いつもよりまっすぐだった。緊張とは違う。覚悟を固めている背中だった。
中庭で、その人は、剣の手入れをしていた。
布で、刃を拭っている。年の頃は、五十を過ぎているだろうか。白いものの混じった髪。身体は痩せているが、骨組みがしっかりしている。座っているだけなのに、姿勢が崩れていない。
顔を、上げた。
三人を見て、その目が、わずかに見開かれた。
「これは——」
布を置いて、立ち上がった。立ち上がる所作に、無駄がなかった。
「アレク殿下。クラウス殿下。お久しゅうございます」
ディートリヒが、頭を下げた。深々と。教え子に対する礼ではなかった。王族に対する、臣下の礼だった。
それから、顔を上げて、クラウスを見た。
「クラウス殿下」
声が、変わった。
「歩いて、おられる」
驚きが、声に滲んでいた。作ったものではなかった。心からの驚き。それから——喜びだった。
「自分の足で。中庭を、歩いて来られた。——あの、稽古場で倒れておられた殿下が」
ディートリヒの目が、潤みかけていた。
「……失礼。年を取ると、涙もろくていけません」
クラウスは、何も言わなかった。ただ、その視線を、まっすぐ受けていた。
エリカは、横で、それを見ていた。
この人は、本当に喜んでいる。クラウスが歩けるようになったことを、心から。倒れ続けた稽古を知っている人間の、喜び方だった。蓋をされ続けた第三王子を、まっすぐ見ている目だった。
その目を見て、エリカは、少しだけ、わからなくなった。
この人が。この、教え子の回復を心から喜ぶ人が。あの夜の、淡々と刃を抜いた男と、同じなのか。
「今日は、何用でしょうか」
ディートリヒが訊いた。
穏やかな声だった。三人がそろって訪ねてくる理由を、測りかねている顔だった。先触れもなく、王子が二人と、見知らぬ女が一人。
アレクが、口を開こうとした。
開いて、言葉が出てこなかった。
らしくなかった。いつも、よどみなく話す人だった。それが、言葉に詰まっている。何を言うか、決めてきたはずなのに。師を前にして、その言葉が、喉でつかえている。
ディートリヒが、その様子を見ていた。
一拍、置いた。
それから、ふっと、表情を緩めた。
「アレク殿下」
「……はい」
「久しぶりに、一戦、どうです」
エリカは、その申し出の意味が、わからなかった。
アレクが、顔を上げた。ディートリヒを、見た。
二人のあいだに、何かが通った。エリカには読めない何かが。言葉にされないまま、確かにやり取りされた。
「……お願いします」
アレクが言った。
***
館の裏手に、稽古場があった。
土を踏み固めた、何もない場所。壁際に、木剣が並べてある。アレクとクラウスが、子供の頃に通った場所なのだろう。
ディートリヒが、木剣を二本、手に取った。一本を、アレクに放った。アレクが、片手で受けた。
エリカは、クラウスと並んで、壁際に立った。
「見ていろ、ということでしょうか」
「だろうな」
クラウスが、短く言った。その目は、二人から離れなかった。
アレクと、ディートリヒが、向かい合った。
距離を取って、構えた。
最初は、ゆっくりだった。木剣が、軽く打ち合う。乾いた音。アレクが踏み込み、ディートリヒが受ける。受けて、流す。また、打ち合う。
エリカには、何が起きているのか、わからなかった。
剣のことは、知らない。速いとか、強いとか、その程度しか見えない。ただ、二人の動きが、だんだん速くなっていくのは、わかった。木剣の音が、鋭くなる。間隔が、短くなる。
アレクの額に、汗が浮いた。
ディートリヒは、汗一つかいていなかった。五十を過ぎた身体で、若い王太子の剣を、捌き続けている。一線を引いた、と聞いた。それでも、これだけ動ける。
「……すごい」
つい、漏れた。
それ以上の言葉が、なかった。剣の良し悪しは、わからない。でも、目の前で起きていることが、ただごとではないことだけは、わかった。
クラウスは、黙って見ていた。何か、エリカには見えないものを、見ている横顔だった。
木剣の音が、続いた。
打ち合って。流して。踏み込んで。退いて。
その、音の途中だった。
アレクの剣が、止まった。
打ち合いの、最中だった。次の一打が来るはずの間合いで、アレクが、剣を引いた。木剣を、下げた。
肩で、息をしていた。
ディートリヒも、剣を止めた。アレクを、見ていた。
「……どうされました」
「あなただ」
アレクの声が、掠れていた。
「なぜ、ですか」
ディートリヒの動きが、止まった。
「なぜ、あなたが」
アレクが、木剣を握りしめていた。指が、白くなっていた。汗が、顎を伝って落ちた。
「この太刀筋を、俺は知っている。子供の頃から、何百回と打ち合った。——間違えるはずが、ない」
エリカには、まだわからなかった。
何が起きたのか。なぜ、アレクが急に剣を止めたのか。何百回と打ち合った太刀筋。その言葉の意味を、測りかねていた。
だが、アレクの顔を見て、わかった。
確信したのだ。この稽古の中で。剣を交えて。あの夜の襲撃者と、目の前の師が、同じ太刀筋を持っていることを。
「あの夜」
アレクが言った。
「中庭で、この人を襲った男がいた。俺は、その男と斬り結んだ。——その太刀筋が、今あなたと打ち合った太刀筋と、同じだ」
ディートリヒは、答えなかった。
剣を、静かに下ろした。表情は、変わらなかった。穏やかなまま。だが、その穏やかさが、かえって、エリカの背を冷たくさせた。
「……何のことでしょうか」
ディートリヒが言った。
「私は、ずっとこの館におりました。中庭で人を襲うなど、身に覚えのないことです」
「とぼけるんですか」
アレクの声が、跳ねた。
「俺が、わからないとでも」
「アレク殿下。落ち着いてください」
「落ち着いていられるか!」
木剣が、地に叩きつけられた。
「あなたに、剣を教わった。あなたを、信じていた。それが——なぜだ。なぜ、エリカを狙った。誰に、頼まれた」
ディートリヒは、目を伏せた。
何も言わなかった。否定も、肯定も、しなかった。ただ、黙って、アレクの怒りを受けていた。その沈黙が、何よりこたえた。アレクの言葉は、壁にぶつかって、落ちた。
「殿下」
それまで黙っていたクラウスが、壁際から歩み出た。
ゆっくりと。一歩ずつ。確かめるように。かつて、この場所で倒れ続けた足で。
「ディートリヒ殿。一つ、伺いたい」
声に、熱はなかった。アレクとは、逆だった。静かで、平らだった。
「あなたは、左肩に、古い傷をお持ちだ。ずいぶん前の脱臼。きちんと治された傷だと聞きました。——違いますか」
ディートリヒの肩が、わずかに動いた。
「腕が立ち、相応の身分があり、左肩に古傷を持つ。今も現役の騎士。——その条件に当てはまる人間は、この宮廷に、そう多くはない。我々は、それを辿って、ここに来た」
「……それが、何か」
「兄上が、太刀筋で気づいた。私は、条件で申し上げている。剣のことは、兄上に及びません。だが、筋道は立てられる」
クラウスが、ディートリヒの正面に立った。
「あなたが、あの夜の男だと。——状況は、そう告げています」
ディートリヒは、クラウスを見返した。
長い、沈黙だった。
老騎士の目に、揺らぎはなかった。アレクの感情にも、クラウスの筋道にも、その目は崩れなかった。穏やかなまま、まっすぐ、二人を受け止めていた。
「……証拠は」
ディートリヒが言った。
「ございますか」
クラウスが、口をつぐんだ。
ない。証拠は、なかった。太刀筋も、古傷も、状況も、すべてがその人を指している。だが、それを証明するものは、何一つ、手元になかった。
アレクが、こぶしを握った。
クラウスが、わずかに目を細めた。それ以上の言葉を、二人とも持っていなかった。事実は、すべてそろっている。なのに、この人は折れない。岩のように。
武の側が、行き詰まった。
「……出直す」
アレクが、絞り出すように言った。
「今日のところは。だが、これで終わりじゃない」
身を、翻しかけた。
その、背中に。
「ちょっと、いいですか」
声を、出していた。
エリカ自身の声だった。
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