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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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48話:なぜですか

ディートリヒの住まいは、宮廷の外れにあった。


石造りの、古い館だった。蔦が壁を這っている。手入れはされているが、華やかさはない。引退に近い騎士が、静かに余生を送る場所。そういう佇まいだった。


門は、開いていた。


三人で、中庭へ入った。前を、アレクが歩いた。背筋が、いつもよりまっすぐだった。緊張とは違う。覚悟を固めている背中だった。


中庭で、その人は、剣の手入れをしていた。


布で、刃を拭っている。年の頃は、五十を過ぎているだろうか。白いものの混じった髪。身体は痩せているが、骨組みがしっかりしている。座っているだけなのに、姿勢が崩れていない。


顔を、上げた。


三人を見て、その目が、わずかに見開かれた。


「これは——」


布を置いて、立ち上がった。立ち上がる所作に、無駄がなかった。


「アレク殿下。クラウス殿下。お久しゅうございます」


ディートリヒが、頭を下げた。深々と。教え子に対する礼ではなかった。王族に対する、臣下の礼だった。


それから、顔を上げて、クラウスを見た。


「クラウス殿下」


声が、変わった。


「歩いて、おられる」


驚きが、声に滲んでいた。作ったものではなかった。心からの驚き。それから——喜びだった。


「自分の足で。中庭を、歩いて来られた。——あの、稽古場で倒れておられた殿下が」


ディートリヒの目が、潤みかけていた。


「……失礼。年を取ると、涙もろくていけません」


クラウスは、何も言わなかった。ただ、その視線を、まっすぐ受けていた。


エリカは、横で、それを見ていた。


この人は、本当に喜んでいる。クラウスが歩けるようになったことを、心から。倒れ続けた稽古を知っている人間の、喜び方だった。蓋をされ続けた第三王子を、まっすぐ見ている目だった。


その目を見て、エリカは、少しだけ、わからなくなった。


この人が。この、教え子の回復を心から喜ぶ人が。あの夜の、淡々と刃を抜いた男と、同じなのか。


「今日は、何用でしょうか」


ディートリヒが訊いた。


穏やかな声だった。三人がそろって訪ねてくる理由を、測りかねている顔だった。先触れもなく、王子が二人と、見知らぬ女が一人。


アレクが、口を開こうとした。


開いて、言葉が出てこなかった。


らしくなかった。いつも、よどみなく話す人だった。それが、言葉に詰まっている。何を言うか、決めてきたはずなのに。師を前にして、その言葉が、喉でつかえている。


ディートリヒが、その様子を見ていた。


一拍、置いた。


それから、ふっと、表情を緩めた。


「アレク殿下」


「……はい」


「久しぶりに、一戦、どうです」


エリカは、その申し出の意味が、わからなかった。


アレクが、顔を上げた。ディートリヒを、見た。


二人のあいだに、何かが通った。エリカには読めない何かが。言葉にされないまま、確かにやり取りされた。


「……お願いします」


アレクが言った。


***


館の裏手に、稽古場があった。


土を踏み固めた、何もない場所。壁際に、木剣が並べてある。アレクとクラウスが、子供の頃に通った場所なのだろう。


ディートリヒが、木剣を二本、手に取った。一本を、アレクに放った。アレクが、片手で受けた。


エリカは、クラウスと並んで、壁際に立った。


「見ていろ、ということでしょうか」


「だろうな」


クラウスが、短く言った。その目は、二人から離れなかった。


アレクと、ディートリヒが、向かい合った。


距離を取って、構えた。


最初は、ゆっくりだった。木剣が、軽く打ち合う。乾いた音。アレクが踏み込み、ディートリヒが受ける。受けて、流す。また、打ち合う。


エリカには、何が起きているのか、わからなかった。


剣のことは、知らない。速いとか、強いとか、その程度しか見えない。ただ、二人の動きが、だんだん速くなっていくのは、わかった。木剣の音が、鋭くなる。間隔が、短くなる。


アレクの額に、汗が浮いた。


ディートリヒは、汗一つかいていなかった。五十を過ぎた身体で、若い王太子の剣を、捌き続けている。一線を引いた、と聞いた。それでも、これだけ動ける。


「……すごい」


つい、漏れた。


それ以上の言葉が、なかった。剣の良し悪しは、わからない。でも、目の前で起きていることが、ただごとではないことだけは、わかった。


クラウスは、黙って見ていた。何か、エリカには見えないものを、見ている横顔だった。


木剣の音が、続いた。


打ち合って。流して。踏み込んで。退いて。


その、音の途中だった。


アレクの剣が、止まった。


打ち合いの、最中だった。次の一打が来るはずの間合いで、アレクが、剣を引いた。木剣を、下げた。


肩で、息をしていた。


ディートリヒも、剣を止めた。アレクを、見ていた。


「……どうされました」


「あなただ」


アレクの声が、掠れていた。


「なぜ、ですか」


ディートリヒの動きが、止まった。


「なぜ、あなたが」


アレクが、木剣を握りしめていた。指が、白くなっていた。汗が、顎を伝って落ちた。


「この太刀筋を、俺は知っている。子供の頃から、何百回と打ち合った。——間違えるはずが、ない」


エリカには、まだわからなかった。


何が起きたのか。なぜ、アレクが急に剣を止めたのか。何百回と打ち合った太刀筋。その言葉の意味を、測りかねていた。


だが、アレクの顔を見て、わかった。


確信したのだ。この稽古の中で。剣を交えて。あの夜の襲撃者と、目の前の師が、同じ太刀筋を持っていることを。


「あの夜」


アレクが言った。


「中庭で、この人を襲った男がいた。俺は、その男と斬り結んだ。——その太刀筋が、今あなたと打ち合った太刀筋と、同じだ」


ディートリヒは、答えなかった。


剣を、静かに下ろした。表情は、変わらなかった。穏やかなまま。だが、その穏やかさが、かえって、エリカの背を冷たくさせた。


「……何のことでしょうか」


ディートリヒが言った。


「私は、ずっとこの館におりました。中庭で人を襲うなど、身に覚えのないことです」


「とぼけるんですか」


アレクの声が、跳ねた。


「俺が、わからないとでも」


「アレク殿下。落ち着いてください」


「落ち着いていられるか!」


木剣が、地に叩きつけられた。


「あなたに、剣を教わった。あなたを、信じていた。それが——なぜだ。なぜ、エリカを狙った。誰に、頼まれた」


ディートリヒは、目を伏せた。


何も言わなかった。否定も、肯定も、しなかった。ただ、黙って、アレクの怒りを受けていた。その沈黙が、何よりこたえた。アレクの言葉は、壁にぶつかって、落ちた。


「殿下」


それまで黙っていたクラウスが、壁際から歩み出た。


ゆっくりと。一歩ずつ。確かめるように。かつて、この場所で倒れ続けた足で。


「ディートリヒ殿。一つ、伺いたい」


声に、熱はなかった。アレクとは、逆だった。静かで、平らだった。


「あなたは、左肩に、古い傷をお持ちだ。ずいぶん前の脱臼。きちんと治された傷だと聞きました。——違いますか」


ディートリヒの肩が、わずかに動いた。


「腕が立ち、相応の身分があり、左肩に古傷を持つ。今も現役の騎士。——その条件に当てはまる人間は、この宮廷に、そう多くはない。我々は、それを辿って、ここに来た」


「……それが、何か」


「兄上が、太刀筋で気づいた。私は、条件で申し上げている。剣のことは、兄上に及びません。だが、筋道は立てられる」


クラウスが、ディートリヒの正面に立った。


「あなたが、あの夜の男だと。——状況は、そう告げています」


ディートリヒは、クラウスを見返した。


長い、沈黙だった。


老騎士の目に、揺らぎはなかった。アレクの感情にも、クラウスの筋道にも、その目は崩れなかった。穏やかなまま、まっすぐ、二人を受け止めていた。


「……証拠は」


ディートリヒが言った。


「ございますか」


クラウスが、口をつぐんだ。


ない。証拠は、なかった。太刀筋も、古傷も、状況も、すべてがその人を指している。だが、それを証明するものは、何一つ、手元になかった。


アレクが、こぶしを握った。


クラウスが、わずかに目を細めた。それ以上の言葉を、二人とも持っていなかった。事実は、すべてそろっている。なのに、この人は折れない。岩のように。


武の側が、行き詰まった。


「……出直す」


アレクが、絞り出すように言った。


「今日のところは。だが、これで終わりじゃない」


身を、翻しかけた。


その、背中に。


「ちょっと、いいですか」


声を、出していた。


エリカ自身の声だった。


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