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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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47話:教わった

ディートリヒ。


その名を持ち帰ってから、二日後だった。


アレクの部屋に、皆が集まった。診察室では手狭だし、人の出入りが多い。アレクの居室なら、人払いができる。フリッツが扉の外に立ち、誰も近づけないようにしていた。


長椅子に、エリカとリーナ。向かいに、アレク。クラウスは、窓際の椅子に足を組んで座っていた。


「先に、こっちの話をする」


アレクが口を開いた。


この二日、武人の側でも動いていた。イルゼと繋がりの深い者を洗っていた。宰相家に出入りする騎士。イルゼ付きの護衛。金で動きそうな者。心当たりを、片端から当たった。


「結論から言うと、何も出ていない」


「何も?」


リーナが聞き返した。


「イルゼと特に近い騎士、というのが、浮かんでこない。宰相家に出入りする者は大勢いる。だが、あの腕の男と結びつく顔は、今のところ、ない」


「まだ二日だ」


クラウスが、窓の外を見たまま言った。


「片付くような話じゃない。網を広げたばかりで、何も掛かっていない。それだけのことだろう」


「ああ。だが、簡単じゃないとは分かった」


アレクが、エリカを見た。


「そっちは、どうだった」


エリカは、少し迷った。出所を、どう言ったものか。だが、隠すことでもなかった。


「名前を、一つ。聞いてきました」


「名前?」


「左肩をひどく痛めた騎士。きちんと治してもらった、古い傷。今も現役の人。——条件に合う人が、一人いると」


「誰だ」


「ディートリヒさん、という方です」


アレクの動きが、止まった。


組んでいた足が、ほどけた。窓際のクラウスも、外から視線を戻した。二人の顔が、同じように変わった。


「ディートリヒ」


アレクが、その名を繰り返した。


「ディートリヒ殿、か」


「知ってるんですか」


リーナが、二人を見比べた。


アレクは、すぐには答えなかった。クラウスも黙っていた。何か、二人のあいだだけで通じるものが、その沈黙の中にあった。エリカには、立ち入れない領域だった。


「……剣を、教わった」


先に口を開いたのは、アレクだった。


「子供の頃だ。俺と、クラウスと。剣の手ほどきを受けたのが、あの人だった」


「お師匠さん、ってことですか」


「そうなる」


アレクの声が、低かった。


ディートリヒ。今は引退に近いが、若い頃は名の知れた騎士だった。剣の腕も、人柄も。王家の子らに剣を教える役を、長く務めた。アレクとクラウスが、まだ木剣を握っていた頃から。


「あの人は」


アレクが、言葉を選んでいた。


「強かった。手加減はしない。だが、理不尽でもない。打たれた理由が、必ず分かる打ち方をした。——子供だった俺が、剣を嫌いにならなかったのは、あの人のおかげだ」


エリカは、黙って聞いていた。


完成された王太子だと思っていた。何でもできて、揺るがない人。その人が、こんな顔をするのを、初めて見た。剣を教わった子供の顔が、今の顔の下に、わずかに覗いていた。


「……信じたく、ないんですね」


つい、口に出た。


アレクは、否定しなかった。


「ああ」


それだけ、言った。


***


クラウスは、窓際で、何も言わずにいた。


エリカは、そちらを見た。アレクほど取り乱してはいない。眉の動き一つで、驚きを収めていた。だが、無関心ではなかった。何か別のものを、内側で抱えている。そういう静けさだった。


「クラウス殿下も、同じ師に」


「ああ」


クラウスが、短く答えた。


「兄上ほど、熱心な弟子じゃなかったがな」


軽く言ったが、声に、いつもの皮肉の切れがなかった。


エリカは、知っていた。この人が、十五の頃から身体が動かなかったこと。剣術の稽古で倒れたこと。馬に乗れば落ちたこと。本人が、いつか、ぽつりと漏らしたことがあった。倒れ続けた稽古の話を。


その稽古をつけていたのが、ディートリヒだったのだ。


打たれた理由が分かる打ち方をする師。手加減はしない師。その師の前で、この人は、何度も倒れたのだろう。剣を握る前に、身体が崩れて。呪われた第三王子、と囁かれながら。


クラウスは、それ以上、何も言わなかった。


師への思い入れは、アレクの方が、ずっと濃いのだろう。クラウスにとってのディートリヒは、もっと複雑なものなのかもしれなかった。エリカには、推し量れなかった。ただ、この人が今、軽口を一つも叩かないことだけが、何かを語っていた。


「あの」


リーナが、遠慮がちに口を挟んだ。


「お二人のお師匠さんが、犯人かもしれないって……そういう話ですか」


部屋が、静かになった。


「人格者だと、聞きました」


エリカが言った。


「名前を教えてくれた人も、そう言っていました。誰からも慕われている、あの人は違うと思う、と。——念を押すみたいに」


「だろうな」


クラウスが言った。


「俺の知っているディートリヒ殿も、そういう人だ。人を闇討ちにするような男には、見えない。——だから、武人の側で洗っても、引っかかってこなかったんだろう」


クラウスが、エリカを見た。


「お前が、肩の傷を見ていなければ。誰も、あの人の名前にたどり着かなかった」


それは、そうだった。腕で探せば、人格者のディートリヒは網の外にいる。イルゼの周りを探っても、あの温厚な老騎士は浮かんでこない。古い傷という身体の証だけが、その名を引き寄せた。


「でも、人格者なら」


リーナが、なお食い下がった。


「なんで、そんな人が」


誰も、答えられなかった。


それが、分からなかった。腕も、身分も、古傷も、揃っている。なのに、人柄だけが合わない。人を斬る理由が、見えない。


「会ってみるしか、ないわね」


エリカが言った。


「身体は、嘘をつかない。あの男の左肩を、私はこの目で見た。同じ傷が、ディートリヒさんの肩にあるかどうか。——会えば、分かる」


***


「俺が行く」


アレクが言った。


迷いのない声だった。さっきまで、信じたくないと言っていた人とは、別人のようだった。決めた、という顔だった。


「あの人と、向き合う。俺の口から、確かめる」


「兄上」


クラウスが口を開いた。


「俺も行く」


アレクが、クラウスを見た。


「お前が?」


「ああ」


クラウスが、椅子から立った。


「兄上は、冷静に判断できないだろう。剣を教わった師だ。情が邪魔をする。——俺の方が、まだましだ」


「……否定はしない」


アレクが、苦い顔をした。


「だが、お前の身体は」


「甘草が効いている。歩ける。この前、見せただろう。杖なしで」


クラウスが、軽く肩をすくめた。


「それに、兄一人で行かせて、何かあったら寝覚めが悪い。——弟の役目だ」


エリカは、二人のやり取りを見ていた。


クラウスの言うことは、筋が通っていた。アレクは情が深すぎる。師を前にして、冷静でいられる保証がない。クラウスの方が、距離を取って見られる。文字通り、兄を支えるために行くと言っている。それ以上の意味を、探す必要はなかった。


「私も、行きます」


エリカが言った。


「身体を診るのは、私の仕事です。肩の傷を確かめるのに、私がいないと話にならない」


「それは、そうだ」


アレクが、頷いた。


「危なくは、ないんですか」


リーナが、心配そうに言った。


「相手が、もし本当に犯人だったら。エリカさんまで行ったら——」


「殿下が二人いる」


エリカが言った。


「それに、ディートリヒさんは、私を狙った本人じゃない。手を下した人、かもしれないだけ。あの夜の男とは、別の顔で会うことになる。——たぶん、いきなり斬りかかってきたりは、しない」


「たぶん、ですか」


「たぶん」


リーナが、不安そうに眉を寄せた。だが、それ以上は止めなかった。止めても、エリカが行くことを、リーナは知っていた。


「リーナは、留守を」


エリカが言った。


「患者がいる。私たちが出ているあいだ、診療所を空けるわけにはいかない。——あなたに任せる」


リーナが、唇を引き結んだ。


「……分かりました」


不服そうだったが、頷いた。自分の役目を、分かっていた。


***


行くのは、三人と決まった。


アレク、クラウス、エリカ。


ディートリヒの住まいは、宮廷の外れにあった。引退に近い身ゆえ、喧騒から離れた一角に、静かに暮らしているという。フリッツが、場所を調べてきた。


「明日の、午後にしよう」


アレクが言った。


「先触れは、出さない。構えられても、面倒だ」


「不意打ち、ですか」


「向き合う、と言ったろう。逃げ場を、作らせたくない」


クラウスが、窓の外を見た。日が、傾きかけていた。


「明日か」


ぽつりと言った。


「久しぶりだな。あの人に会うのは」


その横顔が、何を思っているのか、エリカには分からなかった。倒れ続けた稽古の日々か。死んだ兄のことか。それとも、もっと別の何かか。


聞かなかった。


聞くことでは、なかった。


明日、会えば分かる。身体が、教えてくれる。左肩の古傷が、あの夜の男と同じものかどうか。それだけが、確かなことだった。


窓の外で、日が落ちていった。


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