47話:教わった
ディートリヒ。
その名を持ち帰ってから、二日後だった。
アレクの部屋に、皆が集まった。診察室では手狭だし、人の出入りが多い。アレクの居室なら、人払いができる。フリッツが扉の外に立ち、誰も近づけないようにしていた。
長椅子に、エリカとリーナ。向かいに、アレク。クラウスは、窓際の椅子に足を組んで座っていた。
「先に、こっちの話をする」
アレクが口を開いた。
この二日、武人の側でも動いていた。イルゼと繋がりの深い者を洗っていた。宰相家に出入りする騎士。イルゼ付きの護衛。金で動きそうな者。心当たりを、片端から当たった。
「結論から言うと、何も出ていない」
「何も?」
リーナが聞き返した。
「イルゼと特に近い騎士、というのが、浮かんでこない。宰相家に出入りする者は大勢いる。だが、あの腕の男と結びつく顔は、今のところ、ない」
「まだ二日だ」
クラウスが、窓の外を見たまま言った。
「片付くような話じゃない。網を広げたばかりで、何も掛かっていない。それだけのことだろう」
「ああ。だが、簡単じゃないとは分かった」
アレクが、エリカを見た。
「そっちは、どうだった」
エリカは、少し迷った。出所を、どう言ったものか。だが、隠すことでもなかった。
「名前を、一つ。聞いてきました」
「名前?」
「左肩をひどく痛めた騎士。きちんと治してもらった、古い傷。今も現役の人。——条件に合う人が、一人いると」
「誰だ」
「ディートリヒさん、という方です」
アレクの動きが、止まった。
組んでいた足が、ほどけた。窓際のクラウスも、外から視線を戻した。二人の顔が、同じように変わった。
「ディートリヒ」
アレクが、その名を繰り返した。
「ディートリヒ殿、か」
「知ってるんですか」
リーナが、二人を見比べた。
アレクは、すぐには答えなかった。クラウスも黙っていた。何か、二人のあいだだけで通じるものが、その沈黙の中にあった。エリカには、立ち入れない領域だった。
「……剣を、教わった」
先に口を開いたのは、アレクだった。
「子供の頃だ。俺と、クラウスと。剣の手ほどきを受けたのが、あの人だった」
「お師匠さん、ってことですか」
「そうなる」
アレクの声が、低かった。
ディートリヒ。今は引退に近いが、若い頃は名の知れた騎士だった。剣の腕も、人柄も。王家の子らに剣を教える役を、長く務めた。アレクとクラウスが、まだ木剣を握っていた頃から。
「あの人は」
アレクが、言葉を選んでいた。
「強かった。手加減はしない。だが、理不尽でもない。打たれた理由が、必ず分かる打ち方をした。——子供だった俺が、剣を嫌いにならなかったのは、あの人のおかげだ」
エリカは、黙って聞いていた。
完成された王太子だと思っていた。何でもできて、揺るがない人。その人が、こんな顔をするのを、初めて見た。剣を教わった子供の顔が、今の顔の下に、わずかに覗いていた。
「……信じたく、ないんですね」
つい、口に出た。
アレクは、否定しなかった。
「ああ」
それだけ、言った。
***
クラウスは、窓際で、何も言わずにいた。
エリカは、そちらを見た。アレクほど取り乱してはいない。眉の動き一つで、驚きを収めていた。だが、無関心ではなかった。何か別のものを、内側で抱えている。そういう静けさだった。
「クラウス殿下も、同じ師に」
「ああ」
クラウスが、短く答えた。
「兄上ほど、熱心な弟子じゃなかったがな」
軽く言ったが、声に、いつもの皮肉の切れがなかった。
エリカは、知っていた。この人が、十五の頃から身体が動かなかったこと。剣術の稽古で倒れたこと。馬に乗れば落ちたこと。本人が、いつか、ぽつりと漏らしたことがあった。倒れ続けた稽古の話を。
その稽古をつけていたのが、ディートリヒだったのだ。
打たれた理由が分かる打ち方をする師。手加減はしない師。その師の前で、この人は、何度も倒れたのだろう。剣を握る前に、身体が崩れて。呪われた第三王子、と囁かれながら。
クラウスは、それ以上、何も言わなかった。
師への思い入れは、アレクの方が、ずっと濃いのだろう。クラウスにとってのディートリヒは、もっと複雑なものなのかもしれなかった。エリカには、推し量れなかった。ただ、この人が今、軽口を一つも叩かないことだけが、何かを語っていた。
「あの」
リーナが、遠慮がちに口を挟んだ。
「お二人のお師匠さんが、犯人かもしれないって……そういう話ですか」
部屋が、静かになった。
「人格者だと、聞きました」
エリカが言った。
「名前を教えてくれた人も、そう言っていました。誰からも慕われている、あの人は違うと思う、と。——念を押すみたいに」
「だろうな」
クラウスが言った。
「俺の知っているディートリヒ殿も、そういう人だ。人を闇討ちにするような男には、見えない。——だから、武人の側で洗っても、引っかかってこなかったんだろう」
クラウスが、エリカを見た。
「お前が、肩の傷を見ていなければ。誰も、あの人の名前にたどり着かなかった」
それは、そうだった。腕で探せば、人格者のディートリヒは網の外にいる。イルゼの周りを探っても、あの温厚な老騎士は浮かんでこない。古い傷という身体の証だけが、その名を引き寄せた。
「でも、人格者なら」
リーナが、なお食い下がった。
「なんで、そんな人が」
誰も、答えられなかった。
それが、分からなかった。腕も、身分も、古傷も、揃っている。なのに、人柄だけが合わない。人を斬る理由が、見えない。
「会ってみるしか、ないわね」
エリカが言った。
「身体は、嘘をつかない。あの男の左肩を、私はこの目で見た。同じ傷が、ディートリヒさんの肩にあるかどうか。——会えば、分かる」
***
「俺が行く」
アレクが言った。
迷いのない声だった。さっきまで、信じたくないと言っていた人とは、別人のようだった。決めた、という顔だった。
「あの人と、向き合う。俺の口から、確かめる」
「兄上」
クラウスが口を開いた。
「俺も行く」
アレクが、クラウスを見た。
「お前が?」
「ああ」
クラウスが、椅子から立った。
「兄上は、冷静に判断できないだろう。剣を教わった師だ。情が邪魔をする。——俺の方が、まだましだ」
「……否定はしない」
アレクが、苦い顔をした。
「だが、お前の身体は」
「甘草が効いている。歩ける。この前、見せただろう。杖なしで」
クラウスが、軽く肩をすくめた。
「それに、兄一人で行かせて、何かあったら寝覚めが悪い。——弟の役目だ」
エリカは、二人のやり取りを見ていた。
クラウスの言うことは、筋が通っていた。アレクは情が深すぎる。師を前にして、冷静でいられる保証がない。クラウスの方が、距離を取って見られる。文字通り、兄を支えるために行くと言っている。それ以上の意味を、探す必要はなかった。
「私も、行きます」
エリカが言った。
「身体を診るのは、私の仕事です。肩の傷を確かめるのに、私がいないと話にならない」
「それは、そうだ」
アレクが、頷いた。
「危なくは、ないんですか」
リーナが、心配そうに言った。
「相手が、もし本当に犯人だったら。エリカさんまで行ったら——」
「殿下が二人いる」
エリカが言った。
「それに、ディートリヒさんは、私を狙った本人じゃない。手を下した人、かもしれないだけ。あの夜の男とは、別の顔で会うことになる。——たぶん、いきなり斬りかかってきたりは、しない」
「たぶん、ですか」
「たぶん」
リーナが、不安そうに眉を寄せた。だが、それ以上は止めなかった。止めても、エリカが行くことを、リーナは知っていた。
「リーナは、留守を」
エリカが言った。
「患者がいる。私たちが出ているあいだ、診療所を空けるわけにはいかない。——あなたに任せる」
リーナが、唇を引き結んだ。
「……分かりました」
不服そうだったが、頷いた。自分の役目を、分かっていた。
***
行くのは、三人と決まった。
アレク、クラウス、エリカ。
ディートリヒの住まいは、宮廷の外れにあった。引退に近い身ゆえ、喧騒から離れた一角に、静かに暮らしているという。フリッツが、場所を調べてきた。
「明日の、午後にしよう」
アレクが言った。
「先触れは、出さない。構えられても、面倒だ」
「不意打ち、ですか」
「向き合う、と言ったろう。逃げ場を、作らせたくない」
クラウスが、窓の外を見た。日が、傾きかけていた。
「明日か」
ぽつりと言った。
「久しぶりだな。あの人に会うのは」
その横顔が、何を思っているのか、エリカには分からなかった。倒れ続けた稽古の日々か。死んだ兄のことか。それとも、もっと別の何かか。
聞かなかった。
聞くことでは、なかった。
明日、会えば分かる。身体が、教えてくれる。左肩の古傷が、あの夜の男と同じものかどうか。それだけが、確かなことだった。
窓の外で、日が落ちていった。
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