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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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46話:転がり出てきた

襲われた夜から、三日が過ぎた。


身体の方は、もう何ともなかった。後頭部を壁に打ったが、たんこぶ一つ残らなかった。手首を掴まれた痕も、消えた。医者の目で自分を診て、異常なし、と結論を出した。それで終わりにした。


終わりにできなかったのは、別のことだった。


左肩の、古い傷。


走り去る背中に視えた、あの整復の痕。あれを治した医者がいる。きちんと関節を戻して、丁寧に手当てをした医者が。傷には、必ず、治した者の手が残る。それを辿れば、あの男に届くかもしれない。


医者にできることから、始めるしかなかった。


***


ゲオルクを訪ねた。


医師団の記録庫は、ゲオルクの管轄ではない。だが、長く宮廷にいる人だった。誰が何を保管しているか、どこに何が残っているか、たいていのことは知っている。元は自分も医師団にいた身だ。ダメもとで聞くなら、この人だった。


「古傷のカルテ?」


ゲオルクが、書きものの手を止めた。


「ええ。左肩。脱臼を、きちんと整復した痕がある人。たぶん、何年も前の」


「何年も前のを、探したいのか」


「探せるなら」


ゲオルクが椅子の背にもたれた。少し考える顔になった。


「医師団の記録庫に、古いものは回してある。だが、患者ごとにまとまってるわけじゃない。日付と、診た医者の名前で綴じてあるだけだ。誰がどこを怪我した、で引けるようにはなってない」


「やっぱり」


「左肩、と分かってても、片っ端から綴りを開く話になる。それも、残ってればの話だ」


「残ってない、ということも」


「ある。古いものは、傷んで処分される。場所を取るからな。全部が全部、残ってるわけじゃない」


そういう世界だった。前世の、患者ごとに一冊に綴じて、何十年も保管する仕組みとは違う。ここでは、記録は残ることもあれば、残らないこともある。宮廷だから、いくらかはある。それだけだった。


「少し、見てみるか。心当たりのある綴りだけでも」


ゲオルクが腰を上げた。


***


半刻ほど、二人で綴りをめくった。


埃の匂いがした。古い紙は、めくるたびに端が欠けた。インクの褪せた字を目で追った。骨折。切創。火傷。膝。手首。肋骨。いくつもの傷が、紙の上に並んでいた。


左肩の脱臼は、何件か出てきた。


だが、どれも違った。整復の手つきが、書きぶりから伝わってこない。日付が新しすぎる。あるいは、患者が女だった。あの男の背中とは、結びつかなかった。


「これは、どうだ」


ゲオルクが一枚を差し出した。左肩、脱臼、整復済み。だが、その後の経過に「可動域、おおむね回復」とだけある。あの男の肩は、可動域が制限されていた。完全には戻っていない。違う。


「違うと思う」


「だろうな。これも古いとは言えん」


最後の綴りを閉じた。


見つからなかった。


「ないな」


ゲオルクが、埃を払った。


「古い記録だ。残ってないのかもしれん。元からこっちに回ってないのかもしれん。なんとも言えんな」


「……ええ」


そうとしか言えなかった。なかった。それだけが、はっきりしていた。なぜないのかは分からない。古くて散逸したのか。そもそも、どこにも綴じられなかったのか。どちらとも取れた。


礼を言って、記録庫を出た。


地道にやって、行き止まりだった。医者の正攻法は、ここで途切れた。


***


研究棟の廊下を、戻っていた。


近道だった。記録庫からの帰り、この棟を抜けると早い。前にも、ここでルーカスと会ったことがあった。あの時も、向こうから歩いてきた。


今日も、そうだった。


「エリカ先生」


向こうから、ルーカスが歩いてきた。気づいて、軽く頭を下げた。背筋がまっすぐだった。歩き方に乱れがない。いつも通りだった。


「ルーカスさん」


「襲われたと、噂に聞きましたが」


足を止めて、こちらを見た。


「ご無事なようで、何よりです。お怪我は」


「ありません。かすり傷も」


「それは、本当に。——アレク殿下が間に合われたとか。運がよかった、と言っていいのかどうか」


穏やかな声だった。気遣う言葉に、淀みがない。


ふと、思い出した。宴の前に、この人に言われたことがあった。宰相家の方も招かれている、気をつけて、と。あの時は、座りの悪さだけが手元に残って、意味は分からなかった。


「そういえば」


口を開いた。


「宴の前に、気をつけてって、言ってくれましたよね。宰相家の人が来るって。——何か、知ってたんですか」


ルーカスが、少し目を細めた。困ったような、笑い方だった。


「知っていたら、もっとしっかり忠告できたんですけどね」


「というと」


「いえ。お恥ずかしい話、確かなことは何も。ただ——イルゼ殿が、あなたを面白く思っていないようだ、と。何か企んでいる、と。そういう噂を、耳に挟んだことがあったんです」


「噂を」


「ええ。証拠も何もない。噂は噂です。だから、あんな中途半端な言い方しかできなかった。まさか、あんな——」


ルーカスが、言葉を切った。


「あんな、愚かなことをするとは。思いませんでした」


声が、わずかに沈んだ。本当に、痛ましいと思っている声だった。


エリカは、黙って聞いていた。


イルゼ。あの名前が、また出てきた。襲われた夜、リーナが言った。あの人ではない気もする、と。決めつけるのはよくない、と返した。だが、こうして、別のところからも同じ名前が出てくる。


(イルゼが、やったのか)


分からなかった。あの夜、一瞥して、外して、それきりだった女。崩れない笑顔の、宰相家の。あの人が。


「……イルゼさんに、そんなことができるんですか」


問いが、口をついて出た。


「凄腕の暗殺者を雇うほどの、人脈が」


ルーカスが、少し考える顔になった。


「無くはないでしょうね。宰相家のご令嬢です。手づるは、いくらでもある。——ただ」


「ただ?」


「一流まで、となると。話は別かもしれません。なぜ、そう思われるんです?」


エリカは、少し迷った。自分の見立てではなかった。


「アレク殿下が、言っていたので。そこらで適当に雇える腕ではない、と。殿下と斬り結んで、取り逃がすほどの相手だったから」


「なるほど。アレク殿下が」


ルーカスが頷いた。


「殿下は、お強いですからね。その殿下が、そう言われるなら。——確かに、そこらの雇われとは違うのかもしれません」


少し、間があった。


「……いや。私も、決めつけて話しすぎたかもしれませんね」


ルーカスが、ふと言った。


「噂を、真に受けて。麦角の時の反省を、活かせていません。あの時も、確かな証拠もないのに、あれこれ申し上げて。——先ほどのは、聞かなかったことにしてください。私の、当て推量です」


穏やかに、そう言った。


エリカは、ルーカスを見た。


おかしなことは、何も言っていない。確証がないから、決めつけない。慎重で、誠実な物言いだった。むしろ、こんなふうに自分の言葉を引っ込められる人の方が、信用できる気もした。


それでも。


ほんの少しだけ、何かが引っかかった。何が引っかかるのかは、分からなかった。前にもあった。宴の前の、あの座りの悪さと、同じ種類のものだった。追えなかった。


「……いえ」


そう言うしかなかった。


***


別れ際だった。


行きかけて、足を止めた。せっかく、宮廷に長い人と会ったのだ。聞くだけ、聞いてみようと思った。


「ルーカスさん。もう一つ、いいですか」


「なんでしょう」


「過去に、左肩をひどく痛めた騎士の方を、知りませんか。脱臼を、きちんと治してもらった人。——今も、生きている人で」


ルーカスが、少し考えた。すぐには答えなかった。記憶を辿る顔だった。


「左肩、ですか。——何人か、いますね。ただ、今も生きている人で、となると、そう多くはない」


「多くない」


「ええ。怪我で剣を置いた者は、たいてい引退します。宮廷を去って、その後どうしているかは、私も把握していません。——ただ」


ルーカスが、一人の名を口にした。


「ディートリヒ殿は、今も現役ですね。怪我で一線は引かれましたが、まだ宮廷におられる」


ディートリヒ。


聞いたことのない名前だった。


「その方が、左肩を」


「ええ。ずいぶん前に。——もっとも」


ルーカスが、付け加えた。


「人格者として知られた方ですよ。誰からも慕われている。もし、犯人を探しておられるなら——あの方は、違うと思いますが」


庇うような言い方だった。それでいて、名前は、もう出してしまっていた。


エリカは、その名を頭の中で繰り返した。左肩。現役。古い怪我。条件は、合っている。地道に綴りをめくって、半刻かけて出てこなかったものが、立ち話の数分で、転がり出てきた。


「大怪我、だったんですか」


「いえ。そうではないんです」


ルーカスが、首を振った。


「大事には至らなかった。——マルガレーテ殿の、的確な処置があったので」


「マルガレーテ?」


知らない名前が、また増えた。


「イルゼ殿の、母君にあたる方です。もう、亡くなられましたが」


イルゼの、母。


「……どんな方だったんですか」


傷を治した医者のことが、気になった。


ルーカスの顔が、変わった。


これまでの、穏やかな気遣いとは違った。もっと、奥の方からくる表情だった。


「本当に、すごい方でした」


声が、低くなった。


「私は、薬草ばかり見てきた人間ですが。あの方は、人を見ていた。身体の声を聞く人だった。——同じものを見ていても、あの方には、私に見えないものが見えていたんだと思います」


ルーカスが、少し目を伏せた。


「惜しい人を、亡くしました。本当に。——あの方が今もおられたら、と。時々、思いますよ」


嘘を言っている顔では、なかった。


労いの言葉とも、社交辞令とも違った。心から、その人を悼んでいる。敬意を込めて、語っている。それが、伝わってきた。


エリカは、何か言おうとして、言えなかった。


会ったこともない医者だった。だが、ルーカスのこの語り口だけで、なんとなく、その人の輪郭が浮かんだ。人を見る医者。身体の声を聞く医者。——悪くない医者だったのだろう、と思った。


「……いいお医者さんだったんですね」


「ええ。本当に」


ルーカスが、頷いた。


それきり、しばらく、二人とも黙っていた。廊下に、人の気配はなかった。窓から差す光が、床に長く伸びていた。


「すみません。話し込んでしまいました」


ルーカスが、居住まいを正した。いつもの、穏やかな顔に戻っていた。


「お役に、立てましたか」


「ええ。——ありがとうございます」


「ディートリヒ殿のことは、念のため。あの方は、違うと思いますよ。本当に」


もう一度そう言って、ルーカスは会釈した。背筋をまっすぐにして、廊下を去っていった。歩き方に乱れがない。いつも通りだった。


一人になった廊下に、その名前だけが残った。


ディートリヒ。


会いに行く前に、皆に伝えなければ、と思った。


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