45話:追える
「エリカさん!」
リーナだった。廊下を駆けてくる。その後ろに、クラウス。フリッツも。
部屋まで送られて、椅子に座らされたところだった。アレクが人をやって、知らせたのだろう。リーナが飛び込んできて、目の前にしゃがみ込んだ。
「エリカさん、襲われたって——どこか、怪我は」
「ない。大丈夫」
「本当ですか。本当に?」
「本当。かすり傷もない。——殿下が、間に合ってくれたから」
リーナが、エリカの手を取った。まだ少し震えていた手を、両手で包んだ。リーナの手の方が、冷たかった。こっちが心配されているのに、リーナの方が、よほど怖い顔をしていた。
「……よかった」
リーナが言った。それだけ言って、しばらく動かなかった。
「ご無事で、何よりです」
フリッツが、頭を下げた。
クラウスは、戸口に寄りかかったまま、何も言わなかった。ただ、こちらを見ていた。いつもの、軽口の一つも、まだ出てこなかった。
「何があった」
クラウスが、それだけ訊いた。
アレクが、答えた。診察の帰り、中庭の道で襲われたこと。男が一人。剣を持っていた。間に合って、斬り結んで、取り逃がしたこと。短く、順序立てて。余計なことは言わなかった。
クラウスの眉が、寄った。
「兄上が、取り逃がした?」
「ああ」
「兄上が剣を抜いて、逃げられたのか」
「逃げ足が速かった、というだけじゃない」
アレクが、少し間を置いた。
「やる相手だった。あのまま続けていたら、俺が勝てたかどうかも、怪しい」
部屋が、静かになった。
クラウスが、壁から背を離した。アレクがこういう言い方をするのを、聞いたことがなかったのだろう。エリカも、なかった。この人は、自分の腕を低く言う人ではない。
「……アレク殿下より強い人なんて、そんなにいるんですか」
「そう多くはない。だから、気になっている」
アレクが、続けた。
「物盗りじゃない。物盗りなら、あんな腕は要らない。辻斬りとも違う。人を斬り慣れた荒い太刀じゃなかった。——稽古を、積んだ型だ。それも、相当な」
「正規の、訓練を受けた者ってことですか」
リーナが、きょとんとした。
「ちゃんとした騎士みたいな人? でも——」
リーナが、首をかしげた。
「そんな立派な人が、なんでエリカさんを?」
誰も、すぐには答えなかった。
それは、エリカも思ったことだった。あの男に、私怨は感じなかった。憎しみも、怒りも。ただ名前を確かめて、淡々と刃を抜いた。仕事をするように。
——お前が、エリカか。
あの声を思い出すと、まだ、背中が冷たくなった。
「……肩を、痛めてた」
口を、開いた。
声が、少し掠れた。三人が、こちらを見た。
「逃げる時、走り方がおかしかったの。左の肩。昔、ひどく痛めた人の動きだった。それも、放っておかれた傷じゃない。——ちゃんと手当てされた、古い傷。そう見えた」
医者の目で見えたものを、見えた範囲で言った。それ以上は、言わなかった。言えなかった。走り去る背中に視えた、あの古い整復の痕。誰かが、丁寧に、関節を戻した手つきまで——そこまでは、口にできなかった。誰も、知らないことだった。
「肩の古傷、ですか」
リーナが、考える顔になった。
「それって、手がかりになりますか」
「なる」
答えたのは、アレクだった。
「ちゃんとした医者に、ちゃんと治してもらった傷だ。そういう手当てを受けられる身分の者は、限られる。腕と、身分と、その古傷。——三つ揃えば、人は、そう多く残らない」
追える。
その言葉が、口に出されたわけではなかったが、部屋にいる全員が、同じことを思ったのが分かった。三度、逃げられてきた。今度は、尻尾の先が、見えている。
「でも」
リーナが、また首をかしげた。
「そんな立派な騎士みたいな人を、誰が動かせるんですか。お金で雇われた人、には見えないんですよね?」
「見えない」
アレクが言った。
「じゃあ、誰かが、頼んだってことですよね。その人に、頼める人……」
リーナが、言葉を探した。
部屋の空気が、また、少し変わった。誰の名前も出なかった。だが、思い浮かべている顔は、たぶん、同じだった。エリカも、思い浮かべていた。鉛のこと。マリアのこと。崩れない笑顔のこと。
「……分からないわね」
そう言うしかなかった。
「他にも、考えられる人はいる。今、決めつけるのは、よくない」
リーナが、頷いた。それから、ふと、思い出したように言った。
「そういえば、イルゼさん。誕生会で、何もしてこなかったですよね。エリカさんに突っかかってくるかと思ったのに。興味もなさそうっていうか。だから、あの人ではない気も——」
リーナは、純粋にそう思って、言っていた。怪しいと思っていないから、口に出せた。
エリカは、何も言わなかった。
何もしてこなかった。確かに。一瞥して、外して、それきり。あの夜、リーナは「拍子抜けです」と言った。エリカも、そう思おうとした。
——そう思おうとして、できなかった、あの感じ。
口にはしなかった。リーナの言う通りかもしれなかった。違うかもしれなかった。今は、どちらとも、言えなかった。
沈黙が、落ちた。
答えの出ない問いを、全員が、それぞれ抱えていた。誰が、なぜ。手がかりはある。でも、その先が見えない。重い静けさだった。
その静けさを、破ったのは、リーナだった。
「……あ。そうだ、エリカさん」
「何」
「レナート様のこと、ちゃんと向き合ってくれて、ありがとうございました」
——え。
「あの、ずっと気になってて。エリカさんが、ちゃんと答えてあげたって聞いて、よかったなって。あの子、いい子だから、いい加減にされたら可哀想だなって、ずっと——」
「リーナ」
慌てて、遮った。
「なんで、今、その話を」
「えっ、だ、だって」
リーナが、自分の口を押さえた。
「すみません、なんか、空気が重くて、つい……明るい話を、と思って」
「明るい話って」
「だ、だめでしたか」
だめに決まっていた。よりによって、この面々の前で。
だが、もう遅かった。リーナの「向き合って」と「ちゃんと答えてあげた」と「可哀想」が、全部つながって、転がり出てしまった。
フリッツが、目を伏せた。口元が、ほんの少し、緩んでいた。
クラウスが、片眉を上げた。
「ほう」
「……違うの。これは」
「何が違う」
クラウスが言った。声に、いつもの調子が、戻りかけていた。
「あの坊やか。誕生会で、ずいぶん背が伸びていたな」
「だから、そういう」
弁解しようとして、できなかった。本当のことだったから。
ブライテンの頃の空気だった。診療所で、リーナとクラウスとフリッツと、くだらないことで言い合った、あの空気。襲われた夜のはずなのに。ほんの少し、場が、緩んだ。
その、緩んだところに。
「医者というのは」
アレクが、言った。
「難儀なものだな。患者に、こうも好かれて」
軽い口調だった。レナートをからかう、年長者の余裕。リーナが「ですよね!」と乗りかけた。
だが。
その声の、奥の方。
「俺も、人のことは言えないが」
——え。
時が、止まった気がした。
リーナは、気づかなかった。
「アレク殿下もモテそうですもんね」
そう言って、笑っていた。フリッツも、気づいたかどうか。
だが、エリカには、分かった。
俺も、人のことは言えない。
その一言が、まっすぐ、刺さってきた。
さっきの、ことだった。
抱きしめられた。震えが止まるまで、ずっと。心臓の音を聞いた。きれいな、揃った音。そして——お前は、俺が守る、と。
あれは。
あれは、つまり、そういう、ことだった。返事は、求められなかった。でも、あれは。子供のレナートが、まっすぐ「好きです」と言ったのと、同じ。いや、言葉にしなかったぶん、もっと。
今ごろ、分かった。
今ごろになって、顔が、熱くなった。あの時は、無我夢中で、震えていて、それどころではなかった。終わって、人に囲まれて、こうして茶化されて。今ごろ、じわじわと、追いついてきた。
すごいことが、起きていた。
さっき、私は、王子様に、告白されたのだ。
「エリカさん? 顔、赤いですよ」
「赤くない」
「赤いです。熱でもあるんじゃ」
「ない。大丈夫」
リーナの手が、額に伸びてきた。よけた。アレクを、見られなかった。なぜ、この人は、こんなに平気な顔をしているのだろう。さっき、あんなことを言って、抱きしめて、今はもう、軽口を叩いている。落ち着き払って。こっちは、こんなに、ぐちゃぐちゃなのに。
うつむいた。
うつむいた拍子に、視界の端に、クラウスが入った。
笑っていなかった。
さっきまで、坊やがどうのと、調子を戻しかけていたのに。今は、笑っていなかった。エリカを見て、それからアレクを見て、また、エリカを見て。何か言いかけて、口を、閉じた。
その表情が、いつもと違うことに、エリカは気づいた。
だが、それが何なのかを、考える余裕は、なかった。自分のことで、手一杯だった。すぐに、目を、伏せた。
クラウスが、何を見て、何を飲み込んだのか。
それに気づいた者は、誰もいなかった。
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