44話:守る
目を、開けた。
刃は、振り下ろされていなかった。
目の前に、背中があった。広い背中だった。さっきまで診ていた人の上着。なぜ、と思うより先に、それがアレクだと分かった。片手に剣を抜いて、男のあいだに割って入っている。男の刃と、アレクの剣が、交わったところで止まっていた。さっきの音は、これだった。
「……殿下?」
声が、掠れた。
なぜ、ここに。どうして。問いの形にすらならなかった。ただ、その名前だけが、口から漏れた。
「下がっていろ」
アレクが言った。こちらを見なかった。低い声だった。診察室で聞くのとは、違う声。
男が退いた。アレクが前に出た。
あとのことは、よく見えなかった。暗くて、速かった。鋼の打ち合う音が、二度、三度。何かが闇に散った。分かったのは、アレクの背中が、ずっと自分と男のあいだにあったこと。ただ、それだけだった。
男の動きが、変わった。攻めるのをやめて、後ろへ退いた。アレクは追わなかった。剣を構えたまま、エリカをかばう位置から、動かなかった。
男が、背を向けた。逃げる。そう分かった。
走り去る背中を、見ていた。
その左肩が、おかしかった。走る時、左腕の振りが小さい。肩が、上がりきらない。庇うような動き。
——こんな時に。
医者の目が、勝手に動いていた。さっきまで自分の身体ひとつ守れなかったのに、逃げていく相手の異常だけは、否応なく目に入る。視たくなくても、視えてしまう。
【左肩関節——古い脱臼の整復痕。関節包の肥厚と可動域の制限】
ずいぶん前に外れた肩を、誰かが丁寧に戻した痕だった。それだけ。意味は、何も分からない。
男の背中は、暗がりの向こうへ消えていった。
足音が、遠ざかる。
消えた。
***
静かになった。
その瞬間に、力が抜けた。
膝が、勝手に折れた。座り込む、と思った時には、腕が支えていた。アレクの腕だった。剣を納めたアレクが、崩れる身体を、受け止めていた。
震えが、来た。
止まらなかった。さっきは、震える余裕もなかった。逃げて、転んで、押さえつけられて、刃を見て、目をつぶって。そのあいだは、ただ無我夢中だった。終わった今になって、全部が、いっぺんに追いついてきた。
「し、ぬかと……」
言葉が、ばらばらになった。
「死ぬかと、思って……っ」
歯が鳴った。手が震えた。自分の手なのに、自分のものではないみたいだった。涙が出た。止めようと思っても、止まらなかった。みっともない、と頭のどこかで思った。思っても、どうにもならなかった。
「気をつけろと、言ったろう」
頭の上で、声がした。
「次に何か仕掛けるなら、お前かリーナだと。——言ったはずだ」
責める声では、なかった。苦い声だった。言いたくなかったことを言ってしまった、そういう声。それが分かって、また涙が出た。
腕が、回った。
抱き寄せられた。
強い力ではなかった。倒れないように、震えが止まるように、ただ包む腕。アレクの胸に、額が当たった。
心臓の音が、聞こえた。
ドクン、ドクン、と。
きれいな音だった。自分が治した、あの弁の。逆流の雑音は、もうない。すぐ耳元で、それが、規則正しく鳴っていた。
「もう大丈夫だ」
低い声が、上から降ってきた。
「終わった。大丈夫だ」
「……はい」
返事に、なっていなかった。声は震えて、語尾は涙に溶けた。それでも、何か返さずにはいられなかった。子供みたいだ、と思った。怖かった、と泣いて、大丈夫だと言われて、はい、と返す。まるきり、子供だった。
その声が、胸の音といっしょに、身体の中に入ってきた。
おかしかった。怖くて震えているのに、その腕の中は、暖かかった。冷たい石の上で死を待っていた身体が、暖かいものに、包まれている。震えながら、その暖かさに、身体が緩んでいくのが分かった。
胸が、鳴った。
恐怖とは、別のものだった。
それが何なのか、分からなかった。馬車の中で聞いた音に、似ていた。あの人の話をする時に、胸の奥で鳴った音にも。いつもなら、聞こえないふりをした。今は、できなかった。あんまり大きく鳴って、耳を塞ぐことも、目を逸らすこともできなかった。
「……エリカ」
名前を、呼ばれた。
「お前は、俺が守る」
迷いの、ない声だった。
「二度と、こんな目には遭わせない」
何か言わなければ、と思った。
言葉が、出なかった。さっきまで、あんなにばらばらと漏れていたのに。この一言にだけは、何も返せなかった。頷くこともできなかった。首ひとつ、動かせなかった。ただ、暖かい腕の中で、震えながら、胸の音を聞いていた。恐怖の震えと、別の鼓動が、混ざって、自分でも、どれがどれだか分からなかった。
アレクは、何も求めなかった。
返事を、待っていなかった。言うべきことを言って、あとは、ただ包んでいた。それが、よけいに、何も言えなくさせた。
どれくらい、そうしていたか。
震えが、少しずつ、引いていった。
***
そこからのことは、よく覚えていない。
立てるか、とアレクが聞いた。頷いた、ような気がする。立ち上がろうとして、足に力が入らなくて、結局、支えられて歩いた。広い王宮の廊下を、アレクに半分抱えられるようにして、進んだ。
頭が、ぼんやりしていた。
怖かったことも、助かったことも、抱きしめられたことも、全部が、靄の向こうにあるみたいだった。考えようとすると、また胸が鳴って、考えるのをやめた。
足が、勝手に動いていた。隣に、誰かがいる。倒れない。それだけが、確かだった。
人の声が、近づいてきた。
複数の、足音。誰かが、こちらに駆けてくる。
「エリカさん!」
聞き慣れた声だった。
顔を、上げた。
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