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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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43話:通じない

誕生会から、数日が過ぎた。


レナートのことは、時々ふと思い出した。あの夜、振り返らずに去っていった背中。広間の中央で笑っていた主役の顔。きっと、いい男になるのだろう。そう思うと、少しだけあたたかく、少しだけ寂しかった。


その日は、アレクの診察だった。


王宮の東棟。かつて王太子が二週間の高熱で死にかけていた部屋に、今は本人が、ふつうに座っている。


胸に耳を当てた。


ドクン。ドクン。


雑音は、もうなかった。弁の閉じる音が、きれいに揃っている。逆流の、あのざらついた音は、どこにもなかった。


顔を上げた。


「もう、何ともありません」


「そうか」


「菌の巣は消えました。弁も保っています。指先の出血も、斑も、とうに引いている。——完治です」


アレクは、表情を変えなかった。死にかけていた頃の頬のこけは、もうない。骨格に残っていた強い顔つきが、肉を取り戻している。最初に診た時とは、別人のようだった。


「世話になった」


「仕事ですから」


道具をしまいながら、ふと思った。


結局、分からなかった。


この人が、なぜあの病になったのか。心臓の弁に菌が巣を作るには、たいていきっかけがある。どこかの感染。元からの弁の傷。だが、この人にはそれが見当たらなかった。健やかな身体だった。剣を修めた、強い身体。そこに、なぜ。


どこで拾った菌だったのか。とうとう、分からずじまいだった。


考えても、答えは出なかった。出ないものを、いつまでも抱えていても仕方がない。治った。それでいい。道具をしまった手を、止めなかった。


「次は」


アレクが訊いた。


「もう、定期で診る必要はありません。何かあれば、いつでも」


「そうか」


それきり、アレクは何も言わなかった。


窓の外は、暗くなりかけていた。診察に思ったより時間がかかった。


「送ろうか」


「いえ。一人で戻れます」


「そうか」


二度は言わなかった。この人はいつもそうだった。一度断ったことを、重ねない。


部屋を出た。廊下は静かだった。


***


王宮の夜は、診療所とは違う静けさだった。


昼間は人の行き交う回廊も、この時刻には人影がない。等間隔の燭台のあいだは暗い。石の床に、自分の足音だけが響いた。


近道をしようと思った。中庭を抜ける細い道。何度か使ったことがある。その方が、部屋まで早い。


角を曲がった。


その道は、燭台が少なかった。


暗かった。


足を速めた。早く抜けてしまおうと思った。


前から、人が来た。


男だった。背が高い。歩き方に、迷いがなかった。


道を譲ろうとして、端に寄った。


男が、止まった。


ちょうど、燭台と燭台のあいだ。顔が、暗がりに沈んでいた。


「お前が、エリカか」


低い声だった。


知らない声だった。問いかけというより、確かめる言い方だった。


「……はい。そうですが」


警戒はした。こんな時刻に、こんな場所で、名前を呼ばれた。だが、答えた。誰何されれば答える。それが、染みついていた。何の用ですか、と続けようとした。


続けられなかった。


男の手が、腰に伸びた。


その動きを、目が追った。


低い音がした。鞘から、何かが滑り出る音。聞いたことのない音だったが、何の音かは、身体が先に知っていた。


暗がりの中で、長いものが、起き上がった。


少ない燭台の光が、その面に乗って、すうっと走った。


刃だった。


それが、こちらを向いた。


意味が、遅れてやってきた。斬られる。この人は、私を。なぜ。考えがまとまる前に、刃が動いた。


身体が、勝手に引けた。後ろに。足が、もつれた。


倒れた。


背中から、石の床に。


その上を、何かが通り過ぎた。風のような、鋭いもの。髪の先が、わずかに引かれた感触。


外れた。


避けたのではなかった。倒れた拍子に、たまたま、刃の通り道から身体がずれた。それだけだった。何が起きたのか、自分でも分からなかった。気づいたら、地面に転がっていて、まだ、生きていた。


逃げなければ、と思った。


手をついて、起きようとした。


遅かった。


腕を、掴まれた。引き起こされ、そのまま壁に叩きつけられた。後頭部が石に当たった。痛みより、先に、わけが分からなかった。


掴まれた腕を、ふりほどこうとした。びくともしなかった。それまで触れたどんな手とも違った。患者の手でも、すがる手でもない。逃がさないための力だった。


「は、なし——」


言葉が、続かなかった。


「やめ——だれ、か」


声が、震えていた。喉が、うまく動かなかった。何か言えば。何か言えば、きっと。


男は、応えなかった。


最初の一言きり、何も言わなかった。息の音さえ、聞こえなかった。乱れているのは、自分だけだった。何を言っても、暗がりに落ちて、消えた。


通じない。


手首を、ひねり上げられた。声にならない悲鳴が漏れた。膝が、崩れた。石の床に、押さえつけられた。冷たかった。頬に、ざらついた石の感触。


刃が、もう一度、起き上がった。


頭の芯が、冷たくなった。


逃げよう、とした。腕に力を入れた。動かなかった。肩を押さえつける手が、びくともしない。爪を立てた。布をひっかいた。それだけだった。


身体が、震えはじめた。止められなかった。歯の根が合わなかった。


リーナの顔が、浮かんだ。クラウスの。フリッツの。みんな、ここにいない。誰も、ここにいない。


刃が、上がった。


目を、つぶった。


ぎゅっと、つぶった。


——誰か。


声には、ならなかった。喉の奥で、つかえて出なかった。心の中だけで、呼んだ。


助けて。


——高い、硬い音が、鳴った。


聞いたことのない音だった。


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