42話:僕、大人ですよ
「僕、先生のことが好きです」
声は震えていなかった。庭の灯りの中で、レナートはまっすぐにこちらを見ていた。
「ずっとです。最初に診てもらった時から、たぶん。胸がぎゅってなるって、あの時は言いました。何だか分からなかったから。——今は分かります」
黙って聞いていた。
「今日まで言わなかったのは、治療中だったからです。余計なことを言って、診てもらえなくなったら困る。それに、子供が何を言ってるんだって思われたくなかった」
一度、唇を結んだ。
「でも、治療は終わりました。先生がそう言ってくれた。それに、僕は今日で十五です。——だから、ちゃんと言おうって、決めてました」
子供扱いするな、と言っていた。患者扱いするな、とも。盾にできるものを、この子は一つずつ、自分の手で外してきていた。十五の子供が、よく考えていた。
その一つ一つを、無駄にしないように聞いた。
「ありがとう」
最初に、それが出た。
「子供の言うことだなんて思ってない。一時の熱だとも思わない。あなたの気持ちは、本物だと思う」
レナートの目が、少し見開かれた。否定されるか、はぐらかされるか、そのどちらかを覚悟していた顔だった。
「だから、いい加減には答えない。——ごめんなさい。応えられないの」
レナートの喉が、小さく動いた。
「……子供だからですか」
「違う」
「患者だったからですか」
「それも違う」
一つずつだった。さっきまでこちらが盾にできたものを、今度はこの子が、断られる理由として確かめていた。そのどれも違うと、正直に返した。
「あなたが悪いんじゃない。足りないものがあるわけでもない。ただ、私が、その気持ちを返せない。それだけなの」
レナートが、長い息を吐いた。肩が下りた。
しばらく、二人とも黙っていた。風が、灯りを揺らした。
「先生」
もう一度、口を開いたレナートの声は、静かだった。
「先生には、好きな人がいるんですか」
答えようとした。
いない、と。それが事実のはずだった。誰かに傾いているわけではない。ただ、自分の中に、まだ名前のついていないものがある。それを「いない」と言い切るのは、簡単なはずだった。
なのに、言葉が出なかった。
ほんの数秒。
ずっと、よどみなく答えてきた。断る理由も、逃げずに返してきた。その最後で、初めて詰まった。
レナートが、それを見ていた。
「……あ」
小さな声だった。
何かを探すように、目が動いた。それから、止まった。
「先生、王宮にいた頃、楽しそうじゃなかったです。なんだか硬くて。だから、ブライテンで楽しそうにしてるって聞いて、王宮がつまらなかったんだなって思ってました。——でも、戻ってきても、先生は楽しそうで」
声が、だんだん小さくなっていった。
「王宮、つまらなそうだったのに。戻ってきても、楽しそうにしてる。なんでだろうって——」
だから。
その先を、レナートは言わなかった。
口が、開きかけた。
閉じた。
「……いや」
首を、小さく振った。それから、笑った。無理に笑ったのが分かる笑い方だった。
「やめときます。今のは、なし」
何も言わなかった。
何かを言えば、この子が飲み込んだものを、引きずり出すことになる。だから、触れなかった。
「先生」
顔を上げたレナートの声は、明るかった。明るくしようとしていた。
「僕、立派な男になります」
「レナート」
「先生が、断ったのを後悔するくらい。——いつか、先生の方から言いたくなるくらい。いい男になってみせます」
背伸びした言葉だった。十五の子が、精一杯背伸びして、それでも届かない高さに手を伸ばすような。声は明るかった。最後の方が、少しだけ揺れた。
その揺れは、聞かなかったことにした。
「……ええ」
「待っててください」
「待ってない」
「待っててください」
「期待しないで待ってる」
レナートが、笑った。今度は、無理のない笑いが、少しだけ混じっていた。
「それでいいです」
こちらも、笑った。医者でもなく、断った相手でもなく、ただ、目の前の若い人の未来が、いいものであればいいと思った。嘘ではなかった。
「じゃあ、戻ります。僕、今日の主役なので」
「行きなさい」
レナートが、背を向けた。広間へ続く扉の方へ、歩き出した。
数歩で、足が止まった。背を向けたまま、動かなくなった。
その背中を、見た。
肩が、少し震えていた。
「レナート」
「はい」
「泣いてるの?」
「……泣いてるわけ、ないじゃないですか」
背中が、言った。
「僕、大人ですよ?」
最後で、声が崩れかけた。崩れる前に、レナートは歩き出した。背筋を伸ばして、足を速めて、広間の灯りの中へ消えていった。
振り返らなかった。一度も。
その背中を、見えなくなるまで見ていた。
***
庭に、一人になった。
風が冷たかった。広間の音が、扉の向こうで遠く鳴っている。
レナートの背中が、まだ目の奥に残っていた。振り返らずに去っていく、十五の背中。泣いていないと言い張った背中。立派な男になると、声を震わせながら宣言した背中。
ふいに、別の背中が、重なった。
前世の、一人の子だった。
名前も、顔も、声も覚えている。助けられなかった。大丈夫だと言ったあの子を、信じた。信じたことを悔いる暇もなく、いなくなった。あの子の身体は、大丈夫ではなかった。
あの子は、大人にならなかった。
誰かを好きになることも、振られて泣くことも、泣いていないと見栄を張ることもなかった。立派な男になると宣言する、あの背中を、持たなかった。
レナートは、持っている。
これから、好きになって、振られて、泣いて、それでも前を向いて歩く。その全部の時間を持っている。
それが、どうしてか、少しだけ楽にした。
重ねたのではなかった。レナートはあの子の代わりではない。ただ、未来へ歩いていく背中が、ずっと連れて歩いてきた背中に、そっと触れていった。それだけのことだった。
いつも、間に合わなかったものばかりが、長く残った。
でも、今日は、間に合った子が、未来へ歩いていった。
空を見上げた。星が出ていた。
少しだけ、目の奥が熱かった。なぜだか分からないまま、しばらく、星を見ていた。
***
広間に戻ると、リーナが卓のところで待っていた。
顔を見て、何かを察したらしい。何も聞かなかった。皿を一つ、差し出してきた。
「これ、さっきの変な味のやつです。一口食べてみてください」
「何で」
「気が紛れますよ」
受け取って、一口食べた。甘くて、しょっぱかった。確かに、変な味だった。
「ね。変でしょう」
「変ね」
広間の中央に、レナートがいた。客に囲まれて、笑っている。主役の顔だった。さっきまで庭で泣いていた子だとは、誰も思わないだろう。
一度だけ、視線がこちらを向いた。
皿を持ったまま、小さく頷いた。レナートが、頷き返した。それから、また客の方を向いた。
それきりだった。
「いい誕生会ですね」
リーナが言った。
「……そうね」
レナートの方を、もう一度見た。
「来てよかった」
宴は、まだ続いていた。
お読みいただきありがとうございます!
もし「面白そう!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、
広告の下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、執筆(投稿)の励みになります!
ブックマークもぜひポチッとお願いします。




