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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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41話:着慣れない

招待状が届いたのは、トビアスが発って数日後だった。


革の筒に入っていた。封蝋にエストール侯爵家の紋。中の紙は厚く、縁に金が引いてある。リーナが受け取って、両手で持ったまま動かなくなった。


「エリカさん。これ、すごいやつじゃないですか」


「貸して」


文面を読んだ。レナートの十五の誕生を祝う宴。この国では十五で成人とされる。子供の名で書かれていた招待状ではなかった。一人前の男として、初めて客を招く側に立つ。そういう書き方だった。


エリカとリーナ、二人の名が記してあった。


「私の名前もあります」


リーナが自分の名を指でなぞった。


「いいんですか。私、ただの弟子ですよ」


「あなたも担当でしょう。記録を読んでるのも、薬草を煎じ直してるのもあなた」


「それはそうですけど」


「行きましょう。あの子の成人なんだから」


リーナがもう一度、招待状を見た。指でなぞった跡を、もう一度なぞっていた。


***


宴の前日だった。


研究棟の廊下で、ルーカスと会った。向こうから歩いてきた。エリカに気づいて、軽く頭を下げた。


「エリカ先生。トビアスのことは——残念でしたね」


「ええ」


「彼の心臓を持たせたのは先生です。あの状態から戻したのは、簡単なことではなかったでしょう」


穏やかな声だった。労う言葉に、淀みがない。


「処置をしただけです」


「それを処置と言える人が、何人いるか」


ルーカスが少し笑った。それから、思い出したように足を止めた。


「明日、エストール侯爵家の宴に出られると伺いました」


「ええ」


「宰相家の方も招かれているそうです。——お気をつけて」


「気をつける、というのは」


「いえ。ああいう場は、医者には少し勝手が違うでしょうから。お疲れの出ませんように」


それだけ言って、ルーカスは会釈して去っていった。背筋がまっすぐだった。歩き方に乱れがない。


廊下に残って、少し考えた。


なぜルーカスが、宴の招待客のことまで知っているのか。なぜ、わざわざ。


考えて、やめた。研究棟の上長だ。宮廷のことなら何でも耳に入る立場だろう。宰相家の名を出したのも、親切で言ったのだろう。


ただ、一拍だけ、座りが悪かった。


その座りの悪さが何なのか、追えなかった。


***


宴の日。


借りた馬車で侯爵家に着いた。門をくぐると、灯りが見えた。まだ日は落ちていないのに、屋敷じゅうに火が入っている。窓という窓が明るい。


馬車を降りた。リーナが隣で息を呑んだ。


「うわ」


「声」


「だって——」


正面の階段を、着飾った人々が上っていく。女たちの衣が、歩くたびに光を弾いた。男たちの上着には金糸が入っている。笑い声。楽器の音。香の匂い。


エリカは自分の服を見た。一番上等なものを選んできた。診療着ではない。だが、ここにいる誰の衣とも違った。


リーナを見た。リーナも自分の裾を見ていた。


「……場違いですかね、私たち」


「今更でしょう」


言いながら、足が少し重かった。


人が大勢いる場所は知っている。診療所も、医師団も、人だらけだった。だがそれは身体を診る場所だった。誰かの脈を取り、薬を渡し、次を呼ぶ。やることがあった。


ここには、やることがない。ただ立って、笑って、喋る。それだけのために集まる場所。前世でも、こういう場には縁がなかった。気づけば白衣を着ていて、人の身体ばかり見ていた。着飾って誰かと笑い合う時間が、あったのかどうかも思い出せない。


「エリカさん、固いです」


「固くない」


「めちゃくちゃ固いですよ。肩が上がってます」


「あなたこそ」


「私はわくわくしてます」


リーナが先に階段を上り始めた。裾をつまんで、見よう見まねで。背中が緊張していた。わくわくしている人間の背中ではなかった。


エリカも続いた。


***


大広間は人で埋まっていた。


天井が高い。燭台がいくつも下がって、炎が揺れている。壁際に料理の並んだ卓。中央は空けてあって、人々がそこで立ち話をしている。


入った瞬間、何人かの視線がこちらに向いた。すぐに逸れた。追放された女医。王太子を治した薬師。どちらの噂も、この場の客は知っているのだろう。値踏みするような目と、好奇の目が、混ざって通り過ぎていった。


エリカは壁際に寄った。


「エリカさん、料理すごいですよ。あれ何でしょう」


「知らない」


「食べていいんですかね」


「招かれたんだから、いいでしょう」


リーナが卓の方へ吸い寄せられていった。少しして、皿に何か載せて戻ってきた。


「これ、甘いのにしょっぱいです。変な味」


「行儀」


「誰も見てませんって」


見ていないわけがなかった。だが、リーナがいてくれてよかった、とは思った。一人なら、壁にもたれて立っているだけだったろう。


その時、人の流れの向こうに、見覚えのある顔が見えた。


整った顔立ち。仕立てのいい衣。二十代半ば。


イルゼだった。


宰相家の人間がこの場にいるのは、当然だった。侯爵家が、招かないわけにはいかない相手だ。


イルゼはこちらに気づいた。目が合った。


一瞬だった。


イルゼの視線が、エリカを撫でて、隣のリーナを撫でて、それから戻っていった。何の表情もなかった。笑ってもいない。眉も動かない。ただ、見て、外した。


それきりだった。


人の波が二人の間を流れて、イルゼの姿は見えなくなった。


「……今の」


リーナが小声で言った。


「イルゼさんですよね」


「そう」


「何かしてくるかと思いました」


「来てないでしょう」


「来てないですね。何も。——拍子抜けです」


リーナが皿に視線を戻した。本当に拍子抜けした顔だった。何も起きなかったことを、何も起きなかったとそのまま受け取れる。それがリーナの強さだった。


エリカは、イルゼの消えた方をもう一度見た。


何もなかった。本当に、何も。


それでも、撫でていった視線の温度だけが、少し手元に残った。理由は分からなかった。


***


「エリカ先生!」


声がした。振り向いた。


レナートが人をかき分けて近づいてきた。今日はいつもの記録を届けに来る服ではなかった。深い色の上着。襟元が整っている。背がまた伸びたように見えた。


「来てくれたんですね。本当に来てくれた」


「招かれたから」


「それでも、来ないかもしれないと思ってました。こういう場、嫌いそうだから」


「よく分かってますね」


「先生のことなら」


言ってから、自分で耳を赤くした。


「あ——いや、その。診察の時、いつも早く終わらせたそうにしてるので」


「気のせいです」


「気のせいじゃないです。脈取りながら、もう次の話をしようとするので」


リーナが横で笑った。


「レナート様、よく見てますね」


「リーナさんも来てくれたんですね。ありがとうございます」


「お招きありがとうございます。十五歳、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


レナートが頭を下げた。所作が様になっていた。記録帳を握りしめて告白未満を口にしていた少年とは、別人のようだった。今日は主役の側に立っている。誇らしさを隠していなかった。だが、その奥に、少し緊張がある。エリカには分かった。背の伸びた身体が、まだ大人の服に慣れていない。


「料理、食べました? うちの料理人、今日のために張り切ってて」


「リーナがさっきから食べてます」


「美味しいです。変な味のやつが特に」


「変な味——ああ、あれか。あれ好き嫌い分かれるんですよ」


レナートが笑った。声が高くなりかけて、抑えた。大人ぶろうとして、ぶりきれていない。十五歳だった。


しばらく、三人で話した。料理の話。屋敷の話。庭の薬草が今年はよく育ったという話。レナートはよく喋った。エリカに会えたことが嬉しくて、言葉が次から次へ出てくる。そういう喋り方だった。


途中で、レナートがふと黙った。


「エリカ先生」


声の調子が変わった。


「あの——少しだけ、いいですか」


「何が」


「向こうの、庭の方。人が少ないので。少しだけ、話したくて」


エリカは、レナートの顔を見た。


リーナを見た。


リーナは皿に視線を落としていた。何も聞こえなかったような顔で。それから、ゆっくりと卓の方へ歩いていった。料理を見に行く。そういう自然さで。一度もこちらを振り返らなかった。


エリカは、少しの間、リーナの背中を見ていた。


「先生?」


「……行きましょう」


レナートが先に立って歩いた。人の波を抜けて、広間の奥の扉へ。背中が、緊張していた。


***


庭に出ると、空気が変わった。


広間の熱と音が、扉一枚で遠くなった。日が落ちきって、庭園には等間隔に灯りが置かれている。風が少し冷たい。花の匂いがした。何の花かは分からなかった。


レナートが数歩進んで、立ち止まった。振り返った。


灯りに照らされた顔は、もう赤くなかった。緊張で固くなっているのでもなかった。何かを決めて、それを言うために、ここまで来た顔だった。


レナートが、居住まいを正した。


エリカには、分かった。


長く患者を診てきた。身体の声を聞いてきた。だが今、目の前の少年が何を言おうとしているのかは、勘ではなかった。前から知っていた。記録帳の最後のページ。消した一文。治療が終わったら、と背中を押した弟子の声。全部、ここに繋がっていた。


「先生」


レナートが息を吸った。


エリカは、答えを用意していなかった。ただ、逃げないでおこう、とだけ思った。


風が、灯りを揺らした。


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