41話:着慣れない
招待状が届いたのは、トビアスが発って数日後だった。
革の筒に入っていた。封蝋にエストール侯爵家の紋。中の紙は厚く、縁に金が引いてある。リーナが受け取って、両手で持ったまま動かなくなった。
「エリカさん。これ、すごいやつじゃないですか」
「貸して」
文面を読んだ。レナートの十五の誕生を祝う宴。この国では十五で成人とされる。子供の名で書かれていた招待状ではなかった。一人前の男として、初めて客を招く側に立つ。そういう書き方だった。
エリカとリーナ、二人の名が記してあった。
「私の名前もあります」
リーナが自分の名を指でなぞった。
「いいんですか。私、ただの弟子ですよ」
「あなたも担当でしょう。記録を読んでるのも、薬草を煎じ直してるのもあなた」
「それはそうですけど」
「行きましょう。あの子の成人なんだから」
リーナがもう一度、招待状を見た。指でなぞった跡を、もう一度なぞっていた。
***
宴の前日だった。
研究棟の廊下で、ルーカスと会った。向こうから歩いてきた。エリカに気づいて、軽く頭を下げた。
「エリカ先生。トビアスのことは——残念でしたね」
「ええ」
「彼の心臓を持たせたのは先生です。あの状態から戻したのは、簡単なことではなかったでしょう」
穏やかな声だった。労う言葉に、淀みがない。
「処置をしただけです」
「それを処置と言える人が、何人いるか」
ルーカスが少し笑った。それから、思い出したように足を止めた。
「明日、エストール侯爵家の宴に出られると伺いました」
「ええ」
「宰相家の方も招かれているそうです。——お気をつけて」
「気をつける、というのは」
「いえ。ああいう場は、医者には少し勝手が違うでしょうから。お疲れの出ませんように」
それだけ言って、ルーカスは会釈して去っていった。背筋がまっすぐだった。歩き方に乱れがない。
廊下に残って、少し考えた。
なぜルーカスが、宴の招待客のことまで知っているのか。なぜ、わざわざ。
考えて、やめた。研究棟の上長だ。宮廷のことなら何でも耳に入る立場だろう。宰相家の名を出したのも、親切で言ったのだろう。
ただ、一拍だけ、座りが悪かった。
その座りの悪さが何なのか、追えなかった。
***
宴の日。
借りた馬車で侯爵家に着いた。門をくぐると、灯りが見えた。まだ日は落ちていないのに、屋敷じゅうに火が入っている。窓という窓が明るい。
馬車を降りた。リーナが隣で息を呑んだ。
「うわ」
「声」
「だって——」
正面の階段を、着飾った人々が上っていく。女たちの衣が、歩くたびに光を弾いた。男たちの上着には金糸が入っている。笑い声。楽器の音。香の匂い。
エリカは自分の服を見た。一番上等なものを選んできた。診療着ではない。だが、ここにいる誰の衣とも違った。
リーナを見た。リーナも自分の裾を見ていた。
「……場違いですかね、私たち」
「今更でしょう」
言いながら、足が少し重かった。
人が大勢いる場所は知っている。診療所も、医師団も、人だらけだった。だがそれは身体を診る場所だった。誰かの脈を取り、薬を渡し、次を呼ぶ。やることがあった。
ここには、やることがない。ただ立って、笑って、喋る。それだけのために集まる場所。前世でも、こういう場には縁がなかった。気づけば白衣を着ていて、人の身体ばかり見ていた。着飾って誰かと笑い合う時間が、あったのかどうかも思い出せない。
「エリカさん、固いです」
「固くない」
「めちゃくちゃ固いですよ。肩が上がってます」
「あなたこそ」
「私はわくわくしてます」
リーナが先に階段を上り始めた。裾をつまんで、見よう見まねで。背中が緊張していた。わくわくしている人間の背中ではなかった。
エリカも続いた。
***
大広間は人で埋まっていた。
天井が高い。燭台がいくつも下がって、炎が揺れている。壁際に料理の並んだ卓。中央は空けてあって、人々がそこで立ち話をしている。
入った瞬間、何人かの視線がこちらに向いた。すぐに逸れた。追放された女医。王太子を治した薬師。どちらの噂も、この場の客は知っているのだろう。値踏みするような目と、好奇の目が、混ざって通り過ぎていった。
エリカは壁際に寄った。
「エリカさん、料理すごいですよ。あれ何でしょう」
「知らない」
「食べていいんですかね」
「招かれたんだから、いいでしょう」
リーナが卓の方へ吸い寄せられていった。少しして、皿に何か載せて戻ってきた。
「これ、甘いのにしょっぱいです。変な味」
「行儀」
「誰も見てませんって」
見ていないわけがなかった。だが、リーナがいてくれてよかった、とは思った。一人なら、壁にもたれて立っているだけだったろう。
その時、人の流れの向こうに、見覚えのある顔が見えた。
整った顔立ち。仕立てのいい衣。二十代半ば。
イルゼだった。
宰相家の人間がこの場にいるのは、当然だった。侯爵家が、招かないわけにはいかない相手だ。
イルゼはこちらに気づいた。目が合った。
一瞬だった。
イルゼの視線が、エリカを撫でて、隣のリーナを撫でて、それから戻っていった。何の表情もなかった。笑ってもいない。眉も動かない。ただ、見て、外した。
それきりだった。
人の波が二人の間を流れて、イルゼの姿は見えなくなった。
「……今の」
リーナが小声で言った。
「イルゼさんですよね」
「そう」
「何かしてくるかと思いました」
「来てないでしょう」
「来てないですね。何も。——拍子抜けです」
リーナが皿に視線を戻した。本当に拍子抜けした顔だった。何も起きなかったことを、何も起きなかったとそのまま受け取れる。それがリーナの強さだった。
エリカは、イルゼの消えた方をもう一度見た。
何もなかった。本当に、何も。
それでも、撫でていった視線の温度だけが、少し手元に残った。理由は分からなかった。
***
「エリカ先生!」
声がした。振り向いた。
レナートが人をかき分けて近づいてきた。今日はいつもの記録を届けに来る服ではなかった。深い色の上着。襟元が整っている。背がまた伸びたように見えた。
「来てくれたんですね。本当に来てくれた」
「招かれたから」
「それでも、来ないかもしれないと思ってました。こういう場、嫌いそうだから」
「よく分かってますね」
「先生のことなら」
言ってから、自分で耳を赤くした。
「あ——いや、その。診察の時、いつも早く終わらせたそうにしてるので」
「気のせいです」
「気のせいじゃないです。脈取りながら、もう次の話をしようとするので」
リーナが横で笑った。
「レナート様、よく見てますね」
「リーナさんも来てくれたんですね。ありがとうございます」
「お招きありがとうございます。十五歳、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
レナートが頭を下げた。所作が様になっていた。記録帳を握りしめて告白未満を口にしていた少年とは、別人のようだった。今日は主役の側に立っている。誇らしさを隠していなかった。だが、その奥に、少し緊張がある。エリカには分かった。背の伸びた身体が、まだ大人の服に慣れていない。
「料理、食べました? うちの料理人、今日のために張り切ってて」
「リーナがさっきから食べてます」
「美味しいです。変な味のやつが特に」
「変な味——ああ、あれか。あれ好き嫌い分かれるんですよ」
レナートが笑った。声が高くなりかけて、抑えた。大人ぶろうとして、ぶりきれていない。十五歳だった。
しばらく、三人で話した。料理の話。屋敷の話。庭の薬草が今年はよく育ったという話。レナートはよく喋った。エリカに会えたことが嬉しくて、言葉が次から次へ出てくる。そういう喋り方だった。
途中で、レナートがふと黙った。
「エリカ先生」
声の調子が変わった。
「あの——少しだけ、いいですか」
「何が」
「向こうの、庭の方。人が少ないので。少しだけ、話したくて」
エリカは、レナートの顔を見た。
リーナを見た。
リーナは皿に視線を落としていた。何も聞こえなかったような顔で。それから、ゆっくりと卓の方へ歩いていった。料理を見に行く。そういう自然さで。一度もこちらを振り返らなかった。
エリカは、少しの間、リーナの背中を見ていた。
「先生?」
「……行きましょう」
レナートが先に立って歩いた。人の波を抜けて、広間の奥の扉へ。背中が、緊張していた。
***
庭に出ると、空気が変わった。
広間の熱と音が、扉一枚で遠くなった。日が落ちきって、庭園には等間隔に灯りが置かれている。風が少し冷たい。花の匂いがした。何の花かは分からなかった。
レナートが数歩進んで、立ち止まった。振り返った。
灯りに照らされた顔は、もう赤くなかった。緊張で固くなっているのでもなかった。何かを決めて、それを言うために、ここまで来た顔だった。
レナートが、居住まいを正した。
エリカには、分かった。
長く患者を診てきた。身体の声を聞いてきた。だが今、目の前の少年が何を言おうとしているのかは、勘ではなかった。前から知っていた。記録帳の最後のページ。消した一文。治療が終わったら、と背中を押した弟子の声。全部、ここに繋がっていた。
「先生」
レナートが息を吸った。
エリカは、答えを用意していなかった。ただ、逃げないでおこう、とだけ思った。
風が、灯りを揺らした。
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