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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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40/50

40話:記録

廊下を走った。


スリッパのまま。上着も羽織っていない。リーナが後ろからついてきた。何も言わずに起きて、ついてきていた。


トビアスの部屋の前に人がいた。使用人が二人、廊下でおろおろしている。中から声が聞こえた。ブルーノの声。


「——脈が取れない、おい、しっかりしろ——」


部屋に入った。


トビアスが寝台の上で痙攣していた。身体が弓なりに反っている。顔は蝋のように白い。唇が紫。額に汗が浮いて、目は開いているが何も見ていない。


ブルーノが手首を握って脈を探っている。見つからないのだろう。指の位置を変えている。


「ブルーノ先生、今どんな処置を」


「心臓が——急に——さっきまで普通だったんだ——」


答えになっていない。


エリカがトビアスの手首を取った。


脈は——ある。だが速すぎる。数えられない。リズムが完全に崩壊している。


胸に手を当てた。心臓が震えている。拍動ではない。細かく痙攣している。


(心室細動の手前——いや、もう入りかけてる)


「ブルーノ先生。この一週間の処方を教えて」


「麦角の標準処方だ。血行を促進して——」


「止めて」


「何?」


「その処方を今すぐ全部止めて。——リーナ」


「はい」


「甘草を。濃いめに。それと——」


薬棚の場所を思い出した。ここはトビアスの病室だ。自分の診察室じゃない。


「私の診察室から持ってきて。甘草と、棚の上段の右から三番目と四番目の瓶。急いで」


リーナが走った。


「おい、何を勝手に——」


「心臓が止まりかけてるの。この人の毒は麦角じゃない。血行を促進する処方は心臓への負荷を上げる。七日間それを続けたから限界を超えた」


「麦角じゃないだと? 俺は——」


「引き継ぎの時に伝えた。トリカブト系だと。心臓に負担をかけるなと」


ブルーノの顔が強張った。


「今はいいから。退いて」


ブルーノが退いた。


トビアスの身体がまた大きく痙攣した。歯を食いしばっている。呼吸が途切れかけていた。


エリカが胸に両手を当てた。心臓の位置を確認する。震えている。この震えを止めなければ、血液が回らなくなって終わる。


リーナが戻ってきた。瓶を三つ抱えている。


「ありがとう。お湯は」


「持ってきました」


煎じる時間がない。甘草を直接砕いた。粉にして、湯に溶かした。濃度は高い。本来ならこの量は出さない。だが心臓が止まるよりはましだ。


「トビアスさん。飲んで。飲めるなら」


トビアスの目が動いた。焦点が合わない。唇が震えている。


リーナがトビアスの頭を支えた。エリカが少しずつ口に含ませた。嚥下反射が残っている。飲んだ。


待った。


一分。二分。


心臓の震えが——変わった。まだ乱れている。だが、あの細かい痙攣が少し粗くなった。拍動に近づいている。


「もう少し」


もう一口飲ませた。


三分。五分。


脈を取った。速い。乱れている。だが——拍動になった。震えではなく、打っている。一拍一拍、不規則でも、打っている。


「……大丈夫。戻ってきてる」


トビアスの目から涙がこぼれた。本人の意思ではない。身体が限界を超えた時に出る涙だった。


エリカはトビアスの手を握ったまま、脈を数え続けた。


***


夜が明けた。


トビアスの心臓は、不安定ながら動き続けた。脈の乱れは残っている。だが細動には戻らなかった。


朝になって、呼吸が深くなった。眠っている。身体が回復に向かおうとしている。


エリカはトビアスの枕元に座ったまま、一晩を過ごした。リーナが交代を申し出たが、断った。


(この心臓は、一度壊れかけた。処方を間違えれば、今度こそ止まる)


自分の手で診ていなければ分からない。任せられない。


昼前に、ようやくトビアスが目を開けた。


「……先生」


「喋らないで。まだ動かないで」


「……はい」


目を閉じた。


***


その日の午後。


医師団の会議室に呼び出された。


長い机が部屋の中央にある。片側に医師団の書記官が二人。団長の代理として副団長が座っている。ブルーノが椅子に座っていた。腕を組んでいる。顔が強張っていた。


エリカが入ると、もう一人が入ってきた。ルーカスだった。


「研究棟の助手が急変したと聞きまして。上長として経緯を確認させてください」


副団長が頷いた。ルーカスが椅子に座った。穏やかな顔。いつも通りだった。


「では、経緯を確認します」


副団長が書記官に目配せした。書記官が記録の準備を始めた。


「まず、エリカ先生。引き継ぎの際に、患者の状態をどう説明しましたか」


「麦角中毒として入院した患者ですが、麦角では説明できない症状が混在していると伝えました。心臓の伝導異常と舌の感覚神経低下。穀物を断っても改善しなかった。別の毒——トリカブト系の可能性があると」


「処方についても伝えましたか」


「はい。今の処方は心臓への負荷を抑えながら毒の代謝を促すもので、十日かけてようやく安定し始めたところだと。処方を変えないでほしいと伝えました」


副団長がブルーノを見た。


「ブルーノ先生。これは聞いていましたか」


「聞いてはいた」


「聞いてはいた、というのは」


「聞いたが、根拠が薄いと判断した。一人の見立てで、医師団への報告もなく処方を変えていた。正規の手順を踏んでいない」


「それで、処方を変えたのですか」


「麦角の標準処方に戻した。重症例として、血行を促進し心臓の拍出を強める方向で組み直した」


エリカの指が膝の上で握られた。


(血行促進と心拍の強化。トリカブトの心毒性を、真正面から煽る処方)


「結果として、患者は七日目に心臓の急変を起こした。——ブルーノ先生。処方の判断にあたって、他の医師に相談はしましたか」


ブルーノが少し間を置いた。


「……ルーカスさんに意見を聞いた」


部屋の空気が動いた。


「ルーカスさんに」


「ああ。麦角の重症例だと説明したら、末端の血流が落ちているなら血行を促進して心臓を強く動かすべきだと。薬草にも詳しい方だから、処方の方向は間違っていないと確認した」


ブルーノは自分の判断を補強するつもりで、ルーカスの名前を出していた。味方を呼んだつもりだった。


副団長がルーカスを見た。


「ルーカスさん。ブルーノ先生に助言をしたのですか」


ルーカスが軽く頭を下げた。


「はい。ブルーノ先生から患者の症状を伺いまして——麦角の重症例で末端の循環障害が重いとのことでしたので、それに沿ってお答えしました」


穏やかな声。丁寧な口調。何一つ揺れていない。


「麦角の騒ぎの後でしたし、ブルーノ先生のご判断が麦角であるなら、血行を促す方向は妥当だと思いました。——ただ、実際の症状を直接拝見したわけではないので、あくまでブルーノ先生からの情報に基づいた意見でした」


副団長が眉を寄せた。


「つまり、実際に診察はしていない」


「はい。私は医師ではありませんので、処方の判断をする立場にはありません。ブルーノ先生からお聞きした内容にお答えしただけです」


ブルーノの顔が変わった。


「ちょっと待ってくれ。俺はちゃんと症状を説明した。お前はそれを聞いて——」


「ええ、聞きました。ブルーノ先生は麦角の重症例だとおっしゃっていました。私はそれを前提にお答えしたんです。——どうやら、前提が違っていたようで」


「前提が違うって——お前が麦角だと言ったんじゃないか」


「いえ。ブルーノ先生が麦角だとおっしゃったので、私はそれに沿ってお答えしました。もし別の毒だという情報があったなら、当然、別の助言をしていたと思います」


ブルーノが口を開いた。閉じた。もう一度開いた。


「……俺は、ちゃんと伝えたはずだ」


「ブルーノ先生。エリカ先生が引き継ぎの際にトリカブトの可能性を伝えたとおっしゃっていますが」


副団長の声が硬かった。


「それを聞いた上で、麦角の標準処方に戻した。ルーカスさんに相談した際にも、トリカブトの可能性を伝えていない。——そういうことですか」


ブルーノが黙った。


副団長が記録を確認した。


「エリカ先生。引き継ぎ時の処方記録の写しはありますか」


「あります」


リーナが準備していた。引き継ぎ前の処方、投薬量、時間、経過。全て記録してある。


副団長が目を通した。エリカの処方下での経過——心臓の安定化、舌の感覚回復——が記録されている。引き継ぎ後の七日間で、それが全て巻き戻った。


「……これを見る限り、エリカ先生の処方下では回復傾向にあった患者が、処方変更後に悪化し、急変に至っている」


ブルーノの顔から血の気が引いた。


ルーカスが口を開いた。


「大変なことになってしまいましたね。——私も、ブルーノ先生から正確な情報をいただいていれば、違うお答えができたかもしれません。申し訳ないことをしました」


申し訳ない、と言いながら、ルーカスの顔には何の動揺もなかった。


ブルーノはルーカスを見た。助けを求める目だった。ルーカスはそれを受けて、静かに目を伏せた。


会議室を出る時、ブルーノがエリカの横を通った。足を止めた。


「……お前が、最初から医師団に報告していれば」


「報告する前に、引き継がれました」


ブルーノの目がエリカを睨んだ。何かを言いかけた。飲み込んだ。そのまま去った。


背中が怒りで震えていた。


***


数日後。


トビアスの容態は安定に向かっていた。エリカが担当に戻り、処方を元に戻した。心臓の不整脈はまだ残っているが、細動には至らない。命は繋がった。


だがトビアスは変わっていた。


「トビアスさん。調子はどう?」


「……大丈夫です」


それだけ。目を合わせない。声が小さい。


以前のように、自分から話すことがなくなった。倉庫の話も、調度室の話も、もうしなかった。


怯えていた。何に怯えているのか、本人にも分かっていないのかもしれない。ただ、自分が何かの渦の中にいることだけは感じている。


一週間後。


人事の通達が出た。


研究棟の助手トビアス。辺境の管理施設への異動。理由は「呪いに関わる不吉な病の当事者であるため、宮廷内の安全と秩序を考慮して」。


リーナが通達を読んだ。


「……なんですか、これ」


「異動よ」


「不吉な病って——毒を盛られた被害者じゃないですか。なのに追い出されるんですか」


エリカは答えなかった。


トビアスの最後の診察をした。脈を取った。安定している。心臓は持ちこたえた。舌の感覚も戻りつつある。時間はかかるが、身体は回復するだろう。


「トビアスさん。身体のことで何かあれば、赴任先の医師に相談して。処方の記録は持たせるから」


「……はい」


「前に話してくれたこと。倉庫のことや、調度室のこと。——覚えてる?」


トビアスが身体を固くした。


「……覚えてます」


「無理に思い出さなくていい。ただ、忘れないでいて」


トビアスが頷いた。小さく。それだけだった。


トビアスの背中を見送った。門を出て、馬車に乗って、見えなくなった。


毒を盛られた被害者が、「不吉だから」と追い出される。治した医者は引き剥がされ、殺しかけた医者は処分されず、助言した人間は無傷で残る。


(——なんで、こうなるの)


呪いじゃない。毒だ。人為だ。原因がある。証拠もある。処方記録にも、経過にも、全部残っている。


なのに、誰もそこを見ない。見ないまま、「原因不明」で片づけて、患者を追い出して、終わりにする。


(ずっとそうだったのか。この宮廷は。——ずっと、こうやって蓋をしてきたのか)


窓の外を見た。トビアスの馬車は、もう見えなかった。

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