39話:呪い
翌朝。
通達の巻物を、もう一度読んだ。
『第三王子の呪いに関わる疑いのある患者について、宮廷医師団の正式な管理下に移行する。現担当医は速やかに引き継ぎを行うこと——』
何度読んでも意味が分からなかった。呪い。第三王子の呪い。トビアスの症状と、呪い。
(呪いって——何)
リーナが朝の支度をしながら、巻物をちらちら見ていた。
「エリカさん。それ、何回読んでも意味が分からないんですけど」
「私も」
「呪いって何ですか。トビアスさんのどこが呪いなんですか」
「どこも。病気と毒の話でしかないわ」
「じゃあなんで——」
扉を叩く音がした。
開けると、クラウスだった。一人。フリッツはいない。
「入っていいか」
「どうぞ」
クラウスが椅子に座った。リーナが茶の支度に動こうとした。
「いい。座ってろ」
リーナが止まった。クラウスの声に、普段と違う硬さがあったのだろう。座った。
クラウスがエリカを見た。
「通達が出たと聞いた」
「ええ。昨日の夕方」
「見せろ」
巻物を渡した。クラウスが目を通した。表情は変わらない。読み終えて、巻物を閉じた。
「……第三王子の呪い、か」
「殿下。これは——」
「知ってる。前からある話だ」
リーナが声を上げた。「前からって——」
「俺が王宮にいた頃から、使用人の間で囁かれていた。北部に来てからは聞かなくなったが」
「殿下が北部に来られてからも、ですか」
「噂は消えたわけじゃない。俺の耳に届かなくなっただけだろう」
エリカは椅子の背に手を置いた。
「それが今になって、通達の根拠になるくらい大きくなってる」
「麦角の件で火がついた。——俺の症状が落ち着いた直後に、周囲で人が倒れた。呪いが治ったんじゃなく移ったんだと言いたい人間には、都合のいい話だ」
リーナが椅子の上で身を乗り出した。
「それ、本気で信じてる人がいるんですか」
「信じているかどうかは問題じゃない。使える話かどうかだ」
クラウスの声は平坦だった。怒りでも諦めでもない。何度も同じ空気を吸ってきた人間の声だった。
再び扉が叩かれた。今度はアレクだった。
「入るぞ。——ああ、クラウスもいるのか」
「座れ」
「お前の部屋じゃないだろう」
「座って、アレク殿下」
エリカが椅子を引いた。アレクが座った。巻物がテーブルの上にあるのを見て、表情が変わった。
「それか」
「殿下も聞いたんですか」
「今朝、侍従から聞いた」
アレクがクラウスを見た。クラウスは窓の外を見ていた。
「……呪いの話、前からあっただろう」
クラウスが頷いた。
アレクがエリカに向き直った。
「俺が倒れた時にもあった。クラウスだけじゃなく——王家の血が呪われていると」
リーナが眉を寄せた。「王家の血?」
「ジーク兄上が死んだ。クラウスが病んだ。俺も倒れた。——三人続けば、そう言いたくなる人間がいるのは分かる」
「分かるって——殿下は否定しなかったんですか」
アレクが口を閉じた。少し間があった。
「した。呪いじゃない、エリカに治してもらったんだと。——ただ」
「ただ?」
「声を大にして言い続けたかと言えば、そうでもない。俺が元気になれば消える話だと思っていた」
クラウスが視線を戻した。
「消えなかっただろう」
「……ああ。消えなかった。麦角で膨らんだ」
リーナがテーブルに手をついた。
「じゃあ、この通達って——噂が根拠なんですか。医師団が動いてるのに、根拠が噂。それっておかしくないですか。宰相閣下の承認まであるのに」
誰も答えなかった。
エリカは立ったまま、巻物を見ていた。
「噂は噂よ」
三人がエリカを見た。
「どれだけ広がっても、噂は噂。トビアスさんの身体の中で起きていることは、呪いじゃない。毒と病気よ。原因がある。経過がある」
声は静かだった。
「でも通達は出た。宰相の承認がついて、ブルーノ先生が担当になる。——これは止められない」
「エリカ——」
アレクが何か言いかけた。
「止められないから、引き継ぎの時にちゃんと伝える。今の処方の意味も、麦角じゃないことも、全部。それを聞いて、どうするかはブルーノ先生の判断になる」
クラウスがエリカを見ていた。黙って。何かを確かめるように。
「俺から団長に言うか」
「いいえ。殿下が動けば、呪いの話がもっと大きくなる」
クラウスが目を細めた。
「……そうだな」
アレクが立ち上がった。
「すまない。もっと早くに潰しておくべきだった。俺が放置したせいだ」
「殿下のせいじゃない。噂を作った人間がいるなら、そっちの話よ」
「作った——」
「出来すぎてるの。タイミングが良すぎる。麦角が起きて、クラウス殿下の症状が落ち着いた直後に、ちょうどいい筋書きが出てくる。偶然にしては」
言いかけて、止めた。
「……ごめんなさい。今のは忘れて。まだ何も分からないから」
アレクとクラウスが目を合わせた。何かが通ったように見えた。
クラウスが立った。
「引き継ぎは今日か」
「夕方です」
「そうか」
それだけ言って、出て行った。アレクも続いた。扉の前でアレクが振り返った。
「何かあったら言え。俺にできることがあるなら」
「ありがとうございます」
扉が閉まった。
リーナが残った。しばらく黙っていた。
「エリカさん」
「何」
「怒ってますよね」
エリカは薬棚に手をついていた。
「……怒ってる」
「ですよね」
「目の前に答えがあるのに、見ない人がいる。見せても信じない人がいる。その人たちの手に、患者を渡さなきゃいけない。——怒ってるわよ」
リーナは何も言わなかった。ただ頷いた。
***
夕方。引き継ぎの時間が来た。
ブルーノが来た。医師団の書記官を一人連れている。
「久しぶりだな」
顎を上げて、部屋を見回した。
「患者の状態を説明します」
トビアスの病室の前で、エリカが記録を開いた。
「この患者は麦角中毒として入院していますが、麦角では説明できない症状が混在しています。心臓の伝導異常と舌の感覚神経低下。穀物を断っても改善しなかった。別の毒——トリカブト系の可能性があります」
ブルーノの目が動いた。
「今の処方はそれを前提に組んでいます。心臓への負荷を抑えながら、毒の代謝を促す方向です。十日かけてようやく安定し始めたところなので、処方を変えないでほしい」
「トリカブト、ね。何を根拠に」
「痺れの出方が違います。麦角なら末端から来る。この患者は舌から。心臓のリズム異常も麦角では起きない。穀物を止めても心臓と舌だけ改善しなかった。処方を切り替えて、口に入るものを管理下に置いたら回復が始まりました」
ブルーノが腕を組んだ。
「お前の見立てか」
「ええ」
「医師団に報告したのか」
「いいえ。私が診ました」
ブルーノの口元が歪んだ。
「一人の見立てで処方を変えた、と」
「結果が出ています」
「麦角の重症例が回復に時間がかかるだけだろう」
「違います。穀物を断っても心臓が悪化し続けていた。処方を変えた時点で止まったんです」
「いいよ」
遮られた。
「聞いた。記録に残しておく」
それ以上は聞かなかった。
トビアスの部屋に入った。ブルーノが寝台の横に立った。
「俺が担当する。よろしくな」
トビアスがエリカを見た。不安な目だった。エリカは頷いた。
部屋を出る時、トビアスの手が布団を握っていた。
***
診察室に戻った。
「リーナ」
「はい」
「トビアスさんの処方記録、全部写しを取って。投薬量、時間、経過、全部。こちらにも残しておく」
「……はい」
リーナが動き出した。
***
翌日から、トビアスはブルーノの管理下に入った。
エリカは直接診ることができなくなった。廊下でトビアスの部屋の前を通ることはあった。中には入れなかった。
リーナが、他の八人の回診の合間に断片を拾ってきた。
「処方、変わったみたいです。煎じ薬の匂いが違うって、隣の部屋の侍女が」
エリカは何も言わなかった。
三日目。
リーナが回診から戻ってきた。顔色が悪かった。
「トビアスさんの声が聞こえました。——苦しそうでした。前より」
五日目。
廊下でトビアスの部屋の扉が開いたのを、リーナが見た。
「顔色が灰色でした。引き継ぐ前は、あそこまでじゃなかった」
七日目。
深夜。扉を叩く音で目が覚めた。
リーナではない。知らない使用人だった。息が上がっている。
「エリカ先生——研究棟の助手の方が——急に苦しみだして——ブルーノ先生が処置しているのですが——」
エリカは既に立ち上がっていた。
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