38話:狙い撃ち
数日が経った。
八人の回復は順調だった。馬丁の指先には血色が戻り、感覚も完全に戻っている。侍女の足の紫は消えた。庭師の助手は自分で歩いて食堂に行けるようになった。
九人目だけが、違った。
研究棟の助手——トビアス。二十代前半。痩せ型で、顔色が元から薄い男だった。
他の八人と同じ経過を辿るはずだった。穀物を断てば毒は抜ける。末端の循環障害は回復に向かう。全員がその道を歩いている。
トビアスだけが、歩いていなかった。
***
朝の回診。リーナと一緒にトビアスの部屋に入った。
「トビアスさん、調子はどうですか」
リーナが声をかけた。
返事がなかった。
目は開いている。だが焦点が合うまでに間があった。唇が動いた。声にならなかった。
「トビアスさん?」
「……すみません。少し、ぼんやりして」
声が弱い。昨日よりも弱い。
エリカが寝台の横に座った。
「手を出して」
トビアスが右手を持ち上げようとした。腕が震えた。エリカが手を添えて支えた。
指先を見た。色は悪くない。灰色だった爪の下に、薄い赤みが差している。他の患者と同じだ。末端の循環は戻りかけている。
(指先は回復してる。他の人と変わらない。なのに——)
手首を取った。脈を測る。
指の下で、脈が乱れた。
速くなったかと思うと急に間が空く。一拍飛んで、強く打つ。また速くなる。規則性がない。
(これは——)
脈を取ったまま、トビアスの顔を見た。額にうっすら汗が浮いている。呼吸が浅い。
「胸が苦しいことはある?」
「……はい。夜中に、急にどきどきして。息が——しにくくて」
「いつ頃から」
「穀物を止めてもらってからも、ずっと。……むしろ、ひどくなってる気がします」
他の症状は引いているのに、心臓だけが悪化している。麦角の毒が抜けていく過程で、心臓だけが逆に乱れる——そんなことは起きない。
「口の中に違和感は?」
「舌が……痺れてます。朝から、ずっと」
「ずっと?」
「飲み物の味もよく分からなくて。飲み込む時も、舌が上手く動かない感じが」
声が途切れた。喋ること自体が負担になっている。
「口を開けて」
舌を見た。色は正常。腫れもない。
「舌の先、触るよ」
指先で舌の先端に触れた。
「感じる?」
トビアスが首を傾げた。
「……触ってますか」
感覚がほとんど残っていない。
手足の末端は回復している。なのに舌の感覚がここまで落ちている。心臓のリズムはむしろ悪化している。
麦角なら末端から来る。指先、足先。身体の中心から遠い場所ほど早く症状が出て、断てば末端から回復していく。
舌は末端ではない。心臓は身体の中心だ。方向が逆だった。
注視した。
【心臓——拍動リズム不整。伝導に反復的な遅延。心筋への負荷増大】
【舌——感覚神経の応答著しく低下】
【末梢血管——軽度の収縮(減退傾向)】
三つ目は麦角の残存だ。他の八人にも同程度ある。穀物を断てば時間とともに消える。
上の二つが合わない。
心臓の伝導異常。しかも負荷が増大している。舌の神経応答は「著しく」低下。麦角では出ない。麦角の毒が抜けていく中で、別の何かが心臓を叩いている。
(心臓に直接作用して、粘膜の薄い場所から痺れが来る——)
前世の知識が答えを引き出した。
(附子。トリカブト系のアルカロイド。ナトリウムチャネルに作用して心臓の伝導を乱す。口唇や舌の痺れは初期症状)
麦角ではなく、トリカブト。
だがトリカブトは穀物には寄生しない。穀物を断っても改善しないのは当然だ。入り口が違う。
(この人には、麦角とは別の毒が入っている。そしてそれは今も入り続けている——心臓への負荷が増しているのは、まだ止まっていないということだ)
「リーナ」
声が硬くなっていた。自分でも分かった。
「はい」
「廊下に出て」
***
廊下に出た。リーナの顔が強張っている。エリカの声の変化に気づいたのだろう。
「処方を変える。すぐに」
「何があったんですか」
「トビアスさんの症状、麦角では説明できないものが混じってる。別の毒が入ってる。しかもまだ止まっていない」
「止まっていない——」
「心臓への負荷が増してる。穀物は断ったのに悪化してるということは、別の経路から入り続けてるということ。まず全部止める。食事も水も、全てこちらで管理したものだけにして」
リーナが頷いた。
「今の麦角の対症療法は続ける。追加で処方を組む。心臓がもっている間に、毒の流入を止めなければいけない」
診察室に戻った。薬棚を開けた。
甘草を少量。心臓への負担を和らげる薬草を二種。トリカブト系の毒は体内で代謝されるが、心臓が持ちこたえなければ話にならない。量は慎重に。心臓が弱っている状態で強い薬を入れれば、それ自体が負担になる。
煎じ方をリーナに伝えた。温度、時間、量。リーナが復唱した。手が震えていた。瓶を握り直して、動かし始めた。
***
食事と飲み物を全て管理下に置いた。トビアスの病室に運ぶものは、エリカかリーナの手を通したものだけにした。
処方を変えた初日。変化なし。
二日目。脈の乱れがわずかに減った——気がした。まだ確信は持てない。
三日目。トビアスが自分から「昨日の夜は、あまり苦しくなかった」と言った。
五日目。脈を取った。まだ不整はある。だが、あの反復的な遅延の間隔が長くなっていた。心臓が持ちこたえている。
一週間。
舌の痺れが薄れ始めた。完全には戻っていない。だが「少し感じます」と言った。触っているのが分かるようになった。
脈はまだ乱れることがある。動悸も消えてはいない。だが、心筋への負荷が増大し続ける一方だった流れは止まった。
(経路を断てば、止まる。やっぱり別の毒だった)
何から入っていたのかは分からない。分からないが、口に入るものを全て管理した時点で流入が止まった。
命の危険は遠のいた。だが回復にはまだ時間がかかる。心臓は一度乱れると、元のリズムを取り戻すのに時間がかかる。舌の神経も、すぐには戻らない。
なぜトビアスだけなのかも、分からない。他の八人は麦角だけだった。穀物を断てば治った。トビアスだけが、麦角の上に別の毒を受けている。同じ集団中毒の患者なのに、この一人だけが違う。
(偶然、じゃないだろうな)
それ以上は考えなかった。考える材料がない。今はトビアスの心臓が安定することが先だった。
***
十日目。
トビアスが寝台の上で半身を起こしていた。自力ではない。背に枕を重ねて支えている。それでも、横になりっぱなしだった数日前とは違った。
経過確認のためにエリカが部屋に入ると、トビアスが小さく頭を下げた。
「先生。ありがとうございます」
声はまだ弱い。だが言葉がはっきりしていた。舌が動くようになってきている。
「脈を取るよ」
手首を取った。不整はまだ残っている。だが間隔は安定してきた。
「胸は」
「苦しいのは、だいぶ減りました。……まだ時々、どきっとしますけど」
「それはしばらく続く。焦らないで」
記録をつけた。処方の量を微調整する。まだ減らす段階ではない。心臓が安定しきるまでは、今の量を維持する必要がある。
記録を書いている間、トビアスが口を開きかけて、閉じた。もう一度開きかけて、やめた。
三度目に、声にした。
「あの……先生」
「何?」
「倉庫の調査、してましたよね。以前」
ペンが止まった。
「……ええ。穀物の汚染源を探してた」
「あの頃——最初に具合が悪くなる前なんですけど。夜中に、倉へ入っていく人を見たんです」
エリカは記録帳を膝に置いた。
「研究棟の裏手の保管庫です。夜中に目が覚めて、窓の外を見たら、人が一人歩いていくのが見えて」
「どんな人だった?」
「暗くて、顔は見えませんでした。使用人でも医者でもないような……服の感じが違って。でもそれくらいしか分からなくて」
「急いでた?」
「いいえ。落ち着いてました。急ぐでもなく、隠れるでもなく、普通に歩いてて。……夜中なのに、それが逆に変だなって」
落ち着いていた。夜中の保管庫に向かって、堂々と歩いていた。
「それだけ?」
「はい。顔も背格好も……すみません、暗くて」
トビアスが視線を落とした。少し間があった。
「そういえば——前にも似たようなことがあったんです」
「前に?」
「アレク殿下がお倒れになる少し前です。東棟の調度室のあたりで、夜中に見慣れない人がいて。研究棟から遅くに帰る時に、たまたま見えたんですけど」
「……調度室」
「殿下の身の回りのものを管理しているところだと聞いてます。あの時も……落ち着いた感じの人で。急いでなくて」
トビアスの顔に深い意味はなかった。二つの出来事を繋げている様子もない。「似たようなことがあった」という、ただそれだけの記憶。
話しているうちに息が浅くなっていた。まだ長く喋れる身体ではなかった。
「ルーカス様にもお伝えしたのですが」
「ルーカスさんに」
「はい。倉庫の方は、具合が悪くなる前に。調度室の方はだいぶ前ですけど。ルーカス様が調査してくださるとのことでした」
上長にまず報告する。研究棟の助手として当然のことだった。
「そう。ありがとう、教えてくれて。——もう休んで。喋りすぎだから」
「はい……」
トビアスが枕に頭を戻した。目を閉じた。すぐに呼吸が深くなった。疲れたのだ。
エリカは静かに部屋を出た。
(夜中に倉庫に入っていく人。落ち着いて、堂々と。顔は見えない)
何かが引っかかった。ただ、それが何なのか、まだ分からなかった。
***
その日の夕方だった。
廊下で、医師団の書記官とすれ違った。書記官がこちらを見て、足を止めた。
「エリカ先生。ちょうどお探ししていました」
「何かありましたか」
書記官が巻物を差し出した。封蝋に医師団の印。
「医師団長からの通達です。宰相閣下のご承認をいただいております」
受け取った。封を切った。
『麦角の発症者のうち、第三王子の呪いに関わる疑いのある患者について、宮廷医師団の正式な管理下に移行する。現担当医は速やかに引き継ぎを行うこと——』
目が文面の上で止まった。
(呪い——?)
読み返した。「第三王子の呪いに関わる疑い」。何のことか分からなかった。
「引き継ぎ先は」
「ブルーノ先生が指名されています」
「……いつからですか」
「明日からです」
エリカは巻物を持ったまま、書記官の顔を見た。
書記官は目を逸らさなかった。事務的な顔。決まったことを伝えているだけの顔だった。
巻物を握る指に、力が入った。
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