37話:記録帳
予想通り、新たな患者は出なかった。
保管庫の穀物が処分されてから、発症の報告は止まっている。やはりあの保管庫だった。確かめられなかったことは引っかかっているが、今は目の前の九人を診る方が先だった。
朝の回診をリーナと回った。
馬丁の部屋。リーナが先に入った。
「指、見せてもらえますか」
馬丁が右手を差し出した。リーナが一本ずつ確認していく。爪の色。指先の温度。感覚の有無。手順はエリカが教えた通りだった。
「動かせますか」
馬丁が指を握って、開いた。
「痛みは」
「少しだけ。でも昨日より全然いいです」
リーナが指先に触れた。「温かいですね」
エリカも手を取った。血色が戻り始めている。三日前に灰色だった爪の下に、薄い赤みが差していた。
隣の部屋。侍女の足を診る。リーナが布をほどいて、小指の色を確認した。
「紫が薄くなってます」
「感覚は?」
侍女が小さく頷いた。「朝、つねったら痛かったんです。痛いのが嬉しいって変ですけど」
「変じゃないですよ」
リーナが包帯を巻き直した。手つきが落ち着いている。きつすぎず、緩すぎず。侍女の表情を見ながら加減を合わせていた。
九人の部屋を順に回った。全員、症状の進行が止まっている。回復の速度には差があるが、方向は同じだ。穀物を口にしなくなったことで、体内の毒が抜け始めている。
廊下に出た。
ゲオルクが向こうから歩いてきた。
「回診か。どうだった」
「全員止まってる。回復も始まってる」
「だろうな。新しい発症もない。厨房に確認したが、該当の系統の穀物はもう出回っていない」
ゲオルクの目がリーナに向いた。
「包帯、上手くなったな」
リーナが少し目を見開いた。
「この前見た時より力加減がいい。——あと、足の患者は指の間に薄い布を一枚噛ませろ。蒸れると皮膚の戻りが遅くなる」
「はい」
リーナは頷いた。メモ帳に手を伸ばしかけて、やめた。そのまま覚えた。
ゲオルクがエリカに視線を戻した。
「いい助手を見つけたな」
「ええ」
それだけ言った。リーナの横顔を見た。少し口元が緩んでいた。すぐに戻った。
***
レナートの定期診察の日だった。
以前は侯爵家の使いが記録を届けていたが、解毒が進んで外出が許されてからは、本人が直接来るようになった。
扉を叩く音がした。二回。間を置いてもう一回。いつもこの叩き方だった。
「エリカ先生。レナートです」
「どうぞ」
入ってきたレナートは、前とは別人だった。顔色がいい。頬に肉がついた。背も少し伸びたかもしれない。鉛が抜けていくにつれて、本来の成長が追いつき始めている。
襟元がきちんとしていた。いつも来る時はそうだ。侯爵家の令息だから当然なのかもしれないが、記録を届けに来るだけの服ではない。
手に記録帳を持っていた。革の表紙。毎日の食事、睡眠、体調、薬の服用時間。一日も欠かさず書いてある。
それと——もう一つ、紙に包んだ何かを持っていた。
「これ、うちの庭で採れた薬草です。エリカ先生が前に使えるって言ってたので」
「ああ、カモミールか。ありがとう、助かる」
「庭師に頼んで、乾燥させてから持ってきました」
丁寧に包んである。庭師に頼んだと言ったが、包み方に庭師の手つきはしなかった。自分でやったのだろう。
「見せて」
記録帳を受け取った。ページをめくった。最初の頃と比べて、記述が具体的になっている。「少しだるい」が「朝食後に軽い倦怠感、一刻ほどで消えた」に変わっていた。
「よく書けてる」
レナートの耳が赤くなった。「ありがとうございます」と言って、視線を落とした。
「座って。脈を取る」
椅子に座ったレナートの手首を取った。脈は安定している。爪の色も良い。
「口を開けて」
舌を確認した。異常なし。
「経過は順調。鉛の排出も進んでる。あと数ヶ月で、投薬も必要なくなると思う」
「……本当ですか」
「本当」
レナートが唇を引き結んだ。目が潤んだ。頷いた。
「エリカ先生のおかげです」
「薬のおかげ。あなたが毎日きちんと記録をつけて、言われたことを守ったから効いた」
「でも、あの薬を出してくれたのはエリカ先生です」
エリカは記録帳を閉じた。次の診察の日程を伝えようとした。
「僕、ずっと思ってたんですけど」
記録帳を閉じかけた手が止まった。
「エリカ先生は僕のこと、患者としか見てないですよね」
レナートの手が膝の上で記録帳を握っていた。指が白くなるくらい。でも目はそらさなかった。
「分かってます。先生は医者で、僕は患者で。でも——僕はそれだけじゃないつもりで来てます」
「……知ってる」
「知ってるんですか」
「胸がぎゅってなるって言われた時から」
レナートの顔が、耳まで一気に赤くなった。
「あ——あれ覚えてるんですか」
「医者だから。患者の訴えは全部覚えてる」
「……それ、医者としてですよね」
声がうわずっていた。目が泳いでいた。でも席を立たなかった。
「レナート。あなたの気持ちはありがたいと思ってる。でも今は治療が先」
「分かってます」
「分かってるなら、それでいい」
レナートが唇を尖らせた。何か言いかけて、飲み込んだ。
リーナが薬棚の整理をしながら、こちらを見ていた。何も言わなかった。
***
レナートが帰る時、リーナが玄関まで見送った。
「リーナさん、この薬草、前と味が違う気がするんですけど」
「煎じ方を少し変えたんです。苦味が出すぎてたので、温度を下げて時間を長くしました」
「やっぱり。飲みやすくなったと思ってました。記録にも書いたんですけど、うまく言葉にできなくて」
「見ましたよ。『前より少しまろやか』って書いてあったの、それのことだと思います」
「読んでくれたんですか」
「エリカさんが確認する前に、私が先に目を通すので」
「リーナさんって、記録の読み方がエリカ先生と違いますよね」
「違います?」
「エリカ先生は数字を見るんです。体温とか、薬の量とか。リーナさんは言葉の方を拾ってくれる」
「……それは、まあ。私はまだ数字だけ見て判断できるほどの腕じゃないので」
「そういう意味じゃなくて——なんだろう、安心するんです」
リーナが少し黙った。
「ちゃんと記録つけてきてくださいね。あの記録、レナート様が思ってるより役に立ってますから」
「はい。もちろんです」
「……あと、カモミール。喜んでましたよ、エリカさん」
「本当ですか」
「顔に出ないだけです」
「あ——やっぱりそうなんですか」
笑い声が聞こえた。レナートの声だった。
「じゃあ、また来ます」
「はい」
足音が遠ざかった。軽かった。
***
リーナが戻ってきた。薬棚の前に立った。
「エリカさん」
「何」
「レナート様のこと、ちゃんと向き合ってあげてくださいね」
エリカは記録帳から顔を上げた。
「あの子、真剣ですよ。ずっと」
「……分かってる」
「分かってるなら、流さないであげてほしいんです。今じゃなくていいから。治療が終わった時に、ちゃんと答えてあげて」
リーナはそれだけ言って、薬棚に向き直った。
エリカは記録帳をもう一度開いた。最後のページ。レナートの字で「前より少しまろやか」と書いてあった。
その横に、消した跡があった。薄く残っている。
「エリカ先生にも飲んでほしい」
消してあった。でも読めた。
記録帳を閉じた。
お読みいただきありがとうございます!
もし「面白そう!」「続きが気になる!」と思っていただけたら、
広告の下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、執筆(投稿)の励みになります!
ブックマークもぜひポチッとお願いします。




