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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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37話:記録帳

予想通り、新たな患者は出なかった。


保管庫の穀物が処分されてから、発症の報告は止まっている。やはりあの保管庫だった。確かめられなかったことは引っかかっているが、今は目の前の九人を診る方が先だった。


朝の回診をリーナと回った。


馬丁の部屋。リーナが先に入った。


「指、見せてもらえますか」


馬丁が右手を差し出した。リーナが一本ずつ確認していく。爪の色。指先の温度。感覚の有無。手順はエリカが教えた通りだった。


「動かせますか」


馬丁が指を握って、開いた。


「痛みは」


「少しだけ。でも昨日より全然いいです」


リーナが指先に触れた。「温かいですね」


エリカも手を取った。血色が戻り始めている。三日前に灰色だった爪の下に、薄い赤みが差していた。


隣の部屋。侍女の足を診る。リーナが布をほどいて、小指の色を確認した。


「紫が薄くなってます」


「感覚は?」


侍女が小さく頷いた。「朝、つねったら痛かったんです。痛いのが嬉しいって変ですけど」


「変じゃないですよ」


リーナが包帯を巻き直した。手つきが落ち着いている。きつすぎず、緩すぎず。侍女の表情を見ながら加減を合わせていた。


九人の部屋を順に回った。全員、症状の進行が止まっている。回復の速度には差があるが、方向は同じだ。穀物を口にしなくなったことで、体内の毒が抜け始めている。


廊下に出た。


ゲオルクが向こうから歩いてきた。


「回診か。どうだった」


「全員止まってる。回復も始まってる」


「だろうな。新しい発症もない。厨房に確認したが、該当の系統の穀物はもう出回っていない」


ゲオルクの目がリーナに向いた。


「包帯、上手くなったな」


リーナが少し目を見開いた。


「この前見た時より力加減がいい。——あと、足の患者は指の間に薄い布を一枚噛ませろ。蒸れると皮膚の戻りが遅くなる」


「はい」


リーナは頷いた。メモ帳に手を伸ばしかけて、やめた。そのまま覚えた。


ゲオルクがエリカに視線を戻した。


「いい助手を見つけたな」


「ええ」


それだけ言った。リーナの横顔を見た。少し口元が緩んでいた。すぐに戻った。


***


レナートの定期診察の日だった。


以前は侯爵家の使いが記録を届けていたが、解毒が進んで外出が許されてからは、本人が直接来るようになった。


扉を叩く音がした。二回。間を置いてもう一回。いつもこの叩き方だった。


「エリカ先生。レナートです」


「どうぞ」


入ってきたレナートは、前とは別人だった。顔色がいい。頬に肉がついた。背も少し伸びたかもしれない。鉛が抜けていくにつれて、本来の成長が追いつき始めている。


襟元がきちんとしていた。いつも来る時はそうだ。侯爵家の令息だから当然なのかもしれないが、記録を届けに来るだけの服ではない。


手に記録帳を持っていた。革の表紙。毎日の食事、睡眠、体調、薬の服用時間。一日も欠かさず書いてある。


それと——もう一つ、紙に包んだ何かを持っていた。


「これ、うちの庭で採れた薬草です。エリカ先生が前に使えるって言ってたので」


「ああ、カモミールか。ありがとう、助かる」


「庭師に頼んで、乾燥させてから持ってきました」


丁寧に包んである。庭師に頼んだと言ったが、包み方に庭師の手つきはしなかった。自分でやったのだろう。


「見せて」


記録帳を受け取った。ページをめくった。最初の頃と比べて、記述が具体的になっている。「少しだるい」が「朝食後に軽い倦怠感、一刻ほどで消えた」に変わっていた。


「よく書けてる」


レナートの耳が赤くなった。「ありがとうございます」と言って、視線を落とした。


「座って。脈を取る」


椅子に座ったレナートの手首を取った。脈は安定している。爪の色も良い。


「口を開けて」


舌を確認した。異常なし。


「経過は順調。鉛の排出も進んでる。あと数ヶ月で、投薬も必要なくなると思う」


「……本当ですか」


「本当」


レナートが唇を引き結んだ。目が潤んだ。頷いた。


「エリカ先生のおかげです」


「薬のおかげ。あなたが毎日きちんと記録をつけて、言われたことを守ったから効いた」


「でも、あの薬を出してくれたのはエリカ先生です」


エリカは記録帳を閉じた。次の診察の日程を伝えようとした。


「僕、ずっと思ってたんですけど」


記録帳を閉じかけた手が止まった。


「エリカ先生は僕のこと、患者としか見てないですよね」


レナートの手が膝の上で記録帳を握っていた。指が白くなるくらい。でも目はそらさなかった。


「分かってます。先生は医者で、僕は患者で。でも——僕はそれだけじゃないつもりで来てます」


「……知ってる」


「知ってるんですか」


「胸がぎゅってなるって言われた時から」


レナートの顔が、耳まで一気に赤くなった。


「あ——あれ覚えてるんですか」


「医者だから。患者の訴えは全部覚えてる」


「……それ、医者としてですよね」


声がうわずっていた。目が泳いでいた。でも席を立たなかった。


「レナート。あなたの気持ちはありがたいと思ってる。でも今は治療が先」


「分かってます」


「分かってるなら、それでいい」


レナートが唇を尖らせた。何か言いかけて、飲み込んだ。


リーナが薬棚の整理をしながら、こちらを見ていた。何も言わなかった。


***


レナートが帰る時、リーナが玄関まで見送った。


「リーナさん、この薬草、前と味が違う気がするんですけど」


「煎じ方を少し変えたんです。苦味が出すぎてたので、温度を下げて時間を長くしました」


「やっぱり。飲みやすくなったと思ってました。記録にも書いたんですけど、うまく言葉にできなくて」


「見ましたよ。『前より少しまろやか』って書いてあったの、それのことだと思います」


「読んでくれたんですか」


「エリカさんが確認する前に、私が先に目を通すので」


「リーナさんって、記録の読み方がエリカ先生と違いますよね」


「違います?」


「エリカ先生は数字を見るんです。体温とか、薬の量とか。リーナさんは言葉の方を拾ってくれる」


「……それは、まあ。私はまだ数字だけ見て判断できるほどの腕じゃないので」


「そういう意味じゃなくて——なんだろう、安心するんです」


リーナが少し黙った。


「ちゃんと記録つけてきてくださいね。あの記録、レナート様が思ってるより役に立ってますから」


「はい。もちろんです」


「……あと、カモミール。喜んでましたよ、エリカさん」


「本当ですか」


「顔に出ないだけです」


「あ——やっぱりそうなんですか」


笑い声が聞こえた。レナートの声だった。


「じゃあ、また来ます」


「はい」


足音が遠ざかった。軽かった。


***


リーナが戻ってきた。薬棚の前に立った。


「エリカさん」


「何」


「レナート様のこと、ちゃんと向き合ってあげてくださいね」


エリカは記録帳から顔を上げた。


「あの子、真剣ですよ。ずっと」


「……分かってる」


「分かってるなら、流さないであげてほしいんです。今じゃなくていいから。治療が終わった時に、ちゃんと答えてあげて」


リーナはそれだけ言って、薬棚に向き直った。


エリカは記録帳をもう一度開いた。最後のページ。レナートの字で「前より少しまろやか」と書いてあった。


その横に、消した跡があった。薄く残っている。


「エリカ先生にも飲んでほしい」


消してあった。でも読めた。


記録帳を閉じた。

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