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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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36話:焼却

翌朝から保管庫を回り始めた。


ルーカスが鍵を開け、ゲオルクが記録を照合し、エリカが穀物の状態を確認する。一日に回れるのは二つか三つが限度だった。保管庫は宮廷の敷地内に十以上ある。東棟、西棟、厨房裏、研究棟、厩舎脇——それぞれ別の管理人が出し入れを記録している。


最初の保管庫。異常なし。穀物の状態は良好で、黴も虫もない。


「ここは違う」


「次だ」


二つ目。同じく異常なし。ルーカスが丁寧に穀物の袋を戻し、記録帳に確認済みの印をつけた。


三つ目を回り終えた昼過ぎ、ゲオルクが声をかけてきた。


「患者が増えた。九人になった」


「新しい二人の部署は」


「西棟の洗濯係と、庭師のもう一人」


「食事を聞いてくれる? 同じ保管庫の穀物を食べているか」


「もう聞いた。両方とも黒パンだ」


***


三日目。


最初に診た馬丁の手を再び取った。


指先の色が変わっていた。白かったものが、薄い紫に沈んでいる。爪の色がさらに退いて、灰色に近い。


「感覚はある?」


「……わかりません。昨日から、あんまり」


右手の人差し指を曲げさせた。動く。だが本人の顔に、自分の指を動かしている実感がなかった。


「つねるよ」


指先をつねった。強く。


馬丁が首を傾げた。


「……先生、今つねりましたか」


エリカは手を離さなかった。


紫がかった指先が、ほんのわずかだが冷えている。三日前より明確に。血が末端まで届かなくなっている。このまま進めば——


(壊死する)


指が死ぬ。そのあとは足の先。耳。鼻。血の巡りが止まった組織から、順番に腐っていく。


「先生?」


「……大丈夫。薬を変える。今の対症療法は続けて。温めることはやめないで」


馬丁の隣の部屋。東棟の侍女は、両足を布で包んでベッドに横たわっていた。


「歩けますか」


「朝は歩けたんです。でもお昼からつま先が……」


布をほどいた。足の小指が紫色だった。


「痛みは」


「それが、痛くないんです。痛くないのに色がこうなっていて——」


侍女の声が震えた。


「——腐ってるんですか、これ」


「まだ。血の巡りが悪くなっている。温めて、動かして。今ならまだ戻せる」


(だが時間がない)


原因を断たなければ、温めても動かしても追いつかない。口に入り続ける限り、悪化は止まらない。


***


四つ目の保管庫を調べた。異常なし。五つ目。異常なし。


発症者は全員、同じ保管庫系統の穀物を食べている。記録上の絞り込みは終わっていた。残りの保管庫を一つずつ確認して、消去法で当たりを引けばいい。


「あと三つか」


ゲオルクが記録を見ながら言った。


「明日二つ回って、明後日に最後の一つだな」


ルーカスが傍らで記録帳を整理していた。


「患者の方々の容態はいかがですか」


「止まっていない。末端の循環障害が進行してる」


「食事の制限はかけましたか」


「該当する保管庫からの穀物は止めた。でもどの保管庫が汚染源か確定するまでは、全体を止めるわけにもいかない」


「そうですね。宮廷全体の食事を止めれば混乱が起きます。確定してから該当分だけ処分するのが合理的です」


当たり前の会話だった。合理的な確認。


「原因の見当はおつきですか」


「……穀物に何かが混じっている可能性を考えてる」


「なるほど。虫害か、黴か」


「そのあたり」


ルーカスが頷いた。穏やかな顔のまま。


「保管状態が悪ければ、この時期は黴が出やすいですからね」


***


夜。


診察室で記録を整理していたら、クラウスが来た。定期の診察ではない時間だった。


「進捗は」


「保管庫を潰してる。あと三つ。明日と明後日で回れる」


「患者は」


「悪化してる。指先の感覚がなくなり始めた人がいる。色も変わってきた」


クラウスが眉を寄せた。


「何が原因か分かっているのか」


「……確証はない。ただ、穀物に黒い菌核が寄生することがある。それを食べると血管が縮んで、末端に血が行かなくなる。症状は全部一致する」


「聞いたことがないな」


「この国では症例がほとんどないだろうから」


「どうやって知った」


「……昔、本で読んだ」


クラウスはそれ以上聞かなかった。


「保管庫が特定できれば止められるんだな」


「そう。汚染された穀物を食べなければ、これ以上は進まない。体内に入った分も、時間がたてば抜ける」


「間に合うか」


エリカは答えなかった。


間に合わなければ、指が死ぬ。


***


翌日。六つ目の保管庫。異常なし。


七つ目。ここは厨房に近い小さな保管庫で、粉の状態で保管されていた。袋を開けた。色を見た。匂いを嗅いだ。


異常なし。


残り一つ。


「明日の朝、最後の保管庫を開ける。場所は」


ルーカスが記録帳を確認した。


「研究棟の裏手にある第三保管庫です。少し離れた場所ですが、ご案内します」


***


帰り際、ルーカスと廊下を歩いた。ゲオルクは患者の夜の容態確認に回っている。


「エリカさん」


「はい」


「一つ伺ってもよろしいですか。クラウス殿下の治療に甘草をお使いだと聞いたのですが」


「ええ」


「あれは禁忌薬草に指定されています。ご存知の上で」


「知っています。それでも使う判断をしました。殿下の症状には甘草が必要だったので」


「なるほど。禁忌になった経緯は、正直なところ私にも詳しくは分かりません。ただ——使い方を誤れば害になる薬草なのは確かです」


ルーカスが少し歩みを緩めた。


「興味深いのは、なぜ甘草が殿下に効くのか、ということです。あの薬草の作用を突き詰めると、面白い構造が見えてくる」


「構造?」


「体の中には、負荷に耐えるための仕組みがあります。寒さや疲労、傷。そういった外からの圧に対して、体が自分で力を出して耐える。その力を出す器官が弱っている時——甘草はその器官が力を出すのを助ける、というよりは、出した力が消えるのを遅らせるんです」


エリカの足が止まりかけた。


止まらなかった。歩き続けた。


(……合っている)


副腎皮質から出るコルチゾールの代謝を遅らせる。甘草に含まれるグリチルリチンの作用。前世の薬理学そのものだった。


ただ——用語が一つも出ていない。副腎とも、ホルモンとも言っていない。「力を出す器官」「力が消えるのを遅らせる」。この世界の言葉だけで、本質を正確に言い当てている。


「薬草の研究をしていると、こういう理屈にぶつかることがありまして。種痘の時も、理屈が先ではなく、現象を観察して法則を見つけた形でしたから」


筋が通っている。種痘を独力で確立した人間なら、薬草の作用機序を観察から導き出すことも不可能ではない。


(この人は、前世の知識なしでここまで辿り着いている)


「……すごいですね」


「いえいえ。エリカさんこそ、禁忌を承知で甘草を選ばれた。殿下の身体を診て、あの薬草が必要だと判断できる方はそうそういません」


穏やかな笑みだった。どこにも棘がなかった。


***


翌朝。


研究棟の裏手に回った。ルーカスが先に来ていた。


「おはようございます。——申し訳ありません、一つお伝えしなければならないことがあります」


「何ですか」


「第三保管庫の穀物なんですが、昨晩、管理人から報告がありまして。黴が広がっていたため、規定に従って焼却処分したそうです」


エリカは立ち止まった。


「……いつ」


「昨晩遅くだと聞いています。私も今朝確認しました。保管庫は空になっていました」


ゲオルクが後ろから追いついてきた。


「おい、聞いたか。最後の倉、昨日の夜に——」


「聞いた」


ゲオルクの顔を見た。同じことを考えていた。


ルーカスが鍵を開けた。保管庫の扉が開いた。


中は空だった。棚に袋が残っているが、中身は抜かれている。床に粉が少し散っている。掃除した跡。


「規定では、黴が発生した穀物は速やかに焼却処分することになっています。二次汚染を防ぐためです。管理人の判断は妥当かと」


エリカは床に膝をついた。棚の隅に残った粉を指で取った。


白い粉。普通の粉。黒い菌核の痕跡は——ない。きれいに処分されていた。


「……管理人に話を聞きたい」


「もちろん。お呼びします」


管理人は五十過ぎの男だった。真面目そうな顔で、淡々と説明した。


「黴が出ていたので処分しました。研究棟の規定通りです。記録はここに」


記録帳を見せられた。「黴害による焼却処分」。日付は昨日。


「いつから黴が出ていた」


「一昨日あたりから少し気になっていたんですが、昨日開けたら広がっていたので」


手順通り。規定通り。何もおかしくない。


「ありがとうございます」


管理人が頭を下げて去った。


ゲオルクが腕を組んだ。


「一日早けりゃ中身を見れたのにな」


「……ええ」


「ただ、穀物が処分されたなら、これ以上の患者は出ないだろ。結果的には被害拡大は止まる」


「そうね」


そうだった。保管庫が空になった以上、汚染された穀物は誰の口にも入らない。


患者の回復を待つだけになった。


***


三日が経った。


馬丁の指先に、うっすらと血色が戻り始めた。侍女の足の小指の紫も、少しずつ薄くなっている。


九人全員、症状の進行が止まった。痙攣が減り、吐き気が引いた。


穀物を食べなくなったことで、体内の毒が抜け始めている。


「やっぱり穀物だったんだな」


ゲオルクが記録帳を閉じた。


「ええ。間に合った」


(でも——確かめられなかった)


あの保管庫の穀物に、黒い菌核が混じっていたのかどうか。自分の目で見ることはできなかった。


***


その晩、一人で納品記録を読み返した。


同じ業者から、同じ時期に、複数の保管庫に穀物が納品されている。同じ畑で採れたものが、仕分けられて各保管庫に入る。


汚染されていたのは——仮にあの最後の保管庫だけだったとすれば。


同じ畑の穀物が、なぜ一つの保管庫だけで問題を起こす。


説明はできる。保管状態が悪かった。湿気た。黴が広がりやすい条件が偶然揃った。そういうことはある。


(ある。あるけど——)


エリカは記録帳を閉じなかった。


ブライテンのコレラ。街を囲うように東西で同時に発生した。水源が違うのに。


アレクの感染性心内膜炎。感染経路が見つからない。心臓に菌がとりつく条件が、あの環境で自然に揃うとは考えにくかった。


クラウスのアジソン病。甘草で副腎の機能が戻り始めている。回復の速さを見る限り、萎縮は完全ではない。先天性なら、もっと深く壊れているはずだった。


そして、今回の麦角。同じ業者の同じ穀物が、一つの保管庫だけで汚染された。


一つ一つは説明がつく。保管状態、偶然、体質、環境。どれも単独なら不自然ではない。


(でも、多すぎる)


偶然が、多すぎる。


エリカは窓の外を見た。宮廷の夜は静かだった。


何かが見えかけている。でもまだ形にならない。


「誰かがやっている」とは思わなかった。そんな発想はなかった。ただ——


(この国の医療には、何かがおかしい)


記録帳を閉じた。


答えは出なかった。

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