50話:父として
数日後。
アレクの居室にまた集まった。
ディートリヒから、話したいことがあると先触れが来た。あの館で別れて以来だった。エリカとリーナ、クラウス、アレク。フリッツが扉の外に立った。
ディートリヒは約束の刻限ぴたりに現れた。
背筋が伸びていた。あの日、中庭で膝をついた人とは違った。
「お時間をいただいて」
頭を下げた。それから言った。
「イルゼ様の沙汰が決まりました」
部屋が静かになった。
「国を出られます。他国へ輿入れなさる」
リーナが息を吐いた。
「他国に」
「ええ」
「じゃあ、もう、こっちには」
「戻られることはないかと」
リーナの肩から力が抜けた。エリカもどこかで、よかったと思いかけた。
「相手は」
アレクが訊いた。
ディートリヒが家の名を口にした。海を越えた北の国。古い王家だという。
アレクの動きが止まった。
「……あそこか」
組んでいた腕をほどいた。
「待ってくれ。あの家に嫁ぐとなれば、ただの厄介払いじゃない。格が要る。こちらが頭を下げて、ようやく話を聞いてもらえるような相手だ」
「兄上」
クラウスが窓際から言った。
「そういう縁談は何日で整う」
アレクが口をつぐんだ。
「相手との行き来。格式の擦り合わせ。持参するもの、迎える側の支度。——普通にやったら半年か、それ以上だ。どれだけ急いでも数日でどうにかなる話じゃない」
部屋が静かになった。
ディートリヒが目を伏せた。
「……おそらく」
低い声だった。
「私がけじめをと申し上げるより、ずっと前から。閣下はもうお決めになっていた」
「あんたの進言を聞いた振りをしてか」
「は」
ディートリヒが、握った手を見ていた。
「私は償わせるつもりでした。マルガレーテ様の忘れ形見を、これ以上罪に沈めるわけにはいかない。そう思って参ったのです。——ですが、私が口を開いた時には、もう何も残っていなかった」
誰も何も言わなかった。
エリカはその横顔を見ていた。
「エリカ殿」
ディートリヒがこちらを向いた。
「約束をしました。私が責任を持つ、と。——果たせませんでした。申し訳ない」
頭を下げた。
何か言おうとして、言葉が出なかった。あなたのせいではない、とは言えなかった。
「……頭を上げてください」
それだけ言った。
***
ディートリヒが辞した後、リーナがぽつりと言った。
「結局、イルゼさんだったんですね」
膝に手を置いて。
「レナート様の鉛。私の仮病。エリカさんを襲わせたのも。——全部」
「手を下した者はみな違う」
アレクが言った。
「鉛を仕込んだ使用人。仮病の侍女。剣を抜いた騎士。だが、後ろにいたのは一人だ」
「その人がお咎めなしで、いい所へお嫁に行く」
「咎めがないわけじゃない。国を追い出される。——表向きは、な」
リーナが唇を結んだ。それから息をついた。
「スッキリはしないですけど」
「しないな」
「でも、もう来ないなら。いいことにします」
エリカは何も言わなかった。鉛を盛られた侯爵家が手を伸ばす隙すら、残っていなかった。
「まあ」
アレクが椅子の背にもたれた。
「お前はまた狙われずに済む。せいぜい夜道は一人で歩くな。次は間に合うとは限らん」
「……間に合ってもらえたのは助かりました」
「自覚があるなら、いい」
軽い口調だった。リーナが横で小さく笑った。
エリカも少し肩の力が抜けた。
***
その人が来たのは、それから三日後だった。
診療所にふらりと現れた。供も連れず。買い物のついでにでも寄った、というような足取りで。
リーナが戸口で固まった。
「……エリカさん」
灰色の髪。仕立てのいい服。表情に隙がなかった。
宰相コンラートだった。
「急にすまないね」
穏やかな声だった。
「近くまで来たものだから」
リーナがエリカとその人を見比べた。動けずにいた。エリカはリーナの肩に軽く手を置いた。
「いらっしゃいませ。——どうぞ」
宰相は中までは入らなかった。戸口に立ったまま、診療所の中をぐるりと見た。薬棚を。煎じ釜を。並んだ椅子を。
「こういう所で診ておられるのか」
「ええ」
「立派なものだ」
それから薬棚に目をやったまま言った。
「娘が失礼をした。父として詫びておく。——危ない目に遭わせたそうだね」
頭は下げなかった。首が会釈ほどに傾いただけだった。
「……ご丁寧に」
そう返すしかなかった。
宰相が微笑んだ。
詫びている時も今も、同じ顔だった。
首の後ろが冷たくなった。
見た。
呼吸も手も視線も乱れがない。詫びてきた人間の後ろめたさが、どこにもない。
何も漏れていなかった。視ても何も返ってこない。底が見えなかった。
宰相がもう一度、薬棚に目をやった。
「人のことばかり視ている医者は、自分の身体の変わりめには案外気づかないものでね」
「——昔、そういう人がいた」
口をつぐんだ。笑みは崩れなかった。
それからエリカに目を戻した。
「あなたは正義感の強い人のようだ」
「結構なことだ。——だが、出過ぎれば火傷をする。賢いやり方じゃない」
「お気をつけて」
宰相が身を返した。
去り際にこちらを見た。
足元ではなかった。まっすぐ顔を見ていた。
「では」
背を向けた。
戸口を抜けて消えた。足音は聞こえなかった。
***
リーナが奥から出てきた。
「……今の、宰相様、ですよね」
声が強張っていた。
「謝りに来たんですか。わざわざ」
「そうみたいね」
「なんか」
リーナが戸口の方を見た。
「怖かったです。優しそうなのに。——うまく言えないんですけど」
エリカは答えなかった。
イルゼは海の向こうへ消える。それでおしまいのはずだった。
拳を握っていた。気づいて、開いた。
指の跡が手のひらに残っていた。
二章「王都・水面下編」、お読みいただきありがとうございました!
ここまで追いかけてくださった皆さま、本当に感謝しています。
イルゼをめぐる一連がようやく一区切りつき、その先に新しい影が見えたところで、第二章の幕を下ろします。
つきましては、ここまでの感想を一言でもレビューに書いていただけると、とても嬉しいです。
「ここが好きだった」「この場面が気になった」——どんな短い言葉でも、次を書く大きな力になります。【★★★★★】やブックマークも、変わらず励みになっています!
次章「王都・決壊編」、そして物語の核心へ向けて、準備のため一時的に休載をいただきます。
長くお待たせするつもりはありません。少しだけ充電して、必ず最後まで書き切ります。どうかその時まで、エリカたちの行く先を見届けに戻ってきてください。
また次章でお会いしましょう。




