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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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34/50

34話:標的

——幕間——


イルゼは自室の扉を閉めた。


鍵はかけなかった。この部屋に断りなく入る人間はいない。


鏡台の前に座った。髪に触れた。乱れてはいない。


大広間での一幕を振り返る。マリアが床に泣き伏した。名前を出された。否認した。通った。


何も間違えていない。


(使えない子)


あの泣き方では、もう使い物にならない。見込み違いだった。それだけのこと。


思考が止まった。


引っかかっているのはマリアのことではない。


——俺はこの医師に命を救われた。


あの声が、まだ耳に残っていた。


何年もかけた。宴の席順を調整させた。庭園を歩く時刻に合わせて出向いた。宰相の娘という名で、断れないはずの距離まで詰めた。


いつも同じだった。丁寧な笑顔。温かい声。——そして、同じ距離。


誰に対してもああなのだと思っていた。あの男は人に興味がないのだと。


それが——追放された女医の名を、あの場で出した。


(なぜ、あの女に)


腕がいいのは知っている。王太子の心臓を治した。宮廷医師団にはできなかったことだ。


でもそれだけで、あの男が人前で誰かを庇うはずがない。


イルゼは鏡を見た。顔立ち。髪。衣。所作。


足りないものなど、何もないはずだった。


***


翌日。フリッツに案内されたのは、東棟の奥まった小部屋だった。


マリアが椅子に座っていた。顔を上げた。目が赤い。泣いたからではなく、眠れなかったのだろう。テーブルに水差しと杯が置いてある。水は減っていなかった。


エリカの後からクラウスが入り、少し遅れてアレクが入った。フリッツが扉を閉めて、壁際に立った。


マリアの視線がアレクに触れて、すぐに落ちた。


「座れ」


クラウスがアレクに言った。


「立ったままだと圧になる」


アレクが肩をすくめて椅子を引いた。


クラウスがマリアの向かいに座った。エリカはその横。


「昨日の続きだ。話せることだけでいい」


マリアの手が膝の上で白くなっていた。


「……もう、守るものもありませんから」


乾いた声だった。泣き切った後の声。


「イルゼ様にお仕えして三年になります。言われたことは……断れませんでした」


「今回のこと——リーナに仮病を使って診させろ、という指示が出たのはいつだ」


クラウスが聞いた。


「王太子殿下がお元気になられた頃です。エリカ様とあの薬師の子が殿下のお側に出入りしているのが、イルゼ様には面白くなかったようで」


「エリカを直接どうしろという話は」


「直接は、ありませんでした。ただ——」


マリアが言葉を選んだ。


「イルゼ様は前から、エリカ様のことを気にかけていらっしゃいました」


「前から、というのは」


「レナート様の頃からです」


エリカの耳が拾った。


「イルゼ様はしばらくレナート様に御執心でした。贈り物をされたり、お茶に誘われたり。でもレナート様は——あまりお応えにならなくて」


「それで機嫌が悪くなった」


アレクが言った。淡々と。


マリアが頷いた。


「その後、殿下に——」


アレクをちらりと見て、すぐに視線を落とした。


「殿下にお近づきになろうとしていました。宴のお席を調整させたり、庭園でお会いできるように計らったり」


「知ってる」


アレクの声は変わらなかった。関心がなかった。当時も今も。それが声から出ていた。


クラウスがアレクを一瞥した。それからマリアに戻った。


「うまくいかなかったんだな」


「……はい。殿下はいつもお優しくしてくださるのですが、イルゼ様は——近づけないことに苛立っていらっしゃいました」


エリカは黙って聞いていた。


(レナートに向かって、振り向かれず。アレクに近づいて、同じ距離を保たれ)


マリアの話の中のイルゼは、昨日大広間で笑っていた女とそのまま重なった。手に入らなければ、手駒を使って周囲を崩す。


「一つ聞いていいですか」


マリアが顔を上げた。


「イルゼに医学の心得はありますか。薬草の扱いや、身体の仕組みについて」


「いいえ……。そういったことに興味を持たれたことは一度もなかったかと。お気にされるのは衣装や宝飾のことばかりで」


(だろうな)


昨日の仮病を思い出した。あの仕込みの粗さ。医学の知識が少しでもあれば、貧血のふりくらいもう少しまともにできたはずだ。


沈黙が落ちた。


レナートの鉛。イルゼがハインツを使って仕込ませた。これは侯爵家から確認が取れている。


リーナへの嫌がらせ。マリアに仮病を使わせた。昨日、証明した。


では——


「兄上」


クラウスが口を開いた。


「レナートは鉛。リーナは仮病。どちらもイルゼだ。——なら兄上の病もか、と考えたいところだが」


アレクが首を振った。


「心臓に菌を取りつかせるのは、医者でも容易じゃない。宮廷医師団が見落とすような手口ができる人間が、あんな雑な仮病を仕込むか?」


「マリア。イルゼの周囲に、医術に詳しい者はいなかったか」


マリアが考え込んだ。


「……いいえ。少なくとも、私の知る限りでは」


行き止まりだった。


エリカはアレクを見た。自分の病の話を聞きながら、他人事のような顔をしている。


(あの感染経路——まだ調べていない。いや、これに関しては調べようがないか)


頭をよぎって、消えた。


フリッツがマリアに水を勧めた。マリアが初めて杯を取った。ひと口だけ飲んだ。手がまだ震えていた。


「マリア」


クラウスの声が少し柔らかくなった。


「これからどうしたい」


「……分かりません。もう宮廷には……」


「フリッツ。しばらく預かっておいてくれ」


「承知しました」


「落ち着いてから考えればいい」


マリアが深く頭を下げた。声は出なかった。


***


部屋を出た。フリッツはマリアの側に残った。


三人で廊下を歩いた。


「証拠がない以上、イルゼには手が出せない」


アレクが言った。前を向いたまま。


「ただ、手駒がなくなった。次に何か仕掛けるなら——標的はお前かリーナだ」


「気をつけようがないですけどね」


「だから言っておくだけだ」


クラウスが付け足した。


「あの手の人間は、追い詰めると雑になる。雑な方が読みにくい。——頭の片隅に置いておけ」


エリカは頷いた。


(面倒な人に目をつけられたな)


それ以上の感想はなかった。


***


夕方。クラウスの定期診察をしていた。


甘草の投与量を確認しながら、手首の脈を取る。


【副腎——機能低下、回復傾向】


前回から大きな変化はない。じわじわと戻っている。甘草は現状維持。


「変わりなしだな」


「そうか」


クラウスが袖を下ろした。


扉が叩かれた。


フリッツだった。息が少し上がっている。


「診察中にすみません」


「いい。何かあったか」


「使用人の中で、手足の痺れや痙攣を訴える者が出ているそうです。数名。厩舎の馬丁、東棟の侍女、庭師——部署がばらばらで」


「痺れと痙攣」


エリカが繰り返した。


「吐き気は」


「あるそうです」


「いつからだ」


「ここ数日だと」


エリカはクラウスの手首を離した。


「医師団は」


「診てはいるようですが、原因が分からないと」


クラウスがエリカを見ていた。


「行くか」


「——ちょっと気になります」

いつもお読みいただきありがとうございます!


新連載始めました。

こちらは【ファンタジー×経済ミステリー】ものです!

本作を読んでいただけてる方はきっと楽しめるかと思うので、良ければぜひ覗いていってみてください!


「数字しか信じない帳簿令嬢は、無愛想な護衛騎士の9999だけ読み解けない」

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