34話:標的
——幕間——
イルゼは自室の扉を閉めた。
鍵はかけなかった。この部屋に断りなく入る人間はいない。
鏡台の前に座った。髪に触れた。乱れてはいない。
大広間での一幕を振り返る。マリアが床に泣き伏した。名前を出された。否認した。通った。
何も間違えていない。
(使えない子)
あの泣き方では、もう使い物にならない。見込み違いだった。それだけのこと。
思考が止まった。
引っかかっているのはマリアのことではない。
——俺はこの医師に命を救われた。
あの声が、まだ耳に残っていた。
何年もかけた。宴の席順を調整させた。庭園を歩く時刻に合わせて出向いた。宰相の娘という名で、断れないはずの距離まで詰めた。
いつも同じだった。丁寧な笑顔。温かい声。——そして、同じ距離。
誰に対してもああなのだと思っていた。あの男は人に興味がないのだと。
それが——追放された女医の名を、あの場で出した。
(なぜ、あの女に)
腕がいいのは知っている。王太子の心臓を治した。宮廷医師団にはできなかったことだ。
でもそれだけで、あの男が人前で誰かを庇うはずがない。
イルゼは鏡を見た。顔立ち。髪。衣。所作。
足りないものなど、何もないはずだった。
***
翌日。フリッツに案内されたのは、東棟の奥まった小部屋だった。
マリアが椅子に座っていた。顔を上げた。目が赤い。泣いたからではなく、眠れなかったのだろう。テーブルに水差しと杯が置いてある。水は減っていなかった。
エリカの後からクラウスが入り、少し遅れてアレクが入った。フリッツが扉を閉めて、壁際に立った。
マリアの視線がアレクに触れて、すぐに落ちた。
「座れ」
クラウスがアレクに言った。
「立ったままだと圧になる」
アレクが肩をすくめて椅子を引いた。
クラウスがマリアの向かいに座った。エリカはその横。
「昨日の続きだ。話せることだけでいい」
マリアの手が膝の上で白くなっていた。
「……もう、守るものもありませんから」
乾いた声だった。泣き切った後の声。
「イルゼ様にお仕えして三年になります。言われたことは……断れませんでした」
「今回のこと——リーナに仮病を使って診させろ、という指示が出たのはいつだ」
クラウスが聞いた。
「王太子殿下がお元気になられた頃です。エリカ様とあの薬師の子が殿下のお側に出入りしているのが、イルゼ様には面白くなかったようで」
「エリカを直接どうしろという話は」
「直接は、ありませんでした。ただ——」
マリアが言葉を選んだ。
「イルゼ様は前から、エリカ様のことを気にかけていらっしゃいました」
「前から、というのは」
「レナート様の頃からです」
エリカの耳が拾った。
「イルゼ様はしばらくレナート様に御執心でした。贈り物をされたり、お茶に誘われたり。でもレナート様は——あまりお応えにならなくて」
「それで機嫌が悪くなった」
アレクが言った。淡々と。
マリアが頷いた。
「その後、殿下に——」
アレクをちらりと見て、すぐに視線を落とした。
「殿下にお近づきになろうとしていました。宴のお席を調整させたり、庭園でお会いできるように計らったり」
「知ってる」
アレクの声は変わらなかった。関心がなかった。当時も今も。それが声から出ていた。
クラウスがアレクを一瞥した。それからマリアに戻った。
「うまくいかなかったんだな」
「……はい。殿下はいつもお優しくしてくださるのですが、イルゼ様は——近づけないことに苛立っていらっしゃいました」
エリカは黙って聞いていた。
(レナートに向かって、振り向かれず。アレクに近づいて、同じ距離を保たれ)
マリアの話の中のイルゼは、昨日大広間で笑っていた女とそのまま重なった。手に入らなければ、手駒を使って周囲を崩す。
「一つ聞いていいですか」
マリアが顔を上げた。
「イルゼに医学の心得はありますか。薬草の扱いや、身体の仕組みについて」
「いいえ……。そういったことに興味を持たれたことは一度もなかったかと。お気にされるのは衣装や宝飾のことばかりで」
(だろうな)
昨日の仮病を思い出した。あの仕込みの粗さ。医学の知識が少しでもあれば、貧血のふりくらいもう少しまともにできたはずだ。
沈黙が落ちた。
レナートの鉛。イルゼがハインツを使って仕込ませた。これは侯爵家から確認が取れている。
リーナへの嫌がらせ。マリアに仮病を使わせた。昨日、証明した。
では——
「兄上」
クラウスが口を開いた。
「レナートは鉛。リーナは仮病。どちらもイルゼだ。——なら兄上の病もか、と考えたいところだが」
アレクが首を振った。
「心臓に菌を取りつかせるのは、医者でも容易じゃない。宮廷医師団が見落とすような手口ができる人間が、あんな雑な仮病を仕込むか?」
「マリア。イルゼの周囲に、医術に詳しい者はいなかったか」
マリアが考え込んだ。
「……いいえ。少なくとも、私の知る限りでは」
行き止まりだった。
エリカはアレクを見た。自分の病の話を聞きながら、他人事のような顔をしている。
(あの感染経路——まだ調べていない。いや、これに関しては調べようがないか)
頭をよぎって、消えた。
フリッツがマリアに水を勧めた。マリアが初めて杯を取った。ひと口だけ飲んだ。手がまだ震えていた。
「マリア」
クラウスの声が少し柔らかくなった。
「これからどうしたい」
「……分かりません。もう宮廷には……」
「フリッツ。しばらく預かっておいてくれ」
「承知しました」
「落ち着いてから考えればいい」
マリアが深く頭を下げた。声は出なかった。
***
部屋を出た。フリッツはマリアの側に残った。
三人で廊下を歩いた。
「証拠がない以上、イルゼには手が出せない」
アレクが言った。前を向いたまま。
「ただ、手駒がなくなった。次に何か仕掛けるなら——標的はお前かリーナだ」
「気をつけようがないですけどね」
「だから言っておくだけだ」
クラウスが付け足した。
「あの手の人間は、追い詰めると雑になる。雑な方が読みにくい。——頭の片隅に置いておけ」
エリカは頷いた。
(面倒な人に目をつけられたな)
それ以上の感想はなかった。
***
夕方。クラウスの定期診察をしていた。
甘草の投与量を確認しながら、手首の脈を取る。
【副腎——機能低下、回復傾向】
前回から大きな変化はない。じわじわと戻っている。甘草は現状維持。
「変わりなしだな」
「そうか」
クラウスが袖を下ろした。
扉が叩かれた。
フリッツだった。息が少し上がっている。
「診察中にすみません」
「いい。何かあったか」
「使用人の中で、手足の痺れや痙攣を訴える者が出ているそうです。数名。厩舎の馬丁、東棟の侍女、庭師——部署がばらばらで」
「痺れと痙攣」
エリカが繰り返した。
「吐き気は」
「あるそうです」
「いつからだ」
「ここ数日だと」
エリカはクラウスの手首を離した。
「医師団は」
「診てはいるようですが、原因が分からないと」
クラウスがエリカを見ていた。
「行くか」
「——ちょっと気になります」
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