33話:どこに出しても恥ずかしくない
翌日。クラウスから伝言があった。
「明日の午後、東棟の大広間に来い」
フリッツが伝えに来た。それだけだった。
「何があるんですか」
「殿下のお考えです。詳しくは——」
「聞いていないのか、言えないのか」
「……後者です」
***
翌日。午後。大広間。
入って驚いた。
広い部屋の中央に診察用の椅子が置かれている。壁際に文官が数名。隅にフリッツ。そして——正面に、宮廷医師団の白衣が三つ。
ヴェルナーがいた。医師団長。目が合った。顔が強張った。
その横に二人。年配の男と、若い女の医師。
クラウスが部屋の右手に立っていた。壁にもたれず、まっすぐ。
「全員揃ったか」
「揃いました」
「今日は、宮廷医師団の皆さんに診察をお願いする。回復した王太子を今後お任せするにあたって、実力を確認しておきたい」
ヴェルナーの眉が動いた。
「一件、初見で診断していただく。患者はこれから入る」
扉が開いた。
マリアだった。連れてこられた顔をしていた。
「この方の診察をお願いします。主訴は——だるい、気持ち悪い、食欲がない。他の情報はなしで」
ヴェルナーが前に出た。脈を取った。舌を見た。腹部に触れた。年配の医師が次に診た。若い女の医師が最後。
三人が戻った。
「所見をお聞かせください」
ヴェルナーが口を開いた。
「脈は正常。舌に異常なし。顔色は良好。腹部に圧痛なし。熱もなし。——貧血の訴えに対して、所見が合いません。爪の色も唇の色も問題ない」
年配の医師が頷いた。
「同意見です。胃腸の疲れか、宴席が続いていたなら食事の負荷が考えられます」
若い女の医師が付け加えた。
「胃を休める薬草を出すのが妥当かと」
エリカはリーナの横に立っていた。リーナの手が白くなっていた。
「ありがとうございます」
クラウスが一歩前に出た。
「この患者は、先日リーナが診察した方です」
ヴェルナーの目が動いた。
「リーナの所見と処方は、今お三方が出した結論と同じでした。貧血の所見なし。胃腸を休める薬草。量も適正」
部屋が静まった。
「しかし、その後この方は——リーナの薬で具合が悪くなった、と申し立てています」
マリアの顔が変わった。
エリカが前に出た。
「マリアさん」
「は、はい」
「リーナが処方した薬草で、あなたは吐き気が増した、眠れなくなった、と仰いましたね」
「……はい」
「あの薬草で吐き気が増すことは、適正な量では起きません。不眠に関わる成分も入っていません。——これは医師団長にも確認できます」
ヴェルナーが頷いた。不本意そうだったが、頷いた。
「では確認しましょう」
鞄から小瓶を出した。
「これは血を補う薬草です。貧血であれば身体が楽になります。貧血でなければ——内臓が焼けるように痛み、三日は立てなくなります」
マリアの顔から血の気が引いた。
「あなたは先ほど、三人の医師に貧血ではないと診断されました。でも、もし本当に貧血であれば、これを飲んでも問題ないはずです」
小瓶を差し出した。
マリアの手が動かなかった。
「飲めないですか」
マリアの肩が震えた。
「……嘘、です」
「何が嘘ですか」
「薬で悪くなったのは——嘘です」
部屋が静まり返った。
「では、なぜリーナの処方が間違っていたと」
「頼まれたんです」
「誰に」
マリアの口が開いた。閉じた。震えていた。
扉が開いた。
アレクが歩いて入ってきた。自分の足で。背筋が伸びている。
笑っていた。穏やかに。
「面白いことをしている人がいると聞いてな」
部屋の空気が変わった。ヴェルナーが目を見開いた。年配の医師が姿勢を正した。
アレクはマリアの前に立った。笑顔のまま、見下ろした。
「嘘の申し立てだったそうだな。誰に頼まれた」
王太子の声だった。柔らかかった。だからこそ逃げ場がなかった。
マリアが床に額をつけた。
「イルゼ様です——宰相のお嬢様に——仮病を使ってあの薬師に診させろ、薬で悪くなったと騒げと——」
(イルゼ。——やっぱり)
侯爵から聞いた名前だった。レナートに鉛を盛った人間。今度はリーナを標的にした。
「なるほど」
アレクが頷いた。穏やかに。
廊下から足音がした。
扉が開いた。
女が入ってきた。二十代半ば。整った顔。仕立てのいい衣。
笑っていた。
「何やら騒がしいので参りましたが——私の名前が出ていたようですね」
イルゼだった。
マリアの顔が真っ白になった。
イルゼはマリアを一瞥した。一瞥だけだった。それからアレクに目を向けた。
「殿下。ご回復、心よりお慶び申し上げます」
「ありがとう。——今の話、聞いていたか」
「少し。この子が何か言っていたようですが——何かの思い違いではないかしら。私がこの子に何かを頼んだ覚えはありませんわ」
笑っていた。同じ笑顔だった。
マリアが床の上でイルゼを見た。目が絶望していた。イルゼはマリアを見なかった。
「証拠はあるのかしら。この子の証言だけでは——宮廷の秩序というものがありますもの」
「秩序か」
クラウスが口を開いた。
「秩序の話をするなら——宮廷医師団が認めた処方を虚偽で貶める行為は、秩序を乱していないか」
イルゼの視線がクラウスに移った。
「あら、クラウス殿下。ご立派になられて。北のご療養は実りがあったようですね」
笑っている。挑発だった。
クラウスの表情は動かなかった。
「実りはあった。いい医者に出会った」
「ええ。それはもう、宮廷中が知るところですわ」
アレクが一歩前に出た。笑顔のまま。
「イルゼ。今日のところは事実確認だけだ。証拠がない以上、これ以上は追わない」
「殿下のご分別に感謝いたしますわ」
「ただ——」
アレクの笑顔が深くなった。
「俺はこの医師に命を救われた。その弟子を陥れる行為は、俺の治療を妨害するのと同じだ。——そう受け取る人間もいるということは、覚えておいてくれ」
イルゼの笑顔が消えなかった。一瞬も。
「もちろんですわ、殿下」
一礼した。完璧な所作だった。
踵を返した。マリアの横を通った。目を合わせなかった。
足音が遠ざかった。
マリアが床の上で泣いていた。声を殺して。使い捨てにされたのだ。この場で。全員の前で。
***
大広間が空になった。
医師団も文官もいなくなった。マリアはフリッツに連れられて別室に移された。
残ったのはエリカとリーナとクラウスだった。
リーナが椅子に座っていた。膝の上に手を置いて、じっと見ていた。
「リーナ」
エリカが横に座った。
「あなたの処方は間違っていなかった」
「……はい」
「分かってる?」
「分かってます。——でも、怖かった」
涙が落ちた。一粒。拭った。
「また自分が間違えたのかもって。ブライテンの時みたいに」
「してない」
「分かってます。分かってるんですけど——」
「リーナ」
クラウスが言った。
リーナが顔を上げた。
「あんたの処方はどこに出しても恥ずかしくない。医師団長と同じ結論を、あんたは一人で出した」
リーナが唇を噛んだ。
「……ありがとうございます」
小さかった。でも、声は震えていなかった。
エリカはリーナの肩に手を置いた。
「帰ろう。今日はもう休み」
「……はい」
三人で大広間を出た。
廊下を歩きながら、リーナが鼻をすすった。一度だけ。
「エリカさん」
「何」
「あの薬、本当に飲んだらどうなってたんですか」
「吐き気と下痢が出るくらい」
「ちゃんとけっこう辛いじゃないですか」
「本当に貧血だったら楽になる薬だから。賭けではあったけど」
「賭けだったんですか……」
リーナが少しだけ笑った。泣いた後の、乾いた笑いだった。
でも笑えた。
エリカは笑えなかった。
リーナを部屋まで送った。扉が閉まった。
一人になった。
拳を握っていた。自分で気づいた。開いた。
指の跡が、手のひらに残っていた。
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