31話:医者は自分の体調も診れないのか
アレクの容態が安定してから、二週間が経った。
弁の傷はほぼ塞がった。薬の量を少しずつ減らしている。歩行の許可も出した。最初は廊下の端まで。次の日は中庭の入口まで。アレクは許可された範囲を一歩も超えなかった。
「律儀ですね」
「根拠があれば聞くと言っただろう。お前の根拠はいつも正確だ。超える理由がない」
クラウスとは違った。クラウスは許可の範囲を聞いてから、ぎりぎりの解釈で越えようとする人間だった。
***
朝。リーナが診察室——間借りしている東棟の一室だが——に入ってきた。
「エリカさん。ちょっと相談なんですけど」
「何」
「侍女の方に声をかけられて。体調が優れないから診てほしいって」
「誰」
「名前はマリアさん。殿下の侍女団の方です。だるい、気持ち悪い、食欲がないって」
「あなたが診てみて」
リーナの手が止まった。
「私が?」
「そう。ブライテンでも患者を一人で診てたでしょう。同じことです」
「でもここ宮廷ですよ。間違えたら——」
「間違えてもいい。まず診て、所見を出して、処方を考えて。それから私に見せて」
リーナが口を引き結んだ。
「……分かりました」
鞄を持って出ていった。
***
昼過ぎ。リーナが戻ってきた。
手にノートを持っている。走り書きではなかった。整理されていた。
「見ました。脈は正常。顔色は悪くないです。舌もきれい。触診で腹部に圧痛なし。熱もなし」
「所見は」
「貧血を疑いました。だるい、気持ち悪い、食欲がないって訴えだったので。でも——爪の色も唇の色も悪くない。貧血の所見がないんです」
「それで?」
「胃腸が弱っている可能性を考えました。食事の内容を聞いたら、最近宴席が続いていて重いものが多いと。胃を休める薬草を処方しました。量はブライテンで使っていた通りです」
ノートを受け取った。目を通した。
聞き取り。所見。判断の過程。処方。量。全部書いてある。
「問題ないです。処方もこれでいい」
「本当ですか」
「本当。よくできてる」
リーナの顔が綻んだ。すぐに引き締めた。
「でも、貧血の所見がないのに主訴がだるいって、ちょっと引っかかるんですよね。もう少し経過を見た方がいいと思って、三日後にまた来てくださいって伝えました」
「いい判断」
「ベッカー先生がよく言ってたんです。一回で分からなくていい、分からない時は通ってもらえって」
(ベッカー先生の言葉が、ちゃんとこの子の中に残ってる)
「リーナ」
「はい」
「宮廷の患者は、ブライテンの患者とは違う部分がある。身体の問題だけじゃなくて、人間関係が絡む。気をつけて」
「人間関係」
「誰に何を言われたか、誰の紹介で来たか。そういうことが後から意味を持つことがある」
リーナの顔が少し曇った。
「……分かりました。気をつけます」
「でも、今日の診察は本当に良かった。自信持っていいです」
リーナが頷いた。鞄を抱え直して、薬草庫に向かった。
(この子は大丈夫。——大丈夫だと思いたい)
***
翌朝。
アレクの診察を終えた。脈は安定。弁の回復も順調。
「殿下。今日の薬は昼の分をリーナに任せます。少し外の用事があるので」
「外の用事か。——なら、一つ提案がある」
「何ですか」
「街に出ないか」
「……街」
「お前、王都に来てから一度もこの建物の外に出ていないだろう」
「アレク殿下の治療があったので」
「治療は順調だとお前が言った。昼の薬はリーナに任せると今お前が言った。——半日くらい空くだろう」
「空きますけど、殿下が外に出て大丈夫ですか」
「歩行は許可されている。中庭の入口まで」
「中庭の入口までです。街は範囲外です」
「中庭から門まで何歩だ」
「数えていません」
「五十三歩だ。数えた」
(数えてたのか、この人)
「殿下の身体の状態で街を歩き回るのは——」
「歩き回らない。馬車で行って、座って、馬車で帰る。許可の範囲内だろう」
「座って何をするんですか」
「茶でも飲む。お前は疲れた顔をしている。少し外の空気を吸った方がいい」
(疲れた顔。——そうだろうか)
喉の奥に小さな引っかかりがあった。朝から。昨日の夜からかもしれない。大したことではなかった。乾燥しているだけだと思っていた。
「……私は大丈夫です」
「大丈夫だとは聞いていない。行くかと聞いている」
アレクの目はまっすぐだった。命令ではなかった。だが断りにくい目だった。
「一つ条件があります」
「何だ」
「少しでも動悸がしたら帰ります」
「分かった」
「約束ですよ」
「約束だ」
***
馬車が街に出た。
アレクは窓の外を見ていた。久しぶりの街だったはずだが、感慨を口にしなかった。ただ見ていた。目が通りの隅々まで動いている。人の流れ、露店の配置、路地の奥。見ている。
「殿下は街をよく見ますね」
「上に立つ人間が街を見ないで何を見る」
「クラウスさんも同じことを言いそうですね」
「言わんだろう。あいつは街を見るんじゃなくて歩く方だ」
確かにそうだった。クラウスはブライテンの市場を自分の足で歩いた。見るのではなく、その中にいた。
馬車が茶屋の前で止まった。アレクが降りた。手を貸そうとしたら断られた。
「自分で降りられる」
「降りられるのと——」
「降りていいのは違う。分かっている。だが、馬車から降りる程度で心臓に負荷はかからないだろう」
「……かかりません」
「だろう」
席に着いた。アレクが茶を二つ頼んだ。
通りを見ていた。人が行き交っている。王都の街は広い。ブライテンとは規模が違う。
隣の卓に、子供を連れた女が座った。子供が咳をしていた。
(あの咳。——乾いた咳。痰が絡んでいない。気管のあたりが——)
目が行った。
注視しかけて、やめた。ここは診療所じゃない。
「……見ていたな」
アレクが言った。
「何をですか」
「隣の子供だ。咳が気になったんだろう」
「……職業病です」
「行ったらどうだ。気になるなら」
「いえ、今日は——」
「行ってこい。俺はここで茶を飲んでいる」
エリカは立ちかけた。座り直した。
「殿下の付き添いで来ているのに、患者を診に行くのは——」
「お前がそわそわしている方が付き添いとして落ち着かない。行ってこい」
立ち上がった。隣の卓に行った。
「すみません。お子さんの咳、少し気になったのですが——医者です。診させてもらえますか」
女は驚いた顔をしたが、頷いた。
子供の喉を見た。胸の音を聞いた。
「乾燥です。この時期、王都は空気が乾く。蜂蜜をお湯に溶いたものを寝る前に飲ませてあげてください。それだけで治まります」
「ありがとうございます。先生——」
「通りすがりです。お大事に」
席に戻った。アレクが茶を飲んでいた。
「一分で終わったな」
「大したことなかったので」
「大したことなくても、あの母親は安心しただろう。子供が咳をしていると気が気じゃないものだ」
「殿下はお子さんがいらっしゃるんですか」
「いない。だが、心配している人間の顔は分かる」
アレクが通りを見ていた。
「お前は街にいる方が生き生きしているな」
「そうですか」
「病室にいる時とは違う。今の方が——いい顔だ」
(また。——また顔の話をされている。レナートにも、前に——)
「殿下」
「何だ」
「お茶、冷めてますよ」
「冷めた茶も悪くない」
しばらく通りを見ていた。アレクは静かだった。何も求めなかった。ただ隣にいた。
帰りの馬車で、少し頭が重いことに気づいた。朝からの喉の引っかかりも消えていない。
(乾燥、かな。——自分の方が乾燥してるじゃない)
大したことではないと思った。
***
宮廷の門をくぐった。馬車が止まった。
降りた。
回廊の入口に、クラウスが立っていた。
壁にもたれて、腕を組んでいた。待っていた顔だった。
「おかえり」
アレクが言った。
クラウスはアレクを見た。それからエリカを見た。二人を見た。
「……兄上。散歩か」
「茶を飲みに行っただけだ」
「エリカを連れて」
「暇そうだったからな」
クラウスの目がエリカに来た。
「何か文句あるのか。お前の女ってわけでもないんだろう」
アレクが軽く言った。軽かった。軽すぎた。
クラウスの表情が動かなかった。アレクを見た後、エリカを見た。
「……風邪だな」
「え?」
「声が少しかすれてる。喉が腫れかけてるだろう。目の下も暗い。——風邪の初期症状だ」
エリカは口を開けた。閉じた。
(風邪。——喉の引っかかり。頭の重さ。朝からずっとあった。あれは乾燥じゃなくて——)
「前も言ったが、医者は自分の体調も診れないのか。明日は休んでろ」
クラウスは背を向けた。歩いていった。
アレクが黙って立っていた。弟の背中を見ていて何か言おうとして、何も言わなかった。
「……連れまわして悪かった。明日の診察はいいからゆっくり休んでな」
それだけ言って、病室に戻っていった。
一人になった。
喉が痛かった。確かに。朝からずっと。気づいていた。気づいていたのに——何だと思っていたんだろう。
部屋に戻った。リーナが薬を差し出した。
「風邪ですね。クラウスさんから聞きました」
「……もう伝わってるの」
「フリッツさん経由です。早いですよ宮廷は」
薬を飲んだ。自分で作った風邪薬。苦かった。
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