30話:胸のここが
朝の診察。
アレクの脈を取った。安定している。熱も下がったままだ。
注視した。
【心臓——僧帽弁の付着物。さらに縮小】
【血流——塞栓散布、微量】
(順調。あと十日もすれば、弁の傷もかなり塞がる)
「殿下。経過は良好です。このまま薬を続けてください」
「ああ。……なあ、一つ聞いてもいいか」
「身体のことなら何でも」
「身体のことじゃない」
エリカの手が手首の上で止まった。
「お前は、なぜ医者になった」
「……前にも似たことを聞かれました」
「誰にだ」
「クラウスさんに」
「で、何と答えた」
「答えませんでした。聞かれたのではなく、話の流れでそうなっただけだったので」
「じゃあ俺が聞く。なぜ医者になった」
アレクの目がまっすぐだった。寝台に横たわったままだが、目線に力がある。
「……身体を見れば、その人が何に苦しんでいるか分かるからです。言葉にできない人でも、身体は教えてくれる」
「言葉にできない人」
「自分が何に苦しんでいるか分かっていない人もいます。殿下もそうでした。二週間、身体が叫んでいたのに、誰もその声を聞けなかった」
アレクが黙った。
「お前が聞いたのか」
「聴診しただけです」
「そういう意味じゃない」
アレクがこちらを見ていた。長かった。
「お前のような人間は、宮廷にはいなかった」
「追放されましたから」
「追放の話じゃない。——まっすぐ答える人間がいなかった、ということだ」
エリカは手首を離した。
「お薬、飲んでください」
「話をそらすな」
「そらしてません。薬の時間です」
アレクが椀を受け取った。飲んだ。椀を返す時に、指がエリカの手に触れた。
触れただけだった。だがアレクの手が、椀を離すのが一拍遅かった。
(——)
何も考えなかった。考えないようにした。
「午後にまた来ます」
「ああ。待っている」
待っている。その一言が、患者の言葉として普通なのか、そうではないのか。分からなかった。分からないふりをした。
***
廊下に出た。
リーナが走ってきた。
「エリカさん。お客さんです」
「患者?」
「違います。偉そうな人です。すごく」
「偉そうって——」
「名前はエストール侯爵、って」
足が止まった。
***
控えの間に通された。
男が立っていた。五十手前。背が高い。白髪交じりの髪。仕立てのいい外套。
エストール侯爵。レナートの父。
エリカを追放した場に名を連ねていた人間。
目が合った。
侯爵の顔を見た。三年前と変わっている。目の下に深い皺。頬が削げている。眠れていない顔だった。
「……先生」
侯爵が言った。声が低かった。
「お久しぶりです、侯爵」
「座ってくれ。——いや、立ったままの方がいいか。座って話すような資格が、私にはない」
「座ります。立ち話は疲れますので」
椅子に座った。侯爵も座った。膝の上に手を置いた。大きな手だった。震えてはいなかった。
「クラウス殿下から文をいただいて、ハインツの件は把握している。レナートの周辺に人を配置した。今のところ、新たな投与は止まっている」
「ありがとうございます」
「礼を言われる立場ではない」
侯爵の目が伏せられた。
「ハインツを問い詰めた。——背後がいた」
エリカの手が膝の上で止まった。
「イルゼという女だ。宰相コンラートの娘」
「宰相の——」
「レナートに求婚して断られた。その私怨で、ハインツを使って鉛を仕込んでいたらしい」
(私怨。——十四歳の子供に鉛を盛る理由が、振られた腹いせ)
「ハインツはイルゼの指示で動いていた。だが——」
侯爵の声が低くなった。
「宰相の娘には手が出せない」
「…………」
「証拠はハインツの証言だけだ。物的な証拠は残っていない。そしてハインツはイルゼの名を公の場では出せない。出せば——」
「消される」
「そうだ」
侯爵の手が握られた。
「殺してやりたいほど憎い。だが動けば、宰相と全面的にぶつかることになる。今の侯爵家にその力はない。——情けない話だ」
「侯爵」
「分かっている。言い訳だ」
「言い訳じゃなくて。——レナートは今、安全なんですね」
「ハインツは外した。人も配置した。新たな接触はない」
「なら、今はそれでいい。あの子が安全であることが最優先です」
侯爵が顔を上げた。
「先生。——あの日のことを、謝らせてほしい」
「あの日」
「追放の裁定だ。あの場に私も名を連ねていた。ヴェルナーの報告を鵜呑みにして、先生の申し立てを聞かなかった。息子の担当医が目の前で追放されるのを——止めなかった」
エリカは黙っていた。
「三日で裁定が出た。書類も証人も揃っていた。おかしいと思わなかったわけではない。だが——宮廷の力学の中で、声を上げることを選ばなかった」
侯爵の手が膝の上で握られた。
「結果、息子は悪化した。先生の言った通りの経過を辿った。先生がいなくなった後で、先生の正しさだけが残った」
「侯爵」
「今更遅い。分かっている。何を言っても取り返しはつかない。それでも——」
「侯爵」
エリカの声が静かだった。
「私に謝りたい気持ちは分かります。でも、一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「レナートの記録を読みましたか」
侯爵の目が揺れた。
「……読んだ。毎日の食事。薬を誰が持ってきたか。体調。全部」
「あの子は毎日書きました。一日も欠かさず。十四歳の子供が、自分の身体の変化を、一人で記録し続けた」
「…………」
「あの記録がなければ、ハインツの名前は出てきませんでした。あの子が自分で自分を守ったんです」
侯爵の目が赤くなった。
「侯爵が政治の世界で戦っていることは承知しています。それがどれだけ大変なことかも。でも——」
言葉を選んだ。
「あの子の身体を見てください。言葉よりも先に。政治よりも先に。あの子が何を食べて、どう眠って、顔色がどうか。それを見てくれる人間が側にいないと、どれだけ記録を残しても——」
声が詰まりかけた。止めた。
「すみません。医者が感情的になるのは良くないですね」
「いや」
侯爵が首を振った。
「その通りだ。——先生の言う通りだ」
侯爵が立ち上がった。深く頭を下げた。
「息子に会ってやってくれないか。先生が戻ったと聞いたら、あの子は喜ぶ」
「もとよりそのつもりです。解毒の処方も確認したい」
「頼む」
侯爵が去っていった。
扉が閉まった後、エリカは椅子に座ったまましばらく動かなかった。
手を見た。震えていなかった。
(イルゼ。宰相の娘。——侯爵ですら手が出せない相手。レナートに鉛を盛った人間の名前が、やっと見えた。でも、見えただけだ。まだ何もできない)
立ち上がった。レナートの部屋に向かった。
***
病室の扉を叩いた。
「はい」
声が聞こえた。前に聞いた時より力がある。
開けた。
レナートが寝台の上に座っていた。本を読んでいた。顔を上げた。
「エリカ先——」
本が落ちた。
「来た。——先生、来た!」
顔が輝いた。全身で。言葉が追いつかないまま、身体が先に反応していた。
「お久しぶりです」
「久しぶりじゃないですよ! 手紙、読んでくれましたか」
「全部読みました」
「全部! よかった。返事来なかったから、届いてないのかと——」
「ごめんなさい。忙しくて返事を書けなかった」
「いいです。来てくれたから。手紙より全然いいです」
レナートの目がまっすぐだった。隠していない。全部出ている。
(この子は——あの時と同じだ。何も隠さない)
「診せてください。手紙で経過は追っていたけど、直接確認したい」
「はい! どこでも診てください」
手首を取った。脈を取った。前より安定している。
注視した。
【肝臓——炎症軽減。サイズ正常に近い】
【脾臓——腫大軽減】
【体内——異物蓄積。微量に残存。減少傾向】
(肝臓が落ち着いてる。薬の切り替えが効いた。蓄積物も減ってきている。——ハインツが外されてから新たな投与は止まっているから、排出が追いついてきたんだ)
「爪見せて」
レナートが両手を出した。爪の色を見た。血色が戻っている。
「顔色もいい。薬は指示通り飲んでる?」
「飲んでます。朝と夜。量は変えてません」
「偉い」
レナートの顔がまた赤くなった。
(——あ)
あの時と同じだった。心拍が上がっている。顔面に血が集まっている。熱はない。痛みもない。
あの時は分からなかった。今は分かる。分かってしまう。
「食事はどう? 記録は続けてる?」
「続けてます。見ますか」
ノートを差し出された。受け取った。めくった。几帳面な字。毎日。一日も欠けていない。
「ハインツさんは」
「外されました。父が——父が動いてくれて」
「そう」
「先生のおかげです」
「あなたの記録のおかげです。あの記録がなければ何も分からなかった」
レナートが嬉しそうに笑った。
解毒の処方を確認した。今の薬で問題ない。量を少し減らしていい段階に来ている。
「この薬、もう少し減らせます。身体が楽になるはずです」
「先生が作ってくれるんですか」
「調合の手順を書き残します。侍医に——」
「先生がいいです」
「前も同じこと言いましたね」
「同じ気持ちなので」
真っ直ぐだった。何の含みもなかった。ただ好きな人に薬を作ってほしい、それだけの声だった。
(この子に対して、私はどうすればいいんだろう)
答えは分かっていた。医者として線を引く。それ以外にない。
「手順を書きます。今日の分は作っていきますから」
「はい。——先生」
「何ですか」
「先生、前より元気そうですね。前は——なんだろう、もっと硬かった。今は違います」
(また言われた。レナートにも、前に——)
「そうですか」
「はい。何かいいことありました?」
「……色々ありました」
「色々」
「ブライテンでの話は長くなるから、また今度」
「また来てくれるんですか」
「王都にいる間は」
レナートの目が光った。本当に光った。身体の反応だった。瞳孔が開いている。
(この子の身体は、本当に嘘をつかない)
薬を調合した。渡した。
「お大事に」
「先生」
「何ですか」
「胸のここが、ぎゅってなります。先生が来ると」
知っていた。今は、知っていた。
「……それは、良い徴候です」
嘘ではなかった。心臓が元気な証拠ではある。
レナートがにっこり笑った。エリカは逃げるように部屋を出た。
***
廊下で、リーナが待っていた。
「終わりました?」
「終わった」
「どうでした? 元気そうでした?」
「うん。回復してる」
「よかった。——あの子、先生のこと好きでしょう」
「…………」
「絶対好きでしたよ。顔見た瞬間に本落としてたじゃないですか」
「驚いただけでしょう」
「驚いただけであんな顔しませんよ。耳まで赤かったですよ」
「リーナ」
「はい」
「あの子は十四歳です」
「知ってます。でも好きなものは好きですよ。年齢関係ないです」
「関係あります」
「ないです」
「あります。医者と患者です」
「医者と患者だって——」
「リーナ」
「はい」
「薬草の在庫確認、まだ終わってないでしょう」
「……終わってないです」
「行ってきて」
リーナが口を尖らせた。何か言いたそうだった。言わなかった。走っていった。
一人になった。廊下に立っていた。
レナートの声が耳に残っていた。「胸のここが、ぎゅってなります」。
あの時、分からなかった。今は分かる。
分かるようになったのは、自分も同じものを抱えているからだ。
足が動かなかった。少しの間。
それから、アレクの病室に戻った。薬の時間だった。
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