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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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30/50

30話:胸のここが

朝の診察。


アレクの脈を取った。安定している。熱も下がったままだ。


注視した。


【心臓——僧帽弁の付着物。さらに縮小】

【血流——塞栓散布、微量】


(順調。あと十日もすれば、弁の傷もかなり塞がる)


「殿下。経過は良好です。このまま薬を続けてください」


「ああ。……なあ、一つ聞いてもいいか」


「身体のことなら何でも」


「身体のことじゃない」


エリカの手が手首の上で止まった。


「お前は、なぜ医者になった」


「……前にも似たことを聞かれました」


「誰にだ」


「クラウスさんに」


「で、何と答えた」


「答えませんでした。聞かれたのではなく、話の流れでそうなっただけだったので」


「じゃあ俺が聞く。なぜ医者になった」


アレクの目がまっすぐだった。寝台に横たわったままだが、目線に力がある。


「……身体を見れば、その人が何に苦しんでいるか分かるからです。言葉にできない人でも、身体は教えてくれる」


「言葉にできない人」


「自分が何に苦しんでいるか分かっていない人もいます。殿下もそうでした。二週間、身体が叫んでいたのに、誰もその声を聞けなかった」


アレクが黙った。


「お前が聞いたのか」


「聴診しただけです」


「そういう意味じゃない」


アレクがこちらを見ていた。長かった。


「お前のような人間は、宮廷にはいなかった」


「追放されましたから」


「追放の話じゃない。——まっすぐ答える人間がいなかった、ということだ」


エリカは手首を離した。


「お薬、飲んでください」


「話をそらすな」


「そらしてません。薬の時間です」


アレクが椀を受け取った。飲んだ。椀を返す時に、指がエリカの手に触れた。


触れただけだった。だがアレクの手が、椀を離すのが一拍遅かった。


(——)


何も考えなかった。考えないようにした。


「午後にまた来ます」


「ああ。待っている」


待っている。その一言が、患者の言葉として普通なのか、そうではないのか。分からなかった。分からないふりをした。


***


廊下に出た。


リーナが走ってきた。


「エリカさん。お客さんです」


「患者?」


「違います。偉そうな人です。すごく」


「偉そうって——」


「名前はエストール侯爵、って」


足が止まった。


***


控えの間に通された。


男が立っていた。五十手前。背が高い。白髪交じりの髪。仕立てのいい外套。


エストール侯爵。レナートの父。


エリカを追放した場に名を連ねていた人間。


目が合った。


侯爵の顔を見た。三年前と変わっている。目の下に深い皺。頬が削げている。眠れていない顔だった。


「……先生」


侯爵が言った。声が低かった。


「お久しぶりです、侯爵」


「座ってくれ。——いや、立ったままの方がいいか。座って話すような資格が、私にはない」


「座ります。立ち話は疲れますので」


椅子に座った。侯爵も座った。膝の上に手を置いた。大きな手だった。震えてはいなかった。


「クラウス殿下から文をいただいて、ハインツの件は把握している。レナートの周辺に人を配置した。今のところ、新たな投与は止まっている」


「ありがとうございます」


「礼を言われる立場ではない」


侯爵の目が伏せられた。


「ハインツを問い詰めた。——背後がいた」


エリカの手が膝の上で止まった。


「イルゼという女だ。宰相コンラートの娘」


「宰相の——」


「レナートに求婚して断られた。その私怨で、ハインツを使って鉛を仕込んでいたらしい」


(私怨。——十四歳の子供に鉛を盛る理由が、振られた腹いせ)


「ハインツはイルゼの指示で動いていた。だが——」


侯爵の声が低くなった。


「宰相の娘には手が出せない」


「…………」


「証拠はハインツの証言だけだ。物的な証拠は残っていない。そしてハインツはイルゼの名を公の場では出せない。出せば——」


「消される」


「そうだ」


侯爵の手が握られた。


「殺してやりたいほど憎い。だが動けば、宰相と全面的にぶつかることになる。今の侯爵家にその力はない。——情けない話だ」


「侯爵」


「分かっている。言い訳だ」


「言い訳じゃなくて。——レナートは今、安全なんですね」


「ハインツは外した。人も配置した。新たな接触はない」


「なら、今はそれでいい。あの子が安全であることが最優先です」


侯爵が顔を上げた。


「先生。——あの日のことを、謝らせてほしい」


「あの日」


「追放の裁定だ。あの場に私も名を連ねていた。ヴェルナーの報告を鵜呑みにして、先生の申し立てを聞かなかった。息子の担当医が目の前で追放されるのを——止めなかった」


エリカは黙っていた。


「三日で裁定が出た。書類も証人も揃っていた。おかしいと思わなかったわけではない。だが——宮廷の力学の中で、声を上げることを選ばなかった」


侯爵の手が膝の上で握られた。


「結果、息子は悪化した。先生の言った通りの経過を辿った。先生がいなくなった後で、先生の正しさだけが残った」


「侯爵」


「今更遅い。分かっている。何を言っても取り返しはつかない。それでも——」


「侯爵」


エリカの声が静かだった。


「私に謝りたい気持ちは分かります。でも、一つだけ聞いていいですか」


「何だ」


「レナートの記録を読みましたか」


侯爵の目が揺れた。


「……読んだ。毎日の食事。薬を誰が持ってきたか。体調。全部」


「あの子は毎日書きました。一日も欠かさず。十四歳の子供が、自分の身体の変化を、一人で記録し続けた」


「…………」


「あの記録がなければ、ハインツの名前は出てきませんでした。あの子が自分で自分を守ったんです」


侯爵の目が赤くなった。


「侯爵が政治の世界で戦っていることは承知しています。それがどれだけ大変なことかも。でも——」


言葉を選んだ。


「あの子の身体を見てください。言葉よりも先に。政治よりも先に。あの子が何を食べて、どう眠って、顔色がどうか。それを見てくれる人間が側にいないと、どれだけ記録を残しても——」


声が詰まりかけた。止めた。


「すみません。医者が感情的になるのは良くないですね」


「いや」


侯爵が首を振った。


「その通りだ。——先生の言う通りだ」


侯爵が立ち上がった。深く頭を下げた。


「息子に会ってやってくれないか。先生が戻ったと聞いたら、あの子は喜ぶ」


「もとよりそのつもりです。解毒の処方も確認したい」


「頼む」


侯爵が去っていった。


扉が閉まった後、エリカは椅子に座ったまましばらく動かなかった。


手を見た。震えていなかった。


(イルゼ。宰相の娘。——侯爵ですら手が出せない相手。レナートに鉛を盛った人間の名前が、やっと見えた。でも、見えただけだ。まだ何もできない)


立ち上がった。レナートの部屋に向かった。


***


病室の扉を叩いた。


「はい」


声が聞こえた。前に聞いた時より力がある。


開けた。


レナートが寝台の上に座っていた。本を読んでいた。顔を上げた。


「エリカ先——」


本が落ちた。


「来た。——先生、来た!」


顔が輝いた。全身で。言葉が追いつかないまま、身体が先に反応していた。


「お久しぶりです」


「久しぶりじゃないですよ! 手紙、読んでくれましたか」


「全部読みました」


「全部! よかった。返事来なかったから、届いてないのかと——」


「ごめんなさい。忙しくて返事を書けなかった」


「いいです。来てくれたから。手紙より全然いいです」


レナートの目がまっすぐだった。隠していない。全部出ている。


(この子は——あの時と同じだ。何も隠さない)


「診せてください。手紙で経過は追っていたけど、直接確認したい」


「はい! どこでも診てください」


手首を取った。脈を取った。前より安定している。


注視した。


【肝臓——炎症軽減。サイズ正常に近い】

【脾臓——腫大軽減】

【体内——異物蓄積。微量に残存。減少傾向】


(肝臓が落ち着いてる。薬の切り替えが効いた。蓄積物も減ってきている。——ハインツが外されてから新たな投与は止まっているから、排出が追いついてきたんだ)


「爪見せて」


レナートが両手を出した。爪の色を見た。血色が戻っている。


「顔色もいい。薬は指示通り飲んでる?」


「飲んでます。朝と夜。量は変えてません」


「偉い」


レナートの顔がまた赤くなった。


(——あ)


あの時と同じだった。心拍が上がっている。顔面に血が集まっている。熱はない。痛みもない。


あの時は分からなかった。今は分かる。分かってしまう。


「食事はどう? 記録は続けてる?」


「続けてます。見ますか」


ノートを差し出された。受け取った。めくった。几帳面な字。毎日。一日も欠けていない。


「ハインツさんは」


「外されました。父が——父が動いてくれて」


「そう」


「先生のおかげです」


「あなたの記録のおかげです。あの記録がなければ何も分からなかった」


レナートが嬉しそうに笑った。


解毒の処方を確認した。今の薬で問題ない。量を少し減らしていい段階に来ている。


「この薬、もう少し減らせます。身体が楽になるはずです」


「先生が作ってくれるんですか」


「調合の手順を書き残します。侍医に——」


「先生がいいです」


「前も同じこと言いましたね」


「同じ気持ちなので」


真っ直ぐだった。何の含みもなかった。ただ好きな人に薬を作ってほしい、それだけの声だった。


(この子に対して、私はどうすればいいんだろう)


答えは分かっていた。医者として線を引く。それ以外にない。


「手順を書きます。今日の分は作っていきますから」


「はい。——先生」


「何ですか」


「先生、前より元気そうですね。前は——なんだろう、もっと硬かった。今は違います」


(また言われた。レナートにも、前に——)


「そうですか」


「はい。何かいいことありました?」


「……色々ありました」


「色々」


「ブライテンでの話は長くなるから、また今度」


「また来てくれるんですか」


「王都にいる間は」


レナートの目が光った。本当に光った。身体の反応だった。瞳孔が開いている。


(この子の身体は、本当に嘘をつかない)


薬を調合した。渡した。


「お大事に」


「先生」


「何ですか」


「胸のここが、ぎゅってなります。先生が来ると」


知っていた。今は、知っていた。


「……それは、良い徴候です」


嘘ではなかった。心臓が元気な証拠ではある。


レナートがにっこり笑った。エリカは逃げるように部屋を出た。


***


廊下で、リーナが待っていた。


「終わりました?」


「終わった」


「どうでした? 元気そうでした?」


「うん。回復してる」


「よかった。——あの子、先生のこと好きでしょう」


「…………」


「絶対好きでしたよ。顔見た瞬間に本落としてたじゃないですか」


「驚いただけでしょう」


「驚いただけであんな顔しませんよ。耳まで赤かったですよ」


「リーナ」


「はい」


「あの子は十四歳です」


「知ってます。でも好きなものは好きですよ。年齢関係ないです」


「関係あります」


「ないです」


「あります。医者と患者です」


「医者と患者だって——」


「リーナ」


「はい」


「薬草の在庫確認、まだ終わってないでしょう」


「……終わってないです」


「行ってきて」


リーナが口を尖らせた。何か言いたそうだった。言わなかった。走っていった。


一人になった。廊下に立っていた。


レナートの声が耳に残っていた。「胸のここが、ぎゅってなります」。


あの時、分からなかった。今は分かる。


分かるようになったのは、自分も同じものを抱えているからだ。


足が動かなかった。少しの間。


それから、アレクの病室に戻った。薬の時間だった。

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