29話:主治医だ
三日後。
アレクは半身を起こせるようになった。枕を背に当てて、壁にもたれている。それだけで額に汗が浮いていた。
エリカが薬を持ってきた。朝と夕。量は変わらない。
「今日の分です」
「ああ。——ところで、政務の書類を持ってきてもらいたいんだが」
手が止まらなかった。薬を差し出したまま、こちらを見た。
「何の書類ですか」
「溜まっているものがあるはずだ。クラウスが処理してくれているとはいえ、全部は無理だろう。目を通すだけでもしておきたい」
「目を通すだけ」
「ああ。決裁はしない。確認するだけだ」
エリカが薬を置いた。椅子に座った。
「殿下。心臓の弁がまだ塞がりきっていません」
「それは聞いている」
「聞いているなら、なぜ書類の話になるんですか」
「目を通すだけだと言った。身体を起こして紙を読む。それだけだ」
「それだけではありません。書類を読めば判断が生まれます。判断が生まれれば決裁したくなる。決裁すれば人を呼ぶ。人が来れば話し込む。話し込めば時間が過ぎる。気づいたら半日座りっぱなしです」
アレクが口を閉じた。
「心臓の弁に傷がある状態で長時間上体を起こし続ければ、血の流れに負荷がかかって治療が振り出しに戻ります。あなたが一日早く復帰するために、回復が二週間遅れる。それでもやりますか」
アレクがこちらを見た。しばらく黙っていた。
「……お前、弟にも同じ言い方をしたのか」
「もっと短く言いました。あの人は短い方が聞くので」
「俺には長く言うのか」
「根拠を出せば納得する方だと思ったので」
アレクは何か言おうとした。やめた。枕に頭を戻した。
「分かった。書類は待つ。——ただ、一つ条件がある」
「条件」
「暇なんだ。何か話し相手くらいはいいだろう」
「話し相手は心臓に負荷をかけません。いいですよ」
「許可制か」
「身体に関わることは全部許可制です」
エリカが薬を取り上げた。
「先に飲んでください」
受け取った。飲み干した。顔をしかめなかった。
***
午後。クラウスが来た。
日課のように兄の顔を見て、椅子に座った。
「顔色がいい」
「本人が一番分かっている。身体が動き始めてるのに何もするなと言われる方が辛い」
クラウスがエリカを見た。
「止めたのか」
「止めました」
「そうだろうな」
アレクが壁にもたれたまま、天井を見た。
「クラウス。一つ聞きたい」
「何だ」
「俺が倒れた経緯を、お前はどう聞いている」
クラウスの目が変わった。
「書簡では、原因不明で意識が戻らないとだけだった。詳しい話は誰もしてこなかった」
「二週間、原因が分からなかったんだ。医師団も、宰相も、誰も」
アレクがクラウスを見た。
「俺は身体が丈夫な方だ。風邪も滅多にひかない。それが急に高熱を出して倒れて、二週間意識が戻らない。心臓に菌がとりついていた。——おかしいと思わないか」
クラウスが黙った。腕を組んだ。
「エリカ」
「はい」
「この病気は、もともと健康な人間がいきなりかかるものなのか」
エリカが手を止めた。薬草を刻んでいた手が、膝の上に降りた。
「……かからないとは言えません。ただ、条件があります。心臓の弁に菌がとりつくためには、まず菌が血の中に入る必要がある。傷口か、口の中の傷か、何か入り口がないといけない」
「俺にはそんな傷はなかった。倒れる前日まで普通に動いていた」
「それが引っかかっています」
エリカの声が低くなった。
「注視した時に、菌がとりついた痕跡は確認できました。でも、どこから入ったのかが見えない。普通の感染なら——口の中か、皮膚の傷か、どこかに入り口の痕が残るはずなんです。それがない」
「ないというのは」
「自然に感染した形跡が見つからない、ということです」
沈黙が落ちた。
(自然じゃない感染。——意図的に菌を入れたということか? でもこの世界で菌を培養する技術は……)
そこまで考えて、別のことが頭をよぎった。
(クラウスさんの病気。あの回復の速さ。ブライテンにいる間に甘草が効きすぎるほど効いた。自然発症なら、副腎がここまで早く戻るのは——)
「原因を追うのは、殿下が立ち上がれるようになってからでも遅くありません。でも——調べます。感染の経路が見つからない理由を」
「頼む」
アレクが言った。
クラウスは頷いただけだった。
***
夕刻。エリカは隣の部屋で薬草の在庫を確認していた。
クラウスがアレクの寝台の横に座っている。声が漏れてきた。小さかった。
聞くつもりはなかった。だが、壁が薄かった。
「——あの医者は、弟に対して随分遠慮がないな」
アレクの声だった。
「あんたにも遠慮してなかっただろう」
「確かに。書類を止められた」
「俺も何度止められたか分からん」
「お前は言うことを聞いたのか」
「……聞いた」
「珍しいな。お前が人の言うことを聞くのは」
しばらく沈黙があった。
「クラウス。あの医者、お前の何だ」
エリカの手が止まった。
「……主治医だ」
クラウスの声は平坦だった。
「聞いているのはそういうことじゃないんだが」
「そういうことだ。それ以上でも以下でもない」
間があった。長い間だった。
「……分かった。お前がそう言うなら、そうなんだろう」
エリカは薬草の束を棚に戻した。手が震えてはいなかった。
ただ、胸の奥で何かが鳴った。王都の行きの馬車の中で気づいた、あの鼓動と同じ音だった。
聞こえないふりをした。薬草を数え直した。
***
——幕間——
エリカが薬草を持って戻っていった。
足音が遠ざかるのを聞いてから、アレクはクラウスの横顔を見た。
弟は窓の外を見ていた。月明かりが差している。
主治医だ、と言った時、弟の手が膝の上で止まっていた。次の動作に移れないまま、数秒。それだけで十分だった。
三年前、馬車に乗る弟を見送った。何も言えなかった。部屋に戻って壁を殴った。殴ったところで弟の病は治らない。何もできなかった。
今、弟が自分の足で立っている。
あの医者が治した。
弟が「主治医だ」と答える時の声と、あの医者の話をしている時の目は、別のものだった。声は平坦だった。目は違った。
「クラウス」
「何だ」
「お前がどう思っているかは、お前の問題だ。俺が口を出すことじゃない」
「……何の話だ」
「ただ、いい医者だ。あれは」
クラウスが窓を見たまま、何も言わなかった。
月が高かった。
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