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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第2章:王宮・水面下編

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29話:主治医だ

三日後。


アレクは半身を起こせるようになった。枕を背に当てて、壁にもたれている。それだけで額に汗が浮いていた。


エリカが薬を持ってきた。朝と夕。量は変わらない。


「今日の分です」


「ああ。——ところで、政務の書類を持ってきてもらいたいんだが」


手が止まらなかった。薬を差し出したまま、こちらを見た。


「何の書類ですか」


「溜まっているものがあるはずだ。クラウスが処理してくれているとはいえ、全部は無理だろう。目を通すだけでもしておきたい」


「目を通すだけ」


「ああ。決裁はしない。確認するだけだ」


エリカが薬を置いた。椅子に座った。


「殿下。心臓の弁がまだ塞がりきっていません」


「それは聞いている」


「聞いているなら、なぜ書類の話になるんですか」


「目を通すだけだと言った。身体を起こして紙を読む。それだけだ」


「それだけではありません。書類を読めば判断が生まれます。判断が生まれれば決裁したくなる。決裁すれば人を呼ぶ。人が来れば話し込む。話し込めば時間が過ぎる。気づいたら半日座りっぱなしです」


アレクが口を閉じた。


「心臓の弁に傷がある状態で長時間上体を起こし続ければ、血の流れに負荷がかかって治療が振り出しに戻ります。あなたが一日早く復帰するために、回復が二週間遅れる。それでもやりますか」


アレクがこちらを見た。しばらく黙っていた。


「……お前、弟にも同じ言い方をしたのか」


「もっと短く言いました。あの人は短い方が聞くので」


「俺には長く言うのか」


「根拠を出せば納得する方だと思ったので」


アレクは何か言おうとした。やめた。枕に頭を戻した。


「分かった。書類は待つ。——ただ、一つ条件がある」


「条件」


「暇なんだ。何か話し相手くらいはいいだろう」


「話し相手は心臓に負荷をかけません。いいですよ」


「許可制か」


「身体に関わることは全部許可制です」


エリカが薬を取り上げた。


「先に飲んでください」


受け取った。飲み干した。顔をしかめなかった。


***


午後。クラウスが来た。


日課のように兄の顔を見て、椅子に座った。


「顔色がいい」


「本人が一番分かっている。身体が動き始めてるのに何もするなと言われる方が辛い」


クラウスがエリカを見た。


「止めたのか」


「止めました」


「そうだろうな」


アレクが壁にもたれたまま、天井を見た。


「クラウス。一つ聞きたい」


「何だ」


「俺が倒れた経緯を、お前はどう聞いている」


クラウスの目が変わった。


「書簡では、原因不明で意識が戻らないとだけだった。詳しい話は誰もしてこなかった」


「二週間、原因が分からなかったんだ。医師団も、宰相も、誰も」


アレクがクラウスを見た。


「俺は身体が丈夫な方だ。風邪も滅多にひかない。それが急に高熱を出して倒れて、二週間意識が戻らない。心臓に菌がとりついていた。——おかしいと思わないか」


クラウスが黙った。腕を組んだ。


「エリカ」


「はい」


「この病気は、もともと健康な人間がいきなりかかるものなのか」


エリカが手を止めた。薬草を刻んでいた手が、膝の上に降りた。


「……かからないとは言えません。ただ、条件があります。心臓の弁に菌がとりつくためには、まず菌が血の中に入る必要がある。傷口か、口の中の傷か、何か入り口がないといけない」


「俺にはそんな傷はなかった。倒れる前日まで普通に動いていた」


「それが引っかかっています」


エリカの声が低くなった。


「注視した時に、菌がとりついた痕跡は確認できました。でも、どこから入ったのかが見えない。普通の感染なら——口の中か、皮膚の傷か、どこかに入り口の痕が残るはずなんです。それがない」


「ないというのは」


「自然に感染した形跡が見つからない、ということです」


沈黙が落ちた。


(自然じゃない感染。——意図的に菌を入れたということか? でもこの世界で菌を培養する技術は……)


そこまで考えて、別のことが頭をよぎった。


(クラウスさんの病気。あの回復の速さ。ブライテンにいる間に甘草が効きすぎるほど効いた。自然発症なら、副腎がここまで早く戻るのは——)


「原因を追うのは、殿下が立ち上がれるようになってからでも遅くありません。でも——調べます。感染の経路が見つからない理由を」


「頼む」


アレクが言った。


クラウスは頷いただけだった。


***


夕刻。エリカは隣の部屋で薬草の在庫を確認していた。


クラウスがアレクの寝台の横に座っている。声が漏れてきた。小さかった。


聞くつもりはなかった。だが、壁が薄かった。


「——あの医者は、弟に対して随分遠慮がないな」


アレクの声だった。


「あんたにも遠慮してなかっただろう」


「確かに。書類を止められた」


「俺も何度止められたか分からん」


「お前は言うことを聞いたのか」


「……聞いた」


「珍しいな。お前が人の言うことを聞くのは」


しばらく沈黙があった。


「クラウス。あの医者、お前の何だ」


エリカの手が止まった。


「……主治医だ」


クラウスの声は平坦だった。


「聞いているのはそういうことじゃないんだが」


「そういうことだ。それ以上でも以下でもない」


間があった。長い間だった。


「……分かった。お前がそう言うなら、そうなんだろう」


エリカは薬草の束を棚に戻した。手が震えてはいなかった。


ただ、胸の奥で何かが鳴った。王都の行きの馬車の中で気づいた、あの鼓動と同じ音だった。


聞こえないふりをした。薬草を数え直した。


***


——幕間——


エリカが薬草を持って戻っていった。


足音が遠ざかるのを聞いてから、アレクはクラウスの横顔を見た。


弟は窓の外を見ていた。月明かりが差している。


主治医だ、と言った時、弟の手が膝の上で止まっていた。次の動作に移れないまま、数秒。それだけで十分だった。


三年前、馬車に乗る弟を見送った。何も言えなかった。部屋に戻って壁を殴った。殴ったところで弟の病は治らない。何もできなかった。


今、弟が自分の足で立っている。


あの医者が治した。


弟が「主治医だ」と答える時の声と、あの医者の話をしている時の目は、別のものだった。声は平坦だった。目は違った。


「クラウス」


「何だ」


「お前がどう思っているかは、お前の問題だ。俺が口を出すことじゃない」


「……何の話だ」


「ただ、いい医者だ。あれは」


クラウスが窓を見たまま、何も言わなかった。


月が高かった。

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