28話:歩いてるところ見せてくれ
七日目の朝。
アレクの額に触れた。
熱がない。
正確には、まだ微熱は残っている。だが五日前までの燃えるような熱とは別物だった。身体が菌を押し返している熱。戦っている熱。
注視した。
【心臓——僧帽弁の付着物。明確に縮小】
【血流——末梢への塞栓散布、減少】
【脾臓——腫大やや軽減】
(弁の付着物が確実に小さくなっている。塞栓も減った。菌が後退してる。——いける)
脈を取った。安定している。リズムが整ってきている。呼吸も深い。
リーナが薬を持ってきた。
「どうですか」
「山は越えた」
リーナの目が大きくなった。
「ここからは回復に時間がかかる。弁の傷が塞がるまで、薬は続ける。でも——もう死なない」
リーナが薬を置いて、両手を合わせた。何も言わなかった。
***
昼過ぎだった。
アレクに薬を飲ませて、脈を取り終えた時だった。クラウスが来た。日に二度、朝と夜に顔を出していたが、昼に来るのは初めてだった。
「熱が下がったと聞いた」
「リーナが言いましたね」
「廊下ですれ違ったら、走ってきて報告された」
「あの子は……」
クラウスが寝台の横に立った。兄の顔を見ている。
「顔が変わった。——前の顔に戻りかけてる」
「食事が取れるようになれば、もっと戻ります」
クラウスが椅子に座った。
しばらく、二人で黙ってアレクの寝顔を見ていた。
呼吸の音だけが部屋にあった。静かだった。
アレクの指が動いた。
最初は見間違いかと思った。右手の薬指。かすかに。
もう一度動いた。今度は人差し指も。
「クラウスさん」
「見てる」
アレクの瞼が震えた。
長い時間だった。実際には数秒だったかもしれない。
目が開いた。
焦点が合っていない。天井を見ている。瞬きをした。二度。三度。目が動いた。ゆっくりと。天井から、横に。
クラウスの顔で止まった。
しばらく見ていた。
「…………クラウス」
声がかすれていた。二週間使っていない喉だった。
「ああ」
クラウスの声も低かった。
アレクの目がクラウスの顔を見ている。上から下へ。肩。腕。姿勢。
「立っているのか。お前」
「座ってる」
「ここに来るまでは」
「歩いた」
アレクが目を閉じた。開けた。もう一度クラウスを見た。
「でかくなったな。……三年経つと、こうも変わるか」
声がかすれたまま、口元だけが動いた。笑おうとしたのだ。
「杖はどうした」
「いらなくなった」
「本当か」
「嘘じゃない」
アレクがクラウスの身体を見ていた。肩幅。背筋。寝台の横に座っている姿勢。杖がどこにもないことを確認するように。
それから、視線がエリカに来た。
ぼんやりした目だった。だが目の奥に光があった。二週間眠っていた人間の目ではなかった。
「お前を治した人間か」
「主治医のエリカです。お加減はいかがですか」
「正直に言えば、自分がどれだけ悪いのか分かっていない。ただ身体が重いのは分かる。二週間というのは本当か」
「本当です。二週間、意識が戻りませんでした」
「二週間。……そうか」
声が低くなった。自分に言い聞かせるような間だった。
「弟がお世話になった。見ての通り歩いている。三年間、宮廷の医者が何人診ても分からなかったものを、お前が治したと聞いている」
「薬が効いただけです」
「薬を見つけたのはお前だろう。謙遜と事実の区別はつく」
返す言葉がなかった。
「それで、俺の身体は何がどう悪い」
「今説明します。聞けますか」
「聞ける。寝ていただけで頭は働く」
「心臓の弁に、悪いものがとりついていました。言わば腐りの種のようなものです。それが弁を壊しながら塊を作って、血に乗って全身に飛んでいた。高熱も、意識がなかったのも、全部そこから来ています」
アレクは黙って聞いていた。顔をしかめなかった。質問も挟まなかった。
「薬で叩いて、付着物は小さくなっています。ですが弁の傷がまだ残っている。これが塞がるまで薬を続けます」
「時間がかかる」
「数週間です」
「長いな」
「心臓なので。急いで壊していいものではありません」
アレクが天井を見た。
「分かった。お前を信じよう。弟を治した実績がある」
「私はアレク殿下のお身体を今診ています。それ以外のお話は後で」
アレクがこちらを見た。少しだけ目が開いた。面食らった顔だった。
そのまま、エリカを見ていた。目が動かなかった。
クラウスが口元を手で隠した。笑っていた。——だがその目が、一瞬だけ兄の視線の先を追ったのを、エリカは見ていなかった。
「……なるほど。気の強い医者だ」
「気が弱いと務まりません」
「それは確かにそうだろうな。弟の相手をしていたなら尚更だ」
クラウスが小さく咳払いをした。
アレクが目を閉じた。疲れたのだ。目覚めてまだ数分。体力がない。
閉じかけた目が、もう一度開いた。
「クラウス」
「何だ」
「歩いてるところ、見せてくれ。後で」
「……ああ」
目が閉じた。呼吸が穏やかになった。眠りに落ちていった。
クラウスが立ち上がった。窓の方を向いた。
エリカにはクラウスの顔が見えなかった。背中だけが見えた。
しばらく何も言わなかった。
「……三年か」
小さかった。独り言だったかもしれない。
「起きますよ。さっき言った通り」
「ああ。——分かってる」
クラウスが振り返った。目が赤くはなかった。ただ、まばたきが一つ多かった。
「四の刻に来る」
出ていった。
***
翌日。
アレクが目を開けた時、今度は焦点が合っていた。昨日よりも意識がはっきりしている。
「食事の話を先にしてくれ。何が食べられる」
「水と薄い粥からです。胃が二週間動いていないので、いきなり固いものを入れると戻します」
「粥か。まあそうだろうな。どのくらいで普通の食事に戻れる」
「三日ほど粥で胃を慣らして、そこから少しずつ」
「分かった」
粥を匙で運んだ。アレクは自分で受け取ろうとした。
「まだ自分で持たなくていいです」
「持てるが」
「持てるのと持っていいのは違います。腕を上げると心臓に負荷がかかる」
アレクは匙を受け入れた。一口目を飲み込んでから言った。
「医者にものを食べさせてもらうのは初めてだ。侍従の仕事だと思っていた」
「侍従は心臓の弁の状態を見ながら食事の量を判断できません」
「それもそうか」
黙って食べた。三口目あたりで、粥の温度を確かめるようにゆっくり口に運んでいた。急いでいない。身体の声を聞いているのだ。
(この人、自分の身体の感覚に素直だ。クラウスさんは無理をして隠す。兄弟で逆だな)
粥を食べ終えた。
「殿下。心臓の音を確認させてください」
「音というと、胸に耳を当てるのか」
「はい。お休みの間に一度聴いています。起きている状態では心臓の動き方が変わるので、もう一度確認しておきたい」
「構わない」
胸元の衣を自分で開いた。
エリカは寝台の横に膝をついた。左の胸に耳を当てた。
心音が聞こえた。
ドクン。ドクン。力がある。眠っている時より拍動が強い。
雑音を探した。——あった。だが小さくなっている。弁の逆流が減っている。付着物が縮小した分、弁の閉じが良くなっている。
(いい。——いい方向に向かってる)
もう少し聴いた。呼吸の影響を確認したかった。
「息を深く吸ってください。ゆっくり」
アレクが息を吸った。胸が膨らんだ。耳に伝わる心音が変わる。吸気時と呼気時で雑音の強さが微妙に違う。
(吸気で少し強くなる。まだ弁の傷が残っている証拠だけど、前に比べたら——)
「もう一度」
アレクが息を吸った。
肋骨越しの心臓の振動が、耳に直接伝わってくる。強い心臓だった。病に削られても、まだこれだけの力が残っている。
顔を上げた。
アレクがこちらを見ていた。
距離が近かった。耳を当てていたから当たり前だ。だがアレクの目が、こちらの顔をまっすぐ見ていた。表情を読もうとする目だった。何を聴いたのか、結果がどうだったのか、顔から読み取ろうとしている。
「弁の逆流が小さくなっています。付着物が縮小した分、弁の動きが正常に近づいている。このまま薬を続ければ塞がります」
「その顔を見れば分かる。悪い結果の時に、今の顔はしないだろう」
「……分かりますか」
「人の顔を見るのは慣れている。上に立つ人間の最低限の技術だ」
エリカは身を引いた。衣を直そうと手が動いた。胸元の合わせを整えて——
途中でやめた。
(この人はベッカー先生じゃない)
「ありがとうございます。お薬の準備をしますので」
立ち上がった。薬棚に向かった。
背中にアレクの視線を感じた。重くはなかった。ただ、外れなかった。
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