27話:従者は走らない
三日目の朝。
アレクの脈を取った。熱は下がっていない。だが上がってもいない。
薬を飲ませた。匙で少しずつ。嚥下の反射はある。生きている身体の反応だった。
爪を見た。線状出血は変わらない。指先の赤い膨らみも。手のひらの斑も。
変化なし。
(三日では早い。分かってる。分かってるけど——)
注視した。
【心臓——僧帽弁の付着物。変化なし】
変わっていない。付着物はまだ同じ大きさでそこにある。
(まだ菌が生きている。薬の濃度が足りないか——いや、これ以上上げたら肝臓に来る。今の量で続けるしかない)
リーナが薬湯を持ってきた。二杯目。
「熱は」
「変わらない」
「……三日目ですもんね」
リーナも分かっている。ブライテンで疫病をやった。すぐには動かない。
「リーナ。煎じる時、蓋取ってない?」
「取ってません。半刻。弱火。蓋そのまま」
「ありがとう」
疑ったわけではない。確認しただけだ。この薬は手順を一つ間違えたら効かなくなる。
***
四日目。
脈を取った。少しだけ力が戻っている気がした。気のせいかもしれない。
注視した。
【心臓——僧帽弁の付着物。わずかに縮小】
(……縮小? いや、まだ分からない。見たいものが見えている可能性がある。明日もう一度確認する)
自分の目を疑った。自分のスキルを疑うのは初めてだった。
***
五日目。
朝、アレクの額に触れた。
指先が一瞬止まった。
昨日より、わずかに低い。
脈を取った。心拍がほんの少し落ち着いている。
注視した。
【心臓——僧帽弁の付着物。縮小傾向】
今度は疑わなかった。
(効いてる。——菌が減り始めている)
リーナを見た。リーナがこちらの顔を見て、何かを読んだ。
「下がりました?」
「少しだけ。まだ分からない。でも——方向は合ってる」
リーナが小さく息を吐いた。
***
——幕間——
フリッツは廊下に立っていた。
評議の間の扉の前。中からクラウスの声が聞こえている。
「交易市の認可が三ヶ月止まっているのはなぜだ」
文官の声が答えた。
「アレク殿下のご決裁が必要な案件でして——殿下がお倒れになってから——」
「書類はあるのか」
「は、はい」
「持ってこい」
紙の音がした。
フリッツは扉の横に立ったまま、耳を澄ませていた。本来、従者が評議に立ち会う場ではない。だがクラウスが「いろ」と言ったので、いた。
「……この認可条件は誰が書いた」
「商務局の担当官です」
「出店料が市場の相場の倍になっている。これでは小規模の商人が入れない。大きな商会だけが出店して、地元の職人が締め出される」
沈黙が落ちた。
「あの、殿下——そういったものかと——」
「ブライテンの市場を見たことはあるか」
「ブライテン……北部の」
「小さな市場だ。出店料は安い。だから農家も薬草屋も並ぶ。客は値段で選べる。商会が仕切る市場と比べて、品揃えは劣るが価格は安い。どちらが民にとって助かるか、説明がいるか」
文官が何か言った。聞き取れなかった。
「出店料を相場に戻せ。小規模の枠を設けろ。認可はそれを反映した上で俺が出す」
「しかし、商務局との調整が——」
「調整は俺がやる。書類を直して明日持ってこい」
椅子が引かれる音がした。文官が出てきた。顔が白かった。フリッツの横を通り過ぎる時、一度だけ振り返った。
中に入った。クラウスが机に向かっていた。書類が積まれている。
「フリッツ」
「はい」
「水害の報告書はどこだ」
「左の山の下から三番目かと」
クラウスが引き抜いた。目を通し始めた。速い。字を追う目が速い。
フリッツはその横に立っていた。
北の屋敷で三年間、この人を見てきた。寝台から起き上がれない日。階段で息が切れて壁に手をつく日。それでも窓際に立って、街を見ていた。
ブライテンの街を歩いた日のことを思い出した。クラウスが初めて市場を歩いた日。まだ杖をついていた。薬草屋の前で足を止めて、値段を聞いていた。
あの日、クラウスは帰り道に言った。「あの薬草屋の主人、渋い顔で適正価格を出していた。あれが商売というものだろうな」と。
今、同じ人間が、王宮の机で交易市の出店料に赤を入れている。
「殿下」
「何だ」
「水害の報告書ですが、被災地への物資輸送の経路が二つ提案されています」
「見た。南回りと東回りだな」
「南回りは街道が整備されていますが、距離が倍です。東回りは近いですが、途中の橋が老朽化しています」
「橋の修繕にどのくらいかかる」
「確認いたします」
「頼む。——それと、被災地の井戸の状況を調べさせろ」
フリッツの手が止まった。
「井戸、ですか」
「水害の後は井戸が汚染される。飲み水が原因で腹を壊す人間が出る。物資より先に水だ」
ブライテンの裏通りの井戸。腹痛の患者が続いた原因。エリカが突き止めて、煮沸を広めて、結果が出た。
クラウスはあの一件を、ここで使っている。
「……承知いたしました」
「どうした」
「いえ。何でもございません」
クラウスが書類に目を戻した。
フリッツは一礼して部屋を出た。廊下を歩きながら、少しだけ足が速くなっていることに自分で気づいた。
三年前、馬車の中で泣いた。この先に何があるのかも分からず、ただ主人が朽ちていくのを見ることしかできないのだと思って。
今、走りそうになっている。
井戸の調査の手配と、橋の修繕費用の確認。やることがある。この人のために動けることがある。
足音を整えた。従者は走らない。
***
六日目の夜。
アレクの額に触れた。
昨日より明らかに低い。
注視した。
【心臓——僧帽弁の付着物。縮小】
もう疑わなかった。
脈を取った。安定している。心拍も落ち着いてきている。呼吸が深くなっている。
(効いた。——菌が後退してる。弁の付着物が小さくなってる。このまま続ければ——)
扉が開いた。クラウスだった。
「交代に来た」
「少し早いですね」
「政務が片付いた」
椅子に座った。アレクの顔を見た。
「……顔色が違う」
「分かりますか」
「分かる。三日前と全然違う」
「熱が下がり始めています。薬が効いてる」
クラウスの肩が下がった。ほんの少し。力が抜けたのだ。
「明日か明後日には、もう少しはっきりした変化が出ると思います」
「そうか」
「クラウスさんこそ、顔色が悪いですよ。寝てますか」
「寝てる」
「嘘つかないでください。首筋見れば分かります」
クラウスが襟を直した。
「……政務を少しやっている」
「少し?」
「少しだ」
「フリッツさんが廊下を走りかけてましたけど」
「あいつは走らん」
「走りかけてたんです。忙しいんでしょう」
クラウスが黙った。
「あなたが倒れたら、アレク殿下の次に私が診ることになります。患者は少ない方がいいんですけど」
「……分かった。今日は寝る」
「嘘じゃないですね」
「嘘じゃない」
「脈、取りますよ」
「いらん」
「取ります」
手首を取った。脈は少し速い。疲労の脈だった。ただ、甘草を飲み始めてからの安定した基盤は崩れていない。
「甘草は飲んでますか」
「飲んでる。朝と夜」
「なら大丈夫です。——でも寝てください」
「ああ」
クラウスが兄の顔を見た。
「こいつが起きたら、あんたの顔が最初に見えるといいな」
「それは——主治医として当然そうなりますけど」
「そういう意味じゃない」
「…………」
「起きた時に、信頼できる人間の顔が見える。それが一番大事だ。——俺がそうだったから」
エリカの手がクラウスの手首の上で止まった。
クラウスが立ち上がった。手首がエリカの指からすっと抜けた。
「四の刻に来る」
出ていった。
(——今の)
手のひらに、クラウスの脈の残響が残っていた。
アレクの呼吸を聞いた。少し深くなっている。
七日目の朝を待った。
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