26話:壁を殴った人
王太子の病室は、宮廷の東棟の奥にあった。
扉の前に侍従が二人立っていた。クラウスを見て姿勢を正した。
「開けろ」
扉が開いた。
部屋は広かった。天蓋のある寝台。窓は閉め切られて、重い空気が溜まっていた。薬草を焚いた匂いが混じっている。甘すぎる。換気がされていない。
寝台に近づいた。
男が横たわっていた。クラウスより少し年嵩。肩幅が広い。もとは体格のいい人間だったのだろう。頬がこけている。二週間の高熱が身体を削っている。
注視した。
【心臓——僧帽弁に付着物。弁の閉鎖不全】
【血流——微小な塊が末梢に散布】
【脾臓——腫大】
【腎臓——微小な梗塞痕】
息を呑んだ。
(心臓の弁に何かついている。弁が閉じきっていない。そこから血流に小さな塊が飛んで、腎臓にまで詰まった跡がある。脾臓も腫れている——)
手を取った。指先を一本ずつ見た。
あった。左手の中指。爪の下に細い赤黒い線。線状の出血。
右手も見た。薬指の先端に、小さな赤い膨らみ。押した。
アレクの眉がかすかに動いた。意識がないのに、痛みに反応している。
手のひらを返した。右の手のひら。親指の付け根の下に、平たい赤い斑。こちらは押しても反応がない。
(爪下の出血。指先の有痛性の結節。手掌の無痛性の斑。——全部、同じ病気を指してる)
「エリカさん」
リーナが小声で言った。エリカの顔を見ている。
「何が見えてますか」
「心臓に問題がある」
クラウスの視線が来た。
「心臓? 医師団は臓腑の熱だと——」
「違います」
寝台の横に膝をついた。アレクの胸元の衣を開いた。
「何をする」
「聴きます」
胸に耳を当てた。
左の胸。鎖骨の下。肋骨越しに、心臓の音が伝わってくる。
ドクン。ドクン。——そしてその合間に、もう一つの音。低い、ざらついた音。弁が閉じきれずに血が逆流している音。
(やっぱり。雑音がある。——僧帽弁の閉鎖不全。弁についた付着物が弁を壊している)
顔を上げた。
クラウスが立っていた。何も言わなかった。だが、エリカが王太子の胸に耳を当てている絵を見て、何かを飲み込んだ顔をしていた。
「診断がつきました」
「……何だ」
「心臓の弁に、菌が巣を作っています」
「菌」
「目に見えない小さなもの——この世界の言葉で言うなら、腐りの種のようなものです。それが心臓の弁にとりついて、弁を壊しながら塊を作っている。その塊が血に乗って全身に飛んでいる。高熱も、意識がないのも、全部そこから来ています」
クラウスが寝台の兄を見た。
「治るのか」
「菌を叩く薬草があります。ただ、時間がかかる。弁についた巣を薬だけで縮小させるには、高い濃度で長く飲ませ続けないといけない」
「どのくらいだ」
「最初の一週間で熱が下がるかどうか。それで薬が効いているか分かります。そこから先は——弁の回復次第です」
「一週間」
「その間は、私がつきます」
クラウスの手が寝台の縁に触れた。兄の手のすぐ横。触れなかった。
「……なぜ医師団は分からなかった」
「心臓の音を聴いていないからです」
「音?」
「弁が壊れると、血が逆流する時に音が出ます。この世界には、それを聴く道具がない。だから胸に直接耳を当てた」
「それだけのことか」
「それだけのことです。——ただ、知らなければ聴こうとも思わない」
クラウスが何かを言いかけた。やめた。兄の顔を見ていた。
「……頼む」
一言だった。
***
薬草を調合した。
宮廷の薬草庫は品揃えがよかった。ブライテンでは手に入らなかったものがある。
抗菌作用の強い薬草を三種選んだ。単体では弱い。組み合わせて、煎じる温度と時間を変えることで濃度を上げる。前世の知識がなければ思いつかない配合だった。
リーナが横で瓶を並べている。
「この三つですか」
「そう。朝と夕。量は絶対に変えないで」
「煎じる時間は」
「沸騰してから弱火で半刻。蓋を取らない。蒸気と一緒に成分が飛ぶから」
リーナが手順を書き留めた。字がきれいになっている。ブライテンに来た頃は走り書きだった。
「エリカさん」
「何」
「さっき、胸に耳を当ててましたけど——」
「聞こえたの?」
「いえ。ただ、あれ——普通の医者はやらないですよね」
「やらない。知らないから」
「エリカさんは、どこで知ったんですか」
(前世で)
「昔、本で読んだ」
リーナはそれ以上聞かなかった。聞かない子だった。必要なことだけ聞いて、あとは手を動かす。
一杯目の薬を煎じた。匂いが強い。苦い匂い。
アレクの口元に匙で運んだ。意識がない人間に飲ませるのは難しい。喉が動くのを確認しながら、少しずつ。
嚥下を確認した。
(入った。——あとは、効くかどうか)
***
日が暮れた。
リーナを先に休ませた。隣の部屋に簡易の寝台を用意してもらった。
アレクの枕元に座った。脈を取った。熱を測った。変化なし。そんなものだ。一日で変わるなら苦労しない。
窓の外が暗い。宮廷の夜は静かだった。ブライテンとは違う静けさ。虫の声がない。石の建物が音を吸っている。
扉が開いた。
クラウスだった。
「寝ないのか」
「もう少し。次の薬まであと半刻あるので」
クラウスが寝台の反対側に座った。椅子を引いて、兄の顔が見える位置に。
しばらく何も言わなかった。
アレクの呼吸を聞いていた。浅い。でも止まっていない。
「こいつは——」
クラウスが口を開いた。
「子供の頃から、何でもできた」
エリカは黙っていた。
「剣も、馬も、勉強も。俺が一年かかることを三日でやった。嫌な奴だと思うだろう。嫌な奴じゃなかった。それが一番厄介だった」
クラウスの声は低かった。独り言のようだった。
「ジークが死んだ時、この国の全部があいつの肩に乗った。王太子。後継者。何もかも」
「……重かったでしょうね」
「重かっただろう。だがあいつは何も言わなかった」
クラウスが兄の手を見た。
「俺が北に送られる日、馬車のところまで来た。何か言うかと思った。言わなかった。ただ立っていた」
「…………」
「後で聞いた。あの後、部屋に戻って一人で壁を殴ったらしい。フリッツが侍従から聞いた」
フリッツの名前が出た。フリッツはここにいない。クラウスと二人きりだった。
「弟を送り出す日に何も言えなかった人間が、部屋で壁を殴った。——あいつはそういう男だ」
アレクの顔を見た。痩せた頬。閉じた目。もとは強い顔をしていたのだろう。骨格にそれが残っている。
「起きますよ」
エリカが言った。
クラウスがこちらを見た。
「薬が効けば、一週間で熱が下がる。そこからは時間がかかるけど——起きます」
「根拠は」
「心臓の弁はまだ壊れきっていない。弁が動いている限り、菌を叩けば回復の余地がある。二週間意識がないのは熱のせいで、脳がやられているわけじゃない」
「……医者の言葉だな」
「医者ですから」
クラウスが鼻を鳴らした。いつもの癖だった。少しだけ、ブライテンの居間にいた時の顔が戻った。
「あんた、さっき胸に耳を当てた時——」
「はい」
「あれを見ていた侍従は、明日には宮廷中に広めるぞ。追放された女医が王太子の胸に顔を埋めたと」
「埋めてません。当てただけです」
「同じことだ」
「全然違います。医学的に」
クラウスが笑った。小さく。声は出さなかった。
「……任せる。兄を」
「はい」
立ち上がった。扉に向かった。
途中で足を止めた。
「……交代は何時がいい」
「四の刻に薬を飲ませます。その後で」
「分かった」
出ていった。
一人になった。アレクの呼吸を聞いている。
(壁を殴った人。——早く起きてほしい。弟が待ってる)
次の薬の準備に立った。
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