25話:病弱な第三王子
三日目の朝。馬車が王都の城門をくぐった。
リーナが窓に張りついた。
「でかい……」
城壁の高さ。門番の数。通りの幅。ブライテンとは何もかもが違う。
エリカにとっては三年いた街だった。見覚えのある石畳。変わっていない。
変わったのは、隣に座っている人間の方だ。
クラウスが目を開けた。旅装の上着を脱いだ。下に正装を着ていた。フリッツが襟を整えた。
「いつ着替えたんですか」
「昨夜、あんたが寝た後だ」
準備していたのだ。最初から。
馬車が王宮の正門に向かっている。裏口ではなく、正面。
「正門から入るんですか」
「ああ」
それだけだった。
***
馬車が止まった。
フリッツが扉を開けた。先に降りて、手を差し出した。
クラウスはその手を取らなかった。
自分の足で降りた。一段。二段。石畳に靴が鳴った。
杖はない。背筋が伸びている。あの屋敷で寝台に横たわっていた人間と同じ身体だとは思えなかった。
門の前に衛兵が二人立っていた。クラウスの顔を見た。片方が目を見開いた。もう片方は顔を知らなかったらしく、隣を肘で突いた。何か囁いている。
クラウスは気にせず歩き出した。
エリカが続いた。リーナがその後ろ。フリッツが最後尾。
正門を抜けた。回廊に入った。
すれ違う文官が足を止めた。こちらを見て、二度見した。クラウスの顔を見て、足元を見て、もう一度顔を見た。
(足を見ている。——この人が歩いていることが信じられないんだ)
回廊の奥から侍従が駆けてきた。若い男だった。息を切らしている。
「クラウス殿下——」
「着いた。父上に取り次いでくれ」
「は——はい。ただ、陛下は——」
「取り次げ」
侍従が走っていった。
クラウスは止まらなかった。回廊を進んだ。すれ違う人間がみな同じ反応をした。目を見開く。足を見る。立ち止まる。
三年間、この人は「病弱な第三王子」だった。北部に送られた。帰ってこない。いないのと同じ。
その人間が、杖もなしに歩いている。
***
謁見室の手前の控えの間に通された。
待っている間に、壮年の男が現れた。灰色の髪。仕立てのいい服。表情に隙がなかった。
「お帰りなさいませ、殿下。ご回復のご様子、何よりでございます」
声が柔らかかった。笑っている。目が。口が。
(……何だろう。この感じ)
嫌だった。はっきり嫌だった。理由は分からない。スキルは使っていない。ただ、この人の前に立った時、首の後ろが冷たくなった。
「宰相。留守の間、兄を頼むと言ったはずだが」
「もちろん最善を尽くしております。ですが——」
「アレクの状態を聞かせてくれ」
「こちらでは何ですので、お座りになってから」
「ここでいい」
宰相の目が一瞬だけ動いた。クラウスの足元に。すぐに戻した。
「アレク殿下は二週間前に倒れられました。高熱が続き、意識が戻っておりません。宮廷医師団が日夜診ておりますが、原因が特定できず——」
「二週間」
「はい」
「二週間、原因も分からず寝かせていた」
「殿下、医師団も全力を——」
「全力の結果が原因不明か」
宰相が黙った。一瞬だった。すぐに表情を戻した。
「仰る通りかもしれません。私としても歯がゆい限りです。——殿下にお考えが?」
「専属の医師を連れてきた」
宰相の視線がエリカに来た。
目が合った。品定めをする目だった。上から下。服装。手。鞄。
「失礼ですが——どちらの?」
「エリカだ。俺の主治医を務めている」
「エリカ。——以前、宮廷医師団におられた方ですか」
「ええ」
エリカが答えた。
宰相が微笑んだ。穏やかに。
「なるほど。殿下のご回復は、この方のおかげでしたか。それは頼もしい」
(この人、笑い方が変わらない。何を聞いても同じ顔をしている)
「宮廷医師団に話を通す」
「それは——少々お待ちを」
宰相が一歩前に出た。
「お気持ちは理解いたします。ですが、殿下がお連れになった医師に王太子を診させるとなると、手続きが必要です。宮廷医師団を差し置くことになりますので」
「差し置くつもりはない。だが二週間動けなかった人間に任せ続けるつもりもない」
「もちろんです。ただ——」
宰相の声が少しだけ低くなった。
「万が一、ということもございます。医師団をお退けになった上で、殿下が個人的にお連れした医師に王太子を委ねて——もし結果が伴わなかった場合、殿下のお立場に関わります」
(——今、何て言った)
笑っている。穏やかに。心配しているふりをしている。
(心配じゃない。これは——保険だ。失敗したらクラウスさんの責任になると、今この場で言った)
クラウスは表情を変えなかった。
「俺の立場の心配をしてくれるのか。ありがたい」
「殿下のためを思えばこそ」
「なら聞くが——医師団にこのまま任せて、兄を助けられるのか」
宰相が答えなかった。
「助けられるなら任せる。二週間でできなかったことが、これからできるなら。——だが王太子を預かりながら何もできず死なせたとなれば、それは医師団の責任だ。俺の立場の話をするなら、そちらの立場もお考えになったらどうですか」
宰相の笑顔が消えなかった。一瞬も。
「……仰る通りです。私としても、殿下のお力になれるのは何よりです。医師団には私から話しておきましょう」
「頼む」
宰相が一礼して去っていった。足音が静かだった。
扉が閉まった。
エリカはクラウスを見た。クラウスは窓の外を見ていた。
「……あの人が、宰相」
「コンラート。父の右腕だ。——いや、もう右腕なんてものじゃない。この国の実質的な主だ」
「クラウスさん」
「何だ」
「あの人、ずっと同じ顔をしていました」
クラウスがこちらを見た。
「何を言われても表情が変わらない。それは——普通じゃないです」
「気づいたか」
「医者は顔を見ます」
クラウスが少しだけ口角を上げた。笑いではなかった。
「あの男の前では、言葉を信じるな。言葉以外を見ろ」
「そのつもりです」
「……あんたは向いてるかもしれんな。政治に」
「向いてません。でも、身体が嘘をつけないのは宮廷でも同じです」
クラウスが何か言いかけた。やめた。
「アレクのところに行く。来い」
立ち上がった。
リーナが入口の壁際に立っていた。ずっと黙っていた。エリカと目が合った時、小さく頷いた。
三人で廊下に出た。フリッツが前を歩いた。
王太子の病室に向かった。
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