24話:同じ影がちらつく
馬車が街道に出て半刻。リーナが窓から身を引っ込めた。
「エリカさん。クラウスさんって、すごく元気になりましたよね」
向かいの席でクラウスが目を開けた。
「前に診療所に来た時、階段で息切れしてたじゃないですか。今、自分で馬車乗りましたよね。手も借りずに」
「……見てたのか」
「見てました。あの時フリッツさんが横でずっと手を添えてて、でもクラウスさんが払ってて」
フリッツが小さく咳払いをした。
「甘草が効いてるんです」
エリカが言った。
「甘草って——毒草の?」
「毒草じゃない。この国でそう扱われているだけ」
クラウスが言った。短く。
リーナの目がエリカとクラウスの間を行き来した。
「……なんか、お二人の間でだけ話が進んでませんか」
沈黙。
「リーナ。王都まで三日ある。話しておくことがいくつかある」
「はい」
「クラウスさんは、この国の第三王子です」
リーナの口が開いた。閉じなかった。
視線がクラウスに行った。フリッツに行った。馬車の内装に行った。封蝋のついた書簡の束に行った。またクラウスに戻った。
「……あの、えっと」
「敬語はいらん」
「いや関係なくて——えっ? 王子?」
「ああ」
「王子が——うちの診療所で——あの椅子に座って——」
「座った」
リーナが両手で顔を覆った。
「ジャム食べてましたよね?」
「うまかった」
「えっ——えっ——」
「落ち着きなさい」
「落ち着けません!」
フリッツが茶を注いだ。どこから出したのか分からない携帯用の茶器だった。リーナに差し出した。リーナは両手で受け取って、三口で飲み干した。
「……落ち着きました」
「早いな」
「切り替えは早い方です」
***
リーナが茶碗を膝に置いた。目が変わっていた。
「倒れたご家族って——王族の方ですか」
「兄だ。第二王子のアレク。王太子にあたる」
「王太子が原因不明で倒れてる。——それで、エリカさんが診に行くんですか」
「呼ばれてない。私が行くと言った」
「宮廷医師団がいるのでは」
リーナが言った。まっすぐだった。
「……エリカさんって、元宮廷医師団でしたよね」
エリカが一拍置いた。
「前からちょっと気になってたんですけど——元、って」
「追放された」
「ついほ——」
「担当していた患者の処方を変えた。それが問題にされて、主席医師の処方ミスの責任を被せられた」
リーナが黙った。
「告発から三日で裁定が出た。書類も証人も全部揃っていた」
「三日?」
「普通は三日では無理だ」
クラウスが言った。腕を組んでいた。
「裁定には手続きがいる。証人を揃えるにも時間がかかる。ましてエストール侯爵家の担当医の処分だ。侯爵の了承なしに動けるわけがない」
「了承が出ていたんですか」
「出ていた。——つまり、誰かが告発の前から段取りを組んでいた」
エリカは窓の外を見た。
(ヴェルナーにそんな段取り力はない。あの人は保身には長けていたけれど、三日で書類と証人を揃えるような人間じゃない。——じゃあ、誰が)
「追放された先がブライテンだったのは偶然か」
「行き先は自分で選びました。北に空きがあると聞いて」
「空きがあると誰が言った」
「……医師団の事務官です」
クラウスがフリッツを見た。フリッツが小さく頷いた。何の確認かは分からなかった。
「ヴェルナーって——エリカさんの処方を引き継いだ人ですか」
リーナが言った。
「そう。レナートの」
「レナートくんの」
リーナの声が少し柔らかくなった。
「あの子、元気にしてます? 手紙来てましたよね」
「来てた。——ただ、少し問題がある」
「問題?」
エリカが鞄からレナートの手紙を出した。五通。馬車の揺れで紙が震えた。
「レナートに毎日の記録をつけてもらっていた。食事。薬を誰が持ってきたか。体調。全部」
「さすがエリカさん……」
「記録を見ると、悪化する日に薬を持ってくる人間が、全部同じだった」
リーナの顔から表情が消えた。
「……それって」
「ハインツという侍従。他の人が持ってくる日は調子がいい」
クラウスが腕を解いた。
「俺がエストール侯爵に手紙を出した。侯爵が動いて、今はレナートの周辺に目が行っている」
「侯爵って——レナートくんのお父さん、ですよね。お父さんが気づいてなかったんですか」
「気づいていなかった」
エリカが言った。それ以上は言わなかった。
リーナが手紙を見た。レナートの几帳面な字が並んでいる。日付。食事。名前。体調。毎日。一日も欠かさず。
「……この子、すごいですね。十四歳で、毎日これ」
「頼んだことを全部やってくれた」
「エリカさんのことが好きなんですよ、この子」
軽く言った。リーナは軽く言った。
クラウスの指が膝の上で動いた。小さく。一瞬だけ。
(……今の、何だろう)
エリカの視線がクラウスの手に行きかけた。クラウスはもう窓の外を見ていた。
「好きとかじゃなくて。あの子は真面目なだけ」
「真面目な子が全員ここまでやりますか?」
「やる子はやる」
「やらないですよ普通」
「リーナ」
「はい」
「話を戻していい?」
「あ、はい。すみません」
***
「問題は、王都に戻った時のことだ」
クラウスが姿勢を変えた。声のトーンが変わった。ブライテンの居間で話していた時とは違う。
「追放された宮廷医師が、第三王子の専属医として帰ってくる。——向こうがどう受け取るか、分かるか」
リーナを見ていた。
「……面白くないと思います。追い出した人間が戻ってくるわけですから」
「それだけじゃない」
フリッツが口を開いた。珍しかった。
「エリカ先生を追放した判断が誤りだったと、暗に突きつけることになります。宮廷医師団の面目に関わる」
「面目って——エリカさんが正しかったのに?」
「正しかったからまずい」
クラウスが言った。
「正しい人間が戻ってくると、間違えた人間の立場がなくなる。なくなると分かっている人間は、全力で潰しにくる」
リーナが口を引き結んだ。
「宮廷医師団は父の代から変わっとらん。新しいことを嫌い、序列を守ることで利益を得ている連中だ。そこにあんたが——」
エリカを見た。
「戻る」
「ええ」
「何の後ろ盾もなく」
「あなたがいます」
クラウスが一瞬、黙った。
「……俺は『病弱な第三王子』だ。三年、北にいた。宮廷での発言力はない」
「でもアレク殿下が倒れている今、動ける王族はあなただけです」
「それは——」
「クラウスさん」
エリカの声が静かだった。
「あなたが馬車に乗れるくらい回復しているのを、宮廷の人間はまだ知らないんですよね」
クラウスが口を閉じた。
フリッツの目が細くなった。
「知らん。——北で朽ちていると思っているだろう」
「なら、それが武器になりませんか」
クラウスがエリカを見た。長い間。
「……あんた、医者の顔でそういうことを言う」
「医者です」
「ああ。分かっている」
馬車が揺れた。しばらく誰も喋らなかった。
***
日が傾き始めた。
リーナが窓の外を見ていた。
「甘草のこと、もう少し聞いていいですか」
「何」
「この国だけ毒草扱いなんですよね。隣の国では普通に使ってるって」
「フリッツが調べた」
「はい。北部の交易商から確認しました。隣国では薬草として普通に流通しています」
「誰が禁忌にしたんですか」
沈黙が落ちた。
「分からん」
クラウスが言った。
「宮廷の薬草目録に『過量にて死亡例あり、使用を忌避すべし』と記載がある。だが、いつ誰が書いたかは——調べたが出てこなかった」
「出てこない?」
「記録がない。あるいは消されている」
エリカは手紙の束を鞄に戻した。
(甘草が流通していれば、クラウスさんの病気はもっと早く治療できた。三年も苦しむ必要はなかった。——誰かが、それを防いだ)
「エリカさん」
リーナが言った。
「私、薬草のことしか分からないけど——毒草扱いにするって、すごく大変ですよね。目録に載せて、流通を止めて、教育も変えないといけない。一人の医者にできることじゃない」
「……そうだね」
「もっと上の人間だ」
クラウスが言った。
「甘草の禁忌。俺の追放。あんたの追放。アレクの病。——全部バラバラに見えて、全部の奥に同じ影がちらつく」
「誰ですか」
エリカが言った。
「分からん。分からんが——父は何年も政を宰相に任せきりだ。この国で、宰相の意に反して動けることはほとんどない」
馬車が揺れた。
「王都に着いたら、まずアレクを診る。それが最優先だ。他のことは——」
「見えてくるものから判断する」
「ああ」
窓の外が暗くなり始めていた。
フリッツが毛布を出した。リーナに一枚。エリカに一枚。クラウスにも一枚。クラウスは受け取らなかった。フリッツは何も言わずに膝に置いた。
リーナが毛布にくるまった。
「エリカさん」
「何」
「……王都、怖いですね」
「怖いよ」
「でも行くんですよね」
「行く」
リーナが毛布の中で頷いた。
「私も行きます」
「もう馬車の中だよ」
「念押しです」
クラウスが鼻を鳴らした。
馬車が暗い街道を進んでいく。王都まで、あと二日。
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