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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第1章:ブライテン編

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23話:身体は嘘をつけない

朝。診療所。


患者は二人。一人は咳の老婆。もう一人は指を切った子供。日常が戻りつつあった。


リーナが包帯を巻いている。手つきが安定している。巻き終わりの処理もきれいになった。


「エリカさん。午後は裏通りにジャム配ってきてもいいですか」


「行っておいで」


午前が終わった。静かだった。


***


昼過ぎ。扉が叩かれた。


開けると、フリッツが立っていた。息を切らしている。フリッツが息を切らしているのを初めて見た。


「先生。クラウス様がお呼びです。すぐに」


「何かありましたか」


「——お越しいただければ」


フリッツの顔を見た。いつもの穏やかさがなかった。


鞄を取って走った。


***


屋敷。居間。


クラウスが立っていた。窓際ではなく、部屋の真ん中に。手に書簡を持っていた。封蝋が割れている。


「クラウスさん。どうしました」


「兄が倒れた」


声が低かった。


「……お兄さん」


「アレク。——俺の兄が、王都で倒れた。原因不明で意識が戻らないと」


部屋の空気が変わった。


「戻る」


クラウスが書簡を机に置いた。


「戻るって——王都に?」


「ああ」


「では、甘草の処方を——」


「帰り支度の話じゃない。座れ」


座った。


クラウスがこちらを見た。真っ直ぐに。いつもの飄々とした壁がなかった。


「あんたには話しておく。——俺はこの国の第三王子だ」


呼吸が止まった。


「第一王子は数年前に死んだ。知っているな」


知っている。宮廷にいた頃に聞いた。


「アレクが第二王子で、今の王太子だ。王位を継ぐのはあいつしかいない。そのアレクが倒れた」


「だから戻る」


「ああ。俺がいたところでどうにもならんが、王族としての義務がある」


(王子。——この人が)


フリッツの「殿」。封蝋のついた書簡。侯爵に手紙を出せる立場。排水溝に使った金。全部繋がった。全部最初から見えていた。見えていたのに——読めなかった。


「あんたはブライテンに残れ」


「…………え?」


「ここにはあんたが必要だ。仕組みはできた。リーナもいる。だがあんたがいなくなれば——」


「待ってください。あなたの主治医は私です。甘草の管理は——」


「処方を書いて置いていけ。飲み方は分かっている」


「それは、そうですけど——」


「王宮は政治の世界だ。あんたが来ても何もできない。それに——」


クラウスが一瞬、言葉を切った。視線がこちらに来て——逸れた。窓でもなく、机でもなく、行き場のない方向に。


「危険だ」


「危険」


「俺の兄が原因不明で倒れている。父は何年も政を宰相に任せきりだ。王宮で何が起きているか分からん。そんな場所にあんたを——」


「私の心配をしてるんですか」


「患者の安全を確保する義務が医者にあるなら、医者の安全を確保する義務が患者にあってもいいだろう」


(この人は。——正しいことを言っている。全部正しい。ブライテンに必要。仕組みがある。王宮は危険。全部合っている)


でも。


「クラウスさん」


「何だ」


「前にも同じことがありましたよね」


「何の話だ」


「私が大丈夫ですって言った時。あなたは信じなかった」


クラウスの表情が動いた。


「あの時あなたは、私の身体がそう言ってないって見抜きました。口では大丈夫と言っているのに、身体は全然大丈夫じゃないって」


「…………」


「今のあなた、同じに見えます」


クラウスが口を開いた。閉じた。喉が動いた。


「……何が言いたい」


「残れって言いながら、顔が残ってほしいと言っていない」


沈黙が落ちた。長い沈黙だった。


クラウスの手が膝の上で握られた。開いた。また握られた。


「あなたが言ったんですよ。周りを見ろって。——ブライテンは回ります。リーナがいます。ベッカー先生がいます。グスタフ先生もいる。仕組みはできました。あなたが作ってくれた排水溝も、ディーターさんが引き継ぎます」


「…………」


「私がここに残る理由がない。でも、あなたの傍を離れる理由もない」


クラウスが窓の方を向いた。横顔。首筋が見えた。


脈が打っていた。


襟の上、鎖骨の近く。目で分かるほど、速く。


この人の安静時の脈を、もう何ヶ月も診てきた。毎日取ってきた。六十台前半の、穏やかなリズム。


今打っているのは、それとはまるで違う速さだった。


口が「残れ」と言っている。首筋が、全く別のことを言っている。


——レナートの顔が浮かんだ。「先生が来ると胸のここがぎゅってなるんです」と言った、あの顔。


あの時は分からなかった。見えていたのに読めなかった。身体は嘘をつかないのに、読む側が分からなかった。


今は分かる。


「……脈、速いですよ」


クラウスの手が首元に動きかけた。途中で止めた。膝に戻した。


「……甘草のせいだ」


「甘草は心拍を上げません」


「……気温だ」


「秋ですけど」


「…………」


「さっき脈を取った時は六十二でした。今は明らかにそれより速い。残れって言い始めてから変わりました」


クラウスが天井を見た。長い時間。


それから、小さく息を吐いた。


「……あんたの前では、何一つ隠せんな」


「私の前じゃなくて、身体が隠せないんです」


「同じことだ」


「違います」


「どう違う」


「身体は誰の前でも嘘をつけない。でも、読めるのは——」


言いかけて、止めた。


クラウスがこちらを見た。


「読めるのは、何だ」


「……ずっと診てきた人だけです。毎日脈を取って、毎日顔を見て。だから分かる」


言ってから、胸の奥が鳴った。自分の言葉に自分で気づかされたような感覚。でも今はそれを考える余裕がなかった。


クラウスが黙った。


首筋の脈が、まだ速かった。でも少しだけ——落ち着き始めていた。


安心した人の脈だった。


廊下の奥で、足音が止まっていた。


「フリッツ」


クラウスが声を上げた。


「……聞いていたか」


間があった。


「お茶をお持ちいたします」


足音が遠ざかった。穏やかに。


クラウスが天井を見たまま言った。


「……あの男は、こういう時に何も言わん」


「いい人ですね」


「余計なことを言わんだけだ」


「それがいい人ってことですよ」


しばらく何も言わなかった。フリッツが茶を持ってきた。二人分。盆を置いて、一礼して、出ていった。


出ていく時の口元が、少しだけ緩んでいたのを、見逃さなかった。


***


茶を飲んだ。


「エストール侯爵から返信が来ました」


フリッツが封書を持ってきた。クラウスが開けた。目を通して、エリカに渡した。


(ハインツの件は侯爵が直接動く。レナートの周辺に人を配置する。——この子の親が、直接守りに入ってくれる)


「侯爵が動いてくれるなら、レナートは当面は安全です」


「ああ。——それでも行くのか」


「行きます。あなたの主治医ですから」


クラウスが鼻を鳴らした。


「好きにしろ」


***


診療所に戻った。


リーナがジャム配りから帰ってきていた。


「おかえりなさい! ——あれ、エリカさん、何かありました?」


「うん。少し大きな話がある」


椅子に座った。リーナも座った。


「王都に行くことになった」


リーナの目が大きくなった。


「クラウスさんのご家族が倒れて、クラウスさんが王都に戻る。私は主治医として同行する」


「いつですか」


「できるだけ早く。数日中に」


リーナが黙った。少しの間だけ。


「王都って、薬草の種類違いますか」


当然のように言った。行くかどうかではなく、行く前提で。


「……来るの?」


「行きますよ。エリカさん一人で行かせるわけないじゃないですか」


「ブライテンの診療所は」


「ベッカー先生がいます。グスタフ先生もいます。仕組みもできてます。——エリカさんが言ってたことですよ」


(この子に自分の言葉を返されるのは、これで何度目だろう)


「……来て」


「はい!」


***


翌日。ベッカーの家を訪ねた。


ベッカーは庭にいた。杖をついて、薬草畑の間に立っていた。ハーゲブッテの茂みに新しい芽が出ている。


「先生。王都に行くことになりました」


「……聞いた。フリッツから」


「診療所をお願いします」


ベッカーが杖で地面を叩いた。


「三十年やった場所だ。今さら頼まれなくても分かっとる」


「はい」


「リーナを連れて行くんだろう」


「あの子が来ると言ったので」


「そうか」


ベッカーがハーゲブッテの茂みを見た。


「来年の実は、わしが摘んでおく」


「……ありがとうございます」


「礼はいい。帰ってきたら取りに来い」


***


出発の朝。


馬車がクラウスの屋敷の前に停まっていた。フリッツが荷物を積んでいる。


クラウスが屋敷の前に立っていた。旅装。杖は持っていない。自分の足で立っている。


リーナが走ってきた。鞄を二つ抱えている。


「すみません! ジャムの瓶が入りきらなくて!」


「何瓶持ってきたの」


「十瓶です! 王都でも配ります!」


「配らなくていい」


「配ります!」


クラウスが横で小さく笑った。


「にぎやかだな」


「いつもこうです」


馬車に乗った。リーナが窓から身を乗り出した。


「ベッカー先生ーー! 行ってきまーす!」


遠くの庭から、杖を上げる影が見えた。


馬車が動き出した。


ブライテンの城壁が小さくなっていく。灰色の石。低い壁。門番が欠伸をしている。


窓の外を見ていた。畑が流れていく。


隣でクラウスが目を閉じていた。隣とは言っても向かいの席だが。フリッツが横で静かに座っている。リーナが反対側の窓から外を見て、何かをしきりに指差している。


(ブライテン。——また帰ってくる)


馬車の揺れの中で、ふと気づいた。自分の鼓動がうるさい。


さっきからではない。あの居間で「残れ」と言われた時から。「好きにしろ」と言われた時から。——もっと前から。フリッツが息を切らして診療所に来た時から、ずっと速かった。


クラウスの首筋を読んでいる間、自分の身体の声を、自分だけが聞いていなかった。


向かいの席でクラウスが目を閉じている。穏やかな顔だった。


(……お互い、身体は正直だ)


ポケットの中に、ベッカーの記録帳の最後の頁を破って持ってきた紙がある。裏通りの地図。患者の分布。赤い点。


それと、レナートの手紙。五通分。


全部持っていく。


馬車が揺れた。街道に出た。王都まで三日。


目を閉じた。

一章「ブライテン編」をお読みいただきありがとうございました!。

ここまでの感想、一言でもレビューに書いていただけたらとても嬉しいです。次の章への力になります。

もちろん【★★★★★】やブックマークも引き続き励みになります!

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