23話:身体は嘘をつけない
朝。診療所。
患者は二人。一人は咳の老婆。もう一人は指を切った子供。日常が戻りつつあった。
リーナが包帯を巻いている。手つきが安定している。巻き終わりの処理もきれいになった。
「エリカさん。午後は裏通りにジャム配ってきてもいいですか」
「行っておいで」
午前が終わった。静かだった。
***
昼過ぎ。扉が叩かれた。
開けると、フリッツが立っていた。息を切らしている。フリッツが息を切らしているのを初めて見た。
「先生。クラウス様がお呼びです。すぐに」
「何かありましたか」
「——お越しいただければ」
フリッツの顔を見た。いつもの穏やかさがなかった。
鞄を取って走った。
***
屋敷。居間。
クラウスが立っていた。窓際ではなく、部屋の真ん中に。手に書簡を持っていた。封蝋が割れている。
「クラウスさん。どうしました」
「兄が倒れた」
声が低かった。
「……お兄さん」
「アレク。——俺の兄が、王都で倒れた。原因不明で意識が戻らないと」
部屋の空気が変わった。
「戻る」
クラウスが書簡を机に置いた。
「戻るって——王都に?」
「ああ」
「では、甘草の処方を——」
「帰り支度の話じゃない。座れ」
座った。
クラウスがこちらを見た。真っ直ぐに。いつもの飄々とした壁がなかった。
「あんたには話しておく。——俺はこの国の第三王子だ」
呼吸が止まった。
「第一王子は数年前に死んだ。知っているな」
知っている。宮廷にいた頃に聞いた。
「アレクが第二王子で、今の王太子だ。王位を継ぐのはあいつしかいない。そのアレクが倒れた」
「だから戻る」
「ああ。俺がいたところでどうにもならんが、王族としての義務がある」
(王子。——この人が)
フリッツの「殿」。封蝋のついた書簡。侯爵に手紙を出せる立場。排水溝に使った金。全部繋がった。全部最初から見えていた。見えていたのに——読めなかった。
「あんたはブライテンに残れ」
「…………え?」
「ここにはあんたが必要だ。仕組みはできた。リーナもいる。だがあんたがいなくなれば——」
「待ってください。あなたの主治医は私です。甘草の管理は——」
「処方を書いて置いていけ。飲み方は分かっている」
「それは、そうですけど——」
「王宮は政治の世界だ。あんたが来ても何もできない。それに——」
クラウスが一瞬、言葉を切った。視線がこちらに来て——逸れた。窓でもなく、机でもなく、行き場のない方向に。
「危険だ」
「危険」
「俺の兄が原因不明で倒れている。父は何年も政を宰相に任せきりだ。王宮で何が起きているか分からん。そんな場所にあんたを——」
「私の心配をしてるんですか」
「患者の安全を確保する義務が医者にあるなら、医者の安全を確保する義務が患者にあってもいいだろう」
(この人は。——正しいことを言っている。全部正しい。ブライテンに必要。仕組みがある。王宮は危険。全部合っている)
でも。
「クラウスさん」
「何だ」
「前にも同じことがありましたよね」
「何の話だ」
「私が大丈夫ですって言った時。あなたは信じなかった」
クラウスの表情が動いた。
「あの時あなたは、私の身体がそう言ってないって見抜きました。口では大丈夫と言っているのに、身体は全然大丈夫じゃないって」
「…………」
「今のあなた、同じに見えます」
クラウスが口を開いた。閉じた。喉が動いた。
「……何が言いたい」
「残れって言いながら、顔が残ってほしいと言っていない」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
クラウスの手が膝の上で握られた。開いた。また握られた。
「あなたが言ったんですよ。周りを見ろって。——ブライテンは回ります。リーナがいます。ベッカー先生がいます。グスタフ先生もいる。仕組みはできました。あなたが作ってくれた排水溝も、ディーターさんが引き継ぎます」
「…………」
「私がここに残る理由がない。でも、あなたの傍を離れる理由もない」
クラウスが窓の方を向いた。横顔。首筋が見えた。
脈が打っていた。
襟の上、鎖骨の近く。目で分かるほど、速く。
この人の安静時の脈を、もう何ヶ月も診てきた。毎日取ってきた。六十台前半の、穏やかなリズム。
今打っているのは、それとはまるで違う速さだった。
口が「残れ」と言っている。首筋が、全く別のことを言っている。
——レナートの顔が浮かんだ。「先生が来ると胸のここがぎゅってなるんです」と言った、あの顔。
あの時は分からなかった。見えていたのに読めなかった。身体は嘘をつかないのに、読む側が分からなかった。
今は分かる。
「……脈、速いですよ」
クラウスの手が首元に動きかけた。途中で止めた。膝に戻した。
「……甘草のせいだ」
「甘草は心拍を上げません」
「……気温だ」
「秋ですけど」
「…………」
「さっき脈を取った時は六十二でした。今は明らかにそれより速い。残れって言い始めてから変わりました」
クラウスが天井を見た。長い時間。
それから、小さく息を吐いた。
「……あんたの前では、何一つ隠せんな」
「私の前じゃなくて、身体が隠せないんです」
「同じことだ」
「違います」
「どう違う」
「身体は誰の前でも嘘をつけない。でも、読めるのは——」
言いかけて、止めた。
クラウスがこちらを見た。
「読めるのは、何だ」
「……ずっと診てきた人だけです。毎日脈を取って、毎日顔を見て。だから分かる」
言ってから、胸の奥が鳴った。自分の言葉に自分で気づかされたような感覚。でも今はそれを考える余裕がなかった。
クラウスが黙った。
首筋の脈が、まだ速かった。でも少しだけ——落ち着き始めていた。
安心した人の脈だった。
廊下の奥で、足音が止まっていた。
「フリッツ」
クラウスが声を上げた。
「……聞いていたか」
間があった。
「お茶をお持ちいたします」
足音が遠ざかった。穏やかに。
クラウスが天井を見たまま言った。
「……あの男は、こういう時に何も言わん」
「いい人ですね」
「余計なことを言わんだけだ」
「それがいい人ってことですよ」
しばらく何も言わなかった。フリッツが茶を持ってきた。二人分。盆を置いて、一礼して、出ていった。
出ていく時の口元が、少しだけ緩んでいたのを、見逃さなかった。
***
茶を飲んだ。
「エストール侯爵から返信が来ました」
フリッツが封書を持ってきた。クラウスが開けた。目を通して、エリカに渡した。
(ハインツの件は侯爵が直接動く。レナートの周辺に人を配置する。——この子の親が、直接守りに入ってくれる)
「侯爵が動いてくれるなら、レナートは当面は安全です」
「ああ。——それでも行くのか」
「行きます。あなたの主治医ですから」
クラウスが鼻を鳴らした。
「好きにしろ」
***
診療所に戻った。
リーナがジャム配りから帰ってきていた。
「おかえりなさい! ——あれ、エリカさん、何かありました?」
「うん。少し大きな話がある」
椅子に座った。リーナも座った。
「王都に行くことになった」
リーナの目が大きくなった。
「クラウスさんのご家族が倒れて、クラウスさんが王都に戻る。私は主治医として同行する」
「いつですか」
「できるだけ早く。数日中に」
リーナが黙った。少しの間だけ。
「王都って、薬草の種類違いますか」
当然のように言った。行くかどうかではなく、行く前提で。
「……来るの?」
「行きますよ。エリカさん一人で行かせるわけないじゃないですか」
「ブライテンの診療所は」
「ベッカー先生がいます。グスタフ先生もいます。仕組みもできてます。——エリカさんが言ってたことですよ」
(この子に自分の言葉を返されるのは、これで何度目だろう)
「……来て」
「はい!」
***
翌日。ベッカーの家を訪ねた。
ベッカーは庭にいた。杖をついて、薬草畑の間に立っていた。ハーゲブッテの茂みに新しい芽が出ている。
「先生。王都に行くことになりました」
「……聞いた。フリッツから」
「診療所をお願いします」
ベッカーが杖で地面を叩いた。
「三十年やった場所だ。今さら頼まれなくても分かっとる」
「はい」
「リーナを連れて行くんだろう」
「あの子が来ると言ったので」
「そうか」
ベッカーがハーゲブッテの茂みを見た。
「来年の実は、わしが摘んでおく」
「……ありがとうございます」
「礼はいい。帰ってきたら取りに来い」
***
出発の朝。
馬車がクラウスの屋敷の前に停まっていた。フリッツが荷物を積んでいる。
クラウスが屋敷の前に立っていた。旅装。杖は持っていない。自分の足で立っている。
リーナが走ってきた。鞄を二つ抱えている。
「すみません! ジャムの瓶が入りきらなくて!」
「何瓶持ってきたの」
「十瓶です! 王都でも配ります!」
「配らなくていい」
「配ります!」
クラウスが横で小さく笑った。
「にぎやかだな」
「いつもこうです」
馬車に乗った。リーナが窓から身を乗り出した。
「ベッカー先生ーー! 行ってきまーす!」
遠くの庭から、杖を上げる影が見えた。
馬車が動き出した。
ブライテンの城壁が小さくなっていく。灰色の石。低い壁。門番が欠伸をしている。
窓の外を見ていた。畑が流れていく。
隣でクラウスが目を閉じていた。隣とは言っても向かいの席だが。フリッツが横で静かに座っている。リーナが反対側の窓から外を見て、何かをしきりに指差している。
(ブライテン。——また帰ってくる)
馬車の揺れの中で、ふと気づいた。自分の鼓動がうるさい。
さっきからではない。あの居間で「残れ」と言われた時から。「好きにしろ」と言われた時から。——もっと前から。フリッツが息を切らして診療所に来た時から、ずっと速かった。
クラウスの首筋を読んでいる間、自分の身体の声を、自分だけが聞いていなかった。
向かいの席でクラウスが目を閉じている。穏やかな顔だった。
(……お互い、身体は正直だ)
ポケットの中に、ベッカーの記録帳の最後の頁を破って持ってきた紙がある。裏通りの地図。患者の分布。赤い点。
それと、レナートの手紙。五通分。
全部持っていく。
馬車が揺れた。街道に出た。王都まで三日。
目を閉じた。
一章「ブライテン編」をお読みいただきありがとうございました!。
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