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【第二章完結】追放された宮廷女医は身体の嘘を見逃さない ~その病、この世界の誰にも治せませんが私は知っています~  作者: Lihito
第1章:ブライテン編

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22話:前例ができた

目が覚めた。


天井が高い。見慣れない部屋。クラウスの屋敷の客間だと思い出すまでに数秒かかった。


身体が軽い。喉の渇きもない。腹の違和感も消えている。


枕元の塩水を一口飲んだ。味がちゃんと分かる。


(止まった。早期で止められた)


着替えて、居間に行った。


クラウスが椅子にいた。本を持っている。フリッツが茶を用意してくれた。


「おはようございます」


「……起きたか。顔色はまともだな」


「おかげさまで。——ご迷惑おかけしました」


「かけてない」


脈を取った。安定。甘草も正しく飲んでいる。


「ありがとうございました。休ませてもらえたから早く治りました」


「礼は要らん。人に休めと言った手前、追い出すわけにいかんだろう」


フリッツが茶を出してくれた。座って飲んだ。温かかった。


しばらく、何でもない話をした。コレラの状況。患者数。リーナが回していること。グスタフが使い物になり始めたこと。


話しながら、頭の片隅にずっとレナートの手紙があった。昨夜読んだ便箋。ハインツの名前。二十日分のデータ。


黙った。


「何だ」


クラウスが本を閉じた。


「どうかしたのか。話し方が途中から変わった」


(この人は本当に——)


「……少し、考えていることがあって」


「ここの患者のことか」


「いえ。王都に置いてきた患者のことです」


鞄からレナートの手紙を出した。四通目と五通目。机の上に広げた。


「ブライテンに来る前に王都で診ていた子がいます。十四歳の男の子で、黄疸が出ていた。私が去った後もヴェルナーという医師に指示書を預けて、治療を続けてもらっています」


クラウスが手紙を手に取った。


「その子に、毎日の記録をつけてもらいました。食事。薬を渡した人の名前。体調。全部」


クラウスが便箋を読んでいる。フリッツも横から目を落とした。


「悪化した日に、薬を持ってきた人間が全て同じです」


「……ハインツ」


「はい。他の人の日は調子がいい。食事に共通点はない」


五通目を示した。


「この子自身も気づいています。誰が持ってきた日に悪くなるか」


クラウスが五通目を読んだ。レナートの字を目で追った。手紙を机に戻した。腕を組んだ。


「どうするつもりだ」


「手紙でこれ以上追えることはありません。現地で薬を直接調べないと」


「あんたが行くのか」


「今は無理です。ここを離れられない」


「それはそうだが。——放っておくつもりか」


「放っておけません。でも、私が行くまでの間に、誰かがこの子の周りに目を向けてくれる状況を作りたい」


沈黙が落ちた。


クラウスがフリッツを見た。フリッツが小さく頷いた。


「エストール侯爵に書く」


「……侯爵」


「この手紙のデータを添えて報告する。侯爵が動けば、少なくともその子の周辺には目が行く」


「手紙を出して、読んでもらえるんですか」


「読む」


それ以上の説明はなかった。


フリッツが便箋と封蝋を持ってきた。クラウスが手紙を書き始めた。迷いのない筆運びだった。


(エストール侯爵に直接手紙を出して、読んでもらえる人間。——貴族だとは思っていた。フリッツの言葉遣い。あの資金力。排水溝の工事。でも、侯爵に顔が利くとなると——)


フリッツの声が頭をよぎった。何度か言いかけて飲み込んだ呼び方。


(……この人は、一体何者なんだ)


クラウスが書き終えた。封蝋を押した。フリッツに渡した。


「今日中に出す」


「承知いたしました」


「ありがとうございます」


「……あんたの患者だろう。礼はいい」


立ち上がった。


「隔離区画に戻ります」


「ああ。——無理するな」


「しません」


「嘘つけ」


少しだけ笑った。


***


隔離区画に戻った。


患者はまだ十人以上いた。回復に向かっている者もいれば、昨日運ばれてきたばかりの者もいる。リーナが塩水を配っている。ベッカーが椅子から指示を出している。グスタフが汚物を処理している。


回っている。


「戻りました。もう大丈夫」


「おかえりなさい! 顔色いいです!」


リーナが笑った。


患者を一人ずつ見て回った。脈を取って、顔色を見て。重症者が二人。あとは安定している。


ここからが長い。一日で終わる病気ではない。患者は減っていくだろうが、ゼロになるまでには何週間もかかる。


(やるしかない)


***


それから、長い日が続いた。


毎日、塩水を作った。飲ませた。布を替えた。記録をつけた。


新しい患者が来る日もあった。でも、少しずつ減っていった。退院する人間の方が多くなった。


リーナが一人で補水治療を回せるようになった。判断も早くなった。脈を取って、顔色を見て、「この人が先」と自分で決められるようになった。


ベッカーは毎日来た。椅子に座って、目だけで全体を見ていた。リーナが迷った時に一言だけ言う。それだけで十分だった。


グスタフも残った。文句は言い続けた。でも毎朝来て、塩水を作って、最後まで帰らなかった。


ある日、最後の患者が自分の足で歩いて出ていった。


隔離区画が空になった。


寝台を片付けた。布を洗った。鍋を洗った。排水溝に水を流して、最後の清掃をした。


リーナが空になった部屋を見渡して、深く息を吐いた。


「……終わりましたね」


「終わった」


「泣きそうです」


「泣いていいよ」


「泣きません。鼻水出るから」


***


翌日。市庁舎に行った。


受付で名を告げた。今度はすぐに通された。


ディーターの部屋。同じ机。同じ椅子。今度は座るよう勧められた。


「エリカ先生。——大変だったな」


「はい」


机の上に記録を広げた。


「ブライテンの感染症の結果報告です。煮沸を導入していた区画と、していなかった区画の比較があります」


ディーターが数字を見た。


「煮沸していた区画は感染率そのものが低い。感染症は汚染された水を介して広がるので、沸かして飲んでいた人間はそもそも病気の元となるものを摂っていなかった」


「……これは」


「近隣の町と比べても、ブライテンの死亡率は明らかに低いです。煮沸と排水溝の整備が効いています」


ディーターが椅子に深く座り直した。


「今回は感染症でしたが、煮沸と排水の整備は普段の衛生にも効きます。前にお見せした東の井戸の件も同じ構造です。予算申請の根拠としては、今回の死亡率差が使えるはずです」


「……前例ができたな」


「はい」


「報告書にまとめてくれ。煮沸の効果と排水設備の必要性を数字で。それを根拠に予算申請を出す」


「書きます」


ディーターが立ち上がった。窓の方を向いた。


「……死者を出さなければ動けんというのは、仕組みの欠陥だ。あんたの言う通りだった」


「ディーターさん。仕組みを変えようとしてくれるなら、それで十分です」


「井戸の調査と排水設備の整備を、正式な事業にする。今度は通す」


市庁舎を出た。


空が広かった。秋の終わりの冷たい空気。


***


帰り道。裏通りを歩いた。排水溝に沿って水が流れている。子供が溝の縁を歩いて遊んでいた。


長屋のおかみさんが手を振った。


「先生! うちの人も元気になったよ! ジャムまだある?」


「また作ります」


診療所が見えた。灯りがついている。


扉を開けた。


「おかえりなさい!」


リーナが笑っていた。棚が片付いている。記録帳が開いている。ジャムの瓶が並んでいる。


「ただいま」


椅子に座った。硬い椅子。座り慣れた椅子。


窓から夕陽が差していた。光がジャムの瓶を赤く照らしている。


(まだ終わってない。レナートのことがある。クラウスさんのことも——)


でも今日は、この光を見ていたかった。

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