21話:自分のことは見ないのか
朝。隔離区画を出た。
リーナに引き継いだ。ベッカーが椅子にいる。グスタフが塩水を作っている。回っている。
「クラウスさんのところに寄ってくる。すぐ戻る」
「はい。気をつけて」
外の空気を吸った。何日ぶりか分からない。陽の光が眩しかった。
歩き始めた。足が重い。寝ていないせいだと思った。
***
屋敷。
フリッツが迎えてくれた。
「先生。お待ちしておりました」
「クラウスさんは」
「お変わりなく。外には一歩も出ておられません」
居間に入った。クラウスが椅子に座っていた。本を持っている。顔色はいい。
「こんにちは」
「……来たのか」
「甘草の残量を見に」
脈を取った。安定。むしろ前より落ち着いている。浮腫もない。呼吸も穏やかだ。
「順調です。このまま続けてください」
「ああ」
甘草の残りを数えた。二週間分ある。足りる。
「では、戻ります」
立ち上がった。立ち上がった時、視界が白く滲んだ。椅子の背に手をついた。一秒。戻った。
「座れ」
「立ちくらみです。少し——」
「座れ」
静かな声だった。怒ってはいない。でも譲る気もない。
座った。
クラウスがこちらを見ていた。本を閉じて、膝の上に置いた。
「いつから寝てない」
「寝てます」
「何日だ」
「……まとまっては寝てないですけど」
「飯は」
「食べてます」
「嘘をつくな。唇がひび割れてる」
指で触った。確かに乾いている。水は飲んでいたはずだ。
「手を出せ」
「何で——」
クラウスがエリカの手首を取った。指先に触れた。
「冷たい」
「末梢が冷えるのは疲労でも——」
「脈が速い。俺でも分かるくらいだ」
手を引こうとした。離されなかった。
「大丈夫です」
「その言葉、何回目だ」
「……」
「人の身体は散々見るくせに、自分のことは見ないのか」
「見てます」
「見てない。見てたら今ここに座って平気な顔をしていない」
クラウスの目が真っ直ぐだった。
「リーナは頑張ってるとあんたが言った。ベッカーもグスタフもいる。それで、あんたが今すぐ走って戻らなければ何が止まるんだ」
答えられなかった。
「もう少し、周りを信じろ」
手を離された。
自分の手を見た。爪の色が薄い。指先が白い。
水を飲んでいたのに口が渇いている。朝から腹に軽い違和感があった。ずっと気にしないようにしていた。
(軽い下痢。口渇。末梢の冷え。頻脈。——これは疲労じゃない)
背筋が冷えた。
(感染してる。初期だ。まだ軽い。今なら補水と休養で止められる。でも——このまま隔離区画に戻って無理を続けたら——)
クラウスを見た。
この人は医者じゃない。スキルもない。ただ、長い間ずっと患者だった人間だ。無理をしている身体がどう見えるか、自分の経験で知っている。
(前世でも、こうだった。見えない振りをして。忙しいからって。自分は大丈夫だって。——あの時は、誰も止めてくれなかった)
目の奥が熱くなった。泣いたわけではない。ただ、喉が詰まった。
「……すみません。少し休みます」
「最初からそう言え」
「先に隔離区画に戻って引き継ぎだけしてきます」
「それだけだぞ」
「それだけです」
フリッツが水を持ってきた。飲んだ。身体が水を欲しがっていた。言われるまで気づかなかった。
***
隔離区画。
リーナが塩水を配っている。ベッカーが奥の寝台を見て、グスタフに何か指示している。グスタフが文句を言いながら動いている。
止まっていなかった。自分がいなかった間、何も止まっていなかった。
「リーナ」
「あ、おかえりなさい。早かったですね」
「体調が万全じゃない。一日か二日、離れる」
リーナの目が少し大きくなった。
「初期のうちに気づいたから大丈夫。補水して寝れば悪化しない」
「……エリカさん、ちゃんと寝てました?」
「…………」
「私たちは交代で寝てますよ。ベッカー先生に最初に言われましたし」
ベッカーがこちらを見ていた。椅子から。何も言わなかった。言わなかったが、「ほら見ろ」という顔だった。
「エリカさんって基本的なとこ抜けますよね」
塩水の量を聞かれた時と同じ顔で、リーナが言った。
「……ありがとう。任せていい?」
「任せてください。ベッカー先生もグスタフ先生もいますから」
「うん」
「ちゃんと寝てくださいね。ちゃんと」
「寝る」
***
屋敷。客間。
フリッツが布団を敷いてくれていた。枕元に塩水の入った壺が置いてある。
横になった。身体が沈んでいく。どれだけ疲れていたか、横になって初めて分かった。
鞄を引き寄せた。
二通の封書。レナートの字。四通目と五通目。
四通目はあの夜、開けられなかったもの。五通目はいつ届いたかも覚えていない。
(ごめん。ずっと読めなかった)
四通目を開いた。
便箋が四枚。二十日分の記録。丁寧な字で、一日も抜けていない。
食事。薬を渡した人の名前。体調。全部。
机に広げたかったが起き上がれない。布団の上に便箋を並べた。
悪化した日を指で追った。ハインツ。ハインツ。ハインツ。ハインツ。
調子のいい日。ロルフ。カール。マティアス。ロルフ。カール。
(四回。二十日で四回。全部ハインツだ)
五通目を開いた。
『エリカ先生
先生の返事が来なくて少し心配です。お忙しいのだと思います。
記録は続けています。先生に言われた通り、全部書いてます。
それで、気づいたことがあります。気分が悪くなる日に薬を持ってきてくれる人がいつも同じです。名前はハインツさんです。他の人の日は調子がいいです。
これは関係ありますか。
先生の返事、待ってます。
レナート』
便箋を胸の上に置いた。
レナートが自分で気づいた。
こちらが何も伝えていないのに。ただ「全部書いて」と言っただけで、この子は自分の記録を見て、自分でパターンに辿り着いた。
(ハインツ。——あの人が。あの物静かな侍医が)
二十日分のデータ。ハインツの日だけ悪化する。食事は無関係。薬を渡す人間だけが変数。
もう偶然ではない。
天井を見た。
(今は身体が動かない。でも——これを放っておいたら、あの子が)
目を閉じた。
レナートの手紙を胸の上に載せたまま、眠った。
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